凄絶な衝撃波の渦中、バイトは間一髪で直人をかばい、その背中でクレド・ジャークの攻撃を受け止めた。
背甲を削る劇烈な火花。だが、その隙に陸が現場へ急行し、重厚な衝撃で怪人の意識を強引に反らし、崩落する瓦礫の煙幕に乗せて一度戦線を離脱することに成功した。
戦闘後、水城精機の廃工場からほど近い高架下の倉庫街。
薄暗い街灯の光が落ちる壁際で、訔は変身を解除し、荒い息を整えていた。そのすぐ傍らには、恐怖と悔しさで肩を震わせる直人が立ち尽くしている。
「話してくれ。何があった」
訔の低く落ち着いた声に、直人は絞り出すように語り始めた。数週間前、見知らぬアドレスから届いた1通のメール。ただの添付ファイル付きの業務連絡だと思い、何の疑いもなく開いてしまったこと。そしてその数日後から、兄の悠真の態度が急激に冷え込み、ついに今日、決定的な「証拠」を突きつけられたこと。
そこへ、後方支援用のモバイル解析端末を抱えた響が駆け込んできた。
「訔!」
「音羽、こいつのスマホを調べてくれ」
「ええ……やってみるわ」
響は直人からスマートフォンを受け取ると、すぐさま端末へ高速解析ケーブルを接続した。画面上に緑色のデータログが滝のように流れ落ちていく。
しかし、解析を進める響の表情は、時間が経つごとに暗く沈んでいった。
「……どうなんだよ、お姉さん! 俺の言った通り、ウイルスか何かで乗っ取られてたんだろ!?」
すがるような直人の問いに、響はキーボードを叩く指を止め、痛ましかしい視線を向けた。
「……少なくともデータ上は……あなたの端末から、あなたのアカウントを使って送信されているわ」
画面にはっきりと表示されているのは、競合他社への送信ログ。
送信元IPアドレス、固有のデバイスID、使用されたアカウント、そしてタイムスタンプ。そのすべてが、紛れもなく「水城直人本人」のものであることを完璧に証明していた。
「じゃあ……じゃあ俺が犯人だって言うのかよ!?」
直人が激昂し、響へ詰め寄る。
「そうは言ってない!」
響はまっすぐに直人の目を見返した。
「そうは言ってないわ……! 『分からない』と言っているの。データという事実と、あなたの主張が完全に食い違っている……今の状態じゃ、どちらが正しいのか証明できないのよ!」
「分からない……かよ……」
直人は力を失い、その場にへたり込んだ。乾いた笑いを漏らし、頭を抱え込む。
「兄貴も……同じだった」
直人の呟きが、高架下に虚しく響く。
「最初は『お前を信じる』って言ってくれたんだ……親父が死んだ時も、二人で頑張ろうって……。でも、この冷たい『証拠』を見た瞬間、全部終わりだ。今まで積み重ねてきた兄弟の時間なんて、何の役にも立ちやしない……!」
直人のその悲痛な叫びは、訔の胸の最も深い傷口を正確に射抜いた。
(証拠があるから終わり……か)
訔の脳裏に、研究室で目にしたあの古代文献。そして、真相を黙殺していた宗一教授の冷酷にも見えた沈黙が重なる。
「自分は裏切られたのだ」と決めつけ、すべてを拒絶して殻に閉じこもることは容易い。だが、その先に待っているのは、目の前の怪人——クレド・ジャークと同じ、狂気と孤立の地獄でしかないのではないか。
訔は深く息を吐き出し、立ち上がった。
「……音羽、彼をお願いする」
「訔? どこに行くの?」
訔は答えず、一人静かに大学へと向かって歩き出した。
*
夜の帝都大学・言語考古学研究室。
静まり返った部屋の中で、宗一は一人、作業台の前に腰掛けていた。手元に置かれているのは、あの『原典呪言』の記述が残された古い文献。
ギィ……と重いドアが開き、訔が入ってきた。
陸や響の姿はない。部屋には、訔と宗一の二人だけだった。
「教授」
訔が静かに呼びかける。
「……ああ」
宗一はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、かつてのような威厳と同時に、教え子に対する深い申し訳なさと諦念が混ざり合っていた。
訔は作業台の真前まで進み、宗一の目をまっすぐに見つめた。
「俺は今、あなたを疑っています」
言葉のナイフ。だが、宗一は逃げることなく、静かに頷いた。
「……当然だ。お前にそうされるだけのことを、私はしてきた」
「でも」
訔は言葉を区切り、少し間を置いた。胸の中で渦巻く感情を、一つ一つ確かめるように紡ぎ出す。
「疑っていることと……信じていないことは、同じなんでしょうか」
「……なに?」
宗一がわずかに目を見開く。
「分からないことがあります」
訔の瞳には、迷いではなく、確固たる探求の光が宿っていた。
「だから聞きます。納得できないなら、また聞きます。……それでも、最初から『裏切った人間だ』と決めつけて拒絶するのとは、違うはずだ」
宗一の目が、大きく揺れた。
教え子が突きつけてきたのは、怒りや怨嗟ではない。言葉を扱い、真実を追究する研究者としての、そして「音無訔」という一人の人間としての、高潔な姿勢だった。
「全部、話してください。教授……あなたが見たもの、隠していたもののすべてを」
宗一は目をつぶり、深く、深く息を吐き出した。
そして、震える手で作業台の奥から、さらに一冊の古い研究日誌を取り出した。
「分かった」
宗一は静かに日誌を開き、初めてその口から真実の一部を語り始めた。
「私は……あの発掘事故が起きる約十年前から、独自に音響文字文明の記録を研究していた」
宗一の声が研究室に響く。
「【暴】【偽】【黙】【縛】という四つの原典文字が存在し、それがかつて古代文明を滅亡へと導いた『災厄』に関係していることまでは把握していた。……それは事実だ」
訔は無言で耳を傾ける。
「だが……バイトドライバーそのものがどこに埋没しているか、その具体的な発掘地点までは私は知らなかった。あの事故の起きた遺跡に、それほどの高濃度な言語エネルギーが眠っていたことも……」
宗一はの日誌のページを指で撫でた。そこには十年前の彼自身が記した、苦悩に満ちたメモが残されていた。
「私に、お前たちを危険に晒す意図はなかった。それは誓って本当だ。だが……事故の直後、私は恐怖したのだ。『原典』の存在を公表すれば、学会から追放され、研究そのものが凍結されるのではないかと。……結果として、私は情報を伏せ、お前にすべての重荷を背負わせる形になってしまった」
宗一は顔を覆った。
「お前に恨まれても仕方がない。どんな罵倒も受ける覚悟はある」
重苦しい静寂が室内を包み込む。
訔は、差し出された日誌と、小さく見えた恩師の姿をじっと見つめていた。
「……まだ、全部信じたわけじゃありません」
宗一が弾かれたように顔を上げる。その表情には、明らかな驚きがあった。
訔は静かに、しかし力強く言った。
「だから、これから確かめます。あなたが語った言葉が本当かどうか……俺の目と、このドライバーで」
突き放すような、けれど決してみ捨てはしない言葉。
宗一の口元に、自嘲と感謝の混ざり合った、かすかな微笑みが浮かんだ。
「……それでいい。それが……言葉を扱う者の姿だ」
その時だった。
「待って!!」
研究室のドアが勢いよく開かれ、解析端末を抱えた響が飛び込んできた。後ろからは陸も走ってくる。
「音羽? どうした」
「水城直人さんのログよ! 高度な暗号解読とタイムコードの照合が終わったわ!」
響は端末の画面を中央モニターへキャストした。そこには、直人のスマートフォンのデータと、水城精機の周囲に設置された街頭監視カメラの映像が並んで表示されている。
「見て! データ上の送信時刻……14時23分! でも、この時間に直人さんは工場にはいなかったの!」
モニターの映像が再生される。
14時23分、直人は工場から三キロ離れた銀行の窓口におり、防犯カメラにその姿がはっきりと捉えられていた。
「な……!? じゃあアカウントの乗っ取りか!?」
陸が叫ぶが、響は強く首を振った。
「違う……端末そのものが操作された形跡はないわ。でも……送信されたデータの最深部、バイナリコードの隙間に……これが潜んでたの!」
響が画面の数値を極限まで拡大する。無機質な数字の羅列の中に、極微量の黒いノイズ波形――異形を成す一つの漢字が、寄生虫のようにへばりついていた。
【偽】
訔の瞳が鋭く細められた。
「ファルス……!」
「そうよ……! ファルス・ジャークが映像制作会社の事件を起こした際、彼女はすでに水城兄弟へも『偽』の種を撒いていたのよ!」
響の言葉に、陸が息をのむ。
「じゃあ……最初からこの兄弟をジャークにするのが目的だったのか!?」
「いいえ、違うわ」
訔が静かに、しかし断固とした声で引き継いだ。
「ファルスの目的は、怪人を直接作ることじゃない。……『人間が互いを疑う状況』を作り出し、その破綻した心へ、怪人となるライドワードを呼び込むことだったんだ」
ファルス・ジャークの手口。
それは単なる物理的な破壊ではない。人間が大切にしてきた絆や信頼の隙間に「偽り」の毒を注ぎ込み、互いを疑わせ、絶望した者の魂に自ら【信】の文字を狂わせた【歪】を抱かせたのだ。
「直人は裏切っていなかった……。悠真さんも、弟を信じたかったんだ」
訔はバイトドライバーを強く握りしめた。
「狂わされた言葉を……俺が咬み破る!」
*
月明かりが冷たく差し込む深夜の城南地区。
無機質なコンクリートの建屋が立ち並ぶ路地に、悲痛な怒号と暴走する音響圧力が再び渦巻いていた。
『裏切り者ぉぉぉっ!!』
クレド・ジャークの頭部に佇む巨大な一眼が、血のような赤紫色の光を激しく点滅させる。全身の南京錠が狂乱したようにギチギチと音を立て、路地の舗装を削り取りながら、怪人は一直線に水城直人へと迫っていた。
「ひっ……!」
直人は腰を抜かし、背後の壁に追い詰められる。目の前に迫る巨躯。自分を殺さんとする怪人が、かつて誰よりも頼もしかった実の兄・悠真であるという現実が、彼の足を完全にすくませていた。
「兄貴……!」
直人が恐怖で目を閉じた、その瞬間。
ドガァン!!
暗闇を切り裂いて滑り込んできた人影が、クレドの振り下ろした金属の拳を真正面から肘で弾き飛ばした。激しい火花が真夜中の路地を鮮烈に照らし出す。
「……そこまでだ」
直人の前に立ちはだかったのは、訔だった。
彼は一度も後ろを振り返ることなく、腰に装着したバイトドライバーのレバーを引き抜く。手に握られた【燃】のライドワードが、漆黒の光を放って装填口へ打ち込まれた。
《燃える》
「変身!」
《
《
顎を模したパールホワイトと赤とオレンジの炎を彷彿とさせる甲冑が重厚な金属音とともに訔の全身を覆い尽くす。バイト・フレアワードが、圧倒的な威圧感をもって再登場を果たした。
『邪魔をするなァァァッ!』
クレドは踏み込み、地面を爆破させながらバイトへ襲いかかった。怪人はその巨腕を振り上げ、咆哮を浴びせかける。
「お前に何が分かるぅぅぅッ! 何を信じるというんだ! 目に映る「証拠」か!? それとも、言葉だけの「弟」か!? 答えてみろッ!」
問答無用の連撃。一打一打が空気を爆砕し、バイトの装甲を強打する。
だが、バイトは一歩も退かない。【燃】を模した複眼の光を鋭く輝かせ、クレドの追撃の拳を両手で力強く受け止めた。
脚がアスファルトを深く削り取る。受け止めた衝撃波が周囲の民家の窓ガラスを破砕していく。
「どっちかじゃない」
「なに……!?」
「信じるっていうのは……」
バイトはグッと腰を落とし、クレドの巨腕を握りつぶさんばかりの力で締め上げた。
「……疑わないことじゃない!」
「なにを……戯言をぉぉぉっ!」
「目に見えるデータも、差し出された証拠も……疑っていい! 分からないことを、分からないままにして――」
バイトは右拳を深く引き絞る。右腕の放熱スリットが重厚な狂打音を奏で始める。
「――それでも、相手の言葉を聞くことだ!!」
ガァン!!
バイトの右拳が、クレドの胸部を真正面から撃ち抜いた。
衝撃で吹っ飛ぶクレド・ジャーク。しかしクレドは空中での姿勢を力任せに制御し、着地と同時に額の巨大一眼を限界まで発光させた。
『黙れぇぇぇッ! 信じろォォォ!! 俺の言葉だけを信じろぉぉぉっ!!』
絶対信用波。
脳の認識回路を力任せに上書きし、思考を停止させて強制的な服従を強いる原典の音響波が、文字通りの津波となってバイトへ襲いかかる。
周囲の街灯が破裂し、空間そのものが黒色のフォントで塗りつぶされていく。
バイトは遮断していた通信システムすら解除し、その波形を逃げることなく真正面から全身で受け止めた。
「ぐっ……オォォォッ!!」
『あははははっ! バカめ! 波形を浴びればお前の脳は俺の奴隷となる! 膝を折れ! 変身を解け!!』
クレドが勝ち誇り、嘲笑を撒き散らす。
しかし――バイトの脚は、ピタリと止まらなかった。
一歩。
重厚な装甲の足先が、紫黒の波形を押し返して前に踏み出される。
二歩。
バイトは怯むことなく、絶対信用の濁流を切り裂きながら、まっすぐにクレドへ向かって歩を進めていく。
「な……なぜだ!? なぜお前の思考は書き換わらない!? なぜ膝を折らない!?」
クレドの声に、初めて明確な狼狽と恐怖が混ざり始めた。
「お前を……信じてないからじゃない」
バイトの重厚な声が、ノイズを突き破って響く。
「お前の言葉を盲信して……自分で考えることを……やめないだけだ!!」
思考を捨てるのが服従なら、思考し続けることこそが誠実さだ。相手を思うからこそ、疑い、確かめ、言葉を重ね続ける。それが、音無訔がたどり着いた「信じる」ということの答えだった。
バイトはバイトドライバーのレバーを深く、二度押し込んだ。
《燃える》《燃える》
《
足元に集中する巨大な赤橙の炎。それがバイトの覚悟と呼応し、気高い炎のような光彩を帯びて激しく旋回し始める。
「ハァァァァッ!!」
跳躍。空中で身体を絞り、両脚に全エネルギーを叩き込む。
『信じろぉぉぉぉっ!!』
「言葉を……燃え砕け!!」
必殺のセッション・エンドが、クレド・ジャークの巨頭を貫いた。
絶対信用の波形が破砕され、空中へ眩い光の粒子となって散っていく。
爆煙の中、クレド・ジャークの肉体が霧散し、その中心から狂わされていたライドワード【信】が弾き出された。
空中で黒紫色のノイズを放つ【信】のワード。
バイトは素早く腕を伸ばし、ドライバーの開放ギミックでそれを捕獲した。
《信じる》
クリアなシステム音声とともに、ワードにへばりついていた【偽】の寄生波形が完膚なきまでに噛み砕かれて消滅する。黒紫色の汚濁が剥ぎ取られ、ライドワード【信】はどこまでも透き通った、深いエメラルドブルーの結晶へと美しく浄化された。
変身が解除され、訔が静かに着地する。
その前方の路上。
怪人の姿から元に戻った悠真が、倒れ込むように両手をついていた。彼の手元には、浄化された空気と、しんと静まり返った夜の静寂だけが残されている。
直人が、ゆっくりと兄の元へ歩み寄った。
悠真は地面を見つめたまま、絞り出すような声で呟いた。
「……悪かった、直人」
あまりにも遅く、あまりにも身勝手な謝罪。直人は立ち止まり、夜空を見上げてふっと自嘲気味に息を吐いた。
「……遅えよ、兄貴」
悠真は顔を上げられない。自分が犯した愚かさ、弟を疑い、街を破壊した罪の重さに身を苛まれていた。
だが、直人は去ろうとはしなかった。ポケットに手を突っ込み、兄の頭上を見下ろす。
「でも……」
悠真がハッとして顔を上げる。
「もう一回だけ……話してくれないか。工場のこと……これからのこと」
直人はしばらく沈黙した。街頭の光が二人の影を長く伸ばしている。
やがて、直人は少し怒ったような、けれどどこか嬉しそうな顔で背を向けた。
「一回じゃ足りねえよ。これから何百回だって話を聞かせろ」
悠真の目に、溢れ出そうになる涙が浮かぶ。彼は袖で強引にそれを拭うと、力強く頷いた。
「……そうだな」
二人は並んで歩き出し、冷え切っていた自分たちの居場所――水城精機の工場へと戻っていった。その背中は、歪んだ言葉を乗り越えた者だけの、ささやかだが確かな絆に満ちていた。
*
翌日。帝都大学・言語考古学研究室。
朝の光が差し込む研究室で、響が中央モニターに表示されたデータを食い入るように見つめていた。画面には、昨日訔が回収・浄化を果たしたエメラルドブルーのライドワード【信】の波形グラフィックが浮かんでいる。
「面白いわね……」
響がメガネの位置を直しながら、感嘆の声を漏らした。
通りかかった陸が缶コーヒーを飲みながら覗き込む。
「どういう意味だ? 浄化は成功したんだろ?」
「ええ。でも、これまでのライドワードと違って、浄化後の出力波形が一定じゃないの」
「一定じゃない?」
「ええ」
響は画面のパラメータを操作し、二つの比較波形を提示した。
「使う人間の状態や、対象となる相手との『共振度』によって、引き出されるエネルギーの出力がリアルタイムで変化してる。つまりこの【信】のワードは使用者一人だけでは、真価を発揮できないライドワードなのよ」
陸が目を見開く。
「誰かとの信頼関係によって、力が変化する……ってことか」
「そう。真の『信条』とは、一人で抱え込むものではなく、誰かとの間で紡がれるもの……。その概念がそのままシステムとして反映されているわ」
言葉の持つ奥深さ。訔が戦いの中で手に入れた新たな力は、今後のさらなる激戦において、予想だにしない進化をもたらす可能性を秘めていた。
その会話を離れた場所で聞いていた訔は、静かに宗一のデスクへと歩み寄った。
「教授」
宗一が書類から目を上げる。
「何だい?」
「……さっきの話、続きがありますよね」
昨夜、研究室で語られた発掘事故と原典の真相。だが、訔にはまだ宗一が何か決定的な事実を隠しているという確信があった。
宗一の表情が、わずかに苦痛に曇る。
「……ああ」
宗一は眼鏡を外し、重い溜息をついた。
「言葉を濁すつもりはない。……だが、その前に一つだけ、お前に確認しなければならないことがある」
宗一はデスクの最下段の引き出しを鍵で開け、一枚の黄ばんだプリント写真を取り出した。それは、未確認遺跡の最深部で撮影されたとされる、破損した古代石版の写真だった。
写真の中央に刻まれているのは、紛れもなくあの文字。
【咬】
そしてその文字のすぐ隣には、古代の壁画のようなタッチで、一人の『人間らしき人物』の姿が描かれていた。
ただし――その人物の胸部には。
今、訔が使っているバイトドライバーと全く同じ、牙を剥き出しにした巨大な顎の意匠が明確に刻み込まれていたのだ。
訔の呼吸が止まる。
「……これは」
「お前が最初ではない、訔」
宗一の冷徹な言葉が、研究室の空気を激しく揺らした。
訔の瞳が大きく見開かれる。
「……【咬】の力を使い、言葉を噛み砕こうとした人間は……過去の歴史の中にも、既に存在していたのだ」
*
画面が暗転する。
光の届かない暗濁の狭間。
崩落した文字の墓標が並ぶ闇の中で、ファルス・ジャークが口元に妖艶な笑みを浮かべて佇んでいた。
「ふふ……あはは。信じることを覚えたみたいね、あの男」
ファルスの視線の先。
闇の奥に佇むのは、四幹部が一角――サイレンス・ジャークだった。
口に該当する部位が完全に金属で塞がれ、全身から一切の振動と音声を打ち消す絶対的な「無音」を放射している巨影。
サイレンスは、ファルスの言葉に何の応答も返さない。返せるはずもなかった。彼自身が「沈黙」そのものなのだから。
「人間の言葉なんて、本当に儚くて可愛いわ……」
ファルスは滑らかな足取りでサイレンスへと近づき、愛おしそうにその肩に手を置いた。
「じゃあ次は――」
ファルスは自身の人差し指を、妖しく歪んだ己の唇へと当てる。
「信じるための“言葉”そのものを……彼らから奪ってあげて?」
サイレンス・ジャークの複眼が、闇の中で静かに、そして凶悪に輝いた。
怪人がゆっくりと立ち上がる。
その瞬間。
風の音も、空気の揺らぎも、ファルスの息遣いですらも周囲のあらゆる「音」が世界から完全に消滅した。
絶対なる沈黙の災厄が、静かに解き放たれようとしていた。