完璧なまでの静寂と、冷徹なまでの「白」に支配された空間。
壁面、床、天井に至るまで、一切の色彩を削ぎ落とされた真っ白な実験室内には、無機質な冷却ファンの駆動音すら存在しない。可聴域を超えた微かな電子音だけが、空気の粒子をかすかに震わせていた。
室内の壁一面を覆う巨大な解析モニター群には、青い幾何学的なグリッド線と、高速で流れるプロトコルコードが映し出されている。
その完璧な円形ステージの中央に、律が一人、静かに佇んでいた。
彼の腰に装着されているのは、銀白色の光沢を放つ変身ベルト
シンタックスドライバー
訔が使うバイトドライバーのような、生々しく荒々しい生物的な「顎」や噛み合わせの機構はどこにも存在しない。冷酷なまでに削ぎ落とされた銀白色の直線的フレーム。中央には、透過率100%の特殊強化ガラスで覆われた直線的な透明解析ユニット。そしてその左右には、歪みなく削り出されたライドワード用の装填スロットが静かに構えられていた。
ガラス越しの上層コントロールルームから、インカムを通した女性研究員の報告声が響く。
『被験者バイタル、正常値』
『神経接続率、98.7%』
『構文統制パラメータ、完全同調』
『構文同期率……99.98%を推移』
『フォントエネルギーの逆流反応――ゼロ』
数値のどれ一つをとっても、ブレやノイズが存在しない。
律は静かに眼下を見下ろし、平坦な声で一言だけ発した。
「開始する」
律は白衣の内ポケットから、透明なクリスタル状のライドワードを取り出した。
一切の傷も気泡も存在しない完璧な多面結晶体。
その幾何学的な結晶の中心には、澄んだ黄金の文字が精密に封入されていた。
【正】
律の細い指先が、その結晶を無造作に掲げる。
デバイスの端をシンタックスドライバーの右スロットへ水平に差し込んだ。
《
電子音声すらも、バイトドライバーのような凶暴な機械音ではなく、徹底的にノイズをカットされたクリアな音調が実験室に響き渡る。
律の手が、ドライバー上部のレバーへとかけられた。
一切の迷いなく、一直線にレバーを倒し込む。
《
瞬間――律の足元から、眩いばかりの青い光の直線が八方へと射出された。
それらの光線は空間を立体的に切り裂き、無数の直線と角度を形作っていく。
まるで、空間そのものに巨大な文章の構文解析図を描き出すかのように、律の全身を青い数式と格子の枠組みが立体的に囲い込んでいく。
不快なノイズも、過剰なエネルギーの爆発もない。
完璧に計算されたプログラムが実行されるかのように、静寂の中でプロセスが進行する。
律の薄い唇が、静かに開いた。
ドライバーの中央ユニットが白銀の光を放ち、決定的なコマンドを告げた。
《
青白い光の束が、寸分の狂いもなく律の肉体へと収束していく。
頭部からつま先に至るまで、完璧な計算に基づいて設計された装甲が、超高速で寸分の隙間もなく自動形成されていく。
《
閃光が収束し、そこには一頭の「完璧な兵器」が立ち尽くしていた。
白銀を基調とした、目を見張るほど硬質な装甲。その表面を駆け抜ける、幾何学的に配置された鮮烈なブルーのライン。左右非対称の要素を一切排除した、狂気的なまでの完全完全対称。一切の装飾や余分なパーツを廃した、究極に無駄のない洗練されたシルエット。
そして、頭部。昆虫や生物の異形さを完全に排し、二本の正確な直線と水平な青い発光ラインのみで構成された複眼。
仮面ライダーシグナル・コレクトワード
コントロールルームの研究員たちが、その圧倒的な機能美と完璧な変身シークエンスの美しさに、言葉を失って息を呑んだ。
メインモニターの数値が、実験室の白光に照らし出される。
=====
【SYSTEM DIAGNOSTICS】
ERROR RATE:0.00%
BIOLOGICAL LOAD:0.02%
OUTPUT STABILITY:100%
AMBIGUITY NOISE:NOT DETECTED
=====
エラー率、完全なるゼロ。
装着者の肉体にかかる負担は、ほぼ皆無。
出力の安定性、完全なる100%。
シグナルは、白銀の甲冑に包まれた自らの両手をゆっくりと持ち上げ、指先を握り、開いた。
関節の稼働音一つ取っても、一切の摩擦を感じさせない完璧な滑らかさ。
「……これでいい」
バイザーの奥から漏れる、歪みのない平坦な声。
インカム越しに、呆然としていた研究員が恐る恐る尋ねた。
『何が……でしょう、正木主任?』
「力とは、本来こうあるべきだ」
シグナルは静かに向き直り、実験室の壁面に設置されたサブモニターを見上げた。
そこに表示されていたのは、これまでの戦闘で蓄積された「仮面ライダーバイト」のシステム解析データであった。
=====
【TARGET:BYTE DRIVER】
ERROR RATE:MEASUREMENT IMPOSSIBLE (OVERFLOW)
BIOLOGICAL LOAD:HIGH (CRITICAL ZONE)
OUTPUT STABILITY:UNSTABLE (DEPENDS ON USER)
=====
画面の中で点滅する、「計測不能」「危険域」「極めて不安定」という赤い警告テキストの群れ。
解釈によって形を変え、情動によって威力を増減させ、着用者の肉体を削りながら暴走の危うさを孕んで戦う、音無訔のあがきの記録。
シグナルの直線的なバイザーの奥で、冷徹な光が静かに輝いた。
白銀の兵器は、モニターの中の泥臭いバイトを静かに見下ろし、揺るぎない確信とともに呟いた。
「私は――間違えない」
翌朝。
帝都大学・言語考古学研究室。
秋の爽やかな日差しが差し込む室内で、陸がスマホの画面を凝視しながら、椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がった。
「おい! おいおいおい! また出たぞ!」
デスクで温かいお茶を飲んでいた訔が、カップを置いて振り返る。
「何がだ?」
「ジャークだよ! それも都心のど真ん中だ!」
響が即座に専用端末を立ち上げ、メインモニターへ現場の防犯カメラ映像とフォントエネルギーの解析データを投影した。
「都内・港区エリアで急激なフォント波形の上昇を確認……! でも、今回は
モニターに映し出されたのは、胸に濃い紫色の文字を浮かび上がらせ、咆哮する怪人の姿。
画面の横に、響が割り出した宿主のデータが並ぶ。
「宿主は大手配送会社に勤める20代の青年……。過酷な連勤と過重労働の中で、連日連夜『もっと早くしろ』『遅い』『急げ』『時間を守れ』という無慈悲な言葉を浴び続けた結果――言葉の悪意に精神が耐えきれなくなったのね」
青年が浴び続けた無数の『急がせる言葉』が、漂流していたライドワードと悪意の共鳴を起こした。
【急】
誕生した怪人の名はラッシュ・ジャーク。
その姿は、痛々しいまでに効率と速度を強迫的に追求させられた爪痕を残していた。
全身を覆う装甲は、無数のデジタル時計の文字盤、矢印標識、そしてレッドゾーンを指すスピードメーターが不気味に融合した不協和音のデザイン。
ラッシュ・ジャークが街中で胸のメーターを全開にすると、周囲に目に見えるほどの黄色い速度波紋が爆発的に広がった。
能力は『対象の行動および時間の体感速度を強制的に過剰加速させる』こと。
波紋を浴びた歩行者たちが、まるで早送り映像のように脚をガタガタと高速回転させて転倒し、車道では乗用車やトラックが制限速度を遥かに無視して時速150キロ以上で暴走、車同士が次々と激突していく。
歩行者用信号機の表示も千切れんばかりの超高速で赤と青を交互に点滅させ、交差点は一瞬にして地獄絵図のようなパニックへと陥った。
都市機能の麻痺。速度という名の暴走。
訔は迷いなくデスクからバイトドライバーを引っ掴み、胸元へ装着した。
「行ってくる」
「待って、訔!」
響が弾かれたように訔の腕を掴んだ。その瞳には、隠しきれない強い懸念が宿っている。
「昨日のバインド・ジャーク戦での呪縛と、無理な変身のダメージが全身に残ってるのよ! 精神の消耗も限界に近いの! 今戦ったら本当に命に関わるわ!」
「だが……!」
訔が響の手を振るい切ろうとした、その瞬間――
研究室の隅に設置されたテレビモニターが、甲高いチャイム音とともに緊急報道特報を告げた。
『ニュースをお伝えします。先ほど港区三田付近に出現した未確認生命体……いわゆる“ジャーク”とみられる怪人の現場に、動きがありました』
ヘリコプターからの空撮映像へと切り替わる。
激しい煙と暴走する車が錯綜する交差点の中央。
人々を高速で暴走させ、狂ったように笑い声を上げていたラッシュ・ジャークの頭上から、一条の眩い「白銀の光」が垂直に降り立った。
寸分の狂いもない正確な着地。
爆風と衝撃波が同心円状に広がり、ラッシュ・ジャークが放っていた黄色の加速波動を一瞬で完璧に相殺・消去してみせた。
訔の手が止まる。
「……?」
画面の中で、巻き上がる灰煙を切り裂くようにして、一人の戦士が静かに立ち上がった。
朝日を反射して眩しく輝く、白銀の洗練された重厚な装甲。
その全身を一直線に駆け抜ける、鮮烈な青い幾何学ライン。
胸部中央で規則正しく明滅する、透明な解析ユニット。
そして、寸分の歪みも存在しない、幾何学的な直線のバイザーを戴く頭部。
仮面ライダーシグナル。
研究室のテレビ画面を見つめていた陸が、口をぐうの音も出ないほど開けて呟いた。
「……誰だよ……あれ。バイトの偽物か……!?」
しかし、隣に立つ響だけは、その白銀のフォルムと、過剰なまでに完璧な
響の唇が、震えながらその名を紡ぐ。
「まさか……正木……!?」
*
煙塵が立ち込める交差点の中央。
白銀の装甲を眩しく輝かせる仮面ライダーシグナルと、全身のメーターを凶暴に赤回転させるラッシュ・ジャークが対峙していた。
「遅い遅い遅い! 全員遅すぎるんだよぉぉぉッ!」
ラッシュ・ジャークが金切り声を上げ、地面を力強く蹴り飛ばす。
空間が歪むほどの超高速移動。黄色の速度波紋を引きずりながら、時速180キロを超える弾丸と化してシグナルの死角――左背後へと回り込んだ。
だが、シグナルは一歩も動かない。首すら向けない。
シグナルの直線的なバイザーの内部で、青い透過UIが超高速のデータ演算を実行していた。
=====
SPEED:183.4 km/h
NEXT POSITION:PREDICTED (SECTOR 4)
ATTACK ANGLE:32.4°
TIMING:0.04 SECONDS LATER
=====
「死ねぇぇッ!」
ラッシュ・ジャークが音速に近いスピードで拳を突き出し、シグナルの後頭部へ肉薄する。
その激突のわずか0.01秒前。
シグナルは、ただ左脚をわずか数センチ、右斜め前へと踏み替えた。
完璧に計算された最小限の軸移動。
ラッシュ・ジャークの拳が、シグナルの白銀の肩甲骨をかすめることすらなく空を斬る。
そして、シグナルは旋回すらしない。
回避の慣性をそのまま利用し、右肘をミリ単位の精度で後ろへ突き出した。
自らの超加速の勢いをそのまま殺しきれず、ラッシュ・ジャークはシグナルの右肘へ自ら顔面から突っ込む形となった。激しい打撃音が響き渡り、怪人の巨体が地面をゴロゴロと転がっていく。
ヘリからの映像を画面越しに注視していた陸が、思わず唾を飲み込んで声を漏らした。
「……な、何だ今の!? 避けてないのに、勝手に怪人がぶつかっていったぞ!?」
響は青ざめた顔のまま、固い声で応えた。
「避けたんじゃない。怪人の加速パターンと運動力学を瞬時に解析して、攻撃が到達する『完璧な解』の位置へ体を置いたのよ。敵の速度を利用した、純粋な計算による迎撃」
「ガァァッ! クソが! もっと速く……もっと速く走れぇぇぇッ!」
ラッシュ・ジャークが狂乱し、全身の時計の針を逆回転させながら跳ね起きた。その全身から放たれる速度波紋が重なり合い、残像すら残さない無数の残影となってシグナルの周囲を縦横無尽に駆け巡る。
前後、左右、上空。あらゆる方向から襲いかかる無数の爪撃。
だが、シグナルは依然として静寂の境地にいた。
《
バイザーの奥で、無数の解析パラメーターが超高速で更新されていく。
敵の呼気成分。
筋肉の微細な収縮波形。
視線のミリ単位の偏光。
そして、放出されるフォント波形の周期性。
すべてをリアルタイムで完全解析。
0.2秒後に怪人が繰り出す全攻撃軌道が、シグナルの視界の中で鮮明な青い仮想ラインとして浮き彫りになる。
シグナルは静かに歩みを進めた。
頭部をわずか1センチ傾けて爪をかわす。胴体をミリ単位で捻り、音速の蹴りを紙一重で無効化する。右手をすっと持ち上げ、最少の力で敵の肘を軽く叩いて軌道を逸らす。
一切の無駄がない。一切の動揺もない。
そして――反撃
第一打。ラッシュ・ジャークの関節の隙間、装甲の最も薄いフォント接合部へ寸分の狂いもなく叩き込まれる掌打。第二打。勢いを崩した怪人の重心を完璧に破壊する膝蹴り。第三打。空中に浮いた胸部メーターへの、完璧な角度から放たれる正拳突き。
過剰な怒りや気合の叫びなど存在しない。
感情を熱量に変えて泥臭く泥に塗れるバイトの戦闘スタイルとは、あまりにも対極に位置する「美しき作業」。ラッシュ・ジャークが悲鳴を上げて吹っ飛び、アスファルトを削りながら崩れ落ちた。
キィィィィッ!
現場へ滑り込んできたバイクの急ブレーキ音。
ヘリの映像を追いかけて駆けつけた訔、響、そして陸の三人が現場へ踏み込んだ。
崩壊した交差点の中央で、白銀の甲冑を纏い、無傷でたたずむシグナル。
訔はその背中に向かって叫んだ。
「正木……! 正木律なのか!?」
シグナルは一瞬だけ、首を微かに傾けて振り向いた。直線的な青いバイザーが、足をもつれさせながら立っている訔を冷たく見下ろす。
「遅い」
短く、感情の削ぎ落とされた一言。
陸がカッとなって前へ出ようとする。
「なっ……! なんだあの野郎! 命がけで駆けつけた俺たちに向かって……!」
響は息を呑み、シグナルの足元に刻まれた寸分の狂いもない足跡と、一切の乱れがない息遣いを感じ取っていた。
「……やっぱり、あなたなのね。正木……」
シグナルは向き直ることすらせず、平坦な声で答えた。
「見れば分かるだろう。無意味な確認作業だ」
「ガァァァァッ! 許さん……許さんぞぉぉぉッ!」
痛みに悶絶していたラッシュ・ジャークが跳ね起き、激しい恐怖と憎悪から、逃走を図るように周囲のビル街へと跳躍した。周囲の建造物や車両を巻き込みながら、過剰加速の波紋を撒き散らす。
「逃がすか!」
訔は迷わず胸元のバイトドライバーのレバーを引き抜き、ポケットからライドワードを取り出した。
【吹く】
顎のフレームに力強く装填する。
《
《
轟音を立てて凶暴な装甲が形成され、紫と翠の粒子とともに仮面ライダーバイト・バキュームワードが姿を現した。ここに初めて仮面ライダーバイトと、仮面ライダーシグナルが同じ戦場に並び立った。
バイトは傷つく体を奮い立たせ、シグナルの隣へ躍り出た。
「一緒に行くぞ、正木」
だが、シグナルはバイトの方へ視線すら向けない。
「必要ない」
「何……?」
バイトが毒気を抜かれたような声を漏らす。
シグナルは静かに言った。
「君はそこで見ていろ」
*
「死ね! 死ね! 巻き込まれて全員死ねぇぇぇッ!」
ラッシュ・ジャークが市街地の路地裏へ突入し、壁面を跳び回りながら、無差別に過剰加速の波動を周囲の通行人たちへ撒き散らした。老人が、幼い子供が、加速の波紋に飲み込まれそうになる。
「くっ……させるか!」
バイトは跳躍し、倒れそうになった歩行者の前へ自らの体を割り込ませた。
怪人が放った音速の衝撃波が、バイトの背中を容赦なく打ち据える。
「グウッ……!」
自らの肉体を盾にして人々を庇い、衝撃に耐えるバイト。
しかし、シグナルは違った。
シグナルのバイザー内で、路地全体の三次元幾何学マップが瞬時に構築される。
=====
COLLISION TRAJECTORY:CALCULATED
SAFE ZONE:POINT C-2
OPTIMAL POSITIONING:INITIATED
=====
シグナルは跳躍すらしない。
計算された最短の移動ラインを滑るように駆け抜け、衝撃波のベクトルとエネルギーが完全に相殺し合う「絶対的エアポケット」へと足を踏み入れた。
攻撃の渦の中に立ちながら、シグナルには衝撃波の一片すら掠めない。己の身を危険にさらすことなく、背後にいた通行人の安全領域をもその影で完璧にカバーしてみせた。
「……!」
背中で直撃を受けながらそれを見たバイトは、息を呑んだ。
同じ「人を守る」という行為。だが、そのアプローチは根本から異なっていた。
感情と自己犠牲で体を差し出すバイトと、冷徹な物理演算で被害そのものを発生させないシグナル。
シグナルの「完璧」はそれにとどまらない。
ラッシュ・ジャークの爆風によって根元から折れ、通行人へ倒れかかってきた大型の交通標識。シグナルは振り返りざま、正確な角度と力加減で標識の支柱を蹴り飛ばした。蹴られた標識は空間を美しく旋回し、崩落してきたビル外壁の瓦礫を途中で叩き落としながら、安全な空き地へと着地した。
さらに、加速波動を浴びて制御を失い、歩道へ突っ込んできた暴走乗用車。シグナルは車の進行ベクトルを完全に読み切り、前輪のタイヤハウスの僅かな隙間へ最小限の力で爪先を滑り込ませた。摩擦係数と慣性力を完璧に制御し、車体を傷つけることなく、歩行者のわずか10センチ手前で完全に停車させる。
そして、車道に取り残されて怯える幼い子供。シグナルは怪人へ向かって踏み込むその一歩の軌道上で、子供の襟元を優しく、かつ寸分の遅れもなく掴み上げ、そのまま安全な歩道の植え込みの後ろへと滑り込ませた。
救出、障害物の排除、二次被害の防止。そのすべてのプロセスが、怪人への接近運動という「たった一連の流れるような動作」の中で完璧に完結していた。
何一つとして無駄がない。
何一つとして遅れがない。
遠くからその光景を目撃していた陸が、戦慄を覚えたように口を半開きにして呟いた。
「……ま、マジかよ……。完璧じゃねえか……」
隣に立つ響は、何も言わなかった。ただ、固く唇を噛み締め、白銀の戦士が見せつける「正解」の圧倒的な冷たさに、絶望にも似た恐怖を抱いていた。
追い詰められたラッシュ・ジャークの胸元で、【急】が破裂せんばかりに狂乱の発光を始めた。
「ハハハハ! 遅い! 遅い! 遅い! 全員狂って死んでしまえぇぇぇッ!」
怪人を中心に放たれた黄色い過剰加速の波紋が、幾重にも重なって空間そのものを歪めていく。
それは単なる物理的なスピードアップではない。領域内に存在する生物の神経伝達速度と筋肉の収縮速度へ、直接的に強制的な倍率を掛け合わせる領域展開。
バイトの全身の装甲が、激しい生体摩擦の火花を散らした。
「ぐっ……! うあぁぁぁッ!?」
バイトは体制を立て直そうと右拳を僅かに握り込もうとした。
しかし、脳からの「拳を握る」という微弱な生体信号が過剰加速領域によって十倍に増幅され、右腕が超音速で跳ね上がる。制御の利かなくなった己の筋力と慣性によって、バイトの巨体は弾丸のように真横のビルのコンクリート壁へと叩きつけられた。
「くっ……身体の制御が……効かない……!」
わずかに指を動かすだけで、過剰な速度が肉体を強打する。
自分の意思で自分の運動量をコントロールできない。これこそが【急】の言葉がもたらす「急かされ、狂わされる」悪意の真理であった。
一方、その地獄のような加速領域の真上にあって、シグナルは微動だにしなかった。
直線的な青いバイザーの奥で、無数のシステムログが超高速でスクロールする。
=====
ERROR DETECTED:EXTERNAL SPEED MULTIPLIER APPLYING
CURRENT MULTIPLIER:×10.00
=====
シグナルの内蔵音声――律の平坦で冷徹な声が装甲越しに漏れ聞こえた。
「外部から行動速度へ強制的な倍率を掛け合わせているだけか」
律の手が、腰のシンタックスドライバーに装着された【正】のライドワードへと伸びる。
《CORRECTION》
ドライバーの中央ユニットから発せられた純白の光芒が、シグナルの全身の神経サンプリング系を再構築していく。
領域からの倍率が「×10.00」ならば、脳から身体へ送る内部動作命令の出力を正確に「×0.10」へと逆算・補正。足し算と掛け算の数式を等式に書き換えるように、シグナルは過剰加速の領域内で、何事もなかったかのように完璧な「通常動作」を取り戻してみせた。
コンクリートの瓦礫に埋もれ、激しい生体負荷に耐えかねて喘ぐバイトが、その光景に目を見開く。
「そんな……ことまで……」
シグナルは一歩、正確な歩幅で踏み出し、平然と返した。
「簡単なことだ。計算すればいい」
「ヒィィィッ! 来るな! 来るな来ないでくれぇぇぇッ!」
追い詰められたラッシュ・ジャークは、近くで倒れ込んでいた女性の首元へ爪を突きつけ、人質として背後に抱きかかえた。怪人の体は領域の果てで常に超高速の微振動を繰り返しており、残像となって揺れている。
わずかでも攻撃の角度が狂えば、あるいは踏み込む威力が一ミリでも逸れれば、怪人の肉体を貫いた衝撃はそのまま人質の女性の命を奪う。
バイトは必死の思いで瓦礫を押し退け、手をかざした。
「待て! 正木、待つんだ! 今攻撃したら、あの人に当たる……!」
「必要ない」
シグナルはバイトの静止を即座に切って捨てた。
頭部センサーが、ラッシュ・ジャークと人質の幾何学的な位置関係、骨格の隙間、そして風速と空間密度をコンマ一秒の間に弾き出す。
=====
TARGET HIT:100%
HOST DAMAGE:3.2% (WITHIN SAFE LIMIT)
CIVILIAN DAMAGE:0.00%
=====
シグナルは右腰のホルダーから、一本の静謐な剣――シンタックス・サーベルを引き抜いた。刀身は完璧な直線を描き、研ぎ澄まされた光を湛えている。
バイトは青ざめて叫んだ。
「おい! やめろ!」
「問題ない。計算は完了している」
シグナルが刃を水平に一閃させた。
閃光。
音すら遅れて届くほどの完璧な一閃。
青い光の帯が、人質の女性の首筋からわずか二ミリの空間を完璧に滑り抜け、背後のラッシュ・ジャークの胸部メーターだけをミリ単位の精度で正確に切り裂いた。
女性の髪の毛一本すら傷つけることなく、ラッシュ・ジャークだけが激しい花火のような火花を散らして後方へと吹き飛ばされる。
解放された女性がその場にへたり込み、無傷であることに気づいて息を呑んだ。
バイトは膝をついたまま、シグナルの白銀の背中に向かって荒い息を吐きながら詰め寄った。
「もし……! もし外してたらどうするつもりだったんだ! ほんの少しでも手が狂ったら、あの人が死んでたんだぞ!」
シグナルはシンタックス・サーベルを静かに納刀しながら、一度も振り返らずに言い放った。
「外さない」
「なっ……!?」
「『もし計算が間違っていたら』などという仮定は無意味だ。私の計算は間違っていない」
即答であった。
迷いも、慢心すらもない。ただ客観的な真実としてそう宣したシグナルの言葉に、バイトは返す言葉を失い、喉を詰まらせた。
吹き飛んだラッシュ・ジャークが、地面をのたうち回りながら最後の悪あがきの咆哮を上げる。
シグナルは腰のレバーを3回限界まで倒し込んだ。
【正】のライドワードが強烈な黄金の輝きを解き放つ。
《
空間に、青い幾何学的なガイドラインが何重にも交差し、空中へと続く完璧な弾道を描き出した。ラッシュ・ジャークがどの方向へ回避しようとも、最終的に辿り着く「敗北の座標」がガイドラインの収束点として固定される。
シグナルが力強く地を蹴り、空へと跳躍した。
《
完璧な角度。完璧なベクトル。
白銀の脚部に青い幾何学エネルギーが収束し、収束点へと降下していく。
シグナルの渾身のキック。プロトコルエグゼキュート。ラッシュ・ジャークの胸部に蹴りが直撃し、寸分の狂いもない構文破壊の波動が怪人の全細胞を駆け抜けた。
大爆発。
だが、その爆炎の中から排出されたのは、怪人に取り込まれていた配送会社の青年であった。青年はかすり傷一つ負うことなく、アスファルトの上に安全に転がり落ちる。そして、爆煙の中から弾き飛ばされた黒紫色のライドワード【急】。悪意の浄化プロセスが瞬時に完了し、禍々しいノイズが消え去っていく。
バイトが手を伸ばし、空中で旋回したそのライドワードを受け止めた。
手の中に収まったのは、透き通るような鮮やかな黄色の結晶へと変貌を遂げた【急】のライドワードであった。
変身を維持する体力が尽き、バイトの装甲が紫の粒子となって消える。
変身を解除した訔は、膝をつきながら荒い息を吐き、手の中の黄色い結晶を見つめた。
「……助かった」
同時に、シグナルもまた静かに変身を解除した。
白銀の甲冑が光となって消え、そこには完璧に整えられた白衣を纏う律が佇んでいた。髪の一本すら乱れていない。
駆け寄ってきた響が、律の腰のベルト・シンタックスドライバーを凝視しながら、声を震わせた。
「シンタックスドライバー……。正木、あなた……これを一体どこで……」
律は無表情のまま、響へ冷たい視線を向けた。
「君たちのバイトドライバーを解析して作った」
「解析……?」
訔が顔を上げ、律を見つめる。
律は一歩踏み出し、冷徹な講義でも始めるかのような平坦なトーンで言い放った。
「正確には――君たちの不完全なシステムから『失敗部分』をすべて排除した」
訔の表情が引きつる。
「失敗部分……?」
「生体への過剰な負荷。装着者の精神状態による出力の乱高下。ライドワードの意味の曖昧さ。そして……使用者の勝手な解釈によって能力や性質が変質してしまう構造的欠陥」
律は訔の胸元にあるバイトドライバーを、忌々しそうに、そして蔑むように見下ろした。
「すべて、兵器としてもシステムとしても不要な不確定要素だ。音無訔……君のシステムはあまりにも不完全すぎる」
訔は歯を食いしばり、必死に言葉を絞り出した。
「……だが、こいつだから……この不完全な言葉だからこそ、救えた人も、変えられた想いもある」
しかし、律は眉一つ動かさず、断罪するように言い捨てた。
「ただの結果論だ」
「何……?」
「今日だって、私一人いればすべて事足りた。君のその泥臭い自己犠牲も、感情の暴走も、何一つとして必要なかった」
訔は唇を噛み締め、拳を固く握りしめた。
何かを言い返そうと息を吸い込んだが、言葉は声にならなかった。
事実、今日目の前で繰り広げられたのは、正木律による「完璧な解決」であった。誰一人傷つけず、完璧な計算のもとに怪人を撃破し、被害を最小限に抑え込んだ白銀の戦士。
反論の隙すら与えない「絶対的な正解」の前に、訔はただ、秋の冷たい風の中で沈黙するしかなかった。
静まり返った戦闘現場に、サイレンの音が近づいてくる。
警察の特殊車両と、音律統制機構の黒塗りの広報・現場処理班が続々と到着し、手際よくイエローテープを張り巡らせていく。
白衣のポケットに両手を突っ込んだ正木律は、倒れ込んでいた配送会社の青年が救急隊によって搬送されるのを確認すると、何事もなかったかのように踵を返した。
「では」
去り際の一言。それに待ったをかけたのは、まだ肩で息をしている訔だった。
「正木」
律の足が止まる。
「……今日は、助かった」
訔は傷だらけの身体を押して前に出ると、律の後ろ姿に向かって右手をまっすぐに差し出した。
「やり方は違う。お前が俺たちのやり方を気に入らないのも分かってる。……でも、同じ『ジャーク』っていう悪意と戦ってるなら――」
律はゆっくりと振り向いた。
その切れ長の瞳が、差し出された訔の手を、次いで訔の胸元に装着されたままのバイトドライバーを冷ややかに見つめる。
沈黙。
律の手は、訔の手を取るために動くことはなかった。
彼は白衣の裾を小さく揺らし、腰に「それ」を再び装着した。
訔の眉が不審げに跳ね上がる。
「……?」
後ろで見守っていた響が、息を呑んで一歩身を引いた。
「正木……何をするつもり……!?」
律は無言で、ライドワードを取り出し、静かにスロットへ滑り込ませた。
《
律の薄い唇が、氷のように冷たい吐息とともに紡がれる。
「変身」
《
《
《
閃光。寸分の乱れもない光の格子が収束し、白銀の装甲が律の全身を覆い尽くす。
狂いなき幾何学模様。左右対称の美しいシルエット。
仮面ライダーシグナル・コレクトワード
圧倒的な威圧感と無機質な存在感を放ち、白銀の兵器が再び立ち尽くした。
訔は息を詰まらせ、思わず一歩後退する。
「何してるんだ、正木……! 敵はもう倒しただろ!」
シグナルは何も答えず、右腰のホルダーからシンタックス・サーベルを静かに抜いた。
澄んだ金属音が響き渡る。
そして――シグナルはその刃の鋭い切っ先を、まっすぐに訔の胸元へと向けた。
陸が目を見開き、叫び声を上げる。
「おい……! 何考えてんだあの野郎! 刃先向けてんぞ!?」
「正木! やめて、何をする気なの!?」
響の悲痛な叫びを、シグナルのバイザーから漏れる淡々とした電子声が遮った。
「音律統制機構から、正式な優先命令が出ている」
シグナルの剣先が、ぴたりと訔の胸を指し示していた。
「危険指定古代音響兵装・バイトドライバー。それを、回収する」
風が止まった。
現場を包むのは、警察車両のパトランプの赤と、シグナルの発光ラインの青だけだった。
訔は差し出したままになっていた自分の手をゆっくりと下ろし、胸のバイトドライバーに触れた。
「……俺たちを助けに来たんじゃなかったのか」
シグナルは微動だにせず、平坦な声で告げる。
「違う」
白銀の足が、一歩前に踏み出された。
「ジャークの排除、ライドワードの回収、バイトドライバーの封印。すべて、同一ライン上にある一つの任務だ」
「お前、何を考えているんだ?この力が無ければ
シグナルは問答を拒否するように、静かに言葉を重ねた。
「音無訔」
バイザーの奥で、青いデータ光芒が明滅する。
「君は既に一度、世界規模の言語災害を引き起こしている」
訔の体が跳ねた。
あの発掘現場での事故。封印されていた言語兵器の暴走。世界を恐怖に陥れたあの一件。
「さらに第9号事案においては、規定外の緊急プロシージャによってドライバーを無断起動した。生体適合率も、精神負荷の許容量も、すべてが限界を超えている」
シグナルは一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
「次にそのドライバーが暴走した時、君がそれを制御できる保証はあるか?」
訔は喉を乾かせ、必死に言葉を探した。だが、脳裏に浮かぶのは【罪】に呑まれかけ、激しい破壊衝動に狂いそうになった昨日の己の姿だった。
「……ない」
掠れた声で、訔は正直に答えるしかなかった。
「なら、終了だ」
シグナルは迷いなく結論を下した。
「リスクが許容値を超えている。兵装を差し出せ」
「それでも……渡せない」
訔は強く言い放ち、シグナルの剣先を真っ向から睨みつけた。
シグナルは静かに問う。
「理由は?」
「俺はこの騒動を止める責任があるからだ」
訔は叫んだ。自分の無力さも、危険さも分かっている。それでも、退くわけにはいかない理由が胸の中に渦巻いていた。
「ライオットも……ファルスも……サイレンスも……バインドもまだ野放しだ。街には悪意の言葉が溢れてて、苦しんでる奴らがたくさんいる。だから――」
だから俺が戦わなきゃいけないんだ、と言いかけた訔の言葉を、シグナルは遮った。
「俺が倒す」
即答だった。
一切の躊躇も、誇張もない。ただの「確定した事実」を述べるかのような短く揺るぎない声。
訔は息を飲み、言葉を失って固まった。
「君が戦う必要はない」
シグナルのその言葉には、敵意も、侮蔑すらも含まれていなかった。
それは、正木律という人間の「完璧な本心」であった。
律は訔を憎んでいるわけでも、殺したいわけでもない。
むしろ、不完全で危険なシステムを身に纏い、命と精神を削りながら傷つき続ける訔を、戦場という地獄から完全に降ろそうとしていたのだ。
「お前では無理だ」と切り捨てるのではなく、「私に任せて消えろ」と突きつける圧倒的な正義。
救済の顔をした排除。だからこそ、訔にとってそれは、どんな悪意よりも厄介で、抗いがたい壁となって立ち塞がっていた。
「断る」
訔は拳を強く握り締め、ゆっくりと首を横に振った。
「俺は、戦うことを自分で選んだ。誰かに押し付けられたからじゃない。どれだけ危険でも、どれだけ不完全でも……俺の手で守りたいものがあるんだ。お前の『完璧』に、俺の意志まで計算される筋合いはない!」
シグナルはバイザーの光を静かに一瞬強めた。
「そうか」
言葉はそれだけだった。
シグナルはシンタックス・サーベルを低く構え、完璧な正眼の構えを取る。
「ならば――実力で回収する」
訔は迷いを捨て、ポケットからライドワードを取り出した。
【咬】の文字が刻まれた、凶暴な紫色に変色したライドワード。
バイトドライバーの「顎」へ、叩きつけるように装填する。
《咬む》
「二人ともやめてぇぇぇッ!!」
響の悲痛な叫びが夕闇の街に響き渡る。
《
《
バキバキと音を立てて凶暴な装甲が形成され、紫の粒子が爆発する。
仮面ライダーバイト
白銀の幾何学装甲を纏う、完璧なる絶対の正義――仮面ライダーシグナル
紫と白の歪な装甲を纏う、泥臭き言葉の抗い――仮面ライダーバイト
二人の仮面ライダーが、夕暮れの路地裏で真正面から向き合った。
シグナルが冷たく言い渡す。
「最後に警告する。バイトドライバーを渡せ」
バイトは低い構えを取り、牙を剥くように答えた。
「断る」
一瞬の沈黙。
空気の粒子すら凍りつくような死寂の後――
二人は同時に地面を蹴った。
白銀の軌跡と、紫の衝撃波が一直線に交錯する。
シンタックス・サーベルの鋭い一閃と、バイトの力任せの右拳が激しく激突し、凄まじい衝撃波が路地裏のコンクリートを砕いた。
激しい交戦音だけが遠くで激しく響き渡り、やがて静寂の中へと消えていく。
視点は一転し、都心を見下ろす高層ビルの屋上へ。
ビル群を抜ける冷たい夜風が、一人の女性のドレスを小さく揺らしていた。
ファルス。
彼女はビルの縁に優雅に腰掛け、双眼鏡も使わずに、遠く離れた街の一角で巻き起こる青と紫の光の衝突を、愉しそうに眺めていた。
「ふふふ……始まりましたわ」
彼女の背後、暗がりの中から重い足音が近づいてくる。
巨体を揺らして現れたのは、暴虐のライオット。
ライオットは争いの光芒を一瞥すると、興味なさそうに鼻を鳴らした。
「放っておけ」
ファルスが首をかしげ、小悪魔的な笑みを浮かべて振り向く。
「このままだと、あの【正】の言葉を使う者にバイトドライバーを取られる危険性もありますし、私たちの計画が台無しになるかと」
しかし、ライオットは眉一つ動かさなかった。
その口元が、凶暴で不気味な歪んだ笑みを形作っていく。
「それでいい」
「……?」
ファルスが不思議そうに瞳を丸くする。
ライオットは自らの極太の手のひらを見つめ、そこに佇む黒紫色の過剰な悪意【暴】のライドワードを力強く握り潰すように握りしめた。
「正しい言葉と」
ライオットの低い咆哮のような声が、夜風に乗って響く。
「間違い続ける言葉」
眼下で繰り広げられる、白銀と紫の不毛な激突。
完璧な計算で世界を正そうとする正木律と、傷つきながらも不完全な言葉で抗い続ける音無訔。
ライオットは嗤った。
「どちらが人間を救えるか。見物ではないか」