白銀の刀身を持つシンタックス・サーベルと、紫白の重厚なバイトの右拳が交錯し、夜の路地裏に激しい火花が飛び散る。
お互いの衝撃波が周囲の舗装アスファルトを蜘蛛の巣状に亀裂させ、激しい風圧が二人の装甲を打つ。
バイトは力で押し込もうと脚に全神経を集中させたがその瞬間、シグナルには一切の力比べに応じる気がないことが明らかになった。
シグナルはバイトの拳の慣性を利用し、僅か数ミリだけ刃を滑らせて衝撃を全受けから受け流しへと切り替える。
バイトの体制が僅かに前方へと崩れたコンマ〇一秒後。
シグナルは即座に最小限の予備動作で左脚を叩き込んだ。
「ぐっ……!?」
バイトが咄嗟に挙げた左腕のガード。だが、そのガードの上から寸分の狂いもないピンポイントで膝蹴りが叩き込まれる。ただの打撃ではない。バイトの重心とガードの支点となっている肘関節の隙間を完璧に捉えた物理的破壊の打撃。
腕の痺れにバイトが喘ぐ間もなく、シグナルの冷酷な無機質声線が耳元に届いた。
「右へ回避」
バイトの脳が反射的に反応する。
左ガードを崩され、正面からの追撃を避けるために体が勝手に「右側」へステップを踏む。
だが、そのステップの着地点には既にシンタックス・サーベルの白銀の刀身が置かれていた。
避けたのではない。シグナルが「そこへ避けさせた」のだ。
「ガハッ……!?」
バイトの胸部装甲へ、深々と一閃が走る。
激しい火花とともに吹っ飛ぶバイトの体。背中から地面へ激しく叩きつけられ、路上を何度も転がった。
土煙が舞う中、シグナルは静かに歩み寄る。その歩幅は一定で、足音すら最小限に抑えられていた。
「次は【燃】」
「……!」
地面に膝をつきながら、バイトは咄嗟にベルトのホルスターへ手を伸ばそうとした。
熱量の爆発で間合いを強引に引き剥がすため、熱響を放つ【燃】のライドワードへ指を掛けようとしたその瞬間。
影が落ちる。
シグナルの白銀の手が、バイトの右腕を正確かつ強烈に掴んでいた。
【燃】のワードを取り出すことすら許さない絶妙な手首の関節固定。
「その次に右拳」
「くっ……!」
ライドワードを掴めないと悟ったバイトが、空いた左拳をシグナルの顔面へ向かって渾身の力で叩き込もうとする。だが、その左腕すらも、振るわれる前にシグナルの左肘によって軌道を外側へ弾き飛ばされ、完全に制圧された。
「距離を取って【流】」
シグナルはバイトの思考の「先」を音読するように平然と告げる。
「っ……!」
バイトの息が止まる。言葉が出ない。身体を引いて流動の【流】でシグナルの制圧を脱しようとしていたその企みすら、完全に看破されていた。
「遅い」
ゼロ距離から叩き込まれるシグナルの前蹴り。バイトの巨体が空中で旋回し、路地裏のブロック塀を突き破って瓦礫の中へと叩きつけられた。
路上で戦闘を見守っていた陸が、信じられないものを見る目で目を見開き、頭を抱えた。
「な、何なんだよあれは……! 訔が何しようとしてるか、あいつ全部喋りながら攻撃潰してんぞ……!?」
響は蒼白な顔のまま、震える指先で専用端末の画面を凝視していた。
「……読まれてるんじゃないわ。正木の中で、すでに『完結』してるのよ」
響の端末に、シグナルが展開しているリアルタイムの透過UIデータが同期・投影されていた。
シグナルの直線的な青いバイザーの内部。
そこに展開されているのは、無数の戦闘ログと行動分岐の
=====
ATTACK PATTERN:ANALYZED
NEXT ACTION:PREDICTED (CONFIDENCE 99.8%)
COUNTER:OPTIMIZED
=====
訔が過去の戦闘で残した全データ。
筋電波形、視線の移動周期、呼吸の乱れ方、窮地に陥った際の思考癖、ライドワードを選択する優先順位。
それら膨大なパラメーターが、正木律の作成したAIアルゴリズムによって完璧にプロファイリングされていた。
訔が「次に何をしようとするか」は、シグナルにとって推測ですらなく、既に決まっている未来のデータに過ぎなかった。
ガラガラと瓦礫を押し退け、バイトが荒い息を吐きながら立ち上がる。
パールホワイトの装甲には無数の亀裂が入っており、内部のシステム負荷を示す赤熱の放熱光が隙間から漏れていた。
シグナルはサーベルの先端を地面へ向けたまま、静かに宣告した。
「無駄だ。君の戦闘記録はすべて解析済みだ」
バイトは胸を激しく上下させながら、シグナルを見据える。
「……解析……だと?」
「そうだ。【咬】【燃】【切】【流】【吹】――君が今まで得てきたライドワードの特性、それらをどの局面で、どの順番で使用するのか。君の感情の揺らぎに伴う思考パターンに至るまで、すべて計算式の中に収まっている」
シグナルが一歩踏み出す。
「君がどう足掻こうと、出力される行動はすでに予測された解の域を出ない。不完全な人間がどれだけ感情を爆発させようと、データを超越することは不可能だ」
圧倒的な絶望。
己の存在そのものを、数式とログによって完全に網羅され、否定される感覚。
だがバイトは折れなかった。
バイトは膝の震えを力づくでねじ伏せると、重い両拳を再び胸の前で硬く構え直した。
装甲の隙間から、紫の閃光がバチバチと激しく放たれる。
「……だったら」
バイトの低い、地を這うような声が漏れる。
「予想できなくなるまで――やるだけだッ…!」
シグナルはバイザーの光を僅かに明滅させ、冷酷に吐き捨てた。
「……それを、“無計画”と言う」
次の瞬間。
計算された白銀の閃光と、狂暴に爆発する紫の泥臭き抗いが、再び正面から激突した。
バイトが腰のドライバーから【咬】を引き抜き、即座にフレアワードを叩き込んだ。
《燃える》
《
《
バシバシと空間が弾け、バイトの右腕から胸部装甲にかけて灼熱の火柱が噴き上がる。赤熱した炎の巨腕。爆発的な火力を宿したフレアワード。
バイトは踏み込みと同時に、周囲の酸素すら焼き尽くす一撃をシグナルの胸元へ叩きつけた。
だが、シグナルは半身を僅かに引くだけで、その超高熱の拳を完璧にかわしてみせた。
バイザーの奥で、膨大な熱量データが青い数値となって列挙される。
=====
【TARGET ANALYSIS】
FIREPOWER:+320%
ATTACK SPEED:-42%
EFFECTIVE RANGE:PREDICTED (1.8m)
=====
「火力上昇。速度低下。射程想定内」
シグナルは平然と呟くと、シンタックス・サーベルの刀身を垂直に立てた。
バイトの放つ二射目の炎熱拳。その拳の運動ベクトルと熱エネルギーの指向性を完璧に計算し、サーベルの平面でわずかに受け流す。
荒狂う炎はシグナルの白銀の装甲を一膜も焦がすことなく、両脇の空間へと綺麗に分断されて消え去った。
「くっ……!」
《切る》
《
《
間髪容れず、バイトは青銀の刃を纏うスパーダワードへシフト。
両腕のブレードを旋風のごとく振るい、音速を超える連続斬撃を繰り出す。路地裏の壁面が目にも留まらぬ速さで刻まれていく。
しかし、シグナルは視線すら動かさない。
「高速近接型」
シグナルの頭部演算ユニットが、バイトの腕関節の可動域と剣撃の全軌道をリアルタイムでマッピングする。
左、右、上段、袈裟斬り、突き。差し出される刃の全軌道上に、シグナルは体どころか指先すら残さない。紙一重どころか、ミクロン単位の精度で刃の通過点をかわし続ける。一切の無駄がない、舞踊のごとき完全回避。
「ハァ!」
《流れる》
《
《
バイトは牙を剥くようにハイドロワードへ形態変化する。
高圧の激流が圧縮され、砲弾となってシグナルの全身を襲う。空間を押し潰すような中距離制圧波。
「中距離制圧」
シグナルは一歩も退かない。
水圧の最も低い境界線――流体力学的に生じるわずか数センチの「死角の隙間」へと、滑るように滑り込む。激流はシグナルの両脇を空しく突き抜けて背後で爆発した。
シグナルはその隙間の中心を直線で踏み込み、バイトの懐へ肉薄。サーベルの柄頭をバイトの鳩尾へ叩き込んだ。
「ガハッ……!」
《吹く》
《
《
吹き飛ばされながらも、バイトはバキュームワードへ切り替え、全方位へ指向性竜巻を放出して制圧を図る。
しかし
「拡散方向、予測完了」
シグナルは風圧の波動パターンすら完璧に読み切り、風の弾幕が一番薄くなるノードを突き抜けた。
バイトがどれほど瞬時にフォームを変え、どれほど目まぐるしく属性と戦術を変化させようともシグナルの前では、それはただ「既知のパターンの切り替え」に過ぎなかった。
一度として。ただの一度として、白銀の装甲に有効打が入ることはなかった。
シグナルの一蹴りがバイトの膝を砕き、崩れ落ちたバイトの胸元へ、シンタックス・サーベルの冷たい切っ先が突きたてられた。
シグナルは感情の排された声で宣告する。
「理解したか」
バイトの装甲が、激しい生体負荷のオーバーヒートで悲鳴を上げている。
「君が誇るその“可能性”の変幻自在さなど、すべてデータ化できる」
シグナルは刃を少しだけ深く突き立て、圧力をかけた。
「君たちは言う。『言葉は曖昧だからこそ強い』と。『意味が変わるからこそ無限の可能性がある』と」
一歩、シグナルが足を踏み出す。
「違う」
白銀のバイザーが、冷酷な絶対の真理を照射する。
「それは可能性ではない。ただ、定義できていないだけだ」
限界を超えた強烈な斜め一閃。
バイトの胸部装甲が過酷なエネルギーの過負荷に耐えかね、大爆風とともに砕け散った。
「グアァァァァッ!!」
紫の粒子が盛大に飛散し、変身が強制解除される。
叩きつけられたアスファルトの上で、訔は血を吐きながら倒れ伏した。
白銀の装甲が光となって消え、律が姿を現す。律の着る白衣には、塵一つすらついていなかった。
律は胸のポケットから手を出し、静かに倒れている訔へ見下ろす視線を向けた。
「終わりだ」
律は感情を交えずに、スッと右手を差し出した。
「バイトドライバーを渡せ」
路上に広がった己の血溜まりを見つめながら、訔の指先がピクリと動いた。
身体中の骨が折れているかのような激痛。呼吸をするたびに肺が焼き切れるような苦痛。
それでも、訔はボロボロになった両腕を地面につき、ズリ……ズリ……と地を這うように身体を起こし始めた。
律の手は、差し出されたまま動かない。
「……まだやるのか?」
律の声に、僅かな呆れと不快感が混じる。
訔は激しく咳き込み、口元の血を乱暴に袖で拭うと、血走った目で律を見上げながら言った。
「……やる」
律は冷ややかな目を向けたまま問う。
「理由は?」
訔は途切れそうな意識を繋ぎ止め、右手を伸ばした。路上に転がっていた、傷だらけのバイトドライバー。その無骨で歪な黒い金属のフレームを、指が千切れんばかりの力で固く握りしめた。
「俺が……始めたことだからだ」
その言葉を聞いた瞬間。律の眉間が、初めて明確な不快感によって激しく歪んだ。
「……またそれか」
律の脳裏に泥裏の記憶がフラッシュバックする。かつて【罪】の力に飲み込まれ、己を壊しながらも戦おうとしていたあの凄惨な光景。
「責任と、自己犠牲を混同するな」
律は冷たく、吐き捨てるように言葉を吐き出した。
「君のその考え方は病気だ。『自分がやらなきゃいけない』『自分が招いた結果だから自分を犠牲にしてでも償う』……そんなものは正義でも美徳でもない。ただの自己満足と、思考停止の依存だ」
律は一歩踏み出し、訔の手からドライバーを踏みつけようと足を上げた。
「これ以上、不確定な感情で現場を混乱させるな。リスクをまき散らすな。大人しく――」
「分かってる」
訔の声が、律の言葉を静かに遮った。
「……何?」
律の足が止まる。
訔は激痛に顔を歪めながらも、両足でしっかりとアスファルトを踏みしめ、ゆっくりと立ち上がった。膝がガクガクと震えている。全身から血が吹き出している。だが、その瞳の奥に宿る光は、倒される前よりも遥かに強く、澄み渡っていた。
「分かってるんだ、正木」
訔はバイトドライバーを胸元にしっかりとあてがい、バックルを装着した。
「だから……今度は違う」
律は無言で訔を見つめる。
訔は真っ直ぐに律の目を見据え、はっきりと宣言した。
「俺が、やらなきゃいけないから戦うんじゃない」
風が止まった。
「俺が……やりたいから、やるんだ」
その一言が、夜の静寂を静かに貫いた。
義務でもない。罪罪感からの自己犠牲でもない。『誰かに任せればいい』『計算上は自分が引くのが正解だ』と突きつけられた上で、それでも己の意志で、己の言葉で目の前の人間を守りたいという――純粋な誇りとエゴの証明。
「……ッ」
律の息が止まった。
常に冷徹に、すべてを計算とデータで割り切ってきた天才解析者・正木律が。生まれて初めて、言葉を失って絶句した瞬間であった。
義務や罪悪感という名の数式では決して導き出せない、音無訔のあまりにも純粋なエゴ。
だが、律はすぐさま氷のような冷徹さをその表情に取り戻した。
「……愚かだな、音無」
律の指先がかすかに揺れる。
「感情を優先し、論理を捨てた人間に待っているのは破滅だけだ。君のその我儘が、どれほど多くのリスクを生み出すか……私が教えてやる」
訔は答えず、血に濡れた手でバイトドライバーのレバーを引き抜いた。
《咬む》
《
《
バキバキと凄まじい生体駆動音が響き渡り、紫と白の光芒が吹き荒れる。
肉体の限界を知らせるアラートが内部で鳴り響きながらも、バイトが再びその姿を現した。
律もまた、一切の無駄のない手つきでシンタックスドライバーのレバーを倒し込む。
《
《
《
《
白銀の幾何学装甲が完璧な左右対称を形作り、シグナルへと変身を完了させる。
シグナルは静かにシンタックス・サーベルを構え、平坦な声を浴びせた。
「何度やっても同じだ。君の行動領域はすでにデータ化されている」
バイトは返答代わりに、腰のホルダーから透き通る青のライドワードを引き抜いた。
【流】
ドライバーの「顎」へ滑り込ませる。
《流れる》
《
《
シグナルのバイザー内で、即座に既知の戦術ツリーが展開された。
「ハイドロワード。中距離からの水圧射撃」
シグナルは予測された射線軸から体軸を僅かに外し、滑らかな回避姿勢をとる。
ところが――。
バイトは高圧の水流をシグナルに向けて放ちすらさせなかった。バイトが狙ったのは、二人の間に広がる傷だらけのアスファルトの地面。激しい水柱ではなく、薄く、しかし広範囲にわたる大量の水が地面へと一気に撒き散らされ、足元一面を濡らしていく。
シグナルは一瞬、動きを止めた。
「……?」
バイザーのデータUIに、未知の行動パラメータがノイズとして明滅する。
間髪容れず、バイトは青のライドワードを抜き去り、即座に緑のライドワードを装填した。
《吹く》
《
《
シグナルは再計算を実行する。
「風圧攻撃。正面からの指向性竜m――」
違う。
バイトの右腕から放たれた強烈な風圧は、シグナルへ向けて放たれたのではなかった。バイトが風を叩きつけたのは先ほど自ら地面一面に撒き散らした、大量の水溜まり。
爆風のような風圧を受けた水滴が超微粒子状に破砕され、一瞬にして濃厚な水蒸気――圧倒的な「白霧」となって路地裏全体を埋め尽くした。
視界が、完全なる純白へと染まる。
「くっ……!?」
シグナルの頭部光学センサーに強烈な乱反射のノイズが走り、メインUIが処理オーバーを起こして一瞬だけ視界を奪われた。
その白霧の死角を切り裂いて躍り出たのは、紫の閃光。
激しい打撃音が街に響き渡った。
バイトの重厚な右拳がこれまで一度として掠めることすらできなかったシグナルの白銀の胸部装甲へ、真っ直ぐに直撃していた。
シグナルの白銀の体が僅かに後方へと揺らぎ、装甲の表面からバチバチと青い火花が散る。
バイザーの奥で、律の呼吸が一瞬止まった。
「……直撃だと?」
バイトは突き出した拳を引くことなく、静かに言葉を重ねた。
「ハイドロワードはただ敵に水をぶつけるためだけの言葉じゃない」
バイトは自分の手元にあるライドワードを見つめた。
「流す。濡らす。運ぶ。……形を変える。言葉の使い道なんて、最初から一つに決められてなんかいない」
シグナルはすぐさま姿勢を立て直すと、歪みのない無機質声線で即座に反論した。
「……ただの詭弁だ。本来のシステム定義から逸脱した、場当たり的な無計画動作に過ぎない」
バイトは深く腰を落とし、重く力強い構えを取った。
「詭弁じゃない」
バイザーが、力強く輝く。
「これが――『解釈』だ!」
再戦。
バイトは間髪を入れず、スパーダワード【切】を装填。
《切る》
《
《
青銀の刃を纏い、バイトが直線的に突進する。
シグナルは即座に乱れたセンサーを補正し、バイトの斬撃軌道をミリ単位で再予測した。
「近接高速斬撃。右斜め上からの袈裟斬り――」
しかし、バイトはシグナルを斬らなかった。
バイトのすれ違いざまの一閃が切り裂いたのは、シグナルの頭上に位置していた古い雑居ビルから伸びる、大型看板を固定していた太いスチールワイヤー。
固定を失った数百キロの金属看板が、シグナルの真上から轟音とともに崩落してくる。
シグナルは反射的に後方へと大きく跳躍し、崩落する看板を間一髪で回避せざるを得なかった。
計算された完全回避。だがその回避動作によって、シグナルの絶対的な間合いの統制が完全に崩れ去る。
着地の隙。シグナルが体勢を整えるそのコンマ〇一秒の前に、バイトはすでにその死角へと肉薄していた。
「ハァァァッ!」
バイトは再びバキュームワードを叩き込む。
だが、今度の風圧の矛先はシグナルでも、地面でもなかった。
バイトは自らの背後。真後ろの空間に向けて、全開の風圧爆発を解き放った。背後からの凄まじい指向性爆風を、自らの「超爆速の推進力」として利用した前進加速。
物理的な足の踏み込み速度を遥かに超えた人間離れした瞬間加速が、シグナルがAIによって算出していたバイトの「最大到達速度」の数値を一瞬で置き去りにする。
「何……速度が……!?」
シグナルのバイザー内で、速度予測のシステムアラートが赤く点滅した。
超高速でシグナルの眼前へと躍り出たバイトは、間髪置かずにそのライドワードを噛み合わせた。
静寂を司る【黙】ライドワード。
《黙る》
《
《
シグナルは即座にデータベースを参照する。
「消音能力。音波兵器の無効化――」
だが、それもまたシグナルの浅はかな既成概念に過ぎなかった。
バイトが発動させた【黙】の領域は、相手の攻撃を遮断するためではなくバイト自身の足音、装甲の摩擦駆動音、荒い呼吸音、そして全身から漏れ出ていたフォント波形の振動ノイズそのものを、完全に「無」へと消し去るために使用された。
シグナルがバイトの位置を特定し、次の動作を予測するために頼っていた全サンプリングデータが、一瞬にして世界から消失する。
=====
TARGET DATA:LOST
PREDICTION IMPOSSIBLE
=====
シグナルの透過UIの上に、絶望的な警告テキストが躍った。
「……データが……消えた……!?」
完全なる静寂の闇。
次の瞬間、シグナルの完璧な計算領域の「外側」。完全なる死角である右真後方から、実体化したバイトの影が躍り出た。
全身の熱量を一本の拳へと凝縮させた、渾身の一撃。シグナルの白銀の側頭部へ、バイトの右拳が過酷なまでの衝撃とともに叩き込まれた。激しい火花と白銀の装甲片が夜空に舞い散り、完璧を誇っていた仮面ライダーシグナルが、大きく足をもつれさせてアスファルトの上を転がっていく。
路地の物陰で息を呑んで戦況を見つめていた陸が、思わず拳を突き上げて叫んだ。
「当たった! 当たったぞおい! あいつの『絶対外さない計算』をぶち破りやがった!」
響は息を荒げながら、モニターに表示されているシグナルのデータエラーログを食い入るように見つめていた。その瞳に、驚愕と確信の光が宿る。
「……そういう、ことだったのね」
陸がハッと振り返る。
「何がだよ、音羽センセー!?」
響は画面を指差し、興奮を隠せない声で語り出した。
「正木のシンタックスドライバーは過去の膨大な戦闘データから『敵が次にどう動くか』のパターンを抽出し、それに対する『唯一の正解』を超高速で計算して動くシステムなの」
「おう、だから今まで攻撃が全部読まれてただろ!」
「そう。でもデータの蓄積が存在しない『今まで誰もしたことがない言葉の使い方』をされたらどうなると思う?」
陸がハッと目を見開いた。
響はバイトの力強い背中を見つめながら、強く頷いた。
「過去のデータの中に存在しない使い方には正木のシステムが計算するための『正解』そのものが、最初から存在しないのよ!」
データを超越する、人間の自由な解釈と可能性。
白煙が立ち込める崩落した路地裏で、バイトは膝をつく白銀の戦士を見下ろし、牙を剥くように力強く拳を突き出した。
膝をついていたシグナルのバイザー奥で、青いデータ光線が過酷なまでの高速明滅を始めた。
側頭部からの爆発的な火花が治まり、傷ついた装甲が可変機構によって急速に補正されていく。正木律の思考領域が、爆発的なスピードで直前の交戦ログを解体・再構築していた。
=====
《NEW PATTERN REGISTERED》
【流】+【吹】
気化現象を利用した視界遮断および光学センサ阻害。登録完了。
【切】
直接打撃ではなく構造物のワイヤー切断による環境崩壊誘破。登録完了。
【黙】
敵への攻撃ではなく自己の動作音およびフォント波形の遮断。登録完了。
=====
青い透過UIの画面上に、バイトが提示した「新たな解釈」が次々と既知のデータ枠へと分類・格納されていく。
「解釈の拡張か。……見事だ、音無訔」
シグナルの冷たい電子声が、白煙を切り裂いて路地裏に響く。
「だが一度観測されたデータは、もはや未知ではない。新しいパターンなら、ただちに学習し、更新すればいいだけの話だ」
シグナルが滑らかな動作でシンタックス・サーベルを構え直した。
バイトは牙を剥くように再び踏み込む。
背後への【吹】の風圧爆発による瞬間加速。先ほどシグナルの予測を置き去りにした超高速の突進。
しかし
シグナルの白銀の刃が、寸分違わずバイトの進路上に置かれていた。
完璧な出かからずのインターセプト。
「ぐっ……!?」
「速度補正完了。風圧の指向性ベクトルから瞬時に到達点を算出可能」
シグナルはバイトの拳を流れるような剣さばきで弾き飛ばすと、そのまま水蒸気で満ちた視界を意に介さず、正確無比な旋回蹴りをバイトの胸元へ叩き込んだ。
「ガハッ……!」
再び吹き飛ぶバイト。激しくアスファルトを転がり、紫の装甲からパチパチと不穏な電流が漏れ出す。
バイトは吐き捨てるように叫んだ。
「くそっ……もう読んだのか……!?」
シグナルはゆっくりと歩み寄り、冷酷に刃を突きつける。
「一度見れば十分だ。君がどれほど歪な『解釈』を持ち出そうと、出力された現象である以上、それは結局ただの『新しいパターン』に過ぎない。データ化できるものに、私を上回る術はない」
シグナルの一撃一撃が、再び正確にバイトの全身を蝕み始める。
完璧な学習能力。一度見せた手は二度と通用せず、むしろ次からは完璧なカウンターの餌食となる。音無訔の積み重ねてきた抗いが、圧倒的な計算の前に再び擦り潰されていく。
「……だったら」
バイトは荒い呼吸のまま、胸のライドホルダーへと指を伸ばした。
指先が触れたのは、かつて手に入れた、【信】のライドワード。
シグナルは即座に透過UIでバイトの指先をスキャンする。
=====
WORD IDENTIFIED:TRUST
COMBAT DATA:INSUFFICIENT
=====
律の思考回路に、かすかな警戒のノイズが走る。
「……【信】。戦闘能力が一切確認されていないライドワード」
バイトは傷だらけの手で【信】のワードを掴み取り、バイトドライバーの顎へ力強く装填した。
「そうだ。戦闘データなんて、最初から一秒分もあるわけがない」
《信じる》
《
《
透き通るような高い音が夜空に響き渡った。
しかし何も起こらない。
高熱の炎も、刃も、水流も、暴風も生み出されない。バイトの周囲に攻撃的なフォントのエネルギーが立ち上ることもなかった。
シグナルは構えを維持したまま、微かに首を傾げる。
「……?」
バイト自身も動かない。攻撃の構えすら取らず、ただ静かに立ち尽くしている。
だがバイトのドライバーから放たれた無色の波紋が、静かに、しかしどこまでも遠くへ広がっていった。その波紋は路地裏を越え、物陰で見守っていた響と陸のもとへと届く。
「これ……」
響の手元にある解析端末が、見たこともない異常なフォント共振波形を検知して激しくアラームを鳴らし始めた。
陸が自分の胸元を押さえる。
「な、何だ……? 胸の奥が……熱ぇ……!?」
響はハッと目を見開いた。
「共振……してる……!」
先日の解析で判明していた真実。【信】のワードは、単独の武器として機能するライドワードではない。他者との間に生まれる絆、言葉を交わしてきた時間、目に見えない「信頼」の深さによって、その出力と性質が無限に変貌する特殊な共振構造体。
響、陸、そして今はこの場にいない宗一。これまで音無訔という不器用な男と共に泣き、笑い、ぶつかり合い、命を預け合ってきた人々のフォント波形が、目に見えない光の帯となってバイトの背後へ重なっていく。
バイトの装甲に、無色の眩い光輪が重なり始めた。
ドライバーの出力数値が、測定不能の勢いで跳ね上がっていく。
シグナルのバイザーに、未曾有の警告アラートが洪水のように表示された。
=====
WARNING:EXTERNAL OUTPUT OVERFLOW
CALCULATING……
VARIABLE:UNKNOWN
VARIABLE:UNKNOWN
VARIABLE:UNKNOWN
=====
「何だ……!? 外部から出力が上昇している……!? どこからエネルギーが補給されている!?」
律の声に、生まれて初めて「パニック」に近い混乱のの色が混じる。
シグナルのAIが必死に数値を算出しようとする。しかし、入力される変数は「信頼」であり、「人間の感情」であり、「その瞬間の固い意志」であった。
一秒ごとに数値が変わる。直前のデータが、次のコンマ一秒には全く異なる爆発的な数値へと塗り替えられる。
「計算が……収束しない……! 数値が安定しない……!!」
律の悲鳴のような問いに、バイトは一歩、強く地面を踏み締めて応えた。
「当たり前だ」
バイトの手の中で、【信】の光が七色に眩しく輝き出す。
「人間の心も、信頼も……お前の大好きなデータみたいに決まった形に収まってはいない」
「音無訔ッ!!」
「正木律ッ!!」
二人の仮面ライダーの限界を超えた叫びが、夜の街を震わせた。
バイトが胸元のレバーを極限まで押し込む。
《咬む》《咬む》
《
紫と無色の光が一点に凝縮され、バイトの右脚に巨大な光の牙が形成される。
シグナルもまた、コンパイルレバーを限界まで倒し込んだ。
《
《
白銀の光芒が幾何学模様の翼となって広がり、完全なる絶対の軌道を描く。
完璧な計算によって導き出された絶対の正義――仮面ライダーシグナル。
不確定な信頼と絆を力に変える不完全な抗い――仮面ライダーバイト。
二人は同時に跳躍した。
夜空を切り裂く、青と紫の必殺のライダーキック。
二つの光が空中へ交錯し、激突するまさにその直前であった。
ドォォォォォォォォン!!!!!!!!
空間そのものを叩き割るような、凶暴で禍々しい黒赤の超巨大衝撃波が、二人の隙間へと乱入した。
「「!?」」
激突の直前に横合いから放たれた圧倒的なエネルギーの濁流により、バイトとシグナルの二人は必殺技を強制キャンセルされ、瓦礫の街路へと激しく吹き飛ばされた。
コンクリートの壁を突き破り、無残に倒れ込む二人のライダー。過酷な衝撃に耐えられず地面に倒れ伏した。
燃え盛る黒赤の火炎。
周囲の空気すらドス黒く濁らせるほどの過剰な悪意のフォント波形。
その炎の渦の中から、靴音を響かせてゆっくりと歩いてくる一人の男がいた。
黒赤の意匠が施された重厚なロングコート。
冷酷で暴虐な眼差し。
その右手に握られていたのは、ドス黒く明滅する一つのライドワード。
【暴】
血を流しながら這い上がろうとする訔が、目を見開いて喘いだ。
「……お……前……」
律もまた、デバイスが放つ狂ったようなアラート音に顔を歪める。
「な……ジャーク反応……!? だが、この数値は一体……!?」
影で見守っていた響が、端末を握りしめたまま恐怖で全身を震わせた。
「違う……! 違うわ! 今までのジャークとは……出力の桁が違いすぎる……!!」
男は倒れ伏す二人を一瞥すらせず、静かにその手の中のライドワード【暴】を力強く握りしめた。
男の全身を、過剰なまでの黒赤のフォント文字が津波のように覆い尽くしていく。
大気を引き裂く咆哮のような変身音。ついにその圧倒的な姿を現した、暴虐の原典。
ライオット・ジャーク。
赤く光るバイザーの下から、冷徹で凶暴な低い声が響き渡った。
「くだらん」
ライオットはゆっくりと歩みを進める。その一歩ごとに、周囲のアスファルトが黒い炎を上げて溶けていく。二人を見下ろし、心底吐き気がするというように鼻を鳴らした。
「随分と……面倒な話をしているな」
訔は歯を食いしばり、痛む身体を鼓舞して立ち上がった。律もまた、無言でシンタックスドライバーを構え直す。
二人のライダーの視線を集めながら、ライオットは右手の【暴】のライドワードを強く発光させた。
ドス黒い衝撃波が、街全体を激震させる。
ライオットは冷酷な笑みを浮かべ、世界の真理を突きつけるように言い放った。
「言葉とは――」
漆黒の威圧感が、二人の仮面ライダーを完全に呑み込んでいく。
「相手を従わせれば、それで終わりだ」
圧倒的な牙を剥く暴虐の原典、ライオット・ジャーク。その全身から溢れ出す圧倒的な【暴】の存在感に、街の空気が静まり返る。
「……ふざけんなッ!」
痛む身体を押して真っ先に飛び出したのは、バイトだった。
右拳にありったけの力を込め、ライオットの胸元へ渾身の一撃を叩き込む。
激しい衝撃音が響き渡る。……だが、ライオットの巨躯は微動だにしなかった。
ライオットはただ、差し出した左手のひら一枚でバイトの重厚な拳を軽々と受け止めていた。
「なに……!?」
バイトがさらに踏み込もうとするが、ビクともしない。
その背後から、シグナルが視覚UIをフル回転させ、ライオットの生体フォントデータと装甲の構造解析を開始する。
=====
ANALYSIS INITIATED
TARGET:RIOT JERK
CALCULATING PHYSICAL LIMITS...
=====
シグナルのバイザー奥で青いデータストリームが超高速で走る。
しかし次の瞬間
バツッ――
透過画面全体に見たこともない巨大なノイズが走り、警告テキストが赤く点滅した。
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ERROR:CANNOT PROCESS FONT STRUCTURE
ERROR:CAPACITY OVERFLOW
=====
律の思考領域に、激しい衝撃が走る。
「……解析できない? システムの許容量を超えているとでも!?」
ライオットはバイトの拳を掴んだまま、ゆっくりと首だけをシグナルの方へ向けた。赤く光るバイザーの奥から、低く重い声が漏れる。
「俺を測るな」
ただ一言。その言葉と同時に解き放たれた過剰なフォント波動が、シグナルの解析システム全体を直撃する。シグナルの側頭部から青い火花が吹き飛び、視界UIが強制シャットダウンされた。
「くっ……視覚解析機能が、強制停止……!?」
シグナルが狼狽する間もなく、ライオットはバイトを無造作に放り投げると、地響きを立ててシグナルの目前へと肉薄した。黒赤の威圧感を見上げるシグナル。ライオットはその巨頭を低く下げ、シグナルの胸元のシンタックスドライバーを見つめた。
「【正】の言葉を使う者。正木律」
シグナルのバイザーが微かに明滅する。
「……俺を知っているのか」
「お前のような人間は、嫌いではない」
ライオットの言葉に、シグナルは一瞬沈黙した。
「言葉に一つの意味を与え、それ以外を間違いとする」
ライオットの口元が、不気味で凶暴な歪んだ笑みを形作る。
「完璧な管理と規律による支配。……俺様と、何が違う?」
シグナルは即座に、一切の躊躇なく言い放った。
「全く違う」
迷いのない即答。律の信念に揺らぎはなかった。
「ならば証明してみろ」
ライオットの右拳に、ドス黒い【暴】のエネルギーが収縮していく。
言葉を与える隙すら与えない、純粋な暴力の一撃。シグナルの白銀の胸部装甲が大きく歪み、一撃で百メートル近く路面を滑らせて吹き飛ばされた。装甲の隙間から大量の光の粒子が漏れ出し、強制変身解除寸前の激しいダメージアラートが夜空に虚しく響く。
「……ぐっ……あ……」
膝をつき、立ち上がれないシグナル。ライオットは追撃のために踏み出し、重厚な右拳を律の頭部へ向けて突き下ろした。
死の直撃――
ガンッ!!!!!
激しい金属疲労の叫びとともに、その拳を受け止めた影があった。
「ガァッ……! ぐあぁぁぁぁっ!!」
バイトだ。バイトは両腕の装甲を交差させ、シグナルの頭上に割り込むことでライオットの必殺の一撃を全身で受け止めていた。メリメリと音を立ててバイトの腕部装甲が粉砕され、紫の体液のような冷却光が飛び散る。
倒れ込む律の瞳が、驚愕に見開かれた。
「音無……! なぜ助ける……!?」
バイトは歯を食いしばり、激痛に耐えながらライオットの拳を押し返そうと脚を震わせた。
「勘違い……するな。正木……っ!」
バイトは血走った眼差しで律を見下ろした。
「まだ……お前と俺の決着が……ついてないだろ……!!」
律は呆れたように一瞬目を見張り、ハッと息を吐いた。
「……馬鹿か」
「よく……言われる」
その様子を見下ろしていたライオットが、退屈そうに鼻を鳴らした。
「ならば、二人まとめて来い」
ライオットが右腕を軽く振るうだけで、バイトの巨体が弾き飛ばされ、シグナルの隣へと転がった。
覇者のような重圧感。圧倒的な力の差。
しかし、二人の仮面ライダーは同時に立ち上がった。
互いに一度だけ、視線を交わす。
白銀の仮面と、紫の仮面。互いの信念を絶対に譲らない二人が、今この瞬間だけは同じ敵を見据えていた。
シグナルの電子声が、低く静かに響く。
「……三十秒だ」
バイトが呼吸を整えながら問い返す。
「何?」
「私が奴の行動データを、生体反応から再構築して解析する。……君はその間、時間を稼げ」
バイトは歪な笑みを漏らした。
「命令か?」
「最適解だ」
バイトは短く鼻で笑い、重い拳を硬く構え直した。
「分かった」
シグナルは僅かに意外そうな気配を見せる。
「……素直だな」
バイトは力強く一歩を踏み出した。
「今だけな」
二人の仮面ライダーが、初めて同じ陣形を描いて並び立つ。
仮面ライダーバイト、そして仮面ライダーシグナル。
正反対の「言葉」を宿す二人の共闘が、ここに始まった。
バイトが地を蹴り、ライオットの正面へと突進する。瞬間、シグナルの精密な音声伝達がバイトの聴覚へ直接届いた。
「右!」
バイトは理由を問わず、反射的に身体を右へとひねった。直後、バイトが先ほどまでいた空間を、ライオットの空を切る激しい拳が通り抜ける。
「次、上!」
今度はバイトが叫んだ。シグナルは一切の計算による疑念を捨て、指示通りに垂直跳躍。
その足元へ、バイトがハイドロワードの力を叩き込む。
大量の水流が地面を滑り、ライオットの足元を濡らしてその強大な重心を僅かに崩す。足元を狂わされたライオット。その頭上から、上空へ跳躍していたシグナルが、シンタックス・サーベルを完璧な一撃で振り下ろした。
紫の閃光と白銀の刃が交錯する。
ライオットの黒赤の胸部装甲に、初めて明確な「傷」が刻まれ、黒い炎が爆発した。
「……なに?」
ライオットは足を止め、自らの胸元に刻まれた浅い傷跡を指で撫でた。
そしてニヤリと、暗闇の中で凶暴に笑った。
「……なるほど」
ライオットの目が、二人を捉える。
「正解と、解釈。……混ざれば、多少は面白い」
だが遊戯はそこまでだった。
ライオットが右手の【暴】を固く握り締めると、全身から太陽の暴発のような黒赤の衝撃波が全方位へと解き放たれた。
「「ッ!?」」
圧倒的な波形出力の差。バイトとシグナルは二機同時に吹き飛ばされ、路地裏のコンクリート壁を何重にも突き破って瓦礫の中に埋もれた。
煙が立ち込める。しかし、ライオットはそれ以上の追撃を行わなかった。
変身が解け、激しい吐血とともに瓦礫から這い出す訔と律。
二人を見下ろしながら、ライオットはゆっくりと背を向けた。
「今日は挨拶だ」
訔は血に染まった手で地面を掴み、消えかかる意識の中で叫んだ。
「待て……! 何をするつもりだ……!」
ライオットは足を止め、肩越しに訔を冷たく見下ろした。
「音無訔」
その声は、静かな死の宣告のように重い。
「お前は、まだ知らない」
訔は歪む視界の中で問う。
「……何を……!?」
ライオットの視線が、ゆっくりと訔の胸元に装着された傷だらけのバイトドライバーへと注がれた。
「その顎が」
息を呑むような短い間。
「何を
訔の表情が、凍りついたように固まった。
ライオットはその言葉だけを残し、闇の炎とともに夜の街の奥深くへと姿を消した。
*
沈黙が路地裏を包み込む。
サイレンの音も、警察車両の光も、すべてが遠い世界の出来事のように思えた。
瓦礫の中で、訔と律の二人は身体中から血を流したまま、力なく座り込んでいた。
そこへ、陰から駆け寄ってきた陸と響。
陸は頭を抱えながら、倒れている二人と崩壊した周囲を見回し、呆れ果てたような声を上げた。
「で……結局、お前らどっちが勝ったんだよ?」
訔は荒い息を吐きながら、力なく天井を見上げた。
「……さあな」
律は白衣の汚れを軽く払おうと手を出したが、力が入らず諦めたように呟いた。
「中断されただけだ」
陸が首をかしげる。
「じゃあ……引き分けか?」
律は即座に冷たく言い放った。
「「違う」」
迷いのない即答。
張り詰めていた重苦しい空気が、ほんの少しだけ弛緩する。
しかし――律の冷徹な瞳が、ゆっくりと訔の胸元にあるバイトドライバーへと向けられた。
その視線に気づいた訔は、咄嗟に警戒してドライバーを手で覆う。
律は静かに吐き捨てた。
「今日は、回収しない」
訔は眉をひそめた。
「……『今日は』?」
「ライオット・ジャーク」
律の表情が、かつてないほど険しく引き締まる。
「奴の存在、出力、そして言動は野放しにはできない。あの怪異について、急ぎ調査をすすめる必要がある」
響が尋ねた。
「じゃあ……訔たちと協力してくれるの?」
律は響を冷たく見つめ直した。
「違う」
「……?」
「情報共有だ」
「一緒だろそれ!」
陸が呆れてツッコミを入れた。だが律は一切譲らない。
「違う」
響はため息をつき、おでこを押さえた。
「はぁ……昔からそこ、本当に面倒くさいわね、正木」
律の肩がぴくりと跳ねる。
「音羽」
そのやり取りを見て、訔の口元から小さく笑みが漏れた。
律は眉をひそめたが、その背中はどこか毒気を抜かれたようにも見えた。
訔はそのやり取りを見て、ふっと小さく鼻で笑った。頭の堅いエリート。だが、根っからの悪人ではない。
律が静かに歩き出す。
その背中に向かって、訔は声をかけた。
「正木」
律の足が止まる。振り返りはしない。
「……さっきは助かった」
訔の素直な言葉。三十秒の時間を稼ぎ、ライオットに一撃を打ち込む隙を作ってくれたのは、間違いなく律の解析と指示があったからだ。
律は少しの間、沈黙を守っていた。
そして、ゆっくりと振り返った。傷付き額から流れた血がかかった瞳が、訔を見つめ返す。
「……君もな」
律の口から出たのは、思いのほか短い、だが確実な感謝の言葉だった。
これまで訔の存在を「不確定要素」「排除すべき違法存在」と断じていた律が、初めて音無訔という男の行動と力を、対等な人間として認めた瞬間だった。
だが
「――ただし」
律の表情が、再び冷徹な「正義の執行者」のそれへと戻る。
「君の行き当たりばったりの考え方を認めたわけじゃない。君の存在が危険であるという僕の結論に変わりはない」
「俺もだ」
訔もまた、不敵な笑みを返した。
「お前みたいな頭の硬い奴の言いなりになるつもりはない。俺は俺のやり方で、この戦いを終わらせる」
「期待はしていない」
律は短く告げると、今度こそ振り返らずに夜の闇の中へと消えて行った。
訔もまた、陸と響に肩を貸してもらいながら、逆の方向へとゆっくり歩き出した。
交わらない二つの線。
しかし、その線の先には、同じ巨大な闇が待ち構えていた。
深夜。
人知れぬ場所に存在する、ジャークたちの拠点。
崩落した地下聖堂のような空間に、青白い月光と怪しい赤火の松明が揺らめいていた。
その中央に立っていたのは、ライオットだった。
右脇腹の傷からはまだ微かな煙が上がっていたが、本人は気にした様子もなく、ただ冷ややかな眼差しで闇を見つめている。そして、陰からゆっくりと歩み出てきたのは、全身を鎖と重厚な装甲で包んだ男、バインドだった。
「正木律という男……言葉と定義に固執する歪んだ理性。奴の思想は、いずれ我々へと近づく。人間が完璧な秩序を求めた果てに行き着くのは、すべての個性を奪う『拘束』だからな」
「ですが」
ファルスが楽しそうに首を傾げる。
「だけど、音無訔と邂逅したら私達が見立てたような動きにはならなかったわ。それでもその結果になるって事かしら?」
「だから面白い」
ライオットの声に、微かな愉悦が混ざる。
「秩序と混沌。正解と解釈。二つの不完全な理がぶつかり合い、削り合わされる時……真の『扉』が開く」
ライオットは歩み寄り、自身に刻まれた【暴】の刻印の隣へ、静かに一つの品を置いた。
それは、古代の遺跡から掘り起こされたかのような、風化した石版だった。
表面には、異形なる文字が刻まれている。
一つは、訔が解き放った力――【咬】
牙が獲物を捕らえ、噛み砕く意匠。そして、その隣には今まで風化し、誰にも読むことができなかったもう一つの文字が、ライオットの放つ赤黒いエネルギーに反応し、ぬらりと禍々しい光を放ち始めていた。
古代文字――【喰】
「【咬】は、始まりに過ぎない」
ライオットの低く重い声が、全体に反響する。
「ただ噛み砕くだけの牙など、幼子の戯れ。言葉が真に求めているもの、音無訔という器が最後に辿り着く本能」
ライオットの手が、石版の【喰】の文字を撫でた。
「それは――この世界そのものを『喰らう』ことだ」
闇の中で、ライオットの瞳が爛々と輝く。
視界がゆっくりと漆黒に染まっていく。
すべての音が消え去り、静寂が訪れる。
そして――
ガチンッ!!
暗闇の深淵で、世界を噛み千切るかのような、巨大な金属の「顎」が固く閉じる重厚な音が、深く、重く響き渡った。