雨上がりのアスファルトに刻み込まれたひび割れから、湿った冷気が立ち上っていた。高架下の薄暗がりの中、仮面ライダーバイトの重厚な生体甲冑は、まるで己の殻を内側から破らんとする獣のように不気味な軋み音を立てている。
「腹が減るのは……そこに、どうしても諦めきれない『欲しいもの』があるからだ」
バイザーの奥、血走った瞳で訔は叫んだ。
胸のバイトドライバーは、今なお凶悪な「顎」をわずかに蠢かせ、世界全ての意味を噛み砕いて喰らい尽くそうと飢渇の波動を撒き散らしている。だが、訔は己の胸骨を突き破るほどの生体接続の激痛に耐え、握りしめた右拳をハングリー・ジャークへと向けた。
その手の中に握られていたのは、マゼンタの背景に眩い金色の文字が揺らめくライドワード――【欲】
かつて「他者の執着を暴き、底なしの渇望を撒き散らす金色の執着」として、一人の男の心を破滅寸前まで追い詰めた禁忌の一文字。
「喰って腹を満たしたところで、何も残りやしない! 誰かから取り奪ったものじゃ、心の底の空腹は一生消えないんだ!」
訔は【欲】のライドワードをさらに強く握りしめた。
「だったら――奪うんじゃなくて、自分の手で掴めばいい!!」
バイトの手の中で、【欲】のライドワードが爆発的な輝きを放った。
これまでジャークの悪意として振るわれていた【欲】の力。しかし、訔が己の意思で「喰らう」ことを拒絶し、大切な存在を守るという純粋な渇望を込めた瞬間、その性質は過絶なフォントの再構築を起こし始めていた。
【欲】――それは単なる奪略の感情ではない。人が現状に満足せず、より高みを目指し、明日を生きようとするための原初的で最も純粋な「意志のベクトル」そのもの。
浄化された金色とマゼンタのフォントエネルギーが、柔らかな光の帯となって爆発的に広がり、眼前で狂乱するハングリー・ジャークの巨躯を優しく包み込んでいった。
「な……なんだ……!? この光は……俺の体を……浸食して……!?」
ハングリー・ジャークが凶悪な爪を振り回すが、マゼンタの光帯は攻撃をすり抜け、怪人の深層心理――その核に囚われている人間、真壁修二の精神の奥底へと直接届いていく。
真壁の脳裏に、怒涛のように溢れ出してきたのは――暗く貧しい路上の景色ではなかった。
――カン、カン、カン
心地よいリズムを刻む包丁の音。香ばしいニンニクとバターの香りが充満する、小さくも清潔な洋食店の厨房。
「はい、お待たせしました! 特製ハンバーグステーキです!」
汗を拭いながら、出来立ての料理を運ぶ若き日の真壁修二。
カウンターの向こうで、料理を一口口に含んだ客たちが、ぱっと顔をほころばせる。
「うまい! シェフ、今日のソースも最高だよ!」
「また来るよ、真壁さん!」
「ありがとうございます! またお待ちしてます!」
嬉しそうに、誇らしげに、心からの笑みを浮かべる真壁修二の姿。
誰かから奪うためではない。己の腕と、愛情と、丹精を込めた料理で他者を笑顔にし、その笑顔によって自分自身の心が温かく満たされていた、あの日々。
ハングリー・ジャークの巨躯の中で、真壁の魂が震えるように呟いた。
「俺が……本当に欲しかったのは……」
怪人の凶暴な動きが、ぴたりと止まった。
「俺が……本当に……欲しかったものは……っ!」
真壁の声が、怪人の歪んだ声帯と重なって高架下に響く。誰かを傷つけたいわけでも、無限の物質に溺れたいわけでもなかった。ただもう一度、自分の作ったもので人を喜ばせ、自分の居場所を己の手で作り上げたい――それこそが、彼の乾き切った心の底に眠っていた「本当の欲望」だったのだ。
その一瞬
バイトの右手に収まっていた【欲】の結晶が、これまでの戦いのどの瞬間よりも激しく、太陽のごとき黄金の光を打ち放った。
「な……っ!?」
訔は己の手元を見つめ、息を呑んだ。
光の粒子が手の中で渦を巻き、フォントの文字構造そのものが過熱し、融解していく。
研究室のメインモニターで波形を追っていた響が、通信マイクに叫び声を上げた。
『【欲】のフォントパターンが崩壊……ううん、急速に再構成されていく! こんな波形データ、見たことない!』
「違う」
柱の陰で血を吐きながら立ち上がった律が、シンタックスの解析視界を働かせ、複眼の奥のアイアンブルーの瞳を見開いた。
=====
WORD:GREED
INTENT TARGET:UNKNOWN
REWRITING SEMANTIC STRUCTURE...
=====
律の視界の中で、テキストデータが猛烈な速度で書き換わっていく。
「【欲】の文字が――自らの『意思』で、“本当に欲しいもの”を探している……!」
ドクン――!
光り輝く【欲】の文字が、まるで訔の意識そのものに問いかけるように、胸の鼓動と同期して脈打った。
『お前は何が欲しい?』
『お前の魂が、その命を賭してまで掴み取りたいものは何だ?』
訔の脳裏を、これまでの過酷な戦いの記憶が走馬灯のように駆け巡った。
古代文字の怪異に襲われ、声すら上げられずに絶望していった人々。
文字の侵食を受け、苦しみに顔を歪めていた響。
怪異の力に圧倒され、地面に叩きつけられていた陸。
圧倒的な邪悪――ライオット・ジャークの前に惨敗し、己の無力さを思い知らされたあの日。
サイレンスによって文字を奪われ、変身すら封じられて絶望の淵に沈んだ瞬間。
そして今――己の内部に潜む【喰】の狂気に支配されかけ、相棒である律にまで手を差し伸べられ、守られている己の情けなさ。
胸のバイトドライバーが、闇の深淵から不気味に囁く。
『……喰え……喰らえば全てが手に入る……力を寄こせと叫べ……』
「……違う」
訔は血の出るほど強く唇を噛み締め、呟いた。
『力が欲しいのだろう? 無敵の強さが……!』
「欲しい」
訔は即答した。一切の迷いも、躊躇もなく、己の魂の叫びとしてその言葉を放った。
『訔……!?』
通信越しに響の悲痛な声が飛ぶが、訔は前だけを見つめていた。
「欲しい……! もっと強くなりたい! 誰かを守れるくらい……! 大切な仲間を、目の前の人を、自分の手で救い出せるくらい強くなりたい!」
訔は両手で、胸の禍々しいバイトドライバーの金属フレームを力任せに掴み取った。
「こんな化物の『飢え』に頼らなくても――自分の意思で、自分の足で立ち上がって戦えるくらい、強くなりたいんだぁぁぁぁッ!!」
その叫びが空間を切り裂いた瞬間――
【欲】のライドワードが、限界を超えた爆発的な金色の光を放ち、高架下全体を眩い白光で満たした。
バキバキバキバキッ!!
結晶の表面に亀裂が走り、旧来の【欲】という文字の概念が粉々に砕け散る。そして、その破片が集束し、全く新しい、力強く研ぎ澄まされた一文字へと再構築されていった。
【強】
黄金と白銀のフォント光を纏い、そこには圧倒的な「強さ」を意味する文字が刻まれていた。
『文字が……変わった……!?』
響が言葉を失う。
「ライドワードそのものが……装着者の純粋な意志によって再定義されたというのか……!?」
律もまた、目の前で起きている奇跡に戦慄を禁じ得なかった。
だが、変化はそれだけでは終わらなかった。
新たに誕生した【強】の文字から、過剰なまでのフォントエネルギーが溢れ出し、実体を持った物質へと急速に結晶化を開始したのだ。
ガチャン! ガチャン! ガチャン!
幾重もの金属フレームと高密度の複合装甲が【強】の文字を覆い、強固な外殻を形成していく。
完成したのは――まるで言葉を大きく発するための拡声器と口を覆うマスクを思わせる重厚な新型デバイスだった。
重厚なマスクの中央には、黄金に輝く巨大な【強】の文字。無骨な金属製の補強フレームが走り、四隅には獣の牙を模した白銀のプロテクターが配置されている。
それは、言葉を強く発するためのアイテムであった。
『新しい……ライドワード……!?』
響が目を見開く。
「ライドワードの能力を極限まで増幅し、安定化させる外部拡張装置……」
律がその構造を瞬時に解読した。
訔はその重厚なデバイスを手に取った。ずっしりとした金属とフォントエネルギーの質量が、腕を通じて魂へと伝わってくる。その瞬間、デバイスの名称が訔の意識へとダイレクトに流れ込んできた。
「……ハードスピーカー」
訔は呟き、もう片方の手に基本ライドワードである【咬】を握りしめた。
ガシャン!
訔がハードスピーカーのカバーを展開すると、内部の精密なスロットが露出した。そこへ【咬】のライドワードを押し込むと、吸い込まれるように完全に合体・ロックされた。
【咬】の「咬み砕く力」と、【強】の「ブレない強い意志」。二つの意味が過絶な精度で接続される。
研究室の解析モニターに、光の速さで新たな解読コードが打ち上がった。
=====
WORD CONNECT: BYTE + HARD
SEMANTIC EXPANSION: HARD BYTE
SYSTEM OVERWRITE PREPARING...
=====
『訔! その状態なら……ドライバーの【喰】の暴走を抑え込める!』
「ああ……分かってる!」
訔はハードスピーカーで補強された【咬】のライドワードを、天高く掲げた。
ハングリー・ジャークが、真壁の意識と葛藤しながらも、激しい飢餓感に再び狂わされて吼えた。
「強さ……! 圧倒的な力……! それだ……それも俺に寄こせぇぇぇッ!」
巨体を揺らし、地鳴りを立てて突進してくるハングリー・ジャーク。
訔は迫り来る怪異を、逃げることも怯むこともなく、真正面から見据えた。
「これは――」
訔はハードスピーカーを、胸のバイトドライバーの巨大な顎へと力強く装填した。
「お前から奪った強さじゃない!!」
《強く》《咬む》
装填と同時に、バイトドライバーの暗い顎が限界まで大きく開いた。
《
地響きのような、これまでとは明らかに異なる重厚で澄んだ重低音が響き渡る。装填された【咬】と【強】の二つの文字が同時に爆発的な発光を始めた。
訔はフロントレバーへと両手を掛け、全身の想いを込めて一気に押し開いた。
「変身ッ!!」
巨大な金属の顎が、重厚な音を立てて固く閉ざされた。
《
《
訔の身体を中心に、凄まじい密度の紫・白・金色のフォントエネルギーが球体となって爆発した。高架下のコンクリートの壁面が一瞬で光の文字で埋め尽くされる。
爆風の中で、まず通常の仮面ライダーバイトの漆黒のアンダースーツが形成された。
そして次の瞬間――そのスーツの上から、分厚く重厚な追加アーマーが次々と噛み合わさっていく。
両肩には重厚な歯を模したショルダーアーマー。
胸部には、通常時のバイト以上に巨大化し、白銀の輝きを放つ顎型チェストアーマー。だが、そこには【喰】のような禍々しさは微塵もない。己の意志で固く食いしばり、決して折れない牙の造形。
前腕と脛には、敵の攻撃を一切寄せ付けない厚い外殻プレートが噛み合わさる。
最後に頭部。
バイザーの複眼が眩い光を放ち、額のプレートに一瞬だけ巨大な【強】の文字が浮かび上がると、それが金色の光の粒子となって刻まれ、ヘルメット全体へと融解・定着した。
複眼には【強】と【咬】が刻まれた。
爆風が収まり、土煙の中から歩み出てきたその姿。
仮面ライダーバイト・ハードバイト
【喰】の呪いを乗り越え、己の求める「強さ」を具現化させたバイトの強化形態が、今ここに誕生した。
「バイトが……変わった……!?」
研究室で画面を見つめていた陸が、身を乗り出して叫んだ。
『出力が……通常時の数倍以上に跳ね上がってる!?』
響が驚愕の声を上げるが、解析画面を凝視していた律が、静かに首を振った。
=====
CONSUMPTION IMPULSE:DOWN (0.1%)
OUTPUT:UP (450%)
USER CONTROL:STABLE (100%)
=====
「違う……【喰】によるエネルギーの強制吸収出力じゃない」
律は、圧倒的な存在感を放つハードバイトの姿を見つめ、確信を込めて言った。
「音無自身の『強くなりたい』という純粋な意志のエネルギーを、【強】のアイテムがダイレクトに物理的な出力へ変換しているんだ」
他者を喰らい、奪うことでしか強くなれない【喰】の悪意とは完全に対極に位置する、純粋な「意志の強大化」。それこそが、ハードバイトの真価だった。
「だったら……!」
ハングリー・ジャークが狂乱し、周囲の空間から泥のようなフォントエネルギーを無理やり引き寄せ、右腕を丸太のように肥大化させた。
「その強さもろとも、俺の胃袋に放り込んでやるぁぁぁッ!」
空気を押し潰すほどの重量級の拳が、ハードバイトの顔面を目がけて振り下ろされる。かつてのバイトであれば、回避するか、装甲を砕かれて吹き飛ばされていたであろう絶大な一撃。
だが――
「……断る」
ハードバイトは避ける素振りすら見せなかった。
重厚な拳が、ハードバイトの顔面直前でピタリと止まった。
ハードバイトが突き出した左手が、怪人の巨大な拳を正面からガッチリと受け止めていたのだ。衝撃波が高架下の地面を爆砕し、周囲のコンクリートに放射状の亀裂が走るが、ハードバイトの足元は一ミリたりとも動いていない。
「……え!?」
ハングリー・ジャークが引きつった声を漏らす。
「これは――」
ハードバイトは受け止めた怪人の拳に、じわじわと力を込め始めた。
ミシッ……ミシシシッ……!
「ガっ……!? 離せ……離せぇっ!」
「これは、俺が欲しがって――自分の手で掴み取った強さだ」
ハングリー・ジャークの肥大化した巨躯を、ハードバイトは片腕の力だけで豪快に持ち上げ、そのまま背後のコンクリート柱へと叩きつけた。
「ガハァッ!?」
激しい落石とともに、怪人が悲鳴を上げて転がり出る。
ここから始まったのは、一方的とも言える圧倒的な戦闘だった。
「喰ってやる……! 喰ってやるぞぉぉッ!」
ハングリー・ジャークが口から無数の黒紫のフォント触手を放ち、ハードバイトのエネルギーを吸収しようと群がりつく。しかし、触手がハードバイトの重厚なアーマーに触れた瞬間――
「強」の意志によって高密度化されたフォント障壁が触手を弾き返し、一瞬で消滅させた。エネルギーの吸収すら受け付けない、完全なる絶対防壁。
ハングリー・ジャークが必死に振り下ろす生体爪の連撃。
ハードバイトは前腕のハードアーマーを軽く掲げて受け止める。キン! キン! と甲高い金属音が響くだけで、白銀の装甲には傷一つ付かない。
「ハァッ!」
ハードバイトが踏み込み、右拳を叩き込む。
重厚な手甲の一撃が怪人の胸部を穿ち、ハングリー・ジャークの肉体が大きく陥没した。
「ガッ……!?」
「二撃目!」
返しの左フックが怪人の顔面を捉え、巨体がコマのように回転しながら宙を舞う。
「そして――これで叩き落とす!」
空中の怪人へ追撃の回し蹴りが叩き込まれ、ハングリー・ジャークはコンクリートの床へと激しく激突し、バウンドした。
これまでのバイトが、様々なライドワードの属性や言葉の意味の解釈を駆使して立ち回る「技巧派のテクニカルファイター」だったとすれば、このハードバイトは――己の揺るぎない強い意志をそのまま圧倒的な質量と物理破壊力へと変換する「超パワー・超防護型の重騎士」であった。
「足りない……! 足りないぞ……!」
地面に這いつくばりながら、ハングリー・ジャークはなおも見苦しく爪を立てた。
「もっと……! もっと力をぉぉぉッ!」
重い足音を響かせ、ハードバイトがゆっくりと歩み寄ってくる。
「いくら喰っても……どれだけ他人のものを奪っても足りないのは――」
ハードバイトは黄金の【強】が刻まれた右拳を、力強く握りしめた。
「お前が……本当に欲しいものから目を逸らし、自分の手で掴もうとしていないからだ!」
「が……あ……っ」
ハングリー・ジャークの複眼の奥で、真壁修二の記憶が再び交錯する。
温かい料理の匂い。
自分の作ったハンバーグを食べて、「美味しい」と笑ってくれた客の顔。
自分が胸を張って生きることができていた、あの小さくも誇らしかった洋食店の厨房。
「……俺」
怪人の凶暴な爪が、力なく床へ落ちた。
「俺は……もう一度……」
真壁修二の、絞り出すような泣き声が高架下に響く。
「もう一度……料理がしたい……自分の店で……みんなの笑顔が……見たいんだ……っ!」
ハードバイトは怪人の前で立ち止まり、優しく、しかし力強い声をかけた。
「だったら――それを、自分の手で掴み取れ!」
ハードバイトが胸のハードカバーに手を掛けた。
内部の【咬】のライドワードが共鳴するように発光する。だが、今回はバイトドライバーの「顎」に喰らわせるのではない。訔自身の固い意志によって、言葉の意味を力へと昇華させる。
ガコン! ガコン!
ハードカバーが大きく展開し、中央の【強】の文字が純金色の光を放った。
ハードバイトはドライバーのフロントレバーを二度、素早く押し引きした。
《強く》《強く》
《強く咬む》
過絶な重低音の必殺シークエンスが起動する。
右脚のハードアーマーへ、紫・白・金色のフォントエネルギーが密縮されながら集束していく。エネルギーは幾重にも重なり合い、巨大で強固な何重もの牙の概念を形成していった。
「その汚い悪意…俺の胸で強く咬み砕く!!」
《
「ハアァァァァッ!!」
ハードバイトが力強く地面を蹴り上げ、高架下の天井近くまで高く跳躍した。
下で見上げるハングリー・ジャークが、真壁の涙を流しながら叫ぶ。
「もっとォォォォッ!!」
空中で体を一回転させ、右脚の巨大な強靭の牙を固定したハードバイトが、満身の叫びとともに急降下を開始する。
「欲しがるなら――自分で掴み取れぇぇぇぇッ!!!!」
過絶な衝撃が直撃した。
脚先にまとった巨大な【強】の金色の文字が、ハングリー・ジャークの過剰な【飢】の文字構造を容赦なく貫き、分解していく。
高架下を揺るがす大爆発が巻き起こり、黒紫の炎とフォント粒子が夜の空へと吹き飛んだ。
爆炎の中を突き抜け、静かに着地するハードバイト。
背後で爆発が収まると、そこには怪人の姿はなく、倒れ伏す一人の男――真壁修二の姿があった。
ハードカバーを取り外すと、訔の身体から重厚なアーマーが解体され、光の粒子となって消えていった。
訔は素早く駆け寄り、倒れている真壁の体を抱き起こした。
「……う……ん……」
真壁はゆっくりと目を開けた。その瞳からは、先ほどまでの凶暴な「飢え」や殺伐とした不満は完全に消え去っていた。
「俺……は……」
「もう、大丈夫だ」
訔が優しく微笑むと、真壁の胸元から抜け出た【飢】のライドワードが、空中へと漂い出た。
黒紫色の禍々しい悪意の塊だった【飢】の文字。しかし、ハードバイトの【強】の必殺撃によって悪意の過剰構造が破壊されたライドワードは、透き通った琥珀色とクリアホワイトの美しい光を放つ純粋な【飢】のライドワードへと浄化され、訔の手元へと静かに落ちてきた。
真壁を静かに壁際へ寝かせ、訔は自分の手元を見つめた。
そこには、浄化された【飢】のライドワードと――
そして、もう一つ。
重厚なマゼンタと黄金の装甲を纏った、新型デバイス・ハードスピーカー。
その表面には力強く【強】の文字が刻まれ、内部のスロットからは、かつて【欲】であったフォントの優しく温かい波形が、微かな脈動となって伝わってきていた。
高架下に、足音が響く。
通信端末を握りしめた響の声が、研究室から静かに届いた。
『【欲】の文字が消えたわけじゃなかったのね……』
響はモニターに映る【強】の解析データを愛おしそうに見つめながら、言葉を続けた。
『訔の「強くなりたい、みんなを守りたい」っていう真っ直ぐな欲求を読み取って……【欲】という概念そのものが、【強】という新しい意味へ進化して到達したんだわ……』
「欲しいと思ったから……」
訔は手の中のハードカバーを強く握りしめた。
「強くなりたいと、心から欲しいと願ったから……俺は強くなれたんだ」
「……欲することは、決して人間が欠けていることの証明ではない」
奥から歩み寄ってきた宗一が、静かに、しかし深い感銘を込めて呟いた。
『満たされないことを恐れず、より良き自分になろうと願う……それこそが、人間が明日へ、次へと進もうとする意志そのものなのだな』
訔はゆっくりと立ち上がり、空を見上げた。
高架下の隙間から見える空には、雨上がりの雲の切れ間から、澄んだ月光が差し込み始めていた。
「正木」
訔は振り向き、柱の陰で静かに自分を見つめていた律へと歩み寄った。
「言っただろ。お前から奪った強さじゃない。……俺たちの力だ」
律はフッと、誰にも気づかれないほど微かに口元を緩め、アイアンブルーの瞳を背けた。
「……相変わらず、計算の合わない男だ」
冷たい言葉とは裏腹に、律が差し出した手。訔はその手をしっかりと握り返した。
胸のバイトドライバーは、今や硬く口を閉ざし、静かに沈黙している。内なる化物に呑み込まれることなく、己の足で踏み出した一歩。
夜の街に、新しい希望のフォントが静かに刻まれようとしていた。