ハングリー・ジャークとの過酷な激闘を終え、研究室の重いドアが開かれた。
室内に入ってきた訔と律の全身には、死闘の苛烈さを物語る煤汚れと疲労の色が濃く刻み込まれている。陸は息を吐きながらパイプ椅子を引き寄せ、ドカリと体重を預けた。
部屋の奥では、響が髪を乱し、血走った瞳で大型メインモニターのキーボードを打ち続けていた。
そのデスクの傍らには、誕生したばかりの未知なる新アイテム――重厚な【強】のハードカバーが置かれている。
モニター画面には、幾重にも重なる複雑なフォント解析グラフと、何度も繰り返された再解析のログが明滅していた。
=====
ANALYSIS RESULT:
[DESIRE / GREED] ------------> [STRENGTH / HARD]
TRANSFORMATION LOG:VERIFIED
SEMANTIC RESTRUCTURE:SUCCESS
=====
画面の中央には、どれだけプログラムを走らせ、アルゴリズムを書き換えて再解析を試みても、揺るぎない事実としてその変換記録が表示され続けていた。
響は両手で頭を抱え、掠れた声で呟く。
「あり得ない……」
響の指先が微かに震えていた。彼女の知識と、これまで積み上げてきた古代音響文字のデータに基づけば、目の前で起きている現象は理論の根底を覆す異常事態だった。
これまでバイトが行ってきたのは、ジャークによって悪意の過剰解釈へと歪められたライドワードを、本来の正常な概念へと戻す「浄化」のプロセスに過ぎなかった。
しかし、今回は全く違う。
【欲】という過剰文字は、元通りの意味へ戻されたのではない。
【欲】の概念そのものが崩壊・再構築を起こし、全く別の文字である【強】へ不可逆的な進化・変化を遂げているのだ。
しかも――
響が画面の最深部、エネルギー核の拡大波形を表示させる。
そこには、既存のライドワードには絶対に存在しないはずの波形――訔個人の脳波と生体フォント波形が、文字の芯の部分に深々と刻み込まれていた。
「文字が……変質してるのよ。ただの浄化じゃない……訔の『強くなりたい』っていう想いそのものが、過剰文字の構造を根底から作り替えたの……」
同時刻。律は自らの端末を開き、音律統制機構のプライベート回線を経由して、先ほどの戦闘データを多角的に解読していた。
白銀の洗練されたUIの上に立ち上がる、ハングリー・ジャーク戦でのエネルギー遷移図。
律の冷徹なアイアンブルーの瞳が、画面の数値を追いながらわずかに見開かれる。
「音無が……言葉の意味を書き換えたというのか……?」
律の口から漏れたのは、困惑と戦慄だった。
言葉とは、古代の遺物であり、世界を構成する絶対的な法則だ。人間がそれを利用することはできても、人間自身の意志によって文字の「定義」そのものを再構築するなど、統制機構の理論上あつてはならない事象だった。
「……いや」
研究室の奥、古文書の影から静かな重低音が響いた。
宗一が、煙管の煙をゆっくりとくゆらせながら歩み出てくる。その静かな瞳には、深い憂いと過酷な真実を見通すような光が宿っていた。
「書き換えたのではないのかもしれない」
宗一の言葉に、室内にいた全員が一斉に振り返った。
響の打鍵の手が止まり、律が端末から視線を上げ、陸が背筋を伸ばす。そして、疲労困憊の体で壁に身を預けていた訔もまた、息を呑んで宗一を見つめた。
宗一は紫煙を天井へと流し、重々しく言葉を重ねた。
「言葉というものは元々――一つの意味しか持っていないものではない」
数日後。
帝都大学・地下実験場。
分厚い耐ショック・防音コンクリートに囲まれた広大な空間に、駆動装置の重厚な作動音が響き渡っていた。
「……測定開始。訔、いつでもいいわよ!」
仮設モニタリングデスクの前で、響がインカム越しに声を飛ばす。その瞳は画面に並ぶ無数の測定メーターに釘付けになっていた。
実験場の中央。訔は静かに息を整えると、重厚な【強】のハードカバーを手に取り、基本ライドワードである【咬】をその内部スロットへ装填した。
ガシャン!
二つの意味が過絶な精度で接続される。
訔はハードカバーをバイトドライバーへと力強くセットし、両手でフロントレバーを押し開いた。
「変身」
《
紫、パールホワイト、金色のフォント粒子が爆発的に拡散し、訔の全身を顎を模した重厚な外殻装甲が覆っていく。胸部に鎮座する白銀の強固な顎アーマーが固く食いしばられ、額に浮かんだ【強】の文字が閃光となって弾けた。
仮面ライダーバイト・ハードバイト
「……すっげえ……」
安全ガラスの向こう側でモニタリングしていた陸が、思わず歓声を上げて身を乗り出した。
「ヤバいだろこれ! 計測用のダミーブロックが、あいつが歩くだけで風圧で揺れてるぞ! 今まで苦戦してたジャークでも、これなら真正面からぶっ飛ばせるんじゃねえか!?」
陸の興奮も無理はなかった。メインモニターに表示されたハードバイトの性能データは、従来のバイトを遥かに凌駕していた。
腕力、脚力、装甲強度、フォント波形出力――どれをとっても桁違いの領域。これまでの「危険と隣り合わせの綱渡り」のような戦闘から一転、圧倒的な力量で敵を粉砕し得るスペックがそこには示されていた。
しかし――
「……おかしいわ」
響だけが、キーボードを叩く手を止め、険しい表情でモニターを見つめていた。
「響? どうしたんだよ、こんなすごい数値出てるのに」
「データが……変なの。安定してないのよ」
響が示したサブモニターの波形グラフ。そこには、異常な折れ線が表示されていた。
通常、バイトの出力はドライバーの基本スペックとライドワードのエネルギー量によって一定の基準値に収束する。だが、ハードバイトの出力グラフは、心電図のように激しく上下に乱高下を繰り返していた。
訔が中央でターゲット用の強化金属標的へ向け、拳を構える。
(もっと……強く……!)
訔が意図的に意識を集中させ、牙を食いしばった瞬間――
ドクンッ!!
出力数値が一気に限界値を突き抜け、標的の金属塊が一撃で粉々に破砕された。衝撃波が実験場全体を揺らす。
だが次の瞬間、訔の脳裏に昨日の「古代都市の崩壊」や「前任者の絶望」の幻影が一瞬だけ過った。ほんの僅かな「もし暴走したら」「自分に抑え込めるのか」という恐怖と迷い。
その刹那――
シューン……
装甲のフォント光が露骨に減衰し、出力メーターが数分の位置まで急降下した。
「……っ!?」
実験場の中心で、ハードバイトが己の手元を見つめて息を呑む。
「なんなんだ、今の……」
「やっぱり……」
響がインカムに向かって、硬い声で告げた。
「訔、変身を解除して。……原因が分かったわ」
*
変身を解除し、汗を拭いながらモニタリングルームへ戻ってきた訔に、響は解析画面を突きつけた。
「このフォーム……単純に【強】のエネルギーを使ってるんじゃないわ。あなた自身の精神状態によって、システム全体の出力がダイレクトに左右されてる」
「精神状態……?」
訔が眉をひそめる。
「ええ。あなたが『自分は強くあるべきだ』『守れる』と強く意識している時は、スペックを遥かに超える出力が出る。でも逆に、少しでも迷いや恐怖、己の弱さを感じると、装甲のフォント維持力そのものが急激に低下するの」
「……精神論か?」
「もっと厄介よ」
響は画面上の条件式を拡大表示した。
=====
HARD COVER
SEMANTIC CONDITION:Stay strong
=====
画面に浮かび上がる厳格な文字列を見つめ、静かに控えていた律が補足するように口を開く。
「つまり、ハードバイトとは単なる強化形態ではない。使用者である音無訔自身へ……『強くあれ』という絶対的なプレッシャーを課し続けるフォームでもあるということだ」
「自分へ……意味を課す……」
訔は手の中の重厚なハードカバーを見つめた。
【強】という文字は、弱さを許さない。強くなりたいと願って手に入れた力だが、それは同時に「常に強者であり続けなければならない」という重圧となって、訔の心に刃を突きつけているのだ。
「強さを証明し続けなければ、この鎧は機能しない……か」
訔の呟きが、防音室の壁に重く響いた。
*
刻を同じくして――都内にある伝統校、私立帝都付属高校の柔道場。
畳の擦れる重い音と、荒々しい息遣いが道場内に充満していた。
「そこまで!」
顧問の鋭い声とともに、豪快な一本背負いが決まり、一人の部員が豪快に畳へ叩きつけられた。
「さすがだな、勇人!」
「やっぱり今年のエースは違うぜ!」
周囲の部員たちから歓声が上がる。畳の上で息を整え、帯を締め直していたのは、この柔道部のエース――
全国大会の予選を数週間後に控えた期待の星。引き締まった体躯と鋭い眼光は、まさに高校柔道界のホープそのものであった。
しかし――
「……くっ……」
立ち上がろうとした瞬間、勇人の右肩に走った激痛。勇人は咄嗟に左手で右肩を押さえ、顔を歪めた。
「どうした、勇人?」
駆け寄ってきた部員に対し、勇人は咄嗟に笑みを貼り付けた。
「あ、いや……なんでもない。ちょっと滑っただけだ」
「なんだよ脅かすなよ! お前が倒れたら、うちの全国出場の夢が消えるんだからな!」
「頼むぞ、エース!」
「……ああ。分かってる」
勇人は頷いた。だが、その制服のポケットの中には、昨日整骨院と整形外科で渡された診断書が押し込まれていた。
『右肩腱板の重度損傷。即刻の運動中止と、最低二ヶ月の絶対安静を要する』
医師からは「このまま無理を続ければ、一生右腕が上がらなくなる可能性がある」と強く休養を勧められていた。
練習が終わり、夕暮れ時の道場。
勇人が一人で道具を片付けていると、重い足音が近づいてきた。
「勇人」
道場の入口に立っていたのは、この柔道部の監督であり、勇人の実の父親でもある男だった。威圧的な体躯と鋭い眼差し。かつて自身も全国を制した実績を持つ指導者だ。
「……父さん」
「肩の具合はどうだ」
勇人は心臓が跳ね上がるのを感じた。ポケットの診断書に手が伸びかける。
「……少し、違和感があって。病院の先生には、しばらく休んだ方がいいって……」
勇人が意を決して絞り出した言葉を、父親は一蹴するように遮った。
「馬鹿者が」
冷たく、重い声。
「弱音を吐くな。全国予選まであと少しなんだぞ。ここでエースのお前が休んでどうする」
「でも、先生は腕が戻らなくなるかもしれないって……!」
「男なら耐えろ」
父親は勇人の左肩をポンポンと強く叩いた。その手は励ましではなく、逃げ場を塞ぐ鎖のように重かった。
「お前は強いんだから。わしの息子だ、この程度の痛みに負けるはずがない」
「……」
「期待しているぞ、勇人」
父親はそう言い残し、立ち去っていった。
勇人は一人、暗くなりかけた道場に取り残された。
『勇人なら大丈夫』
『エースなんだから』
『お前は強いんだから』
脳裏を渦巻くのは、仲間たちの期待の眼差しと、父親の絶対的な命令。
誰も悪意を持っていない。全員が自分を信じ、期待し、応援してくれている。だが、その「期待」という名の善意の言葉たちは、今の勇人にとって骨を砕くほどの重荷であり、身動きを封じる強固な「鎖」そのものであった。
休みたいと言えない。
痛いと泣くことが許されない。
弱さを見せることができない。
「……強くなきゃ……」
勇人は痛む右肩を抱え、床に膝を突いた。
涙が畳に染みを作っていく。
「強く……強くなきゃいけないんだ……! 俺は……強く……!」
その震える背後。
夕闇の影が不自然に歪み、過絶な紫黒の過剰文字が不気味に浮かび上がった。
【縛】
期待、責任、強さという名の呪縛。助けを求められず、自らを縛り続ける少年の絶望へ向け、黒紫の悪意が静かに手を伸ばそうとしていた。
市内を覆うのは、過酷な悪意の影だった。
繁華街の歩道橋、静かな住宅街の角、そして昼下がりのオフィス街。街の至る所で、何の前触れもなく唐突におぞましい悲鳴が上がり始めていた。
「期待されている役割」――そこからほんの少しでも外れようとした人間たちが、突如として空間から出現した漆黒の文字の鎖によって拘束され、激痛とともに身動きを奪われていたのだ。
オフィス街のビル群の間。
「もう……限界なんです。責任者を辞めさせてください……!」
頭を下げて涙を流す中年の会社員。その上司が「上司なんだから弱音を吐くな」と言い放ったその瞬間――
ガチャンッ!!
不気味な鎖の破砕音が響き、空間を砕いて伸びた黒紫色の鎖が会社員の首と両腕を固く縛り上げた。
「ガハッ……!? ひ、息が……っ!?」
住宅街の公園。
泣き叫ぶ幼子を前に途方に暮れ、「もう母親を辞めたい……」と呟いた若い女性。通りすがりの老人が「母親なんだから我慢しなさい」と咎めた途端――
ガチィィィンッ!!
「嫌……! 離して……助けて……っ!」
太い鎖が彼女の胸と腰を容赦なく締め上げ、地面へと叩き落とす。
学校の図書室では、「期待に応えるのが怖い」と溢した優等生に対し、「あなたは頭がいいんだから大丈夫」という言葉が投げかけられた瞬間、その身体が重厚な鎖で本棚へと縫い付けられた。
家庭の玄関口では、「たまには甘えたい」と漏らした幼い長男が、「お兄ちゃんなんだからしっかりしなさい」という母親の言葉と同時に、身動きの取れない鎖の檻へと閉じ込められた。
一見すると、それらは何一つとして悪口ではない。
むしろ「褒め言葉」であり、「期待」であり、世間に溢れる「当たり前の常識」だ。
しかし――それらの言葉が他者への配慮を欠き、「〇〇でなければならない」「〇〇であるべきだ」という不寛容な強制へと変化した瞬間、人間の精神と肉体を苛絶に締め上げる「呪いの鎖」へと姿を変えるのだった。
*
帝都大学・考古学研究室。
緊急アラートの警告音が、静まり返っていた研究室に不協和音を響かせた。
「なんなの……これ……っ!?」
響が髪を乱しながら、キーボードのキーを叩きつける。メインモニターに投影された市街地のマップには、無数の赤黒い「鎖」のグラフィックが感染症のように急速に広がっていた。
響が走査データを拡大し、画面に浮かび上がったフォントエネルギーの波形を凝視した瞬間、その顔色が死人のように青ざめた。
「この波形……! 前に観測したサイレンスやファルスと同等の……ううん、それ以上のフォント密度よ……! ライドワードなんかじゃない……!」
その解析結果を見つめ、部屋の奥で煙管を咥えていた宗一が、深く、重い吐息とともに言葉を漏らした。
「
【縛】
ライオット・ジャークの右腕であり、世界を言霊の檻で覆わんとする過絶なる刺客――バインド・ジャークが、ついに本格的に行動を開始したのだ。
「私立帝都付属高校の敷地近郊に巨大なフォント反応! 拘束された人間の生命力が急速に低下してるわ!」
「行くぞ!」
訔は即座にアタッシュケースからバイトドライバーを引っ掴み、研究室のドアを押し開けた。律もまた、アイアンブルーの瞳に刃のような鋭さを宿し、無言のままその背後へ続いた。
*
帝都付属高校・裏手の街路樹が並ぶ遊歩道。
訔たちが現場へ駆けつけた時、そこは息を呑む惨状と化していた。
「あ……う……っ……!」
アスファルトの上で、柔道着の帯を締めた勇人が、全身を何重もの太く不気味な黒い鎖で縛り上げられ、苦悶の表情で悶絶していた。
鎖は少年の肉体に食い込み、皮膚からは不気味な紫色のフォント粒子が煙のように立ち上っている。胸元、両腕、そして負傷している右肩――それらすべての接合部に、歪んだ過剰文字が不気味に明滅していた。
周囲の期待、父親の命令、仲間たちの「お前は強い」という残酷な善意。それらすべてが実体化した鎖となり、少年の骨を砕かんばかりに締め上げていた。
「勇人……! 今助ける!」
訔が叫び、駆け寄ろうとしたその時――
シューッ…
遊歩道の影から、空間の文脈そのものが歪むような気味が悪い効果音とともに、一影の怪異が滑り出すように姿を現した。
ライオットの荒々しい圧迫感とも、ファルスの妖艶で湿り気のある殺意とも、サイレンスの冷徹な静寂とも根本的に異なる存在感。
洗練された黒と白の幾何学的な生体装甲、一切の無駄を削ぎ落としたシルエット、そして顔面の中央に大きく刻まれた、整然としすぎているが故に恐ろしい一文字。
【縛】
まるで、世界の法則を厳格に執行する冷酷な「裁判官」あるいは「執行官」を思わせる、異質な威厳を纏った怪人――バインド・ジャークであった。
バインド・ジャークは、自らの整った鋼鉄の指先を静かに掲げると、低く、深々とした声で滔々と語り始めた。
「人間とは、実に面白い」
バインドの複眼が、悶絶する勇人と、駆けつけてきた訔たちを交互に捉える。
「己の矮小な存在を保つため、他者へ『役割』を与えなければ安心できない。肩書、性別、期待、常識……言葉という名の檻で互いを繋ぎ止めなければ、立っていることすらできぬ哀れな種族だ」
「そいつを放せ……!」
訔は怒りを露わにし、バイトドライバーを己の腰へと叩きつけた。
「放す?」
バインド・ジャークは微かに首を傾げ、冷徹な静寂とともに静かに片手を横へ振った。
「違うな」
バインドは、勇人の全身を深く締め上げている太い鎖を、無機質に指差し言った。
「私は何もしていない」
「……なに……!?」
「見るといい」
バインドの指し示す先――勇人の胸元を最も激しく圧迫し、呼吸すら奪っている太い鎖の中心に、輝く一文字が刻まれていた。
【強】
「彼を縛り、その肩を砕き、命を削っているのは――私ではない。お前たち人間が彼に与えた、『お前は強い』という不寛容な言葉そのものだ」
「……っ!?」
訔の表情が激変した。
息を呑み、言葉を失う訔の脳裏に、数日前の実験場で響から突きつけられた言葉が、雷鳴のように激しくフラッシュバックした。
『このフォームは……あなた自身へ【強くあれ】という言葉を課すフォームでもあるのよ』
自分を守るため、仲間を守るために手に入れた「強さ」という言葉。
それが今、目の前の少年を殺そうとしている現実として、凶悪な牙を剥いて突きつけられていたのだった。
「変身!」
《咬む》
《
《
訔の叫びとともに、黒とパールホワイトの生体装甲が解き放たれ、紫の戦士――仮面ライダーバイトが誕生した。
バイトは間髪入れずに地面を激しく蹴りつけ、鋭い牙を模した甲冑の拳をバインド・ジャークへと叩き込む。
だが――
バインド・ジャークは一切の揺らぎを見せず、左手を軽く掲げただけでバイトの力任せな拳を掌で正面から受け止めた。空間を歪めるほどの衝撃波が遊歩道の街路樹を激しく揺らすが、バインドの脚はコンクリートに根を張ったように微動だにしない。
「……くっ!?」
「無駄だ」
バインド・ジャークの幾何学的な鉄仮面から、無感情な声が漏れ出る。
「規律なき粗雑な暴力など、世界を束ねる鎖の前には何の意味もなさぬ」
バインドが右手を一閃させると、空間を切り裂いて伸びた数本の太い黒紫の鎖が、バイトの胸部と両腕を容赦なく打ち据えた。
「ガハッ……!?」
火花と衝撃波を散らしながら、バイトの巨体が大きく後方へと吹き飛ばされ、アスファルトの地面を激しく転がった。通常形態のバイトの出力では、原典呪言の圧倒的な「縛り」の概念を突破することすら叶わない。
「音無!」
律がシグナルドライバーを展開しようとするが、バインドが放った不気味な過剰文字の波動が空間を歪め、その変身シークエンスを阻害する。
「……だったら……ッ!」
泥に塗れながら立ち上がった訔は、歯を食いしばり、胸元のポケットから黄金と白銀の重厚なデバイス――【強】のハードカバーを引き抜いた。
「これなら……どうだぁぁッ!!」
ガシャン!!
【咬】のライドワードを包み込むようにハードカバーを装填し、バイトドライバーのスロットへ叩き込む。両手でフロントレバーを全力で押し開いた!
《強く》《咬む》
《
《
《
爆発的な紫・白・金色のフォント粒子が吹き荒れ、通常バイトのアンダースーツの上から「顎」を模した分厚い重装甲が次々と噛み合わさっていく。胸部には白銀の固く食いしばられた顎型アーマー、額には黄金の【強】の文字が閃光となって砕け散った。
仮面ライダーバイト・ハードバイト
「ハァァァァァッ!!」
圧倒的な剛力を宿したハードバイトが一歩踏み出すと、足元のアスファルトが粉々に粉砕された。そのまま加速し、重厚な前腕アーマーを叩きつけるように振り抜く。
「ぬ……っ!?」
バインド・ジャークの防御を力任せに打ち破り、その重厚な生体装甲へ直撃。バインドの巨体が初めて大きく揺らぎ、凄絶なスパークを散らしながら数十メートルの距離を後退した。
研究室の通信インコム越しに、陸の歓声が上がる。
『いける! ハードバイトなら……あの怪人相手でも力押しでぶっ殺せるぞ!!』
しかし――解析モニターのグラフを血眼になって追っていた音羽響の叫びが、その歓声を打ち消した。
『待って、訔! 何かおかしい……! ドライバーの出力データとフォント波形が急激に乱れてる!!』
「……クク……フハハハハ……」
吹き飛ばされたはずのバインド・ジャークが、体勢を立て直すと同時に、底暗い嘲笑を漏らした。
無機質な鉄仮面の中央に刻まれた【縛】の文字が、赤黒く気味悪く明滅を始める。
「そうだ」
バインドはゆっくりと両手を広げ、絶望の言葉を紡いだ。
「もっと強くなれ。もっと牙を研ぎ澄ませ」
突如、ハードバイトの足元と空間の亀裂から、これまでとは比べ物にならないほど太く重厚な黒紫色の文字の鎖が何本も溢れ出し、ハードバイトの四肢へと激しく絡みついた。
「なっ……何だこれ……っ!?」
「お前は強いのだろう?」
バインドが冷徹に指を刺す。
「ハアアアアッ!!」
ハードバイトは全身の筋力と過絶なフォント出力を爆発させ、両腕に絡みついた太い鎖を力任せに叩き折った。
黒い破片が弾け飛ぶ。だが――
二本千切れば四本。四本千切れば八本。
ハードバイトが圧倒的なパワーで「強さ」を示せば示すほど、空間から湧き出す鎖の数は際限なく増殖し、逃げ場を塞ぐように全身へ群がりついていく。
バインド・ジャークの重々しい声が、裁判官の判決のように響き渡る。
「ならば弱音を吐くな」
ガチャンッ!
太い鎖が左腕を固定する。
「苦しいと言うな」
ガチャンッ!
別の鎖が右脚を粉砕せんばかりに締め上げる。
「助けを求めるな」
ガチャンッ!
胸部の白銀アーマーに硬い鎖が食い込む。
「一人で立て」
「ぐっ……があぁぁぁっ!?」
そして――バインド・ジャークが宣告した。
「強くあれ」
その言葉が放たれた瞬間、ハードバイトの胸に装着された【強】のハードカバーが過剰なフォント干渉を起こし、激しい異音を撒き散らし始めた。
《
警告音とも悲鳴ともつかないエラー音が狂ったようにループする。
訔が「強くあろう」と意思を燃やすほど、ハードカバーのシステム条件【強くあれ】がバインドの持つ【縛】の呪言と悪魔的な共鳴を起こし、自らの出力をそのまま自分を絞め殺す過酷な鎖へと変換してしまうのだ。
「ぐっ……ああああっ! ガハッ……!?」
バイザーの奥で訔が血を吐くような悲鳴を上げる。自らが手に入れた最強の「強さ」という定義が、今や己の骨を砕く拷問器具と化していた。
バインド・ジャークは静かな歩調で、悶絶するハードバイトへと歩み寄る。
「素晴らしい……」
冷酷な感嘆の声。
「お前ほど……【縛】りやすい人間はいない」
「何……だと……っ!?」
鎖に縛られ、膝を突きながら、ハードバイトは血走った瞳で怪異を睨みつけた。
バインドは、まるで少年の魂の深層を覗き込むように見下ろし、その歪んだ罪悪感の歴史を淡々と読み上げた。
「罪を背負わなければならない」
ガチャンッ!
【罪】の過剰文字を宿した黒い鎖が首へ巻きつく。
「自分が戦わなければならない」
ガチャンッ!
【戦】の鎖が背骨を圧迫する。
「誰も巻き込んではならない」
ガチャンッ!
【孤】の鎖が両肩の関節を破壊せんばかりに締め上げる。
「自分が強くなければならない」
「あ……が……あぁぁぁっ!!」
これまで音無訔という青年が、バイトドライバーを手に取ったあの日から、己の精神を押し潰し、誰にも言えずに自分自身へ課し続けてきた無数の「言葉」と「呪縛」。
それらがバインド・ジャークの力によって実体化し、肉体を、魂を、骨ごと噛み砕く無数の黒い鎖となって具現化していったのだ。
そして――バインド・ジャークの手の中に、漆黒の光を放つ最後の一本、最も太く絶望的な過剰文字を宿した鎖が創り出された。
【贖】
「贖い続けよ、咎人」
【贖】の鎖がハードバイトの胴体を貫くように固く締め上げた。
「ガあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!?」
破滅的な激痛が訔の全身を襲い、ハードカバーのシステムが完全に臨界点を突破して砕け散った。
バツンッ!!
紫と金色のフォント光が爆発するように散乱し、ハードバイトの重装甲が強制解除された。
「……ハッ……ガ……ッ……!」
変身を解かれた訔は、血を吐きながら冷たいアスファルトの地面へと突伏した。
その全身には、肉眼で見えるほどの不気味な黒紫の「鎖の生体傷痕」が刻み込まれ、指先一つ動かすことすらできずにピクピクと痙攣している。
バインド・ジャークは、地に倒れて虫のように這い転ずる訔を見下ろし、冷徹な静寂とともに吐き捨てた。
「【強】とは……誠に便利な言葉だ」
怪人は一歩踏みだし、動けない訔の頭のすぐ脇へとその鋼鉄の靴を降ろした。
「人間は……『強い』と言ってやるだけで――勝手に弱さを隠し、一人で死んでいく」
バインド・ジャークは冷徹な眼差しを地面へ突伏する訔から外し、背後に転がっていた勇人へと視線を向けた。
少年の体を縛り上げていた太い鎖が不気味に蠢き、勇人の意識を失った肉体を宙へと吊り上げる。
「待……て……っ!」
血の混ざった唾を吐き出しながら、訔は痙攣する手を必死に伸ばした。指先が虚しく空を切る。
「逃がすか……!」
律がシグナルドライバーのシステムエラーを力ずくでねじ伏せ、ビームサーベルを構えて踏み出そうとした。
しかし、バインド・ジャークがただ一言、深く静かに囁く。
《待て》
瞬間、空間全体の「言葉」が緊縛された。律の足が、まるで重力そのものが数倍に跳ね上がったかのように地面へと縫い付けられ、一歩も踏み出せなくなる。
「くっ……! 言霊による行動統制……!」
「この少年の『役割』は、まだ終わっていない」
バインド・ジャークは吊り上げた勇人の身柄を抱えるように引き寄せると、空間の文脈を切り裂いて出現した黒紫の亀裂の中へと静かに沈んでいった。
「立ち止まるがいい、人間。己を縛る言葉の重みに、そのまま押し潰されるがいい」
残されたのは、不気味な過剰文字の残響と、壊滅した遊歩道の静寂だけだった。
*
帝都大学・文科系研究棟、考古学研究室。
室内に満ちていたのは、息が詰まるほどの沈黙と、壊滅的な敗北感だった。
メインモニターの前に腰掛けた響の手は、キーボードの上で硬直したまま動かない。画面には、戦闘で過剰負荷を起こし、完全にシステムがフリーズした【強】のハードカバーのホログラムが、力なく明滅していた。
デスクの上には、外部装甲の可動部から焦げた煙を僅かに燻らせている実物のハードカバーが置かれている。内部の【強】のライドワードは、光を失って深く沈黙していた。
パイプ椅子に深く腰掛ける訔。その全身の皮膚には、バインドの【縛】によって刻まれた黒紫の生体傷痕が、まるで痛々しい刺青のように生々しく残っていた。
響が、震える声で静かに口を開いた。
「……解析結果が出たわ。ハードカバーの内部フレームが、あなたの精神的過負荷と共鳴して限界突破を起こしかけていた。……次に同じ状態になったら、ハードバイトは使わせない」
響の声には、怒りでも呆れでもなく、冷たいほどの強い拒絶が含まれていた。
訔はゆっくりと顔を上げた。血の気のない唇を噛み締め、かすれた声で抗議する。
「だが……ハードバイトじゃなきゃ、あいつには届かない。 通常形態の出力じゃ、攻撃を通すことすら……!」
「それよ!」
響が珍しく激しい音を立ててデスクを叩き、立ち上がった。その眼鏡の奥の瞳には、怒りと、それ以上に破裂しそうなほどの悲しみが溢れていた。
響が珍しく強く言葉を遮る。
「またそれ!」
「……?」
訔は思わず言葉を詰まらせた。
響は胸を上下させながら、訔を真っ直ぐに見つめ返した。
「『自分が強くなければならない』!」
激しい叫びが研究室の壁に反射して虚しく響く。
「今……あなたが自分で言ったじゃない!!」
訔はハッと息を呑み、完全に言葉を失った。
自分の口から何気なく出た言葉。相手を倒すため、仲間を救うため、自分が強くなければならないという「当たり前の思考」。それが、まさにバインド・ジャークが自分を縛り上げ、死の淵まで追い詰めた「呪縛」そのものだったのだ。
響は涙を押し殺すように目を細め、首を振った。
「あなた……何も変わってない」
「響……」
「バイトドライバーを手に入れて、死にかけてた頃と同じよ……!」
言葉が、鋭い刃となって訔の胸を深く抉った。
響と出会う前の訔は、「これは俺の罪だから、俺一人で背負う」「俺が全部背負って戦わなきゃいけないんだ」と頑なに思い込んでいた。
響と出会い、過絶な進化を遂げ、新しい力であるハードバイトを得て、仲間との絆を掴み取ったはずだった。
だが――「俺が強くならなければ」「俺が守らなければ」というその根本の歪みは、何一つ解消されていなかったのだ。強くなればなるほど、その重圧は自分自身を締め上げる鎖となって、より強固に、より残酷に訔の魂を縛り続けていた。
壁に背を預けていた陸が、苦々しい顔で目を背けた。デスクの傍らに立つ律もまた、冷たい瞳で沈黙を守ったまま、静かに拳を握りしめていた。
誰一人として、訔を擁護する言葉をかけられない。響の言葉が、痛いほどの「真実」であったからだ。
*
異空間の奥深くに存在する、歪んだ原典文字が壁面を這い回るジャークの潜伏拠点。
そこには、意識を失ったまま宙に吊るされている勇人の姿があった。
少年の腕や脚からは、今なお黒紫のフォント粒子が煙のように立ち上り、負傷した右肩の痛みが彼の夢路を苛烈に痛めつけている。
その眼前。黒と白の幾何学装甲を纏ったバインド・ジャークが、滑るような足取りで近づいた。
「……う……ぁ……っ……」
勇人が苦悶の呻きとともに、うっすらと目を開ける。
視界に映るのは、鉄仮面の中央で妖しく光る【縛】の文字。
バインド・ジャークは少年の耳元へ、静かで不可避な「問い」を投げかけた。
「強くなりたいか?」
勇人の虚ろな瞳に、一瞬だけ激しい葛藤の光が走る。
脳裏を過るのは、父親の冷酷な言葉。
『男なら耐えろ』『お前は強いんだから』
そして仲間たちの期待。
『エースなんだから頼むぞ』
痛む肩。壊れていく身体。休みたいという本音を言えない恐怖。弱さを見せれば、自分を構成している全ての居場所と価値が崩れ去ってしまうという絶望。
「……なりたい……っ」
勇人の血の出た唇から、絞り出すような悲鳴が漏れた。
「なりたい……! 強い自分になりたい……! 痛みに怯えて……休みたいなんて思う……弱い自分なんて……いらないんだぁぁぁッ!!」
少年の魂からの絶叫。それは、己の「弱さ」に対する激しい自己否定と拒絶であった。
バインド・ジャークは、無機質な鉄仮面の奥で冷酷に口元を歪めた。
「ならば、捨てればいい」
バインドがその鋼鉄の手を勇人の胸元へと突き立てた。
ガチィィィンッ!!
過絶なる過剰文字――【縛】の結晶が、少年の胸骨を深く突き破り、その精神構造の真ん中へと滑り込んでいく。
「ガあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
勇人の絶叫とともに、膨大な量の黒い鎖がその全身から噴出した。
鎖は少年の肉体を喰らうように覆い尽くし、負傷した右肩を、腱を、骨を強固に固定しながら、肉体を巨大で醜悪な「鋼鉄の拘束具の怪異」へと変貌させていく。
弱さを許さず、己を縛り続ける少年の絶望を触媒にして――新たなジャークが、完全に誕生しようとしていた。
*
深夜。帝都大学・考古学研究室。
皆が立ち去り、静まり返った暗闇の中で、訔は一人、パイプ椅子に腰掛けたままでいた。
机の上に置かれた、冷たく沈黙するハードカバー。
その重厚な表紙に刻まれた黄金の文字――【強】。
訔は自分の傷だらけの手を見つめ、それから【強】の文字へと静かに視線を落とした。
「……強いって……」
ポツリと漏れ出た声は、あまりにも弱々しく、静かな部屋の空気に溶けて消えた。
「なんなんだ……?」
強くなろうと願った。
仲間を守るために、自分が誰よりも強くならなければいけないと信じた。
だが、その強さを求めれば求めるほど、自分も、目の前の少年も、言葉の鎖に縛られて壊れていく。
自分が目指してきた「強さ」とは、一体何だったのか。
その背後。
重厚な足音とともに、暗がりから一人の男が歩み寄ってきた。
言導宗一
宗一は煙管を咥えぬまま、静かな憂いを湛えた瞳で、打ちひしがれる訔の背中を見つめていた。
「訔」
「……教授」
訔は振り返ろうとしたが、首に刻まれた傷痕が痛み、途中で動きを止めた。
宗一は立ち止まり、深く、地鳴りのような低音で問いかけた。
「弱い人間は――戦ってはいけないと思うか?」
「……っ!?」
訔の身体が跳ねるように強張った。
弱い人間は、戦ってはいけないのか。
弱さを持つ人間は、立ち上がってはいけないのか。
強くなければ、誰も救えないのか。
「……っ……俺は」
答えられない。
口を開こうとしても、喉の奥が固く結びついたように言葉が出てこない。
宗一はそれ以上、何も言わなかった。追及することも、慰めの言葉をかけることもなく、ただ静かに背を向け、研究室の奥へと立ち去っていった。
一人残された訔は、再び机の上の【強】のハードカバーを見つめた。
宗一の投げかけた問いが、波紋のように脳髄の深遠を揺らし続ける。
その時――
静寂の中、机の上の【強】の文字に、一瞬だけ歪んだフォントのノイズが走った。
ジジッ……
クリアパネルの奥、過絶な光の屈折の狭間で、黄金の【強】という文字がチラリと裏返る。
その文字の「影」のような深層部分に――本来存在するはずのない、全く別の、だが決定的な一文字が、一瞬だけ浮かび上がった。
【弱】
「……え……?」
訔は目を見開いた。
「……弱……?」
瞬きをした瞬間、ノイズは消え、画面には再び静かな【強】の文字だけが戻っていた。見間違いか、あるいはシステムのエラーか。
だが、その一瞬目にした【弱】という文字の残像が、訔の胸の奥で、カチリと何かが噛み合うような奇妙な不協和音を鳴らした。
その直後――
響の残していったメイン端末から、甲高い緊急警報アラートが打ち鳴らされた。
モニターに映し出されたのは、バインド・ジャークに連れ去られた少年――勇人の生体波形データだった。
彼の生体フォントが過剰な悪意と結合し、急速に、そして暴力的になジャーク化を遂げていく様子が、赤黒い波形となってグラフを埋め尽くしていく。
「……バインドに連れ去られた少年……!」
訔は弾かれたように立ち上がった。全身の傷痕が激痛を訴えるが、そんなものを気にしている余裕はなかった。
デスクの上のハードカバーを、その傷だらけの手で強く握り締める。
だが――
いつもであれば、迷わずバイトドライバーへと叩き込んでいたその手を、訔は一瞬だけ止めた。
手に伝わる、ずっしりとした【強】のハードカバーの質量。
訔は駆け出そうとする足を止め、手の中の【強】という文字を、じっと、深く見つめた。
『自分が強くなければならない』
『お前は強いんだから』
『強くなきゃいけないんだ』
自分を、そしてあの少年を苛み、骨まで砕こうとしている残酷な呪縛。
「強くなければならない……」
訔はその言葉を、己の唇の中で静かに噛みしめた。
そして――傷だらけの顔をゆっくりと上げ、澄んだ瞳で、その言葉を静かに否定した。
「……本当に、そうなのか?」
暗闇の中で、静止していた物語の文脈が、微かに新しい音を立てて動き始めようとしていた。