早朝。
帝都大学・言語考古学研究室。
差し込む朝日に照らされ、研究室の空気には細かなチリが静かに漂っていた。
デスクの大型モニターの前で、響はキーボードを叩く手を止め、透明なクリアグリーンへと浄化された【吹】のライドワードを凝視していた。
「……波形は完全に安定している。概念の過飽和も、不純な衝動のノイズも検出されない」
響の呟きに応えるように、モニターにはこれまでに彼らが回収し、解読に成功したライドワードのフォントデータが整然と並び表示される。
【燃】
【切】
【流】
【吹】
重厚な明朝体のごとき輪郭で浮かび上がる4つの漢字。
それらを眺めながら、デスクの縁に腰かけていた陸が缶コーヒーを口にし、小さく息を吐いた。
「こうやって見ると、だいぶ集まってきたな。4つのワードか……最初は一つ扱くだけで死にそうになってたってのにさ」
陸の言葉には、幾多の死線を潜り抜けてきたという確かな自負が混じっていた。
だが、部屋の隅にあるパイプ椅子に深く腰掛けた訔の表情は、一向に晴れない。膝の上に置いた両手は固く握りしめられ、その視線は床の一点に落ちていた。
昨夜、バキューム・ジャークを撃破した直後。
ガレージの全空間を激震させ、給水塔を爆砕せしめたあの異様で圧倒的な【暴】の気配。
その残香が、いまも訔の皮膚感覚にへばりついて離れなかった。
「……あれは、今までのジャークとは違った」
訔の声は掠れていた。言葉の一つひとつを、噛み砕くようにして紡ぎ出す。
「今までの奴らは、言葉の意味を間違えたり、感情に飲み込まれた人が怪人になってた。でも……あの【暴】の波形は……」
響が眼鏡のブリッジを押し上げ、重々しい口調で言葉を継ぐ。
「ええ、私の解析でもそれは裏付けられているわ。昨夜観測された【暴】の波形には、人間の生体波形。心拍や脳波、生体ノイズがほとんど存在しなかった」
「……どういうこと?」
陸が眉をひそめる。
響はキーボードを叩き、昨夜の波形データを3Dホログラムとして画面に拡大した。歪んだ脈動を描く波形ではなく、それはあまりにも硬質で、無機質で、最初から破壊のためだけに完璧に構築された極悪な波形だった。
「つまり……人間が感情の歪みによってジャークに変化したんじゃない」
響の言葉を受け、訔がゆっくりと顔を上げる。その瞳には深い不穏の影が宿っていた。
「ジャークそのものが、最初から『人の姿』をして現れたんだ」
息をのむ陸。
室内に重苦しい沈黙が落ちる。人間の悪意や誤解を利用する存在ではなく、言葉の概念そのものが明確な意志と牙を持って人類を襲い始めたのではないか――その悪夢のような仮説が、3人の脳裏を駆け巡っていた。
その沈黙を、突然の甲高い警告音が切り裂いた。
「えっ……!?」
響が即座にメインコンソールへと向き直る。
壁掛けの大型モニターが自動的に切り替わり、SNSのリアルタイム・トレンド欄が目まぐるしい速さで更新されていく。
そこにあったのは、最悪の文字列だった。
『仮面ライダーバイト正体判明』
『怪人の発生源は仮面ライダー?』
『【閲覧注意】衝撃の映像』
トレンドの最上位を埋め尽くす不吉なワード。
陸が画面に身を乗り出す。
「……は? なんだよこれ、バイトの正体って……」
響がトレンドの最上位にリンクされた動画を再生する。
ノイズ混じりの映像が画面いっぱいに広がった。どこかの薄暗い路地裏だ。画面の手前に立つ一人の青年。
黒いパーカー。無造作な髪。そして、その顔。
――音無訔。
「な……ッ!?」
陸が絶句する。
画面の中の「訔」は、足元に倒れて苦しむ一般男性を見下ろしていた。そして、自らの胸部に『バイトドライバー』を滑らかに装着する。不気味な顎のギミックが怪しく開閉する。
次の瞬間、「訔」がバイトドライバーから放たれた黒いノイズの波動を、倒れている男性へと浴びせた。
男性は悲鳴を上げ、その肉体が歪み、一瞬にして禍々しいジャークへと変貌を遂げていく。
まるで——仮面ライダーバイト自身が、市井の人々を怪人へと変貌させているかのような悪意に満ちた映像。
「……ありえない」
響の指が凍りつく。
「おいおいおい……なんだよこれ! 冗談だろ!? なんで訔が怪人を作ってんだよ! 偽物か!? 合成動画か!?」
陸が叫ぶように言葉を荒らげる。
訔本人は、言葉を失ったまま静かに立ち上がり、モニターの映像を見つめていた。
画面の中の「訔」が、ゆっくりとカメラの方へと首を向ける。
その口元が、歪んだ嗤いを刻んだ。
『ジャークは俺が生み出している』
スピーカーから漏れ出たのは、紛れもない、音無訔自身の声だった。
声調、抑揚、息遣い、そして声帯の微小な震えに至るまで――一字一句、目の前にいる訔そのものだった。
*
数時間後
ネットの海を駆け巡った毒は、瞬く間に現実の世界へと溢れ出していた。
SNSのタイムラインは、狂乱したハッシュタグで埋め尽くされていた。
『やっぱり怪人とグルだったのか』
『バイトが現れるところに毎回怪人がいるのおかしいと思ってた』
『帝都大学も隠蔽してたんじゃね?』
『音無訔って帝都大の言語考古学者らしいぞ』
疑惑はすでに確信へと変わり、悪意は正義の顔をして膨れ上がっていく。
帝都大学の正門前には、どこから聞きつけたのか大量の報道陣と、スマートフォンを掲げた野次馬が押し寄せていた。怒号とフラッシュの明滅が、キャンパスの静けさを無惨に踏みにじっていく。
研究室のブラインド越しにその光景を見下ろし、陸は激しく机を叩きつけた。
「ふざけんなッ! なんだよこれ! こんなの全部デタラメだろ!! 訔が怪人を作ってるだのなんだの……訔はそんなこと一言も言ってねえ! なんでこんな酷え嘘を誰も疑わねえんだよ!!」
怒りに肩を震わせる陸の横で、響は無言のままキーボードを叩き続けていた。
彼女の眼光は凍りつくほどに冷たい。モニターには、拡散された拡散動画のフレーム解析データ、音声の周波数スペクトル、そして生体波形の比較グラフが重なって表示されている。
顔の微細な筋肉の収縮。
声紋の倍音成分。
瞬きの周期。
無意識の呼吸による胸郭の上下。
さらには、皮膚表面における環境光の複雑な反射率まで。
「……あり得ないわ」
響の口から、掠れた声が漏れる。
「音羽センセー……? 解析で『
「……生成映像じゃない」
「――は?」
陸が動きを止める。響の険しい表情に、血の気が引いていくのが分かった。
「生成映像じゃないって……じゃあ、なにか!? あの動画に映ってるのは本物の訔で、あいつが本当に怪人を……ッ!?」
「違う!」
響が立ち上がり、強く否定した。
「普通の映像加工やディープフェイクの領域じゃないって意味よ! CGやAIによる物理的な画像の歪み、フレームの接合痕、音声の合成ノイズ……デジタル上で生じるはずの『解像度の不整合』が、分子レベルでひとつも存在しないの!」
響は画面の一部を極限まで拡大した。
そこに浮かび上がっていたのは、映像のデジタルデータではなく、空間そのものの波形データだった。
音響データの底底、人間の耳には知覚できない超低周波数帯域に、ごく微細で不気味な不協和音が混入している。
そして、その波形が描く複雑な干渉パターンの中心に——見覚えのある重厚な文字の輪郭が、禍々しく浮き彫りになっていた。
【偽】
フォントデータとして刻まれた、一文字の漢字。
パイプ椅子に座っていた訔が、静かにその文字を見つめる。
「……ライドワードか」
「それだけじゃないわ……」
響の指が震えていた。
「これ……自律的に波形を書き換えてる。ネット上の動画データだけじゃない。この映像を観た人間の脳波、認識、さらには過去の記憶の波形にまで干渉して、『音無訔が犯人である』という解釈を物理的に定着させようとしている……!」
通常のジャークが放つライドワードの暴走とは、明らかに性質が異なっていた。
ただの破壊や感情の増幅ではない。
誰かが明確な意図を持って、世界そのものを欺く「偽物の真実」を捏造しているのだ。
「誰かが……文字通り『嘘』を本当の現実に作り変えている……」
訔の呟きが、冷え切った研究室の中に虚しく響いた。
同じ頃。
都市の片隅にある、雑居ビルの一室。
看板も出していない小さな映像制作会社の中で、若手映像クリエイター・
その顔面は泥のように蒼白で、唇はガタガタと震えている。
「なんで……どうしてこうなるんだよ……っ」
モニターに映し出されているのは、彼の会社が半年かけて制作し、先週公開されたばかりの大手企業のWebCMだった。
だが、その動画のコメント欄は、信じられないほどの誹謗中傷と批判の荒らしで炎上していた。
『最低の差別企業』
『こんなCM作ってるクリエイターも同罪だろ』
『人間のクズ。今すぐ死ね』
原因は、数時間前にSNSに投稿された一本の「切り抜き動画」だった。
CMのメイキング映像から、出演者の発言がわずか三秒間だけ切り取られて拡散されていた。
動画の中の出演者は、冷笑を浮かべてこう言っているように見えた。
『結局、特定のマイノリティなんて社会にいらないんですよね』
だが――元動画の文脈は、全くの逆だったのだ。
出演者は『ネット上には「特定のマイノリティなんて社会にいらないんですよね」というような酷い差別発言があふれていますが、それは絶対に許されないことです』と、差別を強く批判していたのだ。
文脈を前後にぶった切り、最も刺激的な単語だけを繋ぎ合わせることで、発言の意味が真逆に加工されていた。
優斗は血の滲む思いで、必死にキーボードを叩き、訂正の文章を投稿し続けていた。
『お願いです、元動画を見てください』
『これは悪意ある切り抜きです!』
『発言の前後をカットされていて、実際の意味は全く逆なんです!』
しかし、彼の悲痛な叫びが拡散されることはなかった。
届くのは、冷徹で無慈悲な嘲笑の返信ばかりだった。
『はいはい、言い訳乙』
『火消し必死すぎて草』
『動画で言ってるのが証拠だろ。都合悪くなったら捏造扱いかよ』
『こういう言い逃れする奴が一番害悪』
さらには、元動画のリンクを貼った投稿すら「捏造工作」だと決めつけられ、ついに炎上の矛先は優斗個人へと向けられた。
彼の名前、顔写真、出身大学、過去のSNSの投稿が次々と特定され、「捏造映像を作る悪質クリエイター」としてネット上に晒し上げられていく。
「違う……」
優斗は頭を抱え、涙をぼろぼろとこぼした。
「違うんだ……俺は……嘘なんてついてない……! 本当のことを……正しい意味を伝えようとしただけなのに……なんで誰も見てくれないんだよ……ッ!」
画面に映る無数の悪意。誰も真実など求めていない。誰も自分の言葉を聞こうとはしない。
世界全体から「お前は嘘つきだ」と烙印を押されたような、恐ろしい絶望と孤独が優斗の心を塗りつぶしていく。
「違う……俺は……」
「――そうね」
唐突に、背後から声が聞こえた。
優斗はビクッと体を震わせた。
誰もいないはずの部屋。締め切られたドア。
だが、暗闇の中でPCモニターの光を反射する部屋の姿見(鏡)の中に――「それ」は映っていた。
鏡の中に立つ、一人の女性。
実際の部屋には誰もいない。だが、鏡の中だけに存在するその人影は、妖艶でどこか恐ろしいほどに美しかった。
漆黒のドレスのようなロングコートを身に纏い、その胸元には怪しいクリア紫の光を放つプレートが埋め込まれている。
「あなたは嘘なんてついていない。本当のことだけを言おうとした……とても真面目で、可哀想な子」
女性の声は、甘い毒のように優斗の耳奥へと浸透していく。
優斗は恐怖で固まりながら、ゆっくりと振り返った。
誰もいないはずの背後の暗闇から、カツン、カツンとヒールの音が響く。
鏡の中から抜け出してきたかのように、胸元に【偽】の刻印が刻まれた黒いドレスの女性が、優斗の目の前にたたずんでいた。
彼女は、あまりにも優しく、憐れむような笑みを浮かべ、優斗の頬にそっと指を滑らせた。
「でもね、坊や」
彼女の赤い唇が、嘲笑を孕んで小さく開く。
「誰も……あなたの『本当』なんて、最初から興味がないのよ」
*
雨の残り香が漂う雑居ビルの路地裏。
湿り気を含んだ重い空気を切り裂くように、訔、響、陸の三人は足を速めていた。
響が手に持ったハンドヘルド型の解析端末が、電子音を刻み続けている。画面上で脈動する紫色のノイズ波形は、特定のアドレスを起点として都市の通信網へ加速度的に広がりを見せていた。
「この先よ。……【偽】の不協和音の発生源は、このビルの一室にある」
響の報告に、陸が苛立ちを隠せない様子で眉をひそめた。
「ったく、訔の偽動画の件といい、今回は手回しが早すぎるだろ。ネットの炎上騒ぎにライドワードが絡んでるなんて、まともに会話が成り立つ相手なのかよ」
「……行ってみるしかない」
訔は短く答え、黒いジャケットのポケットの中で固く拳を握りしめた。自分の顔と声を使って撒き散らされた「怪人の発生源」という凄惨な嘘。その悪意の根底にあるものが何なのか、自分の目で確かめなければならなかった。
雑居ビルの前に到達した瞬間、三人は足を止めざるを得なかった。
ビルの入口周辺は、人だかりで完全に埋め尽くされていた。
自撮り棒を取り付けたスマートフォンを掲げる個人配信者や、SNSの通知を見て駆けつけた野次馬たちが、押し合いへし合いしながらビルを見上げて怒号を浴びせている。
「例の捏造クリエイター出てこい!」
「企業から金もらって事実を歪めてたんだろ!」
「謝罪しろ! 人間辞めろ!」
「拡散希望! こいつの顔写真、拡散して社会的に殺しましょう!」
興奮した群衆の掲げる画面の明滅が、薄暗い街路を不気味に照らし出す。互いの正義感を補強し合い、暴力を正当化していく狂熱の渦。
訔はその光景を前にして、静かに息を飲んだ。
脳裏をよぎったのは、先日発生したバキューム・ジャークの件だった。あの時も、ネットの言葉に煽られた人々が暴徒と化し、言葉の意味を歪めて他者を追い詰めていた。しかし、決定的な違いがそこにはあった。
バキューム・ジャークの時は、悪意や不満を持つ人々が「嘘だと知りながら悪ノリで拡散する」狂乱だった。だが、目の前にいる群衆の瞳に宿っているのは、純粋で疑いようのない「正義」だった。
「またネットの炎上かよ……胸糞悪いな」
陸が苦々しく吐き捨てる。
「違う」
訔が低く、重い声でつぶやいた。
「え……?」
「今回は……全員、自分が正しいと思ってる」
誰も嘘を楽しんでなどいない。誰も悪意を持って誰かを陥れようとはしていない。全員が「自分は真実を知っている」「悪質な捏造クリエイターを正当に裁いている」と心から信じ込んでいる。その無垢な正義感こそが、刃となって標的を切り刻んでいるのだ。
「……行くわよ。野次馬に交じって裏口に回りましょ」
響の誘導で、三人は人波を掻き分け、ビルの非常階段から内部へと侵入した。
雑居ビル三階、照明の消えかけた小さなオフィス。
ドアの鍵は壊され、荒らされた室内には用紙や機材が散乱していた。その部屋の最奥、机の影で膝を抱えて激しく震えている青年がいた。
「桐谷優斗だな」
訔がゆっくりと近づき、静かに声をかけた。
優斗は弾かれたように跳ね上がり、壁に背中を押し付けた。その瞳は極限の恐怖と絶望に塗れていた。
「来ないでくれ! 頼むから……俺は何も……!」
優斗の視線が、訔の顔に固定された。
その瞬間、優斗の表情が恐怖から驚愕、そして強い警戒へと変わる。
「お前……音無訔……!」
数時間前からSNSで爆発的に拡散されている、あの動画の男。怪人を従え、市井の人々を怪物に変貌させていると噂される「最悪の元凶」。
「やっぱり……お前たちも俺を笑いに来たのか!? 怪人を作るような奴が、俺に何の用だよ!」
怯えと敵意を露わにする優斗に対し、訔は反論も弁明もしなかった。ただ静かにポケットから自らのスマートフォンを取り出し、画面を優斗へ向けた。
画面に映っているのは、訔自身がカメラに向かって「ジャークは俺が生み出している」と冷笑する、あの炎上動画だった。
「これも偽物だ」
訔の短く、飾らない一言。
優斗は息を呑み、訔の顔とスマートフォンの画面を何度も見比べた。
「……え?」
「俺も、同じだ。お前と同じように、存在しない嘘を『真実』として突きつけられている」
訔の瞳には、一切の揺らぎも、相手を欺こうとする嫌らしさもなかった。ただ静かに、同じ悲劇の渦中に置かれた人間としての事実だけがそこにあった。
優斗の全身から、ピンと張り詰めていた警戒の糸が少しだけ解けていく。
「……でも、ネットの誰もが……お前のことも、俺のことも……」
普通ならここで「俺を信じてくれ」「俺は味方だ」と甘い言葉をかけるかもしれない。だが、訔はそう言わなかった。信じることを強要される恐ろしさを、今の優斗が一番知っていると理解していたからだ。
「信じろとは言わない」
訔は優斗の目をまっすぐに見据えた。
「俺の言葉が本当かどうかは、お前自身が自分で確かめろ。……俺たちの『言葉』を取り戻すために」
かつての訔であれば、「悪意なんて俺が全部咬み砕いてやる」と、青臭い正義感を前面に押し出して相手を護ろうとしただろう。しかし、言葉の重みと解釈の暴走を目の当たりにしてきた訔は、他者の判断や思考そのものを尊重する小さな、しかし決定的な変化を遂げていた。
優斗はゴクリと唾を飲み込み、力なくうなずいた。
その横で、響がすでにPCコンソールへとアクセスし、キーボードを苛烈な速度で叩いていた。
「優斗さん、あなたが制作した元動画と、拡散されている切り抜き動画の波形を比較するわ」
「無駄だよ……元動画のリンクを貼っても、全部『捏造だ』って言われて……」
「いいえ、技術的な痕跡は必ず残るわ。初期の拡散映像には、フレームの接続部分に微小なデジタルノイズ——あからさまな切り抜き加工の痕跡が存在していた」
響の指が止まる。その瞳が、徐々に深遠な恐怖へと見開かれていく。
「……何これ。そんな……あり得ない……」
「どうした、音羽センセー? なんか分かったのか?」
陸が身を乗り出す。
響は解析画面を三次元ホログラムとして空間に投射した。そこには、初期の切り抜き動画と、現在ネット上で数万回リツイートされ増殖しているコピー動画の比較データが並んでいた。
「……増殖してる」
「何がだよ? 動画の数か?」
「……『嘘』よ」
響の声が震えていた。
「誰かがこの動画を保存し、拡散し、信じ込むたびに【偽】のフォント波形が情報を自律的に書き換えている。拡散されればされるほど、初期にあった『粗い切り抜き痕』が綺麗に消失してより“本物らしい嘘”へ進化しているのよ!」
「なんだと!?」
「最初は、誰が見ても不自然な切り抜き動画だった。でも100回拡散されれば繋ぎ目が自然な映像になり……1万回拡散されれば、プロの映像解析技術者でも見抜けない『完璧な真実の映像』へと書き換わる……!」
空間に漂う絶望の重圧。
信じる人間が増えれば増えるほど、観測者の認知が現実を上書きし、捏造された「嘘」が文字通り物理的な「事実」へと変貌していく。世界そのものが、人々の誤認によって歪められていく恐怖。
その瞬間。
――――ピピピピピピピピピピ!
室内の優斗のスマホ、訔のスマホ、陸のスマホ、そして外の街頭で群衆が掲げる無数のスマートフォンが一斉に、甲高い緊急通知音を鳴ら響かせた。
新たな動画の自動プッシュ通知。
画面が開く。そこに映し出されたのは——壊されたオフィスの中で、カメラに向かって土下座をし、涙を流しながら叫ぶ優斗の姿だった。
『申し訳ありませんでした! 全部……全部俺が話題作りのために捏造しました! 差別発言も、CMの文脈も、全部俺が仕組んだ嘘です!』
「な……ッ!?」
優斗が自分の画面を見て悲鳴を上げた。
「言ってない! 俺はそんなこと言ってない! 土下座なんてしてない!!」
だが、その悲鳴を踏みにじるように、ビルの外から地鳴りのような歓声と怒号が湧き上がった。スマートフォンを確認した野次馬たちが、狂喜乱舞して叫んでいる。
「聞いたか!? 本人が認めたぞ!」
「やっぱり捏造だったんじゃねえか!」
「最低だ! どこまでも嘘つきな奴だな!」
「許すな! 引きずり出せ!」
「違う……違うんだ! 俺じゃない! 俺はそんなこと言ってないんだあああッ!」
頭を抱えて泣き叫ぶ優斗の耳元に、どこからともなく、甘く冷たい女性の囁きが滑り込んだ。
『でも――みんなは、それを信じているわ?』
「――ッ!?」
空気の位相がズレる。
雑居ビルの部屋の中、光と影の境目から、ねっとりとした黒紫の霧が立ち込め、そこに一文字の巨大な漢字が浮かび上がった。
《偽れ》
重厚で禍々しい明朝体の漢字が、暗雲のようなノイズを撒き散らしながら、絶望に打ちひしがれる優斗の口元へと急速に迫る。言葉を失い、自らの真実を否定された人間の魂を食らい尽くそうとする顎。
「避けろッ!」
訔は一瞬の迷いもなく踏み込み、優斗の身体を力任せに突き飛ばした。
激しい衝撃音とともに優斗の身体が床を転がり、【偽】の文字は空を切った。
通常であれば、ターゲットを失ったライドワードは周囲の人間へと吸い寄せられるか、あるいは宿主の肉体に取り憑いてジャークを誕生させるはずだった。
だが——【偽】のフォントは、誰にも取り憑くことなく、静かに宙へと浮遊し続けていた。
「……な……?」
訔は強い違和感に目を見開いた。
ライドワードは人間の負の感情や言葉の誤読と共鳴して暴走する存在のはずだ。だが目の前にある【偽】の波形には、人間の生体反応が一切混じっていない。最初から「自律した意志」を持ってそこに存在している。
その違和感を証明するように、暗闇の奥から一筋の妖艶な笑い声が響き渡った。
「うふふ……残念」
優雅なヒール音が鳴り響き、黒いドレスの裾を揺らしながら、一人の美女が影の中から姿を現した。
彼女は優斗にも、陸にも目もくれず、ただまっすぐに訔を見つめていた。その瞳には、深遠な愉悦が宿っている。
訔はバイトドライバーへ手を伸ばしかけ、踏みとどまった。
「誰だ。……まさか、お前がこの嘘を撒き散らしているのか」
女性は嘲笑を浮かべ、細い指先を自身の艶やかな赤リップへと当てた。
「誰、なんて野暮なことを聞くのね。……あなたが一番よく知っているものよ」
彼女の言葉とともに、背後の【偽】の文字が不気味に揺らめき、都市全体の電子ノイズと共鳴し始める。
「――嘘。人が紡ぎ、人が信じ、世界を塗りつぶす……完璧で美しい、偽りの真実よ」
黒いドレスを纏った女性の身体が、突如としてデジタルノイズのようにブレ始めた。
《偽れ》
その輪郭が蠢き、無数の黒いフォント――異形を成す【偽】の漢字群へと解体されていく。文字が疾風のように渦を巻き、狂乱の音響波を撒き散らしながら再構築されていく。
現れたのは、鋭利で禍々しい漆黒の装甲と、鏡のように周囲の風景を歪めて反射する顔面を持つ怪人――ファルス・ジャークだった。