帝都大学・言語考古学研究室の奥深くに存在する、地下ガレージ。
コンクリートの壁に囲まれた広い空間には、オイルの香ばしい臭いと機械油の匂いが漂っていた。白熱灯の光が照らし出す中央のリフトには、パールホワイトと艶消しブラックの重厚なフレームを持つ大型バイク――ライドワーダーが鎮座している。
ウエスを片手に、マシンの重厚なフロントカウルを誇らしげに磨き上げているのは陸だった。
「ヘイヘイ! 訔、見てくれよこのツヤ! 音羽センセーと教授が解析した古代の『言葉の器』の骨格に、俺が最高のアシストとメカワークを注入した極上マシン……『ライドワーダー』の調整、完璧に完了だぜ!」
陸は額の汗を袖で拭うと、親指を立てて満面の笑みを浮かべた。車体側面には、バイトドライバーと同系統の武骨な鋼鉄の顎のようなスロットが組み込まれ、荒々しくも美しい機能美を放っている。
「ちょっと陸、表面の磨き込みもいいけど、ラムエア機構の吸気フィルターにホコリを落とさないでちょうだい」
作業台のモニター群から振り返り、呆れたように息をついたのは響だった。彼女は手元に置かれていた、鮮やかなイエローに輝くライドワードを取り上げると、ゆっくりと訔へと歩み寄る。
「はい、これが今回新しく調整した【走】のライドワードよ」
訔は提示されたデバイスを静かに見つめ、受け取った。手のひらの上で、イエローのフォントデバイスがまるで心臓の鼓動のようにかすかに脈動している。
「これをバイトドライバーのスロットにセットして」
響は腕を組み、メガネのブリッジを押し上げながら解説を続けた。
「ダッシュワードのエネルギーが空間のフォントエネルギーを励起させて、このライドワーダーの骨格と実体を瞬時に構成・物質化させるわ。あなたのバイタルと音圧が共振すればするほど、マシンは音速を超えて加速する……まさに『
「……ライドワーダー」
訔は指先でダッシュワードの表面をなぞり、その重みと期待を噛み締めた。
「ふむ……言葉の加速、か」
地下ガレージの壁際に置かれた古びた木製デスクで、何冊もの分厚い古文書を広げていた宗一が、眼鏡の奥の目を細めて声をかけた。
「訔、『吹く』という言葉の成り立ちと意味を知っているか?」
「吹く……ですか」
「そうだ。言葉には、芽吹いたばかりの若い才能や希望を温かく育てる『追い風』もあれば、他人の心を踏みにじり、築き上げた全てを吹き飛ばしてしまう悪意の『暴風』もある」
言導は古文書に記された、風を模した古代文字を指でさすりながら、静かに、だが重々しく告げた。
「特に現代のネット社会における『
「……はい、教授。心に刻みます」
訔は力強く頷き、ダッシュワードをポケットへと深く収めた。
陸が「よしっ! 準備万端だな! いつでも発進できるぜ!」とポンと訔の肩を叩く。響もオペレーション端末の前に座り直し、「いつ悪意の波形が観測されてもいいように、全エリアの音響監視ラインを展開しておくわ」と画面を叩き始めた。
新しく生まれた「足」と、深まる仲間たちの絆。
嵐の前触れを予感させながらも、研究室には確かな信頼と決意の風が吹き抜けていた。
*
東京湾を臨むベイサイド沿いの高速道路、そしてその高架下にどこまでも広がるウォーターフロントの美しい市街地。
橙色と紫色のグラデーションが広がる夕暮れ時、海風が心地よく吹き抜ける港町は、一見すれば普段と変わらぬ平和で穏やかな時間が流れているかのように見えた。
しかし、人々の手元に握られた無数の小さな画面――目に見えない電子の海の中では、あまりにも凄惨で容赦のない「言葉の暴力」が、巨大な津波となってリアルタイムで渦巻いていた。
『【緊急拡散】あの有名動画クリエイターの裏の顔w 住所と本名特定したから速報で晒すわww』
『やっぱり裏でファンをバカにしてたんだな! 人間のクズ! 今すぐ社会から消えろよ!』
『嘘つき! 謝罪動画出せよ! みんなでトレンド1位にして徹底的に追い詰めて潰そうぜ!!』
スマートフォンやPCの画面越しに、見知らぬ群衆の手によって面白半分で打ち込まれ、放たれる無数の悪意。
他人の失敗、過去の過ち、あるいは捏造されたプライベートの噂を吹聴する書き込みが、SNS上の自動アルゴリズムと群衆の底浅い野次馬根性に煽られて爆発的な勢いで拡散し、急上昇トレンドを埋め尽くしていた。
「嘘だ……! そんなの……全部デマなのに……! どうして……どうして誰も、本当のことを確かめようとしてくれないんだ……!?」
高架下の薄暗い歩道で、スマートフォンの画面を破れんばかりの力で握りしめた一人の青年が、ガタガタと全身を激しく震わせながら絶望に打ちひしがれていた。
ディスプレイの表面を覆い尽くすように高速でスクロールしていく無数の嘲笑、個人情報の暴露、自宅周辺の写真、そして根も葉もないデマの拡散。
面識すらなく、青年の人生の苦悩など何一つ知りもしない不特定多数の群衆が、ただ「バズるから」「みんなが叩いているから」という理由だけで面白がって放つ「吹聴の言葉」。
それらは目に見えない鋭利な刃となって、青年の心と尊厳を容赦なくズタズタに切り刻んでいく。
一度ネットの風に乗り、不特定多数の悪意を吸い込んで巨大化した言葉の嵐は、もう誰の手にも止められない。
青年が震える指先で必死に打ち込んだ、涙ながらの弁明や真実の言葉など、あっという間に暴言と嘲笑の激流へと巻き込まれ、何一つ届くことなく泥の中に消し去られていく。
「やめてくれ……! 頼むから……もう何も喋らないでくれ! 拡散しないでくれぇぇぇっ!!」
青年の喉から絞り出された魂の叫びは、車の走行音にかき消され、虚しく夜の街へと溶けていった。
その瞬間だった。
キィィィィィン――――!!
街全体の空気が歪み、人間の鼓膜を直接鋭く刺すような、不快で凄まじい高周波の金属摩擦音が不響和音となって響き渡る。
青年の掲げる端末から、そして周囲のカフェや路上でスマートフォンを操作し、噂話を嬉々として拡散していた野次馬たちの画面から、黒紫色の不気味な粒子が黒煙のように立ち上り、上空の一点へと集束していった。
空間が歪み、その悪意の渦の中心に歪な軌跡を描いて跳来したのは、どす黒い漆黒の【吹】のライドワードだった。
ライドワードは空中で狂ったように超高速回転すると、絶望に身を捩る青年の口元へ向かって、容赦なく突き刺さるように食らいついた。
《吹け》
「ガハッ……!? あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
青年の喉から漏れた絶叫は、一瞬にして暴風の轟音へと変化する。
彼の全身から噴き出した黒紫色の粒子が嵐となって狂暴に巻き起こり、人間の肉体を黒い金属装甲と巨大な高圧送風ノズル、そして背中に備え付けられた巨大な三連吸気ファンへと変貌させていった。
「ヒャッハーッ! 逃げ惑え、愚かな人間どもめ!」
背中のメインファンが爆音を上げて超高速回転を開始し、宙へとゆらりと浮き上がった怪人――バキューム・ジャークがそこに降臨していた。
「吹いてやる! 撒き散らしてやる! くだらない噂も、人間のちっぽけな命も、全部吹き飛ばして崩壊させろぁぁっ!!」
バキューム・ジャークが両腕の巨大なノズルを前方へ勢いよく突き出すと、体内の悪意圧縮タンクが不快な重低音を鳴らし始める。
次の瞬間、破壊的な威力を秘めた不協和音の巨大な竜巻が解き放たれた。
「ギャーッ!?」
「うわあああっ! 車が飛んできたぞ! 逃げろーッ!」
猛烈な暴風の衝撃波が、ベイサイドの市街地を直接撃ち抜いた。
路上に立ち並んでいた大型の金属製案内看板が紙屑のように引きちぎられて空中を舞い、高架下を走っていた乗用車やトラックが何台も軽々と浮き上がり、空中へ巻き上げられて路上や建造物へ激しく叩きつけられる。
街灯は根元からへし折れ、沿道の店舗の強化ガラスが粉々に砕け散って、暴風に乗った凶器の雨となって周囲へ降り注ぐ。
「ハハハハッ! もっと拡散してやるぞ! 風に乗れ! 悪意の噂とともに、すべてを吹き散らせぇぇっ!!」
バキューム・ジャークは脚部からの高圧噴射で高速道路の上空へ躍り出ると、湾岸沿いのハイウェイを自在に滑空しながら、次々と破壊の竜巻を市街地へと打ち込み始めていた。
止めようのない悪意の風
湾岸高速道路の片側三車線の上空を、黒紫色の凶悪な風が狂おしく切り裂いていた。
背中の三連吸気ファンをけたたましく高速回転させ、足元に破壊的な旋風を纏ったバキューム・ジャークは高速道路の遮音壁や路面すれすれを超高速で滑空しながら、両腕の送風ノズルから真空の風弾と暴風の衝撃波を次々と撒き散らしていた。
「ギャーッ!?」
「うわあああっ! た、助けてくれぇっ!」
時速百キロ近くで走行していた大型トラックや乗用車が、横合いから叩きつけられた不協和音の突風によって軽々と横転。路上を火花と金属片を撒き散らしながら滑走し、次々と多重クラッシュを引き起こしていく。
「ハハハハハッ! 逃げろ、散れ、吹き飛べぇぇッ! 拡散される噂に終わりがないように、俺の風も誰にも止められなぁぁいッ!!」
バキューム・ジャークは高笑いを上げ、破片と悲鳴が飛び交うハイウェイをさらに加速。東京湾からの強風を巻き込み、巨大な竜巻を形成しながら港湾地区の市街地へと向かって被害を拡大させていく。
――その時だった。
キュゥゥゥィィィン……ドォォォォンッ!!
不快な暴風の重低音を突き破り、地を這うような重厚な排気音が高速道路の遥か後方から猛烈な勢いで迫ってくる。
後方から疾走してきたのは、マットブラックの車体を車高低く沈め、海風を切り裂いて突き進むキャンピングカーだった。
「訔! 敵は上空と路面を交互に滑空しながら西へ向かってる! この速度域に追いつけるのは、あいつしかねえぞッ!」
ステアリングを握る陸が、後部ガレージへと繋がる通信用マイクに向かって叫ぶ。
「ああ、分かっている」
キャンピングカーのハッチがギギギと重厚な音を立てて開放され、激しい風圧が車内へ吹き込んできた。ハッチの縁に立ち、チャコールグレーのロングコートを猛烈に羽ばたかせながら、訔が眼下のハイウェイを見下ろす。
訔は胸元にバイトドライバーをカチリと装着すると、ポケットから黄色に煌めく【走】のライドワードと紫色に煌めく【咬】のライドワードを取り出した。
「走れ、言葉の道を――!」
訔はダッシュワードをバイトドライバーのスロットへ力強く叩き込む。
《走る》
「変身ッ!」
《
ドライバーの鋼鉄の顎が激しい音を立てて密閉され、隙間から爆発的なイエローの粒子が前方のアスファルトへ向けて射出された。
《
フォントの粒子が前方の路面で渦を巻き、光の粒子が瞬時に重厚な金属骨格とタイヤを構成していく。
眩い光の収束とともに、ライドワーダーが、時速百キロを超える完全な並走状態で路面上に実体化・変形完了した。
《
同時に、訔は仮面ライダーバイトへと姿を変える。
バイトはキャンピングカーのハッチからハイウェイの路面へ跳躍し、疾走するライドワーダーのシートへと吸い込まれるように着地する。
そして、深く沈み込むフォームで左右のハンドルをガッチリと握り締めた。
「行くぞ……ッ!!」
バイトがアクセルグリップを全開まで一気に捻り上げると、車体両脇から重低音の共振波が放たれ、ライドワーダーは弾かれたように急加速。爆発的な推進力で路面を蹴り上げ、前方を滑空するバキューム・ジャークへ向かって一気に肉薄していく。
「ぬぅ……!? なんだあのマシンはぁぁっ!?」
後方からの異常な接近に気づいたバキューム・ジャークが、滑空しながら振り向く。怪人は両腕のノズルをバイトへ向け、圧縮された真空の風弾を連続で射出した。
目に見えない空気の弾丸が、路面を切り刻みながらバイトへと迫る。
『訔! フロントのサスペンションとラムエア機構は、アナタの荒いライディングの衝撃をそのまま推進力に変換するように組み込んであるわ! マシンの性能を信じなさい!』
インカムから響のシャープな声が飛び込む。
「了解だ……ッ!」
バイトは怯むことなく、ライドワーダーのフロントカウルを風弾の軌道へと真っ直ぐに向き直直させた。
ガンガンガァンッ!!
超高速で飛来した真空の刃が、ライドワーダーのフロントカウルに刻まれた鋼鉄の顎へと直撃する。だが、陸が極限まで鍛え上げたサスペンションが衝撃を完璧に吸収・いなし、吸気口が風圧をそのまま取り込んでエンジン出力へと転換する。
排気音がより甲高さを増し、ライドワーダーは衝撃を力に変えてさらに速度を上げた。
「なにぃぃぃっ!? 俺の風弾を吸収しただとぉぉっ!?」
驚愕するバキューム・ジャークに対し、バイトは車体を傾け、横転した大型トラックや崩落した遮音壁の瓦礫を、寸前で最小限のハングオンによって回避していく。
陸の手によってミリ単位で調整された足回りは、極限のハイスピード領域であっても路面を一切離さず、吸い付くようなグリップ力を発揮していた。
「陸のチューニング……完璧だな」
バイトは高速道路の緩やかなカーブを利用し、バキューム・ジャークの側面に一気に並びかけた。
「舐めるなよ、ネズミがぁぁぁっ! 近づけば細切れにしてやるッ!!」
バキューム・ジャークは足元の竜巻を肥大化させ、ライドワーダーごとバイトを高速道路の外へと吹き飛ばそうと、密着状態で猛烈な暴風を叩きつける。
だが、バイトはハンドル脇を見つめ、静かにアクセルを踏み込んだ。
フォォォォン……フォォォォンッ!!
ライドワーダーの排気口から吐き出される重低音の共振波が、バキューム・ジャークの放つ暴風の波形と真っ向から干渉・相殺し始める。
空気の振動と振動が激しくぶつかり合い、ハイウェイの上空で火花と空間の歪みが弾け飛ぶ。
ライドワーダーの重厚な車体は一歩も引かず、むしろ暴風の壁を内側から破砕するように敵の横腹へと圧をかけていく。
「な……なにっ!? 俺の暴風の波形が……打ち消されている……!?」
「逃がさない……! 言葉を悪意で吹聴するお前の暴風、ここで咬み砕く!」
バイトとライドワーダーは、極限のハイスピード領域を維持したままバキューム・ジャークの側面に張り付き、排気口から吐き出される重低音の共振波によって、怪人が纏う悪意の暴風を完璧に押し潰していた。
「ぬ……ぬうぁぁぁっ! なんだこのマシンは! なぜ俺の風が押し戻されるぅぅっ!?」
バキューム・ジャークは焦燥に顔を歪め、両腕の送風ノズルから放つ真空の風弾を乱れ打ちにする。だが、それらはすべてライドワーダーの重厚なフロントジョーと、陸の手によってミリ単位で調整された足回りによって呆気なくいなされ、衝撃を推進力へと変換されていく。
「ここだ……ッ!」
ジャンクション中央の広い開口部へ躍り出た瞬間、バイトの瞳がバイザーの奥で光った。
バイトはライドワーダーのステップを強く踏み込むと同時に、アクセルグリップを全開から一気に固定。加速の慣性を利用してシートから垂直方向へと跳躍した。
「なっ……空中だと!?」
高速で滑空していたバキューム・ジャークの目の前に、紫とパールホワイトの装甲を纏ったバイトが立ちふさがる。空中での無防備な隙を突くべく、バキューム・ジャークは両腕のノズルをバイトの胸元へ突き突き出そうとした。
だが、バイトの動きは速かった。
空中という足場のない空間でありながら、バイトは空中で身体を鋭く捻り、全身の質量を乗せた強烈なドロップキックを怪人の胸部ファンへ叩き込んだ。
「グハァッ!?」
激しい金属打撃音がジャンクション内部に轟き渡る。
バキューム・ジャークは空中での体勢を完全に崩し、高架の極太なコンクリート支柱へと激しい勢いで衝突。支柱を豪快に粉砕しながらアスファルトの路面へと叩きつけられ、激しい火花を撒き散らして滑走した。
同時に、乗り手を送り出したライドワーダーは
バイトはアスファルトを破砕しながら静かに地上へ着地し、ゆっくりと体を起こす。
「ガハッ……ゴホッ! 貴様……貴様ぁぁぁっ!」
瓦礫を押しのけ、不快な金属音を立てて立ち上がるバキューム・ジャーク。その胸部のファンからは黒い煙が立ち上り、足元の暴風も大きく乱れていた。だが、その瞳にはなおも溢れんばかりの醜悪な悪意が狂暴に渦巻いている。
「許さん……絶対に許さんぞッ! たかが人間の分際で、この俺の『吹く』言葉を……悪意の風を遮れると思うなよぉぉぉっ!!」
バキューム・ジャークは両腕を広げ、体内の圧縮タンクを過熱させながら爆発的な風圧を周囲へ放出した。
ジャンクション内に閉じ込められた暴風は巨大な真空の渦となり、路上に散乱していた標識や瓦礫、破壊された大型トラックの残骸を大量に巻き上げながらバイトへと襲いかかる。路面を削り取りながら迫る風圧は、これまでの追撃戦とは桁違いの質量と破壊力を秘めていた。
『訔! 直撃させたらジャンクションの構造体ごと吹き飛ぶわ! 風圧を正面から押し潰すだけの質量と流動圧力が必要よ!』
インカム越しに響の切迫した声が響く。
「ああ……分かっている。奴の暴風を澄んだ『流れ』で飲み込む!」
バイトは右手を腰のホルダーへ回した。
指先が掴んだのは、先日の壮絶な激闘の末に、過去の罪と呪いを乗り越えて浄化を果たした【流】のライドワード。
澄み切ったコバルトブルーに光り輝くそのデバイスは、かつての禍々しい濁りは一切なく、清冽な大河のような静かな波紋を表面に漂わせていた。
訔はライドワードを掲げ、胸元のバイトドライバーのスロットへ勢いよくセットする。
《流れる》
「ワードチェンジ」
バイトは両手をドライバーのレバーへと掛け、渾身の力でレバーを引く。
《
噛み合わさった顎の隙間から、それまでの高音の共振波とは一線を画す、まるで大海原の深遠から立ち上るような重厚で清冽な粒子が放たれた。
《
眩いコバルトブルーの粒子がバイトの全身を包み込む。
漆黒の基本装甲の上に、流体工学を思わせる重厚かつ美しいコバルトブルーとパールホワイトの流線型装甲が瞬時に構成・固定されていく。両肩と胸部には高圧水流をコントロールする重厚なスリットノズルが追加され、複眼に深い海原を思わせる澄んだ青い光が宿った。
「これが……【流】の力……!」
ハイドロワードへと変身を遂げたバイトは、迫り来る暴風の渦に対し、ブレることなく踏み出した。
「ハァァァァッ!!」
バイトが両腕を前方に交差させると、全身の流体装甲のスリットから爆発的な高圧水流が噴射された。
清澄な高圧水流は瞬時に巨大な水の防壁を形成し、バキューム・ジャークが放った真空の暴風と正面から激突する。
激しい水の蒸気と風の衝撃波がジャンクション内部に爆発的に吹き荒れた。しかし、バキューム・ジャークの暴風はバイトが放つ水流の「重圧」と「流動」によって勢いを削がれ、噛み砕かれるように次々と相殺・拡散されていく。
「な、なにぃぃぃっ!? 俺の風が……水に押し潰されていく……だと!?」
バキューム・ジャークが愕然と目を見開く中、バイトは高圧水流を水膜の刃へと変換し、一気に前進。
両腕のノズルから放たれた水流カッターがバキューム・ジャークの胸部と両腕を直撃。衝撃で怪人はノズルの装甲を砕かれ、絶叫とともに路面へ激しく転倒した。
「ハァ……ハァ……」
バイトの装甲から溢れる綺麗な粒子が、ジャンクション内の煤煙と悪意の残滓を清らかに洗い流していく。完璧な勝利――誰もがそう確信した、その瞬間だった。
「ヒハ……ヒハハハハッ! ハーッハッハッハッ!!」
瓦礫の中に倒れ伏していたバキューム・ジャークの口から、脈絡のない不気味な高笑いが漏れ聞こえた。
「何が可笑しい……!」
バイトが警戒を強め、間合いを詰める。
バキューム・ジャークはゆっくりと体を起こすと、砕けた胸部のファンをバイトに向け、歪んだ笑みを浮かべた。
「ヒハハッ! 愚かだなあ! 『吹く』という言葉の本当の恐ろしさは……風を吹き飛ばすことだけじゃないんだよ……!」
怪人の全身の関節が、ギチギチと異音を立てて逆方向へと歪み始める。
「『吹く』言葉の真骨頂……それは、噂を吹き回し、周囲の悪意や恐怖を『吸い込む』ことだぁぁぁっ!!」
キィィィィィィィィィン―――――!!!!
バキューム・ジャークの背中の三連ファン、そして胸部のファンが、これまでの回転とは真逆の――空間を破裂させるほどの超高速逆回転を開始した。
『なっ……何が起きているの!?』
キャンピングカー内でオペレーションを行っていた響が、急激に跳ね上がった警告音に悲鳴のような声を上げた。
「音羽センセー! データはどうなってる!?」
『信じられない……! 市街地やSNS上で渦巻いていた『デマ』や『暴言』の不協和音だけじゃない……! 被害者たちの『絶望の感情』、さらには……訔がハイドロワードで解き放った高圧水流のエネルギーまでも、全部あのファンで強引に吸い込んで吸収しているわ!!』
ジャンクション全体に、猛烈な大気の逆流――巨大な超吸引力が生じた。
路面に転がっていた何トンものコンクリート片、壊れた車両の鉄塊、さらにはジャンクションの周囲に漂う粒子の残滓までもが、巨大な掃除機に吸い込まれるゴミのようにバキューム・ジャークの胸部ファンへと吸い寄せられていく。
「グ……ウアァァァッ!?」
莫大な悪意エネルギーと水流エネルギーを体内に過充填されたバキューム・ジャークの体が、ギチギチと音を立てて巨大化し始めていた。
金属装甲は黒濁した凶暴な尖角を生やし、両腕のノズルは数倍の大きさに膨れ上がる。全身のファンは黒紫色の悪意の渦を撒き散らし、その姿はもはや一匹の怪人ではなく、歩く「悪意の暴風兵器」へと変貌を遂げていた。
「ヒハハハハッ! 素晴らしい! 溢れるぞ、悪意が、言葉の毒がぁぁぁッ!」
超巨大化・超強化を果たしたバキューム・ジャークが、その巨体から猛烈な逆風を解き放つ。
「ぐっ……おおおぉぉぉっ!?」
ハイドロワードの重厚な足腰をもってしても、足元のアスファルトが削れて削岩機のように粉砕されていく。バイトの身体は、抗いようのない巨大な吸引力によって、怪人の超巨大な胸部ファンへとズルズルと引き寄せられていく。
さらに、コンソールが自動制御で待機していたライドワーダーまでもが、数トンの車体を悲鳴のようにきしませながら、浮き上がって怪人のファンへと吸い込まれそうになっていた。
「ライドワーダーまで……ッ!」
「ヒハハッ! 吸い込んで、体内で圧縮して、お前もろともそのバイクも粉々に爆破破砕してやるぁぁぁっ!」
『しまっ……! 訔、逃げなさい! 水流バリアを展開して距離を取るのよ!』
響の叫びに応え、バイトはハイドロワードの全エネルギーを両腕に集束。最大圧力の水流バリアを展開して吸引力に抗おうとする。
しかし、放出された水流すらも怪人のファンに吸い込まれ、逆に怪人のエネルギーへと変換されてしまう。バイトの足は完全に路面から離れ、怪人の胸前で展開する死の回転刃の数メートル手前で、水流バリアの推進力だけでかろうじて引き留められている絶体絶命の絶望的な状況に陥っていた。
「くっ……踏みとどまるのが……限界だ……ッ!」
バイトの装甲から激しい火花が吹き飛ぶ。ハイドロワードのエネルギー残量が急速にレッドゾーンへと落ち込んでいく。
それだけではない。
バキューム・ジャークが放つ過剰な吸引力と悪意の不協和音は、高架下のジャンクションだけに留まらず、ベイサイド全体、そして東京湾上空の大気を急速に巻き込み始めていた。
雲が漆黒に濁り、空全体が巨大な漏斗状の渦を描き始める。
研究室の大型モニターを見つめていた言導教授が、目を見開いて立ち上がった。
「怪人が吸い込み、吐き出す悪意の循環が……気象そのものを変貌させている! このままでは……ベイサイド全体を飲み込む『超巨大台風』が発生してしまうぞ!!」
街全体に響き渡るサイレンの警報音。
漆黒の渦を巻く空、荒れ狂う海、暴風に悲鳴を上げる市街地。
そしてジャンクションの中心で、巨大化した怪人の死の吸引力に捕らわれ、身動きを封じられたバイト。
「ヒハハハハッ! 終わりだ! 噂の暴風に呑まれ、己の放った言葉に溺れて死ねぇぇぇっ!!」
バキューム・ジャークの冷酷かつ狂悪な高笑いが、嵐の轟音とともに夜空へ響き渡る。