朝、目が覚めた瞬間から、天我の頭の中には他人の声が流れ込んでくる。
「ああ、また今日も仕事か。だるいな」
隣の部屋で父がそう思っている。声に出してはいない。だが藤原天我には、それが聞こえる。生まれたときからずっと、そうだった。他人の心を、強制的に知ってしまう。願ってもいないのに、望んでもいないのに、他人の内側が勝手に流れ込んでくる。
だから天我は、何に対してもやる気が出ない。
人の本音なんて、大抵はろくなものじゃない。優しい言葉の裏には打算があり、笑顔の裏には嫉妬があり、慰めの言葉の裏には安堵がある――ああ、自分じゃなくてよかった、と。そういうものを毎日毎日聞かされ続ければ、誰だって感情は薄くなる。天我は今日も、特に何も感じないまま制服に着替え、家を出た。
「おはよ、天我」
枕元に置いていた一枚のカードが、声をかけてくる。契約の騎士アテネ。赤ん坊の頃からずっと一緒にいる相棒カードだ。テレパシーで話しかけてくるだけでなく、彼女は実体化もできる。もっとも、普段は制服のポケットに収まるカードのままでいることが多い。
「……おはよう」
天我は短くそれだけ返す。
アテネは自分のことを天我の姉であり婚約者だと思っている。天我にはそんな記憶は一つもない。だが彼女の自分への心の声だけは、いつも本気で、いつも純粋で――だからこそ、天我は少しだけ、居心地が悪い。
家を出れば、街のいたるところにエピタフの気配がある。信号待ちの間にも、路地裏で子供たちがカードを並べて対戦している。コンビニのレジ横には今日のシールドトリガー特集の雑誌が並び、通学路の途中では、スーツ姿の大人二人が真剣な顔でバトルゾーンを展開していた。1999年からこの世界は、ずっとこうだ。カードが絶対の世界。天我にとっては、生まれたときからの当たり前の光景でしかない。
「よう、天我。今日も辛気臭え顔してんな」
学校の下駄箱で声をかけてきたのは織田駆だった。誰もが認める優等生で、この前も生徒会の先生に褒められていたばかりだ。だが天我には聞こえてしまう。頭の中で組み立てられている、今日のクラスメイトへの下品極まりない冗談の数々が。表向きの駆と、中身の駆は、あまりにも違う。
「別に、いつも通りだ」
「相変わらずだな。あ、そうだ、真実ちゃん探してたぞ。放課後デッキ見てほしいんだと」
左藤真実。天我と同じ誕生日に生まれた幼馴染で、家族揃って探偵一家だ。彼女の心の声は、いつも観察と分析でできている。今日もきっと、天我の些細な表情の変化から何かを言い当ててくるのだろう。それすらも、天我にとっては驚きではない。
教室に着けば、隅の席で誰かが小さくデッキを回している音が聞こえる。シャッフルの音、カードを置く音、シールドをブレイクする音。天我はそれを横目に、自分の席に着いた。
ポケットの中でアテネが小さく身じろぎする気配がした。
「今日は、部活の後にでも一戦しない? 天我」
その誘いに、天我は少しだけ考える。
アテネは強い。トリプル・ブレイカーで一気にシールドを割り、スピードアタッカーで召喚酔いもない。彼女で組んだデッキは、この学校でもそう簡単には負けない。だが――天我が本当に求めているのは、勝つことじゃない。
他人の心が読めても、それでも尚、運と実力次第で自分が負けることのあるゲーム。それだけが、天我の感情を、ほんの少しだけ動かす。
「……いいよ」
短く答えて、天我は窓の外に目をやった。
空はいつも通り晴れていて、世界はいつも通りカードで満ちていて、天我の心はいつも通り凪いでいる。
この日の放課後、見知らぬ変質者に声をかけられることになるとも知らずに。