私立帝都付属高校・柔道場。
かつて汗と歓声が飛び交っていた畳の中央で、勇人は膝を突き、過絶な黒い文字の鎖によって激しく拘束されていた。
壁面、天井、そして床面――至る所に、無数のフォントが赤黒い光を放ちながら浮かび上がっている。
【エースなんだから】
【期待してるぞ】
【お前ならできる】
【弱音を吐くな】
【強くなれ】
どれも、本来なら誰かが勇人を励まし、信じ、背中を押すために口にしたはずの言葉。
だが今は黒く歪み、太い鋼鉄の鎖へと姿を変えて彼を締め上げていた。肉が軋み、骨が悲鳴を上げる。
「あ……が……っ……!」
鎖の結び目から滲み出る黒紫のフォント粒子が、少年の呼吸すら奪っていく。
道場の暗がりから、黒と白の幾何学装甲を纏った怪異――バインド・ジャークが滑るように歩み出てきた。顔面の中央に刻まれた【縛】の文字が、暗闇の中で厳格に発光する。
「不思議だと思わないか?」
バインド・ジャークの無感情な声が、無人の道場に低く響き渡る。
「誰もお前を傷つけようとはしていない」
「……っ……」
勇人は血の出た唇を噛み締め、絶望に満ちた瞳で怪異を見上げた。
「皆、お前を信じている。皆、お前に期待している」
バインドは整った鋼鉄の指先を静かに掲げ、壁に浮かぶ【期待してるぞ】の文字をなぞった。
「だから――」
ガチィィィンッ!!
バインドの鋼鉄の手が勇人の胸元へ突き立てられ、過絶なる【縛】の文字が少年の心臓の真上へと深く刻み込まれた。
「お前は、その期待を裏切れない」
「ガぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
勇人の口から、魂を削り出すような悲鳴が上がった。
胸に刻まれた【縛】を中心に、全身を縛る鎖が一気に収縮する。右肩の腱が断裂するような激痛が少年を襲う。
期待に応えなければならない。
弱音を吐いてはならない。
倒れることは許されない。
「俺は……」
涙と汗でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、勇人は震える声で叫んだ。
「俺は……強く……なきゃ……っ!」
「そうだ」
バインド・ジャークは冷たく静かに語りかけた。
「弱いお前など――必要ない」
バインドの手から放たれた黒紫のフォントが、勇人の全身を奔流となって覆い尽くしていった。
少年の胸の奥で、小さく折れかけていた一文字。
【弱】
傷つき、休みたいと願う「弱い自分」を象徴するその文字が、黒い悪意によって容赦なく塗り潰されていく。
【弱】の消失。
そして、その黒く塗り潰された領域の上から――巨大で、禍々しい過剰文字が上書きされるように刻み込まれた。
【強】
だが、それは――ハードバイトの【強】とは根本から異なるものだった。
文字の周囲には太い鎖が幾重にも巻きつき、文字の端々は歪み、今にも破裂しそうなほどの過絶な圧迫感を放っている。歪み、鎖に絡まれた【強】。
勇人の瞳から光が消え、濁った紫黒の殺意だけが宿った。
「俺は……強い」
その瞬間、柔道場全体を吹き飛ばすほどの凄まじいフォントエネルギーが爆発した。
破片と衝撃波が夜の校舎を揺らし、歪んだ【強】を宿した新たなジャークが、咆哮とともに誕生した。
*
帝都大学・考古学研究室。
「……っ!」
訔が弾かれたように飛び起きた。
全身から嫌な汗が吹き出し、荒い息が止まらない。胸の傷痕が激しく疼いていた。
「ハァ……ハァ……っ!」
訔の右手。そこには、強く握り締められている【強】のハードカバーが存在していた。
黄金の輝きを放つ【強】の文字。
しかし――次の瞬間。
ピキィッ……!
ハードカバーのクリアパネルの表面、黄金の【強】の文字の真ん中に、まるで鎖のような黒い亀裂が一瞬だけ鋭く走った。
「これは……!?」
訔は呼吸を忘れ、手の中のハードカバーを凝視した。
亀裂は一瞬で消え去ったが、そこに残された不穏な残響が、訔の魂を激しく揺さぶり続けていた。
翌朝。
帝都大学・文科系研究棟、考古学研究室。
差し込む朝日とは対照的に、室内の空気は重く冷ややかに凍りついていた。
メインモニターには、昨夜の戦闘データの残響と、先ほど観測された巨大なフォントエネルギーの波形が可視化されていた。
画面の中央で明滅しているのは、黄金の輝きを放つ訔の【強】。
そして、その周囲を這い回るように黒紫の波動を放つ、バインド・ジャークの原典文字【縛】。
二つのライドワードの波形が、互いに打消し合い、かつ異常な密度で引きつけ合うような不気味な干渉パターンを描き出している。
キーボードを叩く響の指先が重く止まった。
「やっぱり……」
響の呟きに、パイプ椅子に身を乗り出していた陸が眉をひそめた。
「何か分かったのか?」
「この二つ……相性が悪すぎるのよ」
響は画面の一部を拡大し、二つの波形が交差する変調ポイントを赤くハイライトした。
「【強】の文字そのものが弱いわけじゃないわ。ハードバイトの出力性能は、間違いなくこれまでのバイトを凌駕してる。問題は……その文字に込められた『解釈』の方向性よ」
「解釈……?」
「ええ。『強くなりたい』という純粋な意志なら問題ない。でも、それが『強くなければならない』という意味に変化した瞬間――【強】という文字の主権が、バインドの【縛】の支配下に入ってしまうの」
響の解説に、腕を組んでモニターを見つめていた律のアイアンブルーの瞳が危険な鋭さを増した。
「……【強】の概念そのものが、相手の拘束具へ変質するということか」
部屋の奥、古文書の影で煙管の煙をくゆらせていた宗一が、静かな地鳴りのような重低音で言葉を継いだ。
「言葉は、一文字だけで存在しているわけではない」
宗一は紫煙を静かに天井へ流し、重々しく言葉を重ねる。
「前後に何が置かれるかで、その意味はまったく変わってしまう」
宗一の指先が、空中になぞるように文字の列を書き下す。
「『強い』」
「『強くなりたい』」
「『強くあれ』」
「『強くなければならない』」
言葉の羅列が、重い現実となって室内に響き渡る。
「同じ【強】という文字であっても……これらは全て、違う意味を持つ言葉だ」
訔はパイプ椅子に深く腰掛けたまま、己の傷だらけの手元をじっと見つめ、黙ってその会話を聞いていた。昨夜、手の中で一瞬だけ走った【強】の黒い亀裂の触感が、今も掌に残っている。
律が自らの端末を操作し、冷徹に事態の本質を提示した。
「つまりバインドは、対象の持つ言葉そのものを書き換えているわけではない」
「ええ」
響が頷き、画面の接続詞の部分を強調した。
「言葉と人間の間に――」
=====
TARGET HUMAN → なければならない → CORE WORD
=====
「これを挟み込んでるの」
どんなに誇り高い言葉であっても、「〜しなければならない」という絶対的な条件=呪縛を挟み込まれた瞬間、人間を苛む不寛容な鎖へと姿を変える。
それを聞いた陸が、頭を掻きむしりながら呆れたように声を上げた。
「なんだよそれ! だったら簡単じゃねえか! 『強くなきゃいけない』なんて柄にもねえこと、気にすんなって思えばいいだけだろ! 難しく考えんなよ訔!」
陸の軽い励まし。だが――
「できない」
訔の低く絞り出すような声が、陸の言葉を叩き斬った。
「え……?」
陸の動きが止まる。
訔は膝の上で固く拳を握り締め、血の気のない唇を震わせた。
「『弱くてもいい』なんて……そんな簡単に思えるなら、最初から苦労してないんだ……!」
言葉の重みに、研究室全体が凍りついたように静まり返る。
響が胸を痛めるような眼差しを訔へ向ける。
訔は机の上の【強】のハードカバーを、指関節が白くなるほどの強情さで握り潰すように掴んだ。
「俺が弱かったから……あの事故は起きたんだ」
訔の脳裏を過る、過去の凄惨な光景。あの日、自らの知識の浅さと無力さによって引き起こしてしまった過ち。取り返しのつかない失意と責任。
「俺がちゃんと解読できていれば。俺がもっと知識を持っていれば。俺がもっと――」
「訔」
響が制するように名を呼ぶ。だが、訔の思考の奔流は止まらない。
「強ければ……ッ!!」
「……っ」
響の表情が、絶望にも似た哀しみで大きく曇った。
訔自身も、ハッと息を呑んで己の口を押さえた。
また言っている。自分自身で。
『強くなければ』
誰に強要されたわけでもない。バインド・ジャークに脅されたわけでもない。音無訔という青年自身の根底に刻まれた凄惨な贖罪の意識が、自分自身に「強くなければならない」という過酷な鎖を嵌め続けているのだ。この呪縛から逃れられない限り、何度戦っても自分は【縛】の絶望から抜け出せない。
その重苦しい沈黙を切り裂くように急アラートの甲高い警告音が、研究室内に怒号のごとく響き渡った。
響が弾かれたようにキーボードへ向かい、メインモニターへ走査画面を叩きつける。
「私立帝都付属高校の敷地近郊に……昨夜連れ去られた子が現れたわ!」
陸が身を乗り出す。しかし、画面に描画されたグラフィックを見た瞬間、全員が息を呑んだ。
モニターに表示されていたのは、人間の生命反応を示す青い波形ではない。
黒と紫の悪意の過剰文字で完全に塗り潰された、凶悪な怪異の波形――
「人間の……反応じゃない……」
響の声が震える。
「全身のフォントエネルギーが異常変異を起こしてる……! 人間としての意識を失って……完全にジャーク化してるのよ……!!」
訔の表情が激変した。
「……まさか……」
昨夜、バインド・ジャークの手によって【弱】の文字を黒く塗り潰され、歪んだ【強】を刻み込まれた少年の姿。
『俺は……強い』
あの咆哮の意味。弱さを捨て去り、「強くならなければならない」という呪縛に完全に呑み込まれた結果、少年は自ら悪意の怪異へと成り果ててしまったのだ。
「勇人……っ!!」
訔は痛む全身の傷痕を押し殺し、叩きつけるように立ち上がった。
デスクの上から、冷たく重厚な【強】のハードカバーを掴み取る。
だが――
いつもであれば、迷うことなくバイトドライバーへ叩き込んでいたはずのその手を、訔は一瞬だけ止めた。
指先に伝わる、重厚な【強】のデバイスの質量。
クリアパネルの奥で静かに佇む、黄金の文字。
『強くなければならない……』
自らを、そしてあの少年を破壊へと追い詰めた過酷な呪縛。
訔はその言葉を胸の奥で深く、深く噛み締め――
揺れる瞳で手の中の【強】を見つめながら、静かに、だが根底から自問した。
「……本当に、そうなのか?」
*
帝都付属高校のグラウンド裏手。
かつて静かな放課後の光景が広がっていたはずの空間は、禍々しい紫黒のフォント粒子と、重苦しく響く金属の擦れ合う音に支配されていた。
訔、律、陸の3人が駆けつけた時、そこに佇んでいたのは――バインド・ジャークではなかった。
黒い柔道着を思わせる禍々しい重厚な外殻。全身の関節や筋肉に沿って太い鋼鉄の鎖が張り巡らされ、両腕には肉体を過剰に締め上げる巨大な生体拘束具が装填されている。
そして、その胸部中央――過絶な悪意の光を放ちながら刻まれていたのは、一文字の過剰文字であった。
【耐】
エンデュア・ジャーク
勇人が変貌を遂げた怪異の姿。
《耐えろ》
本来ならば、苦難や痛みに屈せず、自らの意志で踏ん張るための尊い言葉。しかし今、その言葉はバインド・ジャークの呪縛によって「どれだけ激痛に苛まれようと、死に直面しようと、永久に耐え続けなければならない」という逃げ場のない不寛容な強制へと固定化されていた。
「少年……!」
訔が叫び、一歩踏み出す。
すると、エンデュア・ジャークの幾何学的な鉄仮面の奥から、ひどく掠れた、だが痛々しいほど静かな少年の声が漏れ聞こえた。
「……大丈夫です」
「……?」
訔が思わず足を止める。
エンデュア・ジャークの重厚な生体甲冑の隙間、特に右肩の接合部からは、ボタボタと生々しい血とフォント粒子が垂れ流されていた。肉体はとっくに限界を超え、腱は断裂し、骨は悲鳴を上げている。
にもかかわらず、怪異は緩慢な動作で立ち尽くし、自分自身に言い聞かせるように言葉を紡ぎ続けた。
「俺は……大丈夫です」
「少年、もういい! やめるんだ!」
「痛くありません」
怪異の体が小さく痙攣する。
「苦しくありません」
「やめろ……!」
「辛くありません」
血の混ざった黒い吐息が零れ落ちる。
「俺は――耐えられます」
『訔……!』
インカム越しに、響の悲痛な叫びが上がった。画面に表示された勇人の生体波形は、いつ心停止を起こしてもおかしくないほど真っ赤に点滅していた。自らの感情と痛みを殺し、「耐える」という呪縛だけに縋り付いて肉体を崩壊させていく恐ろしい自滅のプロセス。
その惨状を愛でるように、空間の亀裂から滑らかな足取りでバインド・ジャークが姿を現した。顔面の中央に刻まれた【縛】の文字が、暗闇の中で嘲笑うように不気味に発光する。
「美しいだろう?」
バインド・ジャークは両手を広げ、恭しくエンデュア・ジャークを示した。
「弱音を吐かず、痛みに顔を歪めず、与えられた試練の全てに耐え抜く……これこそ、お前たち人間が望んだ『強い人間』の完成形だ」
「ふざけるな……ッ!!」
訔の拳が激しく震える。激怒の叫びが、破壊された校舎に響き渡った。
「こんなものが……こんな悲しい姿が、強い人間なわけがあるか!!」
だが、バインド・ジャークは一切揺らぐことなく、冷徹な静寂とともに問い返した。
「何が違う?」
「……っ!?」
訔の言葉が詰まった。
バインド・ジャークは静かに一歩を踏み出し、冷酷な眼差しで訔を射抜いた。
「お前も同じだ」
「な……」
「痛みに耐え」
バインドの指先が、訔の全身に残る【縛】の傷痕を指す。
「罪に耐え」
過去の過ちという自責の念。
「恐怖に耐え」
【喰】の暴走の恐怖、ドライバーに命を蝕まれる恐怖。
「一人で全てを背負う」
誰にも助けを求めず、自分の弱さを隠し、ただひたすらに耐え続けること。
バインド・ジャークの視線が、訔の腰に装着された無骨なバイトドライバーへと注がれた。
「お前と彼は……何が違う?」
「……っ……」
訔は何も言い返せなかった。
バインドの言葉が、自らの魂の最も深く、最も醜い傷口を容赦なく抉り出す。自分はあの子と同じだ。耐えることが正しいと、耐え続けなければ自分に価値などないと信じ込み、自らを呪縛の鎖で縛り上げていたのは……他ならぬ音無訔自身だった。
「俺は……」
訔は傷だらけの手でバイトドライバーのレバーを握り締めた。
自分の歪みを自覚しながらも、今この瞬間、目の前で崩壊しようとしている少年を放置することなどできるはずがなかった。
「……変身っ!!」
《咬む》
《
《
紫とパールホワイトの生体装甲が疾風のごとく訔を包み込み、仮面ライダーバイトが誕生する。
「ハアアアアッ!!」
バイトは地面を激しく蹴り崩し、エンデュア・ジャークへと一気に肉薄。重厚な甲冑の拳をその胸部へと叩き込んだ。
凄絶なスパークが弾け飛び、衝撃波がグラウンドの砂煙を爆発的に巻き上げる。通常のジャークであれば吹き飛ばされ、一撃でダウンするほどの威力。
だが――
エンデュア・ジャークは脚を数センチ後退させただけで、その重厚な生体装甲でバイトの拳を正面から受け止めていた。
「なに……!?」
バイトが息を呑む。
エンデュア・ジャークは異常なまでのタフネス――いや、「しぶとさ」を見せていた。
バイトが間髪入れずに鋭い蹴りを叩き込んでも、立ち尽くす。
シグナルのビームサーベルがその外殻を切り裂き、激しいスパークを撒き散らしても、倒れない。
ふらつき、膝をつきそうになっても、まるで不気味な傀儡のように瞬時に体勢を立て直し、再び泥臭く立ち上がってくる。
「大丈夫……」
エンデュア・ジャークの壊れたスピーカーのような声が響く。
「まだ……耐えられます……!」
「嘘をつくな!!」
バイトが叫び、相手の胸元を掴み上げる。
しかし、装甲の隙間から溢れ出すフォント粒子は、すでに青白い生命の光を失いかけ、黒く濁り始めていた。肉体は限界を超えて悲鳴を上げ、中の少年の骨と筋肉はズタズタに引き裂かれかけている。
『訔! 攻撃を止めて!!』
通信インコム越しに、響の必死の悲鳴が叩きつけられた。
『中の子の身体も……ダイレクトにダメージを受けてる! これ以上強い衝撃を与えたら、ジャークを撃破する前に生命維持が停止するわ!!』
『……くっ……!』
バイトの動きが完全に止まった。
倒さなければ少年を救えない。だが、攻撃すればするほど、相手の「耐える」という呪縛が強化され、中の少年の命が削られていく。
「くそっ……!」
手が出せない。
その致命的な隙を、エンデュア・ジャークは見逃さなかった。
「耐えて……勝つ……!!」
エンデュア・ジャークの両腕の巨大な拘束具が激しく発光し、全てを耐え抜いた末の殺意が込められた重厚な拳が、無防備なバイトの胸部へと一直線に叩き込まれた。
「ガハッ……!?」
激しい火花と衝撃波が爆発し、バイトの巨体が空中で旋回しながらグラウンドのコンクリート壁へと叩きつけられた。崩れ落ちる瓦礫と砂煙の中で、バイトは胸を押さえて激しく吐血した。
「ガハッ……ッ!!」
瓦礫の山を砕いて地面へと崩れ落ちたバイトは、激しく吐血しながら胸部装甲を抑え込んだ。視界の端が赤く明滅し、ドライバーから甲高い過負荷警報が鳴り響く。
手が出せない。
叩きのめせば、中の少年の命が潰える。
かといって、このまま直撃を受け続ければ、先に自分が命を落とす。
エンデュア・ジャークは血とフォント粒子を激しく撒き散らしながら、一歩、また一歩と歪んだ歩調で足音を忍ばせてくる。両腕の生体拘束具が、殺意を込めて不気味な過絶の光を宿し始めていた。
バイトの視線が、己の右手に握り締められたままの重厚なデバイスへと向く。
黄金の文字をクリアパネルの奥に宿した、【強】のハードスピーカー。
通信インカムの向こうから、響の悲鳴のような叫びが叩きつけられた。
『訔、待って! そのライドワードを使ったら、またバインドの【縛】の干渉を受けて――!!』
「これしか……ッ!!」
バイトは牙を食いしばり、痛む体で叩きつけるようにハードカバーへ【咬】のライドワードを押し込んだ。
《強く》《咬む》
《
《
《
紫と金色のフォント粒子が爆発的に拡散し、通常バイトの外殻を覆い尽くすように重厚な「顎」を模した重装甲が噛み合っていく。胸部に白銀の固く食いしばられた顎アーマーが鎮座し、額に浮かんだ【強】の文字が不気味なまでの輝きを弾けさせた。
仮面ライダーバイト・ハードバイト
「オオオオオオオオッ!!」
ハードバイトは覚悟を決め、圧倒的な質量と物理出力を乗せて突進した。重厚な前腕アーマーを振り抜き、エンデュア・ジャークの巨体を押し返す。
激しい火花が散り、エンデュア・ジャークの肉体が数十メートル後方へ吹き飛ぶ。ハードバイトの持つ純粋なスペックは、エンデュアの「耐える」能力を物理的に圧倒していた。
しかし――
「クク……もっとだ」
後方の影から、バインド・ジャークが冷酷な手招きをした。
空間の亀裂から、漆黒の文字の鎖が何本も、何十本も這い出し、ハードバイトの脚、腕、そして胸部へと一斉に絡みついていく。
「もっと強くなれ。もっと牙を立てろ」
「黙れぇぇぇッ!!」
ハードバイトは全身の筋力を爆発させ、腕に巻きついた鎖を力任せに引き千切った。
「もっと」
バインドが指を鳴らす。千切れた倍の数の鎖が押し寄せ、肩と首を縛り上げる。
「黙れと言ってんだ!!」
二度目の破壊。だが、鎖は無限に湧き出し、ハードバイトの重装甲へ食い込んでいく。
「もっと」
「もっと」
「もっと強くなければ」
言葉の呪縛が、ハードバイトの胸元にある【強】のハードカバーと悪魔的な共鳴を引き起こした。
《
《
《
《
不協和音のような警告音が暴風のごとく室内と現場に吹き荒れる。強くなろうと意思を固めれば固めるほど、ハードカバーのシステムが【強くあれ】という絶対的な過酷さを訔の全身に叩きつけ、出力を限界突破させていく。
クリアパネルの表面に、メキメキと音を立てて凶悪な黒い亀裂が走った。
『出力が上がりすぎてるわ! 訔、このままじゃドライバーごとあなたが破裂する!!』
響の悲痛な叫び。
「音無! 今すぐ変身を解除しろ!!」
シグナルの怒号。
「まだだ……! まだ……耐えられる……ッ!!」
ハードバイトは血を吐きながら、溢れ出る過剰出力を腕に集め、強引にエンデュア・ジャークへと拳を叩きつけようと足を踏み出す。
その目の前で――エンデュア・ジャークもまた、ズタズタに引き裂かれた右肩から血を噴き出しながら、不気味に立ち上がっていた。
「俺も……」
壊れたスピーカーのような、痛々しい少年の声。
「まだ……耐えられる……!」
二人が、互いに崩壊寸前の体で向かい合う。
片方は、「強くなければならない」という呪縛に囚われた男。
もう片方は、「耐えなければならない」という呪縛に潰された少年。
その二人の凄惨な対峙を見下ろし、バインド・ジャークは愉快そうに喉を鳴らした。
「クク……素晴らしい。実に滑稽だと思わないか?」
怪人は両手を広げ、裁判官のごとき冷酷さで言い放った。
「同じではないか」
「……っ!?」
ハードバイトの振り下ろされかけた拳が、宙でぴたりと止まった。
その一瞬の静寂。
風の音に混ざり、エンデュア・ジャークの外殻の奥から、くぐもった、ひどく小さな震える声が訔の耳に届いた。
怪異の口から出ている重厚な音声ではない。その奥に閉じ込められた、本当の高峰勇人という少年の、魂の悲鳴。
「……痛い……」
ハードバイトのバイザーの奥で、訔の瞳が大きく揺れた。
「……!」
「痛いよ……」
「もう……無理だ……っ……助けて……」
少年の泣きじゃくるような本音。休みたい、痛い、逃げ出したいという、人間として当たり前の心の叫び。
しかし――次の瞬間、少年の意志を無視して、エンデュア・ジャークの鋼鉄の顎が機械的に打ち合わされた。
「大丈夫です」
怪異の歪んだ音声が、少年の本音を上書きして吐き出される。
「助けて……」
「俺は強いです」
「痛いよ……っ!」
「耐えられます」
「やめてくれぇぇぇ本心を聞けぇぇぇッ!!」
少年の内なる悲鳴と、怪異が吐き出す不寛容な言葉の狂気的な二重奏。
それを聞きながら――ハードバイトは、己の内に潜む「何か」を、鏡を見るように突きつけられていた。
あの日。
自分の無知と無力で引き起こした、取り返しのつかない過去の事故。
それ以来、響たちや周囲の人間に対して、自分自身が何度も、何度も口にしてきた言葉。
『大丈夫だ』
『俺がやる』
『これは俺の問題だ』
『俺が一人で背負えばいい』
「……同じだ……」
ハードバイトの全身から、激しいフォントの光芒が失われていく。
振り上げられていた重厚な拳が、力なく、ゆっくりと下ろされた。
バインド・ジャークが微かに首を傾げる。
「どうした? 諦めるのか?」
「俺も……」
訔の声が、バイザーの奥から途切れ途切れに漏れ出た。
「俺も……こいつと同じだった……」
「何……?」
「痛いのに……」
訔の手が、激痛に苛まれる己の胸部を虚しく彷徨う。
「恐怖で……脚が竦んで……本当は死ぬほど怖いのに……助けてほしいのに……っ」
喉の奥から、血混じりの絞り出すような声が溢れ出る。
「ずっと……大丈夫なふりをしてただけだ……ッ!!」
己の弱さを認めることが怖かった。
弱さを見せれば、自分には戦う価値がないと思い込んでいた。
強くなければ誰も救えないと信じ込み、己の内に叫ぶ「助けてほしい」という本音を、自分自身で踏みつけ、閉じ込めていただけだったのだ。
バインド・ジャークは蔑むように鼻を鳴らした。
「ハッ……くだらん。己の弱さを認め、涙を流すか。ならば貴様は……ただの弱者だ」
「……ああ」
訔の短い答え。
通信インカムの向こうで、響が息を呑む音が聞こえた。律と陸が目を見開く。
訔は傷だらけの顔を上げ、すっきりと澄んだ瞳で、はっきりと口にした。
「俺は……弱い」
次の瞬間、ハードバイトのシステムが自ら変身を解除した。
紫と金色のフォント粒子が霧散し、重装甲が砕け去る。手の中のハードカバーの【強】の文字が、完全に光を失って静かに消灯した。
響が叫ぶ。
『訔!? なにやってんの!? 生身に戻ったら……!!』
バインド・ジャークも困惑を露わにし、前傾姿勢をとった。
「何……? 自ら無防備になり、死を受け入れるというのか……?」
変身を解かれた訔は、ボロボロの私服のまま、荒い息を吐いて泥の上に立っていた。全身の【縛】の傷痕から血が滲み、直立していることすら奇跡のような満身創痍の体。
だが、その瞳からは、自分を縛り続けていた過酷な呪縛の影が綺麗に消え去っていた。
「怖いよ」
訔は生身の胸を押さえ、呟いた。
「痛いし……間違うし……失敗もする」
一歩、踏み出す。
「一人じゃ何もできない……ただの弱い人間だ」
バインド・ジャークの幾何学装甲が、激しく不気味に歪んだ。
「ならば何故立つ!! 弱者に何ができるというのだ!! 立ち上がり、抗う理由はどこにもないはずだ!!」
バインドの叫びに対し、訔は鼻で笑うように小さく息を吐いた。
血に濡れた顔を上げ、まっすぐにエンデュア・ジャークの奥にいる少年を見つめる。
「……知らねえよ」
訔はボロボロの足を震わせながら、力強く、一歩を踏み出した。
「弱くたって……助けたいと思っちまったんだから、仕方ねえだろ」
ボロボロの私服のまま、血を流しながら、音無訔は変身を解いた。
バイトの装甲は消え去り、手の中のハードカバー【強】は光を失って静かに沈黙している。
「音無!」
律が叫ぶ。だが、訔は振り返らない。
生身のまま、ゆっくりと、一歩一歩踏み出し、巨大なエンデュア・ジャークへと近づいていく。少年の歪んだ外殻が軋み、凶悪な金属の拳が頭上高く振り上げられた。
一撃で生身の人間など粉砕する死の鉄槌。
振り下ろされた拳が訔の頬を掠め、皮膚を鋭く引き裂いた。鮮血が空中に舞う。それでも、訔の足は止まらない。
「少年……いや、勇人」
「来るな……!」
エンデュア・ジャークの奥から、壊れた機械のような悲鳴が上がる。訔は相手の目の前まで歩み寄り、血に濡れた顔でまっすぐに見つめた。
「痛いんだろ」
「……!」
「苦しいんだろ」
「……違う」
「逃げたいんだろ」
「違う!」
「もう無理なんだろ」
「違う!!」
エンデュア・ジャークが狂ったように頭を振り、地面を叩きつける。衝撃波が訔の服を激しく揺らした。
だが、訔は一歩も退かない。目の前の少年へ、自分自身へ叩きつけるように叫んだ。
「だったら言えよ!!」
「……!」
「助けてって言え!!」
静寂。
グラウンドの風が止まり、世界から一切の音が消え去ったかのような沈黙が訪れた。
勇人の頭の中で、無数の不寛容な言葉たちが渦を巻いていた。
『お前は強いんだから』
『期待しているぞ』
『男なら耐えろ』
『エースなんだから』
逃げ場のない、善意の顔をした過酷な鎖。だが、目の前に立つボロボロの男は、その「強さ」を捨て去り、己の弱さを晒しながら自分を見つめている。
勇人の瞳から、大粒の涙がぼたぼたと溢れ出した。
「俺は……」
血混じりの絶叫。
「俺は……!」
涙が畳の代わりに泥を濡らす。
「もう無理だぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
ピキィィィンッ!
エンデュア・ジャークの胸に刻まれた【耐】の文字に、巨大な亀裂が走った。
「痛い!」
バリッ! 亀裂が全身の外殻へ広がる。
「怖い!」
さらに亀裂が深まり、過剰文字の光が激しく漏れ出す。
「俺……大会なんか出たくないよぉ!!」
「黙れ!」
後方でバインド・ジャークが不快そうに手を伸ばす。しかし、少年の本心の叫びはもう誰にも止められなかった。
「助けてくれぇぇぇぇぇッ!!」
【耐】の文字が粉々に砕け散った。
エンデュア・ジャークの重厚な生体拘束具が爆発的に弾け飛び、中に囚われていた勇人の華奢な体が空間へと放り出される。強制解除。
「勇人……!」
訔は倒れてきた少年の身柄を、傷だらけの両腕でしっかりと受け止めた。
だが――その瞬間
「愚かな」
バインド・ジャークの冷酷な一手。空間を切り裂き、二人をまとめて押し潰さんと、太い黒紫の鎖の奔流が牙を剥いて襲いかかった。
その殺意の閃光を割り込んだのは、白銀とアイアンブルーの閃光だった。
シグナルがシンタックスサーベルを一閃させ、空間ごと鎖の奔流を鮮やかに切断する。激しい火花が散り、鎖が黒い砂となって霧散した。
シグナルは背後を振り返りもせず、低く言い放った。
「撤退しろ、音無」
「でも、あいつは――」
「今のお前では勝てない」
訔は息を呑み、言葉を詰まらせた。シグナル――律は、冷徹な分析眼でバインド・ジャークを見据えたまま、言葉を重ねた。
「そして、俺一人でも無理だ」
「……え……?」
訔が驚愕に目を見開く。
これまで常に「正解」を一人で提示し、完璧な論理と単独の戦闘力で事態を解決しようとしてきた律が。あの正木律が、初めて明確に――「自分だけでは無理だ」と認めたのだ。
シグナルは宗一から教わった「最適解」を口にするように、静かに告げた。
「だから今は逃げる。……それが現時点での最適解だ」
「……っ……はは」
訔は血のついた口元を緩め、小さく笑った。
「お前も……言うようになったな」
訔は勇人を背負い直し、シグナルの援護のもと、グラウンドを脱出した。
バインド・ジャークは深追いしなかった。黒と白の幾何学装甲を纏った怪人は、去り行く背中を、むしろ満足そうに見送っていた。
「弱さを認めたか」
バインドは地面に転がっていた、エンデュア・ジャークから剥がれ落ちた【耐】の欠片を拾い上げた。
「だが――」
バインドは手の中の欠片を見つめ、不気味に喉を鳴らした。
「人間は一人では生きられない」
ミシミシ……パキィン!
黒い文字の鎖が手の中から溢れ出し、残された【耐】の欠片を力任せに握り潰した。
「だからこそ……他人の言葉に縛られ続けるのだ」
*
帝都大学・文科系研究棟、考古学研究室。
研究室の防音室で、訔は響から痛々しい不快な消毒と包帯の治療を受けていた。
デスクの上には、機能を停止し、冷たく沈黙したままのハードカバー【強】が置かれている。
響が包帯を結び終え、静かな声で問いかけた。
「……後悔してる?」
「何を?」
「『弱い』って認めたこと」
訔は包帯が巻かれた自分の手を見つめ、少しだけ視線を泳がせた。過去の事故、自分一人で背負おうとしていた無謀な贖罪、強くなければならないという重圧。
「……いや」
訔は息を吐き、傷だらけの手を軽く握り直した。
「なんか……ちょっと楽になった」
「そう」
響が眼鏡の奥の瞳を和ませ、小さく、温かく笑った。
そこへ、部屋の隅でメインモニターを操作していた陸が声を張り上げた。
「なあ! これ見てくれよ!」
陸が指差したモニター画面。そこには、沈黙していたハードカバー【強】の最新解析データが表示されていた。
これまで画面に表示されていた警告ログ。
=====
OUTPUT:UNSTABLE
=====
その不安定を示す赤文字が消失し、全く新しいシステムシークエンスへと書き換わっていた。
=====
SEMANTIC REDEFINITION...
=====
そして、画面の中央に巨大なエラーコードが弾き出される。
=====
ERROR:MISSING WORD
=====
「足りない……?」
響がモニターへ身を乗り出す。
研究室の奥、古文書の山から歩み出てきた宗一が、煙管の紫煙をくゆらせながら静かに言った。
「【強】という言葉だけでは、完成しないということか」
訔は治療ベッドから身を起こし、画面を見つめた。
「じゃあ……何が足りないんだ?」
その問いに応えるように――
デスクの上に置かれていた一つのライドワードが、淡く、神秘的な青白い光を放ち始めた。
【信】
かつて、訔と律が互いの存在を認め、初めて完璧な連携を見せた際に特殊な反応を示した概念カード。
【信】から伸びた光の粒子が、吸い寄せられるように【強】のハードカバーへと触れる。
=====
CONNECTING:HARD + CRED
=====
二つの過剰文字が交差する。しかし――
=====
CONNECTION FAILED
=====
パッと光が弾け飛び、システムは接続を拒絶した。
訔が眉をひそめる。
「……なんでだ?」
宗一が深い眼差しで訔を見つめ、静かに告げた。
「恐らく……君は『自分が弱い』ことは認めた」
「……」
「だがまだ――誰かに頼ることを認めていない」
訔の呼吸が止まった。
画面には、未完成の条件式が虚しく明滅していた。
HARD + CRED
そして、その中央に刻まれた巨大な空欄。
【 】
あと一つ。この空白を埋める「何か」がなければ、ハードカバーの真の力は目覚めない。
夜の底のような暗闇の中。
バインド・ジャークは高台から、眼下に広がる街の灯りと、そこに蠢く無数の人間たちを見下ろしていた。
夜遅くまで街灯の下を歩く学生。
居酒屋で頭を下げる会社員。
子供を抱きかかえる親。
教壇で書類を抱える教師。
街頭に立つ警察官。
病院で灯りを消す医師。
それぞれの背後に、不気味な黒紫の過剰文字と太い鎖が巻きついていた。
【学生らしく】
【社会人なら】
【親なんだから】
【先生なんだから】
【医者なんだから】
役割、期待、常識という名の不寛容な不寛容な鎖。
バインド・ジャークは幾何学的な鉄仮面を静かに持ち上げ、闇に向かって静かに宣言した。
「弱さを認めるだけでは――人間は自由にはなれない」
バインドの手から放たれた無数の【縛】の鎖が、夜の街全体へと、感染するように静かに伸びていった。
「次は――お前たちの『役割』を縛ろう」