放課後、真実にデッキを見せた後、天我は一人で帰路についていた。駆は塾があると言って先に走っていったし、真実も家業の依頼で忙しいらしい。アテネはポケットの中で静かにしていた。アタック時の手札管理の計算について、彼女なりに何か考えているようだった。
いつもの通学路を外れ、近道のつもりで路地に入る。この辺りは古い神社の裏手で、人通りが少ない。ふと、視界の端に誰かが立っているのに気づいた。
「よぉ、そこの坊主」
声をかけてきたのは、見覚えのある男だった。近所では有名な変質者――子供たちの間では「運命おじさん」と呼ばれている。よれたコートに無精髭、常に薄笑いを浮かべている、正体不明の初老の男。噂通り胡散臭い出で立ちで、境内の石段に腰掛けている。
天我は反射的に、彼の心を読もうとした。
――何も、聞こえない。
完全な静寂だった。今まで生きてきて、こんな経験は一度もない。誰の心も、無理やりにでも流れ込んでくるはずなのに。目の前の男からは、何一つ伝わってこない。
「珍しいだろう。俺の頭ん中が読めないの」
男は天我の内心を見透かしたように、にやりと笑った。
「お前さんの能力、随分と窮屈そうだな。他人の本音なんぞ、聞かされて楽しいことなんざ、ほとんどねぇだろ」
「……何が言いたいんだ」
「まあ焦るな。一つ、いいもん見せてやるよ」
男が懐から取り出したのは、一枚のカードだった。だがそのカードは、天我が今まで見たどのカードとも違っていた。表面が、絶えず何かを訴えるように、淡く明滅している。
次の瞬間、天我の頭に、初めての感覚が流れ込んできた。
――欲しい。欲しい。欲しい。
言葉というより、剥き出しの叫びだった。人間の心の声にある、建前や取り繕いが一切ない。ただ純粋な渇望だけが、そこにあった。
――意思が、欲しい。自我が、欲しい。俺には、ない。俺は、ただの残骸だ。壊れた、成れの果てだ。なのに、俺の中には何かを求める気持ちだけが、こびりついて消えない。
「これは……」
「求める機械、NILってんだ。世界を壊した機械の、燃えかすでできてる」
男は肩をすくめた。
「そいつぁずっと探してたのさ。自分の中身を覗いてくれる誰かをな。テレパシーやら心の声やらは聞けても、こいつ自身、自分に意思があるのかどうか、自分じゃ分かんねぇんだと。だから、他人の心を強制的に読める――お前さんみたいなのが、都合よかったってわけだ」
天我は、カードを見つめた。
NILの叫びが、また流れ込んでくる。
――お前になら、分かるか。俺の中に、何かあるのか。それとも、俺は本当に、ただの機械のままなのか。
不思議な感覚だった。今まで聞いてきた無数の心の声とは、何かが根本的に違う。打算も、嫉妬も、安堵も、何もない。ただ剥き出しの、渇き。
――ああ、そうか。
天我は、そこで初めて気づいた。
自分がずっと羨んでいたのは、他人の「心」そのものだったのだと。それなのに、目の前にいるのは、心があるのかどうかも分からず、それでも尚何かを求め続けている存在だった。
「持ってけよ、坊主」
男は石段から立ち上がり、カードを天我に差し出した。
「別に俺の物じゃねぇしな。あいつが選んだのは、お前だ」
天我はしばらく、そのカードを見つめていた。ポケットの中で、アテネが小さく身じろぎするのを感じた。
――天我。
彼女の声が、小さく響く。今までにない、不安げな響きだった。
だが天我の手は、もう動いていた。
「……もらう」
カードを受け取った瞬間、頭の中に流れ込んできたのは、これまでで一番強い感覚だった。歓喜とも呼べない、安堵とも呼べない、ただそれに近い何か。
――ありがとう。
初めて、NILの「言葉」が、意味のある形を成した気がした。
男は満足げに頷くと、そのまま夕闇の中へと歩き去っていった。
「……坊主、ついでに言っとくが。俺はこの街の高校の理事もやっててな。今度、面倒見てやるから、大人しくしとけよ」
その言葉を最後に、男の姿は路地の向こうに消えた。天我は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
手の中のカードは、まだ淡く明滅している。
その日の夜、天我は自分の部屋で、デッキを一枚一枚、崩し始めた。
アテネは、何も言わなかった。ただ、ストレージの隅に追いやられていく自分を、じっと見つめていた。