夢の中で繰り広げられるのは、幾度となく脳裏を焼き尽くしてきたあの凄惨な記憶だ。天を埋め尽くす黒紫の巨大な文字の渦。そして、胸元に生々しい金属の顎を寄生させた古代の戦士。
『……喰わせろぉぉぉぉッ!!』
絶叫とともに開かれる巨大な顎。言葉が、世界が、意味そのものが呑み込まれ、暗黒の虚無へと消えていく。
冷たい月光が、机の上に無造作に置かれたアタッシュケースを白々と照らし出していた。
その漆黒のケースの内部。密閉された暗闇の中で
――カチッ
誰も触れていない。風すら存在しない部屋の中で、明確な金属駆動音が静寂を切り裂いた。
アタッシュケースの隙間から、一瞬だけ歪んだ紫色のフォント光が漏れ出す。
バイトドライバーの「顎」が、自らの意思を持ったかのように、ミリ単位で静かに開いた。
その暗い口開の奥底から、人間の声帯から発せられたとは到底思えぬ、湿り気と重厚さを孕んだ低音が地鳴りのように響く。
「足りない」
黒い顎が、さらに数ミリ、飢えた獣のように深々と開く。
「もっと――」
「……っ!」
訔は跳ね起きるように上半身を起こした。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ……!」
飛び起きた訔の荒い呼吸が、狭い自室の空気を激しく揺らす。全身は不快な冷や汗でぐっしょりと濡れており、Tシャツが皮膚に気味悪く張り付いていた。
胸の奥が焼きごてを押し当てられたように熱い。
訔は乱れた前髪をかき上げながら、周囲を見回した。
室内を包み込むのは、完全な静寂。
闇に静まり返った部屋の中で、窓から差し込む静かな月光だけが室内を照らしている。
訔は息を殺し、机の上のバイトドライバーへ視線を向けた。
何も起きていない。
金属の顎は硬く閉ざされたまま、不気味なほど大人しく横たわっている。駆動音も、あの低く湿った声も、どこにも存在しない。
「夢……?」
額から顎へと伝う汗を雑に拭い、荒れた呼吸を整えようとした、その時だった。
グゥゥゥ……
沈黙の部屋に、生々しく重苦しい腹鳴りが響き渡った。
「……っ」
訔は思わず自分の腹を押さえた。
胃袋が内側から激しく絞り上げられるような、強烈な不快感。まるで何日も水すら口にしていないかのような、猛烈な血の乾きと虚無感が一瞬にして全身を突き刺した。
壁の時計を見る。
『03:00』
午前3時。
「……腹減ったな」
訔は乾いた喉を鳴らし、ベッドから脚を下ろした。重い足取りでフローリングを踏みしめ、台所へと向かう。
暗闇の中で冷蔵庫のドアを開けると、白い冷気が漂い出た。
訔は棚に並んでいた作り置きの白飯のパックと惣菜に手を伸ばした。温める時間すら惜しく、冷え切ったパック飯のラップを剥がし、そのまま口の中へ押し込む。
咀嚼し、飲み込む。
続けてパンを袋から引きちぎり、口の中へ放り込んだ。
しかし――
食べても
食べても
空腹が消えない。
どれだけ噛み砕き、胃袋へ流し込んでも、全身を苛む激しい飢渇感は微塵も癒えなかった。腹の中に溜まっていく感覚はあるのに、脳を焼くような強烈な「足りなさ」が苛烈さを増していく。
「……なんだ、これ」
訔は膝を折り、台所の床に手をついた。
胃袋はすでに食べ物で満たされているはずだった。それなのに、全身の細胞が狂わんばかりに食べものを求めて叫び続けている。
呼吸を荒くしながら、訔は自分の体の異変を確かめるように手で探った。
やがて気付く。
腹ではない。
胸。
バイトドライバーを装着する場所が疼いている。
胸骨の裏側、ベルトを装着した際にあの黒い金属の顎が皮膚を噛みちぎり、体内へと接続される「接合部」の位置。そこが、まるで火のついた炭を埋め込まれたかのように熱く、激しく脈打っていた。
ドクン……!
脈動とともに、脳裏に強烈な文字の光景が焼き付いていく。
【燃】――灼熱の炎を撒き散らし、全てを焼き尽くす紅蓮の炎
【切】――空間すら切り裂く、鋭利な刃
【流】――滔々と流れ、すべてを押し流す激流の渦
【吹】――荒れ狂い、万物を吹き飛ばす暴風
【信】――偽りを暴き、真実を繋ぎ止める絆
【黙】――あらゆる声を奪い去り、世界を静寂へ叩き落とす檻
【急】――時を置き去りにし、刹那を駆け抜ける閃光
【欲】――他者の持てるものを奪い、底なしの渇望を撒き散らす金色の執着
これまで手に入れたライドワード。
そして――
【喰】
暗黒の深淵で不気味な口を開く、あの禍々しき禁忌の一文字。
「……っ……!」
訔が口元を押さえる。
全身の細胞が恐怖で総毛立つ。自分の肉体が、自分以外の「何か」の意志に塗りつぶされていくようなおぞましい感覚が喉の奥まで競り上がってくる。
訔は床を這うようにして自室へと戻り、机の上に置かれた暗い金属の塊を直視した。
「……違う」
荒い息を吐きながら、訔は震える声で呟いた。
「俺が腹減ってるんじゃない」
冷たく沈黙するバイトドライバーを見つめる訔の瞳に、恐怖と戦慄の色が走る。
「こいつが……腹を空かせてるのか?」
帝都大学・考古学研究室
普段であれば古書の紙臭さと淹れたてのコーヒーの香りが漂う空間は、今や異様な重苦しさに支配されていた。
研究室の中央に設置された重厚な金属製デスクの上。そこに、冷たい透明なアクリルにも似た特殊複合素材のケースが鎮座している。防音、防振、そして外部へのフォントエネルギー漏洩を完全に遮断する特別仕様の「耐フォント隔離ケース」だ。
その頑丈な障壁の向こう側で、バイトドライバーが静かに横たわっている。
誰も触れていないはずのそのベルトは、ケースの中でも呼吸するように微かに紫色の光を明滅させ、不気味な存在感を放ち続けていた。
ケースの前に立ち、げっそりと痩せた手で自分の肘を抱えながら、訔は弱々しい声を漏らす。
「そこまでしなくても……」
「する」
響は振り向きもせず、即答した。
その声には一切の迷いも容赦もなく、彼女の指先はキーボードの上を激しい打鍵音とともに叩き続けられている。普段の明るさは完全に消え失せ、疲労の滲む目元には激しい焦燥と硬い決意が宿っていた。
「甘いこと言わないで、訔。昨夜のあなたのバイタルと、ドライバーから計測されたフォント波形……あれが何を意味してるか分かって言ってるの!?」
響が操作するメインモニターに、幾重もの赤い警告インジケーターとともに異質な数値列が浮かび上がった。
=====
INTERNAL FONT CAPACITY:8.7%
CONSUMPTION IMPULSE:23.4%
USER FEEDBACK:DETECTED
=====
腕を組み、モニターの端に腰をかけていた陸が、浮き出た英数字を睨みつけながら顔をしかめた。
「日本語で頼む」
「ドライバーが空腹を感じている」
静かな、しかし氷のように冷ややかな声が室内に響く。白衣のポケットに手を突っ込んだまま、律が画面から目を離さずに言った。
陸が目を丸くして律を見る。
「ベルトが?」
「正確には、内部に存在する【喰】の機能が外部フォントを要求している」
律の言葉を引き継ぐように、響がモニターのグラフを指差し、唇を噛み締めながら付け加えた。
「しかも、その欲求が訔の神経系へ逆流してる。ドライバーと装着者の生体リンクが深まりすぎたせいで、ベルトの『飢え』が直接、訔の脳に『猛烈な空腹』として伝達されてるのよ」
「……だから俺まで腹が減ってたのか」
訔は自分の胸元へゆっくりと手をやった。
昨夜、冷えたパック飯やパンをどれだけ胃袋に流し込んでも消えなかった、あの狂おしいほどの虚無感。胃の不快感ではなく、胸骨の裏側――ドライバーと融合する「接合部」から湧き上がっていたおぞましい乾き。その正体が、今ハッキリと突きつけられた。
「……腹じゃなく、ドライバーが腹を空かせてた」
その重苦しい沈黙を破るように、部屋の奥から静かな足取りで歩み出てきたのは言導宗一だった。その手には、古代音響文字文明の遺跡から発掘された拓本のコピーが握られている。
「古代文献にも似た記述がある」
宗一が提示した古びた用紙には、不気味に蠢くような古代文字の拓本と、その解読文が記されていた。
『顎は喰らうほど育つ』
『喰らわぬ顎は、器を喰らう』
「……器?」
訔がぽつりと呟く。
その瞬間、室内にいた全員の視線が、吸い寄せられるようにして訔一人へと集中した。
響の痛ましげな目、陸の息を呑む顔、宗一の静かな憂い、そして律の観察するような冷徹な眼差し。
律が静かに口を開く。
「使用者だ」
重い沈黙が研究室を完全に覆い尽くした。
誰も言葉を発することができない。その一言が意味する残酷な現実が、冷たく、重く全員の胸に伸しかかる。
ジャークを喰わせなければ、バイトドライバーの飢えは収まらない。しかし、喰らわせなければドライバーは生存と補給のために、最も身近にあるエネルギー源、すなわち装着者である訔自身の生命力や精神、魂そのものを喰らい始める。
陸が苛立ちを隠せない様子で頭を抱え、大声を上げた。
「じゃあ喰わせるしかないってことかよ! ジャークが出てきたら片っ端から殴り倒して、ベルトに喰わせれば訔は助かるんだろ!?」
「それを続けたら、今度は【喰】そのものが成長する」
響が激しい声で叫び返した。画面を叩く手が微かに震えている。
「喰わせれば喰わせるほど、ドライバーの中の【喰】の概念は巨大化していくの。最初は小さな飢えだったものが、次はもっと大きなフォントを、もっと膨大な悪意を求めるようになる。終わりがないのよ」
訔は自分の両手を見つめた。衰弱し、微かに震える指先。
「使っても駄目……」
うつむき、絞り出すように呟く。
「使わなくても駄目……」
戦えば戦うほど己の中の化物が育ち、戦いをやめれば化物は己を喰らい尽くす。どちらを選んでも行き着く先は破滅。詰み切った盤面が、そこにあった。
「だから封印する」
律が訔を真っ直ぐに見据え、言い放った。
「今日からバイトドライバーの使用を禁止する」
「正木…」
訔が顔を上げる。
「今回は私も同意」
響の強い言葉が追撃のように飛んだ。
訔は弾かれたように響を見る。
「音羽」
「次に変身して、何を喰うか分からない」
響は目を背けず、訔の視線を正面から受け止めた。その瞳には涙が浮かんでいたが、声は決してブレなかった。
「ジャークだけならまだいい。……でも前回は宿主の感情まで喰いかけたのよ!? もし次、あなたが理性を失って変身したら……敵だけじゃなく、周りの人間や、あなた自身の大切な記憶や心まで全部喰い散らかすかもしれないの!」
「それは……」
「あなたを怪物にしたくないのよ!」
響の悲痛な叫びが、防音ケースのガラスに反射してむなしく響く。
訔は言葉を失った。
口を半ば開いたまま、何も言えない。前回の戦い――【欲】の怪異との死闘で、一歩間違えれば倉橋満という人間の「欲しい」という心そのものを完全に抹消しそうになった恐怖。あの感覚は、今も訔の手のひらに不気味な感触として残っていた。
自分の中に潜む顎は、もう制御できる範囲を超えつつある。
陸が静かに訔の肩に手を置いた。力強い、しかしどこか切ない体温が伝わってくる。
「……少し休め、訔。お前は今まで十分戦ってきた。ベルトのことなら、俺たちが……正木やセンセー、教授がなんとか解析して解決策を見つける。だから、今は休んでくれ」
訔は肩に置かれた陸の手を見つめ、それからケースの中の黒い顎を見つめた。
ケースの透明な表面に、やつれ果てた己の顔が惨めに映り込んでいる。
訔はゆっくりと息を吐き、静かに目を閉じた。
「……分かった」
力なく絞り出されたその答えに、誰も手放しで安堵することはできなかった。ケースの中のバイトドライバーだけが、閉じ込められた闇の中で、あざ笑うかのように鈍い紫のフォント光をカチ……カチ……と明滅させていた。
*
古代の原典文字が血のように赤く、あるいは泥のように黒く壁面を這い回る、ジャークの潜伏拠点。
空間の歪みに身を預け、妖艶な笑みを浮かべて爪を弄っていたファルスが、くすくすと鈴を転がすような声で囁いた。
腕を組み、冷ややかな眼差しで見下ろしていたバインドが、低く鼻を鳴らす。
「使用しなければ【喰】は成長しない。人間の浅知恵としては妥当な判断。……奴らは自ら唯一の武器を封印し、自滅の道を選んだというわけだ」
バインドの声には、人間の愚かさを蔑む冷血な嘲笑が混ざっていた。
だが――
空間の最奥、黒紫の情念が渦巻く玉座に腰掛けた巨大な影――ライオットが、地鳴りのような重低音で哂った。
「それでいい」
「……何?」
バインドが不審そうに振り返る。
「解せないな、ライオット。あのドライバーが稼働し暴走することこそが、我らの宿願『原典の完全解禁』への最短ルートのはず。奴らが変身を拒絶すれば、【喰】の文字は成長の機会を失う」
「逆だ」
ライオットの凶悪な瞳が、暗闇の中で赤黒くギラリと光った。
ライオットは巨大な爪を伸ばし、己の胸の深淵から一つの怪しい結晶を引き抜いた。
黒と紫の悪意が渦巻き、まるで意思を持つ心臓のようにドクン、ドクンと脈打つライドワード。
そこに刻まれているのは、凶悪な一文字。
【飢】
「飢えとは――」
ライオットはその巨躯を揺らし、手に持った【飢】の結晶へ向けて、全身の悪意を注ぎ込むように強く握りしめた。
ミシ……ミシシ……ッ!
結晶が過絶な力に悲鳴を上げ、亀裂からまばゆい暗黒のフォント光を撒き散らす。
「食えない時間が長いほど強くなる」
バキィィィン!!
ライオットの手の中で、【飢】の結晶が激しく砕け散った。
砕けた黒紫のフォント粒子は消滅することなく、渦を巻きながら異空間の天井へと打ち上げられ、人間界の空へと解き放たれていく。
「欲望を殺し、意思を縛り、顎を閉じよ……! 喰えぬ苦痛が深まれば深まるほど、内なる顎は狂い立ち、自らの肉すら噛み砕く獣となる!」
ライオットの狂気じんだ笑い声が、異空間全体を震わせた。
「待っているぞ、音無訔……。お前が自らの手でその牙を解き放ち、世界全てを喰らい尽くす、その『最悪の瞬間』をな……!」
*
昼下がりの都心の片隅。繁華街の煌びやかな喧騒から少し離れた高架下の一角には、どこか澱んだ、しかし切実な沈黙が流れていた。
そこはボランティア団体による炊き出しの会場だった。
並び立つパイプ椅子の脇には、年季の入った寸胴鍋が置かれ、そこから温かい汁物の湯気が立ち上っている。長蛇の列を作っているのは、様々な事情で街の底へと弾き飛ばされた人々だ。
その列の中に、一人の男が静かに並んでいた。
使い古された薄汚れたウィンドブレーカーの襟を立て、伸び切った白髪混じりの髭を気にすることもなく、ただ静かに順番を待っていた。かつては都内で小さな洋食店を数店舗経営していた男だ。丁寧な仕込みと誠実な接客で一時期は店を賑わせたものの、数年前のパンデミックと相次ぐ原材料の高騰、そして不運な詐欺被害が重なり、店は完全に倒産した。
破産手続き、離婚、家屋の差し押さえ。落ちていくスピードはあまりにも速く、気がつけば手元には何も残っていなかった。
「はい、どうぞ。熱いから気を付けてね」
ボランティアの女性から渡されたのは、熱い豚汁と小ぶりの使い捨て容器に盛られた白飯だった。
「……ありがとうございます」
真壁は頭を深く下げ、両手で大事そうにそのプラスチックの容器を受け取った。
高架下のコンクリートの縁石に一人腰を下ろし、冷えた指先で割り箸を割る。
湯気とともに立ち上る出汁の香りが、空っぽの胃袋を静かに刺激した。一口、汁を口に含む。豚肉の脂の旨味と味噌の塩分が、冷え切った全身の細胞に染み渡っていくようだった。
「うまいな……」
真壁はぽつりと呟いた。
彼はやり直そうとしていた。路上で倒れていたところを保護され、生活保護の申請を行い、来月からは小さな物流倉庫での日雇い作業が決まっている。
贅沢はいらない。かつてのような自分の城(店を持とうなどという大きな夢すら、もう望まない。ただ、温かい食事を食べ、雨風をしのげる小さなアパートで眠り、人間らしく日銭を稼いで静かに生きていく。
ほんのわずかな「満たされ」があれば、それでよかったはずだった。
だが――
「おい、これだけかよ……? もっとくれよ!」
少し離れた配給テーブルの方から、荒々しい男の怒声が響いた。
「もっと肉を入れてくれ! こんな量じゃ腹が膨れねえんだよ!」
「すみません、全員の分がありますから……」
頭を下げて宥めようとするボランティアスタッフ。しかし、列を作っていた他のホームレスたちの間にも、不穏なざわめきと殺伐とした空気が感染症のように広がっていく。
「おい、あっちの奴の方が飯の量が多くないか?」
「仕事がねえんだよ。どうして俺ばかりこんな目に遭うんだ……」
「金が欲しい……」
「もっと美味いものが食いたい……」
「家が欲しい……」
「誰でもいいから、俺を助けてくれ……! 幸せになりたいんだよ……!」
ドクン……!
真壁の耳に、周囲の人々が漏らす「足りない」という欲望と嫉渇の声が、泥のように不気味な質量を持って流れ込んできた。
「な……んだ……?」
真壁は箸を止め、周囲を見回した。
人々から立ち上っているのは、目に見えない黒紫色の「気」のようなものだ。人々の胸の奥から溢れ出る「飢え」と「不満」の感情が、空間を歪めながら細い糸のように紡がれていく。
その全てが吸い寄せられるように集まっていく先――それは、真壁修二自身の胸元だった。
空から撒き散らされた、ライオット・ジャークの残忍な悪意。原典の結晶【飢】が砕け散ったことで生じたフォントの微粒子が、街全体に渦巻く人々の「満たされなさ」を媒介として、最も深く挫折し、最も強く「かつての日常」を飢え望んでいた真壁の存在を触媒に選んだのだ。
「ぐっ……!? あ、熱い……胸が……っ!?」
真壁は手にしていた豚汁の容器を落とした。
温かい汁がコンクリートの地面へこぼれ落ち、白飯が泥に塗れていく。
「俺だって……」
胸を掻きむしる真壁の目の前に、黒紫色に輝く巨大な文字が浮かび上がった。
《飢えろ》
「俺だって……もう一度……! 普通に……普通に生き直したかっただけなんだぁぁぁぁッ!!」
真壁の血吐くような叫びを塗りつぶすように、過絶なフォントエネルギーが吹き荒れた。
バキバキバキバキッ!!
「ギャァァァァァッ!?」
配給会場にいた人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。
真壁の肉体はおぞましい勢いで歪み、膨張していった。皮膚を破って生えてくるのは、無数の尖った「肋骨」と、乾き切った「舌」を模した生体装甲。頭部は大きく裂けた巨大な「口」の形状へと変貌し、その中心で過剰なフォント文字が赤黒く明滅する。
ハングリー・ジャーク。完全なる誕生であった。
「足りない……足りない……! 全然足りねぇええええッ!!」
ハングリー・ジャークが裂けた大口を開けて咆哮すると、その口内から黒紫色の不可視の波動が放射された。
波を浴びたボランティアの女性が、突然その場に膝を突く。
「あ……あれ……? 私……何のために……こんなこと……」
彼女の顔から、今まで満ちていた「他者を助けるやりがい」や「穏やかな充実感」が急激に消え失せていく。
「何もかも……虚しい……。もっと……もっと何かで満たされないと……!」
ハングリー・ジャークの能力――それは単なる食料や物資を喰らうことではない。
人間が持つ「満たされている要素」の全てを喰らい尽くす悪意。
肉体の体力、満腹感、安らかな睡眠、満たされた幸福感、さらには人間関係や奉仕によって得られる安心感まで――あらゆる「充足」を概念ごと咀嚼し、相手を底なしの絶望と飢餓へ叩き落とすのだ。
「ヒハハハハ! 喰える! 喰っても喰っても満たされねぇ! お前たちの“幸せ”を全部俺に寄こせぇぇぇッ!」
高架下は一瞬にして、己の足りなさに狂乱する人々の叫び声で地獄絵図へと変わっていった。
*
帝都大学・考古学研究室。
=====
WARNING:HIGH-DENSITY JARK FONT EMERGENCE
LOCATION:DISTRICT 3 - UNDERPASS PARK
=====
甲高い警告音が静まり返っていた研究室に鳴り響いた。
メインモニターには、高架下のカメラ映像が惨状とともに映し出される。拡大された解析ウィンドウには、過剰な赤色で一文字のライドワードが提示されていた。
【飢】
「ジャークが出た……!」
ソファーに身を沈めていた訔が、弾かれたように立ち上がった。
やつれ果てた顔、青白い皮膚。だが、その瞳には明確な戦意の光が宿っている。訔は迷わず、デスクの上のケースへと手を伸ばそうとした。
「駄目!」
響が身を乗り出し、遮るように叫んだ。
「ダメよ、訔! さっき約束したでしょう!? 今のあなたがバイトドライバーを使ったら、中の【喰】と共振して、二度と人間に戻れなくなるかもしれないのよ!?」
「だが、ライドワードを浄化できるのは俺しかいない!」
「駄目なものは駄目! あなたの命だってかかってるの!」
譲らない響と、前へ出ようとする訔。室内の空気が緊張で破裂しそうになった、その時――
カチャリ。
無機質で静かな金属音が、二人の押し問答を切り裂いた。
律が、自身の腰に洗練された白銀の変身ベルト――『シンタックスドライバー』を静かに装着していた。
「正木……?」
訔が動きを止める。
律は胸のポケットから、【正】のライドワードを取り出すと、淡々とした手つきでドライバーのスロットへ装填した。
「俺が行く」
「一人で?」
訔が目を見開く。
律は冷たい瞳を微かに動かし、訔の姿を正面から捉えた。
「一人で十分だ」
「……」
これまでであれば、律は「足手まといだから来るな」「役立たずの君が現場に来ても計算が狂うだけだ」と、冷酷な正論で訔を切り捨てていたはずだった。
だが、今の律の瞳に浮かんでいたのは、蔑みでも軽蔑でもなかった。
律はほんのわずかだけ視線を落とし、静かな、しかし確固たる絆を感じさせるトーンで言った。
「……今回は任せろ」
言葉の裏にある意味を、訔は瞬時に理解した。
今回の出撃は、単なる効率的な任務遂行ではない。
目の前の傷つき、己の暴走に苦しむ相棒――音無訔という男を戦場から遠ざけ、その命と存在を守るための、正木律なりの不器用な「盾」なのだ。
「正木……」
律はそれ以上何も言わず、白衣の裾を翻して研究室の扉を開けた。
「音羽、現地までの最短ルートを転送しろ。3分以内に処理する」
「……了解! 気をつけて、正木!」
律の背中が研究室から消えていく。訔は握りしめた拳を胸元で強く噛み締め、モニターに映る白銀の騎士の出撃をじっと見つめることしかできなかった。
*
高架下の悲劇は加速度的に広がっていた。
「ヒハハハハ! 逃げられると思うなよ! お前たちの『安心』を喰わせろぉぉぉッ!」
ハングリー・ジャークが腕から伸ばした黒紫の触手が、逃げ惑う親子へ向かって放たれる。母親が我が子を抱きかかえて目を背けた、その刹那――
シュバァァァン!!
空間を切り裂く白銀の閃光が奔り、黒紫の触手が寸分の狂いもなく切断された。
「ギャアアアッ!?」
「……そこまでだ、悪意の過剰体」
静かな歩調とともに煙の中から姿を現したのは、白銀とアイアンブルーの幾何学装甲を纏った騎士――仮面ライダーシグナルであった。
その手には、シンタックス・サーベルが美しい軌跡を描いて構えられている。
「邪魔をするな! 俺は満たされたいんだ! もっと、もっと喰わせろぉぉッ!」
ハングリー・ジャークが激昂し、地面を蹴って突進してくる。
その無軌道な暴走に対し、シグナルは微動だにしない。複眼の構造解析システムがミリ秒単位で敵の運動ベクトルを割り出し、最善の最適解を弾き出していく。
「行動パターンが単純すぎる。構造の解体を開始する」
シグナルが一歩踏み出すと同時に、シンタックス・サーベルが精密機械のような美しさで一閃した。ハングリー・ジャークの巨躯に走る過酷な斬撃の痕。
「ガハッ!?」
「無駄だ。君の攻撃軌道には、余計な摩擦と無駄な感情のブレが含まれている。私のシステムを破ることはできない」
序盤の戦況は、完全にシグナルの圧倒的優勢であった。
シグナルは敵の突進を最小限の体さばきで回避し、ハングリー・ジャークの肉体を構成する「文字構造の接合部」だけを正確に削ぎ落としていく。一切の無駄を削ぎ落とした完璧な戦闘構築。
研究室のモニターで見守る陸が、思わず歓声を上げた。
「すげえ……! さすが正木だ! あのジャークを寄せ付けてねえぞ!」
「ええ……これなら、訔が出なくても……!」
響も胸を撫でおろし、安堵の息を漏らそうとした。
しかし――
「足りない……」
絶え間ない斬撃を受け、全身からフォントエネルギーを散らすハングリー・ジャークが、底なしの不気味な声で低く呟いた。
「足りない……足りない……! その綺麗な力……もっと俺に喰わせろぉぉぉぉッ!!」
「なに……!?」
ハングリー・ジャークは斬撃のダメージを完全に無視し、自らの肉体を深く切り込ませながら、無理やりシグナルの右腕へと喰らいついた。
ガチィィィッ!!
巨大な肋骨の檻と、生体装甲の顎がシグナルの右腕を硬く固定する。
「離せ!」
シグナルがサーベルの柄で怪人の頭部を叩き割ろうとした、その瞬間。
《
無機質なシステム音声が、シグナルのドライバーから警告として打ち鳴らされた。
「……っ!? これは……出力を奪われている……!?」
シグナル視界のヘッドアップディスプレイに、恐ろしい速度で減少していくエネルギーインジケーターが表示された。
=====
SYSTEM ENERGY:71%
=====
「ヒハハハハ! 美味い! 美味いぞ! 満たされた完璧な構造エネルギーだ!!」
ハングリー・ジャークの胸の【飢】の文字が、赤黒く不気味に発光する。
怪人の能力は、単なる物理的・概念的な人間の感情だけにとどまらなかった。仮面ライダーという「過剰に洗練され、満たされたフォントエネルギーの体系」そのものを、ダイレクトに喰らい尽くすことができるのだ。
=====
SYSTEM ENERGY:52%
=====
=====
SYSTEM ENERGY:31%
=====
数値が跳ね上がるように減少し、白銀の装甲表面を走るブルーのラインが明滅を開始する。膝に力が入らなくなり、シグナルはカクリと片膝を地面突いた。
「くっ……エネルギーの……直接吸収か……!」
「ハハハ! 終わりだ!お前の全てを喰って、俺の胃袋を破裂させてみろぉぉッ!」
ハングリー・ジャークが無数の触手を展開し、動けないシグナルの全身をぐるぐる巻きにして締め上げていく。装甲が悲鳴を上げ、金属の軋み音が静かな高架下に悲痛に響き渡った。
*
「正木――っ!?」
帝都大学の研究室で、モニターにへばりついていた陸が悲鳴を上げた。
「マズいぞ! 正木のエネルギーが削られまくってる! このままだと装甲が解除されて、生身ごと喰われちまう!」
「そんな……! シンタックスドライバーの出力が破綻するなんて……!」
響の指がキーボードの上で狂ったように動くが、遠隔操作でエネルギーを補充するシステムなど存在しない。
その時――
重い足音が響いた。
訔が耐フォント隔離ケースの前へと歩み寄っていた。
「訔!?」
響が叫ぶ。
「俺が行く」
「駄目!!」
響が全速力で走り込み、ケースの前に立ちはだかった。両手を広げ、訔を死に物狂いの形相で遮る。
「駄目よ、訔! 正木が……正木があなたを守るために一人で行ったのよ!? なのに今あなたが変身したら、正木の思いはどうなるの!? あなた自身が壊れてしまうのよ!?」
「それでも」
訔の声が、研究室の空気を激しく振るわせた。
響の瞳から涙がこぼれ落ちる。
「お願いだから……自分を大事にして……! あなたが怪物になったら、私たちはどうすればいいの……!?」
訔は響の悲痛な瞳をまっすぐに見つめ返した。その瞳には、自分の命に対する執着や恐怖を超越した、愚直なまでの「言葉」が宿っていた。
「じゃあ……あいつが死ぬのを、ここで黙って見てればいいのか?」
「……っ!?」
響が息を呑み、言葉を失う。
「正木は……俺を守るために戦ってくれてる。陸も、音羽も、教授も……みんな俺を心配してくれてる。 それなのに……『自分が壊れるのが怖いから』って理由で仲間を見捨てるなら……」
訔は震える拳を強く握りしめた。
「そんな俺なら……最初から怪物と同じだ!」
訔は響の脇を静かに通り抜け、ケースのプロテクトロックを解除した。
シュゥゥゥ……
重厚なケースの蓋が開き、中の冷気が室内に広がる。
そこに横たわる、バイトドライバー。
訔がその重厚な金属体へと手を伸び伸ばした、その一瞬。
ピタリと、訔の動きが止まった。
ケースの底から、訔の脳裏に直接響く駆動音。
カチッ……
誰も触れていないはずの顎が、微かに、暗く開く。
そして、他の誰の耳にも聞こえない、訔の魂に直接突き刺さるおぞましい低音が響いた。
『……喰わせろ』
全身の毛穴が逆立ち、背筋を氷の刃で撫でられたような寒気が走る。
手先が、腕が、全身が恐怖で激しく震えた。
このベルトを掴めば、自分の中の【喰】の化物が完全に覚醒するかもしれない。相手の悪意だけでなく、自分の心も、正木の命も、世界全てを咀嚼してしまうかもしれないという、底なしの恐怖。
「……くっ……っ……!」
訔は歯を食いしばり、恐怖に打ち震える己の右手を見つめた。
そして、その震えを力任せにねじ伏せるように、バイトドライバーの冷たい重みを力強く掴み取った。
「お前が……俺を使うんじゃない……!」
訔は暗い金属の顎を直視し、腹の底からの声を叩きつけた。
「俺が……お前を使うんだ!!」
*
「ガハッ……!?」
シグナルの装甲が、まるでガラス細工のように凄絶な音を立てて砕け散った。
「システム……限界……出力、低下……ッ」
《
不機嫌な無機質の電子音が虚しく鳴り響き、シグナルの全身を覆っていたアイアンブルーの幾何学装甲線がプツリと光を失う。解体されるフォントの光粒子とともに、律の身体が高架下の濡れたコンクリートの地面へと激しく打ちつけられた。
「ハァッ……ハァッ……くっ……!」
律は地面に突伏し、血の味のする唾を吐き捨てた。
シンタックスドライバーはスロットから『正』のライドワードを吐き出し、煙を上げて沈黙している。全身の骨が軋み、指先一本動かすことすら狂おしいほどの痛みが走る。ハングリー・ジャークに「満たされた構造エネルギー」を限界まで喰らい尽くされた代償は、あまりにも大きかった。
「ヒヒ……ヒハハハハハ! 美味い! 素晴らしい味だ……!」
ハングリー・ジャークが膨張した巨躯を揺らし、歪んだ肋骨の顎を歪めて舌なめずりをした。
「人間界の騎士様も、噛み砕いてしまえばただの極上のご馳走だな……! だが、まだだ。まだ足りない……全然足りねぇぞぉぉッ!!」
怪人は濁った赤黒い瞳を激しく発光させ、無防備に倒れ伏す律へと一歩、また一歩と重い足音を立てて近づいていく。
「もっと……もっと寄こせ……! お前の魂ごと、俺の腹の中に収めてやる……!」
ハングリー・ジャークが、凶悪な生体爪を伸ばした腕をゆっくりと振り上げた。
倒れたまま、律は冷ややかな瞳でその爪を見上げた。逃げる体力すら残されていない。死の足音が耳元で聞こえる。だが、律の脳裏に浮かんだのは恐怖ではなく、己の無力さに対する苛立ちだった。
(……ここまで、か……。計算が……狂ったな……)
律が静かに目を閉じかけた、その刹那――
ドドォンッッ!!
空気を破裂させるような激しい重低音とともに、ハングリー・ジャークの巨躯が横合いから猛烈な勢いで吹き飛ばされた。
「ガァッ!?」
巨体がコンクリートの柱を粉砕し、激しい落石と土煙が舞い上がる。
煙の向こう側から、荒い息を吐きながら駆け込んできたのは、息を弾ませた一人の青年――訔だった。
「ハァッ……ハァッ……! 正木!!」
訔は倒れている律の元へ遮ふり、その肩を力強く抱き起こした。
律は苦々しく顔を歪め、目を開けた。
「……音無」
血に濡れた唇を動かし、律は呆れと苛立ちの混ざった声で呟く。
「……馬鹿か、君は。あれほど……出るなと……」
「知ってる」
訔は即答した。気休めの言葉も、言い訳も口にしない。ただ、まっすぐに律の瞳を見つめ返し、固い決意を込めて言葉を重ねた。
「知ってるよ。でも、お前を死なせるより100倍マシだ」
「……っ」
訔は律を安全な柱の陰へと静かに預けると、立ち上がりながら己の胸元へと手をやった。
そこには、冷たい金属の顎――バイトドライバーが、恐ろしいほどの圧迫感を放ちながら装着されていた。
訔はポケットから、不気味な紫色のフォントを宿したライドワード【咬】を取り出し、強く握りしめた。
それを見た律の目が、戦慄に見開かれる。
「待て……! やめろ、音無! そのドライバーは……!」
制止しようと手を伸ばす律。しかし、訔の手が【咬】を握りしめた、まさにその瞬間だった。
ドクン――!
世界が静止したかのような、重苦しい脈動が訔の心臓を直接打ち振るった。
視界が真っ赤に染まる。脳髄の深淵から、湿り気と禍々しい悪意を孕んだあの低音が、鼓膜ではなく魂そのものを震わせて響き渡った。
『……喰え』
「……ッ!」
訔の身体が硬直する。胸の接合部が、灼熱の鉄柱を突き立てられたかのように熱く激しく熱を帯びる。
『……喰え。目の前の全てを……喰らい尽くせ……!』
内なる顎が、狂おしいほどの飢えを叫び立てていた。
だが、訔は歯を食いしばり、白目を剥きそうになる意識を力ずくで繋ぎ止めた。震える指先に全身の全霊を込め、ライドワード【咬】をバイトドライバーの暗いスロットへと叩き込む。
「変身ッ!!」
《咬……喰r……む》
《
システム音声が響き渡る。
しかし――いつもと違っていた。
装填された瞬間のフォント光が、異様な紫黒のエラー粒子を撒き散らす。ドライバーのクリアパネルに一瞬だけ浮かび上がったのは、本来表示されるはずのない禍々しい解読コードだった。
《
「な……なに……!?」
研究室のメインモニターにしがみついていた響が、通信マイクに向かって悲痛な叫びを上げた。
『訔!? 応答して、訔! ドライバーのフォント波形が異常よ! それ以上プロセスを進めちゃ駄目!!』
激しい雑音の向こうから、訔の荒い息遣いと、必死に踏みとどまる声が返ってきた。
「大丈夫だ……! 俺は……負けない……!」
訔は両手でバイトドライバーのレバーを掴み、力任せに押し開いた。
《
黒紫の過剰なフォントエネルギーが爆発的に噴出し、高架下全体を激しい衝撃波が駆け抜けた。
漆黒の生体甲冑、胸元で深く閉じられた凶悪な金属の顎、そして赤く妖しく光る複眼。
仮面ライダーバイト――その禍々しくも雄々しい姿が、漆黒の煙の中から立ち現れた。
だが――変身が完了したその直後。
「……う、あ……っ!?」
バイトの装甲の内で、訔は己の頭を両手で激しく抱え込んだ。
視界の映像が、狂ったように歪んでいた。
世界が……違うものに見える。
前方の土煙を払って立ち上がるハングリー・ジャーク。その姿は、もはや恐怖すべき怪異には見えなかった。怪人の全身を構成する黒紫の【飢】のフォント波形が、バイトの視界の中では「極上に熟した、溢れんばかりの膨大な肉塊」――巨大な食料のフォントエネルギーとして解釈されていた。
それだけではない。
視界の端に映る、柱の陰で倒れている律。
逃げ惑い、物陰で震えている一般の人々。
通信越しに聞こえる響の焦乱した声。
果ては、街中に溢れる看板の文字や標識、人々の話し声に至るまで――
その世界のあらゆる「意味」と「言葉」が、バイトドライバーのシステムによって等しく一つの概念へ変換され、赤黒い文字となって視界全体を埋め尽くしていった。
《
《
《
《
「やめろ……! やめてくれ……っ!」
訔はバイザーの裏で叫んだ。
世界全てが「自分を満足させるための餌」に見える。倒れている律すら、手を伸ばせば極上のエネルギーとして咀嚼できるのではないかという、恐ろしいほどの食欲が脳髄を灼いていく。
視界の完全な中心に、血のような一文字が巨大に定着した。
《喰らえ》
「うぁぁぁぁぁぁッ!!」
バイトが頭を押さえて絶叫し、その場に膝を折った。
その隙を見逃すハングリー・ジャークではなかった。
「ハハハ! どうしたどうした! 隙だらけだぞぁぁッ!」
ハングリー・ジャークが凶悪な爪を振りかざし、バイトの首元を目がけて躍りかかる。
「音無!!」
律が叫ぶ。
だが、訔の意識が狂乱の視界に奪われているにもかかわらず――バイトの「肉体」が、自らの生存と捕食本能のために勝手に反応した。
ガコンッッ!!
バイトの胸部装甲――閉じられていた黒い金属の顎が、人間の関節ではあり得ない角度でガバリと深く開いた。
「なに……!?」
ハングリー・ジャークの爪がバイトの首に届くより早く、胸部の顎が伸び、怪人の右腕へと獰猛に食らいついた。
バリバリバリバリッ!!
「ギャアアアアアアッ!?」
高架下に、怪人の悲痛な悲鳴が響き渡る。
胸の顎が【飢】のフォントエネルギーを直接噛みちぎり、激しい勢いでドライバー内部へと咀嚼・吸収していく。
バイトの漆黒の装甲表面に、脈動するような黒紫の刺青状の模様――【飢】の侵食パターンが、不気味に浮かび上がっていった。
《
ドクンッ!!
爆発的な出力上昇がバイトの全身を駆け巡る。
バイザーの複眼が輝きを増し、全身から溢れ出るフォント光が周囲のコンクリートの床を意味もなく融解させていく。
研究室のモニターを見ていた響が、青ざめた顔で叫んだ。
『き、吸収率が跳ね上がってる……!? ドライバーが怪人の【飢】の概念を取り込んで、一時的な過剰強化状態に入ったのよ!』
「止めろ……! 喰うな……ッ!」
訔は必死に胸の顎を閉じようと試みた。しかし、ドライバーから全身へと流れ込んでくる力は、あまりにも圧倒的で、そして恐ろしいほどに「不快で、心地よかった」。
全身の細胞が歓喜に震える。冷えて乾き切っていた胃袋が、一瞬にして濃厚なエネルギーで満たされていくような強烈な全能感。
ハングリー・ジャークが腕を押さえ、恐怖に引きつった顔で後退する。
「な……なんだ……こいつは……!? 俺の『飢え』を……喰っただと……!?」
バイトはゆっくりと立ち上がった。
黒紫の模様を全身に走らせたその姿は、もはや正義の戦士ではなく、怪異を喰らう怪異そのものだった。
「ハァ……ハァ……」
訔の荒い呼吸が、ヘルメットの中で響く。
手を見る。拳を握りしめる。指先ひとつに込められたフォントエネルギーの密度が、これまでのバイトとは比べ物にならないほど巨大化していた。
その力に、訔の心が歪んだ全能感に一瞬だけ魅了された。
(すごい……なんだ……この力は……)
視界を埋め尽くしていた狂乱のテキストが、出力を増したことで一瞬だけ静まった。
(これなら……)
訔は、恐怖に慄くハングリー・ジャークを冷たく見据えた。
(これなら、どんな強いジャークが来ても……正木を、みんなを守れる……)
頭の片隅で、内なる毒が甘く囁く。
『そうだ……もっと喰え……。目の前の怪異を丸ごと噛み砕き、その悪意を全てエネルギーに変えろ……。そうすれば、お前は誰も失わずに済む……』
「もっと……喰えば……」
訔の口から、無意識のうちに言葉が漏れ出た。
「もっと喰えば……全部、勝てる……!」
バイトが力強く一歩を踏み出し、ハングリー・ジャークを噛み砕くために手を伸ばそうとした、その時――
「音無!!」
静かな、しかし氷のように突き刺さる声が、訔の耳に届いた。
バイトがハッと息を飲み、振り向く。
そこには、コンクリートの柱に必死に身を預け、血を流しながらもまっすぐに訔を見つめる律の姿があった。
律は変身すら解除され、立ち上がることすら苦痛であるはずの体で、それでもしっかりと両足で地面を踏みしめていた。
律の冷たい瞳が、バイトの凶暴な複眼を射抜く。
「今……何と言った」
「……え……?」
「『もっと喰えば』……と言ったな」
律の声には、軽蔑ではなく、落胆と悲しみが混ざっていた。
「正木……俺は」
「思い出してみろ、音無」
律はハングリー・ジャークを指差すことなく、静かに言葉を紡いだ。
「お前が今口にしたその言葉……それは、目の前で浅ましく他者の幸福を貪っている、あの醜い怪異の言葉と……何が違う」
「……っ!?」
雷に打たれたかのように、訔の全身が硬直した。
脳裏に、ハングリー・ジャークの叫びが蘇る。
『もっと……!』
『足りない……!』
『もっと喰わせろ……!』
同じだ。
自分が今感じていた全能感。もっと力を、もっとフォントを喰らえば勝てるという思考。それは、己の欲望と飢えに狂わされ、世界を壊し尽くそうとしているハングリー・ジャークの精神構造と、完全に同一のものだった。
力を求めて化物を喰らい、その結果自分自身が「もっと喰いたい」と願う化物へと成り果てる。
「俺……俺は……」
バイトドライバーが、待ってましたと言わばかりにカチ……と駆動音を鳴らし、訔の脳へ甘い毒を注ぎ込む。
『もっと……』
「黙れ……!」
訔はバイザーの裏で顔を歪め、黒い金属の胸の顎を両手で力任せに掴んだ。
『……喰え……全てを喰らえ……』
「黙れッ!!」
『……力が必要なのだろう? 全部喰えば……お前は無敵になれる……!』
「黙れぇぇぇぇッ!!!!」
訔は魂の底からの叫びとともに、ドライバーの吸気バルブを力任せに閉鎖した。
ガコォォォンッ!!
胸の顎が強靭な意志によって力尽くで閉じられ、怪人から吸収されかけていた【飢】のフォントエネルギーがバツンと断ち切られた。
全身を走っていた黒紫の模様が急激に薄れ、ドライバーからの出力上昇が停止する。
「ぐっ……があぁぁぁッ!?」
強制停止の反動で、訔の体内に激しい生体ショックが駆け巡った。バイトの膝が地面につき、荒い呼吸が漏れる。
ハングリー・ジャークが、信じられないものを見る目でバイトを見下ろした。
「どうして止める……!? どうして喰うのをやめるんだぁぁッ!?」
怪人が理解不能の狂乱とともに大声を張り上げる。
「欲しいだろ!? 力が! 満たされる感覚が! 誰よりも強く、誰よりも満たされた存在になりたいはずだ! なのにどうしてその手を止めるんだぁぁッ!?」
「……欲しいさ」
泥に塗れながら、バイト――音無訔はゆっくりと顔を上げた。
紫色の複眼の奥で、青い人間としての強い瞳が、まっすぐに怪人を捉えていた。
「勝てる力が欲しい……! 誰も傷つかないで済むような、圧倒的な力が欲しい……!」
訔はゆっくりと立ち上がった。全身を激痛が苛む。ドライバーが「喰わせろ」と絶叫し、胃袋が焼けるように疼く。
「誰かを助けられる力が……もっと欲しい!!」
訔は両拳を固く握りしめた。
「だが……!」
バイトが一歩、確固たる意志とともに踏み出す。
「欲しいからって……!」
力に狂い、他人の満たされた日常を食い荒らす怪人に向け、訔は己の誇りを込めて叫んだ。
「何を喰ってもいいわけじゃないんだァァァァッ!!」