FINAL FANTASY Ⅶ Revengers 作:オレンジⅩⅢ
朝の光が、ネオンの消えたゴールドソーサーの装飾を白っぽく照らしていた。
まぶたを開けると、見慣れない天井があった。
ホテルの一室。隣のベッドにいたはずのヴィンセントの姿はない。昨夜の記憶を辿ると、ゴンドラでの一件からユフィと共に戻ったところまでは覚えている。そこから先の記憶は、驚くほどきれいに抜け落ちていた。
……見知った男女がが同じ部屋に入っていった記憶なんてない。
義手の接続部を確かめ、右目だけで室内を見渡す。窓の外には、まだ眠りの覚めきらないパークの照明がぼんやりと霞んでいた。左半分の視界は、相変わらず闇に沈んだままだ。慣れたつもりでも、朝一番に思い出すたびに、指先が無意識に眼帯へ伸びる。
ドアの向こうから、賑やかな声がいくつも聞こえてくる。身を起こし、静かに部屋を出た。
「――あ、起きた! 寝坊助!」
真っ先に声を上げたのはユフィだった。だが、その視線はどこか泳いでいる。昨夜、ホテルの廊下で見た何かのせいだろう。何を見たのか、あえて話す気にはならなかった。訊けば、藪蛇になる予感がした。
「朝から元気すぎるだろ……」
「うるさいなあ! それよりバトルスクエア、そろそろ開場するってさ!」
食堂に降りると、クラウドとティファ、バレット、ナナキが揃っていた。ケット・シーの姿もある。ヴィンセントだけが見当たらない。
「ヴィンセントは?」
「先に外へ出とったで。『喧騒は性に合わん』言うて、一人でどこぞへ行きよった」
ケット・シーが肩をすくめながら答えた。相変わらずの関西弁だ。
食卓を挟んで座ったクラウドとティファが、互いに目を合わせる素振りがどこかぎこちない。二人の距離感に、昨夜との違いが滲んでいるのは明らかだった。だが、それについてあえて触れる気にはならなかった。踏み込む価値のある領域と、そうでない領域の区別くらいはつく。
食事の途中、外の広場に佇む赤いコートの背中を見つけた。
「――そこにいたのか」
「……喧騒には、慣れん」
ヴィンセントは短く答えるだけで、それ以上は語らなかった。戦力として頭数に入れられればそれでいい。詮索する気はなかった。
「今日はいよいよキーストーンの日か」
バレットが腕を組みながら言った。
「ディオって野郎、約束は守る質だといいがな」
「守るだろうな。少なくともあの男は、勝負事の結果を捻じ曲げるような真似はしない」
短く答えると、全員の視線が一瞬こちらへ集まった。
「ジュリアスがそう言うなら、そうなんだろうな」
クラウドが、かつてのコレルプリズンでの一件を思い出すように言う。
「ふうん」
ユフィが興味深そうにこちらを覗き込んでくるが、視線を逸らすと諦めたように肩を落とした。
食事を終え、身支度を整えた一行はバトルスクエアへ向かった。
バトルスクエアの観客席は、朝から異様な熱気に包まれていた。コロシアムの中央には既にけばけばしいネオンの看板が吊り下げられ、『ディオ軍団 対 コルネオ・ファミリー』の文字が誇らしげに輝いている。
「コルネオ、か」
呟いた瞬間、クラウドとティファ、そしてエアリスの三人が、ほぼ同時にわずかに顔をしかめた。表情の変化は一瞬だったが、見逃すほど鈍くはない。三人の間だけで通じる何かがあるらしい。
「――あいつと何かあったのか?」
尋ねると、クラウドは気まずそうに視線を逸らした。
「……ミッドガルで、色々因縁があってな」
それだけ言って、あとは口を噤む。詳細を語る気がないのは明らかだった。
エアリスも珍しく口数少なく、「……ん、まあね」とだけ返して視線を落とす。ティファに至っては何も言わず、ただ小さく息を吐いただけだった。
それ以上、踏み込む気にはならなかった。今日、語られるべき話ではないのだろう。三人が同時に見せた表情の意味を、手札として胸の内に留めておく。
観客席の最前列に陣取ると、リングの中央にマイクを手にした男が現れた。恰幅の良い体軀に、芝居がかった仕草。園長ディオだ。
視線が一瞬、こちらを捉えた。
不敵な笑みが浮かぶ。かつてコレルプリズンで対峙した時と同じ、勝負事を心から愛する男の目だった。あの時も今も、互いに名乗り合う必要はない。目で交わした挨拶で十分だった。
「さあさあお立会い! 本日のスペシャルマッチはァ――ディオ軍団 対 コルネオ・ファミリー! 我らがキーストーンを賭けた、名誉あるネーミングライツ争奪戦だぜェ!」
歓声が爆発する。
「行ってくる」
クラウドが軽く手を上げて応え、リングへ向かって歩き出す。その後ろにティファとバレットが続いた。前衛にクラウド、遊撃と回復にティファ、後衛にバレット。昨夜のうちに打ち合わせた通りの布陣だ。
「頑張ってやー! 骨は拾ったるさかい!」
ケット・シーが観客席から呑気に声援を送る。ユフィとナナキも身を乗り出して手を振った。
「あんな軽口叩いてる場合かな……大丈夫かなあ、あの三人」
ユフィが心配そうに呟く隣で、ナナキが耳をぴくりと動かした。
「大丈夫さ。あの三人の呼吸は、もう戦いの中で完成してる」
「まずは景気づけといこうかァ!」
ディオの合図と共に、リングの床が割れ、なだれ込むように大勢のコルネオの部下たちが押し寄せた。十を超える人数だったが、クラウドの一薙ぎが数人をまとめて吹き飛ばし、瞬く間に地に伏していく。
「――第二戦、コルテンダー、投入だァ!」
続いて解き放たれたのは、電光を纏う三匹の猫型魔獣、コルテンダーだった。俊敏な動きで距離を詰めてくる相手に、ティファが真っ先に飛び込み、一匹の顎を掌打で跳ね上げる。バレットの弾幕が残る二匹の動きを縫うように封じ、クラウドの剣が仕留めた。
「第三戦、いくぜェ! ドン・トンベリと、その手下だ!」
包丁を提げたトンベリの群れの中央、一際大きな個体――ドン・トンベリが姿を現す。
「あの包丁、掠っただけでも即死するらしいぞ! 気をつけろ!」
観客席からバレットへ声を張り上げる。届いたかは分からないが、リング上の三人の動きに、明らかな警戒の色が加わった。トンベリの緩慢な足取りを見切り、間合いに入られる前に確実に刻んでいく。
「――大トリだ! 巨体を舐めるんじゃねえぞォ! アプス、登場ゥ!」
水槽から無理やり引きずり出されたような巨大な水棲魔物が、水しぶきを上げながらリングへ躍り出た。
アプスが咆哮し、突進する。バレットの銃口がそれを迎え撃ち、着弾のたびに巨体がわずかに怯んだ。
「クラウド、右!」
ティファの声が響いた瞬間、クラウドは既に身を翻し、忍び寄っていたトンベリの残党を一閃していた。
ズシャッ――
呼吸の合った三人の連携に、無駄な動きは一つもない。ティファの拳が敵の陣形を崩し、バレットの弾幕が退路を塞ぎ、クラウドの剣がとどめを刺す。三人がミッドガル以来積み重ねてきた戦いの厚みが、そのまま形になっていた。
「あーもう、ハラハラする!」
ユフィが手すりを掴んで身を乗り出す。
観客席の隣でバレットの声援に紛れながら、静かに戦況を見つめる。観客席から眺めているだけの立場が、少しだけもどかしい。だが同時に、この戦いに割って入る隙間がないことに、静かな満足もあった。
アプスの触腕が唸りを上げてティファへ伸びる。避けきれない距離だった。
「ティファ!」
クラウドの叫びが響いたその刹那、彼女は身を沈めて紙一重で躱し、逆にその腕を踏み台にして跳躍していた。空中で一回転、踵がアプスの側頭部を捉える。
「甘く見ないで!」
軽やかな着地と共に放たれた言葉に、観客席から一際大きな歓声が上がった。バレットが安堵の息を吐くのが、離れた席からでも分かった。
アプスの巨体がクラウドの間合いへ強引に踏み込んだ瞬間、ティファが再び割って入り、その巨腕を掌底で逸らした。バレットの銃弾が弱った関節を貫き、クラウドの剣がとどめを刺す。
ドウッ――
巨体が崩れ落ちる轟音が、コロシアム全体を揺らした。
「――勝負ありだァァァ! ディオ軍団の圧勝ゥ!」
歓声が割れんばかりに轟く。リング上でクラウドとティファ、バレットが互いに拳を交わし合うのが見えた。三人の顔には、疲労よりも達成感の方が色濃く滲んでいた。
装備を整える束の間の休憩を挟み、クラウドがディオのもとへ歩み寄る。約束の証を受け取るためだ。
「よくやってくれたなァ。これがキーストーンだ」
ディオがリングの中央で高々と石を掲げた。深い緑がかった光沢が、照明を鈍く跳ね返す。
「なんだか良い顔つきになったな」
ディオが視線をこちらへ寄越して笑う。
「コレルプリズンの一件、あれ以来かい」
「……そうだな」
短く応じる。それ以上を語る気配のない態度を、ディオもすぐに察したらしく、それ以上は追及してこなかった。
代わりに、視線だけでもう一度礼を告げた。あの時、証拠不十分のまま見世物として地下へ落とされかけた自分達を、独自の裁量で興行の枠から外してくれたのはこの男だった。恩と呼ぶには乾きすぎた記憶だが、忘れてはいない。
クラウドがキーストーンを両手で受け取った、その瞬間だった。
「――そのキーストーン、こちらで預からせてもらう!」
観客の悲鳴が上がる中、リング脇の通路から武装した一団が躍り出た。先頭に立つ剃り上げた頭の大男には見覚えがある。ルード。その後ろから、栗色の髪を揺らした若い女――イリーナも続いていた。
「タークスだと!?」
バレットが即座に武器を構える。リング上は一気に修羅場と化した。
ルードの拳が地面を割り、破片が宙を舞う。イリーナが叫びながら間合いを詰めてきた。
「クラウド! あなたたちの好きにはさせません!」
「相手する暇はねえぞ、来い!」
怒号と衝撃音が飛び交う中、義手を構えて割り込もうとしたイリーナの一撃を弾く。クラウドの剣とバレットの弾幕がルードを押し留め、混戦は数分に及んだ。
「――くっ、退くぞイリーナ!」
「ま、待ってください先輩!」
一進一退の末、ルードが後退の判断を下す。だが、その視界の端に、小さな影が動いたのに気づいた。
ケット・シー。
混乱に紛れ、その小さな手が、地に落ちていたキーストーンを素早く拾い上げていた。
「――おい!」
声を上げた時には遅かった。ケット・シーは驚くほど機敏な動きで観客の間を縫い、パークの奥へと駆け出していく。
「待てコラァ!!」
バレットの怒号が響き渡るが、小さな体は人混みの中へあっという間に紛れて消えた。ルードとイリーナも、その隙に乗じるようにして姿を消していた。
パーク中央の広場を抜け、ワンダースクエアの喧騒を突っ切り、ヘリポートへと続く通路の陰まで追い詰めた頃には、全員が息を切らせていた。
「見つけたぞ、逃げ場はねえ!」
バレットの声に、ケット・シーの背中がびくりと震える。だが、そこで足を止めたのは追い詰められたからではなかった。
視線の先、通路の暗がりに佇んでいたのは、見覚えのある人影だった。
漆黒の制服、静かな佇まい――タークス室長、ツォン。ケット・シーが、その手にキーストーンを恭しく差し出している。
「……ご苦労」
ツォンは短くそう告げ、石を受け取った。感情の読めない、落ち着き払った声だった。
「ツォンか」
思わず呟く。ジュノンのパレード以来、幾度か情報のやり取りを交わした相手だ。あの男が自ら動くということは、それだけ本部がこの一件を重視している証左でもある。
「――ジュリアス……いや、いい。お前たちがここへ辿り着くのも、想定の内だ」
ツォンは一瞥もくれずそう言い残すと、踵を返して足早にその場を立ち去っていく。追う間もなかった。ケット・シーは肩を落としたまま、こちらを振り返った。
沈黙が場を支配した。
先に沈黙を破ったのはバレットだった。低く、押し殺した声だった。
「……テメェ、最初っからそのつもりだったのかよ」
「人聞き悪いこと言わんといてくれますか」
ケット・シーの声色が、これまでとは違う硬さを帯びた。
「七番街のプレート落としたんは神羅や。せやけど、そもそもの発端はどこにあったんか。魔晄炉を爆破したんは、どこの誰やった?」
「なんだと……?」
「一番、五番……アバランチが魔晄炉を爆破したせいで、何人の一般市民が巻き込まれて死んだか、あんさんら数えたことあるんか? うちらは、あの爆破の後始末にどれだけ走り回ったと思うとる」
バレットの顔が、怒りと苦渋の入り混じった表情に歪んだ。
「あれは……あれは、神羅への攻撃だ。魔晄炉を止めなきゃ、星が死ぬ。分かった上でやったことだ!」
「せやったら、プレートを落とすんも神羅にとっちゃ『必要な選択』やったんでしょうなあ。あんさんらと同じ理屈や」
「ふざけるな! 一緒にすんじゃねえ!」
「一緒にしとるんは、あんさんの方や! 自分らの正義は正義で、神羅の都合は全部悪や。そんな単純な話やったら、うちも苦労せえへんかったわ!」
怒声の応酬に、周囲の空気が一層張り詰めていく。ティファが割って入ろうとするが、二人とも止まらなかった。
このまま放置すれば、収拾がつかなくなる。頃合いを見て、口を挟んだ。
「――もういい、二人とも」
静かに、だが有無を言わさぬ調子で告げる。互いの正義を並べたところで、答えの出る話ではない。今優先すべきは、目の前の裏切りの真意を見極めることだ。
一瞬の沈黙のあと、バレットが舌打ちと共に視線を逸らし、ケット・シーも肩で息をつきながら口を噤んだ。
「……何のつもりだ、ケット・シー」
クラウドの声には、これまで聞いたことのない冷たさが滲んでいた。
「……説明してもらおうか」
静かに切り出す。
ケット・シーはしばらく俯いたまま動かなかったが、やがて力の抜けた声で答えた。
「……ええ、そうですわ。わては、神羅のスパイです」
「てめえ……!」
バレットの拳が震えていた。
「さっきはよくもぬけぬけと啖呵切れたもんだな! 神羅の犬のくせに、仲間面して一緒に旅してきやがって!」
怒声が空気を切り裂く。ケット・シーは小さく肩を震わせながらも、逃げようとはしなかった。
「……こうなることは、分かってましたわ」
その声は、いつもの飄々とした調子からは程遠く、震えを隠しきれていなかった。
「バレット……!」
ティファが制止しようとするが、バレットの怒りは収まらない。
「黙ってろ! こいつは俺たちの街を、俺たちの仲間を売った側の人間だぞ!」
プレートが崩落したあの日の光景が、バレットの脳裏で何度も反芻されているのは、その声の震え方だけで分かった。瓦礫の下敷きになった街、届かなかった声。あの日を語る時のバレットは、いつも同じ震えを帯びる。
「バレット、待って……」
ユフィが割って入ろうとするが、バレットは聞く耳を持たなかった。
その様子を、しばらく黙って観察していた。
端末の操作。妙に迷いのない指の動き――あれは占い師や便利屋の手つきではなく、都市の管制システムを扱う者の手癖だ。
言葉遣いの端々に見え隠れする違和感。時折、関西弁の裏側から滲み出る、街の設計図を語る者特有の言い回し。
そして何より、瓦礫と化した街を見るたびに浮かべていた、あの痛切な表情。
神羅屋敷の資料室で見た「都市開発部門」の稟議書の筆跡と、ケット・シーが端末に打ち込む指の動きが、脳裏で重なった。旅の間、幾度となく積み重ねてきた小さな違和感の断片が、今この瞬間に一本の線として繋がっていく。
だが、決め手はそこではない。先ほどの舌戦だ。
一番、五番――魔晄炉の番号を澱みなく口にし、爆破の後始末を「うちら」という言葉で語っていた。物見遊山の便利屋や、雇われの占い師が持つ知識でも、口にする言葉でもない。あれは、被害の規模を現場で管理し、復旧に走り回った側の人間の物言いだった。バレットへの反論に紛れ込ませたその一言が、何よりの証拠になっている。
加えて、この人形の挙動そのものも、遠隔操作にしては滑らかすぎる。信号一つで駆動する機械にしては、間の取り方や仕草の端々に、まるで本人の意思がそのまま流れ込んでいるような生々しさがあった。ただのラジコン仕掛けではない。誰かが自らの異能で、この人形そのものに疑似的な命を吹き込んでいる。神羅の技術者が持つと噂される、無機物へ意思を宿す特殊な力――その存在は、以前どこかの資料で目にした覚えがあった。
すべての断片が、一つの像を結んでいた。
「――もういい、バレット」
割って入るように告げる。全員の視線がこちらへ集まった。
「……ケット・シー」
静かに口を開く。
「その体は、遠隔操作の玩具にしちゃあ出来が良すぎる。お前が使っているのは信号じゃない――無機物に命を吹き込む異能、『インスパイア』ってやつだろう」
ケット・シーの動きが、わずかに強張った。
「いや――神羅カンパニー都市開発部門統括、リーブ・トゥエスティ殿」
空気が凍りついた。
ケット・シーの動きが、完全に止まった。
遠隔操作の向こう側で、リーブは言葉を失っているらしかった。しばらくの沈黙のあと、震える声が漏れる。
「……な、なんでそれを……」
関西弁が、その一瞬だけ完全に崩れていた。標準語のイントネーションが混じった、地の言葉が滲み出る。すぐに取り繕うように咳払いを一つ挟んだが、もう遅い。動揺は誰の目にも明らかだった。
「都市開発部門の統括、だと……?」
クラウドが低く呟く。
「じゃあ、あのケット・シーの中身は――スパイの下っ端どころか、神羅の幹部そのものだったってことか」
「こんな奴と、一緒に旅なんかできるか」
バレットが吐き捨てるように言った。
「せやから、言うたやないですか。こうなることは分かってましたって」
ケット・シーの声に、開き直ったような響きが混じる。だがその奥に、隠しきれない怯えが滲んでいるのを見逃さなかった。
「……ケット・シー、それともリーブ、さん……?」
ティファが戸惑いながら呼びかける。ケット・シーは苦笑するように肩を落とした。
「どっちでも、好きに呼んでくれてええですわ。もう、隠すもんも無くなりましたし」
誰も次の言葉を発せずにいると、ケット・シーの方から、ぽつりと切り出した。
「……最初にスパイを命じられた時、正直、迷いはありましたわ。せやけど、引き受けたんです」
「……」
「アバランチが何を考えとるんか、この目で――いや、この人形の目で、直接確かめときたかったんですわ。上からの命令やから仕方なく、やない。反神羅活動が何を目指しとるんか、どこまで本気なんか。それを知らんまま、ただ排除する側に回るんは、うちの性分やなかった」
インスパイアという異能があったからこそ、神羅ビルでの業務をこなしながら、同時にこの人形を通して現場を直接見て回ることができる。二重の立場は、単なる保身のためではなく、リーブ自身が現場の空気を知るための手段でもあったらしい。
「それと――もう一つ」
ケット・シーは一拍置いて、続けた。
「マリンさんとエルミナさんのことは、誰に指図されたわけでもあらへん。うちが、自分の意志で守ってきたことですわ」
「……どういうことだ」
低く尋ねる。
「神羅の上の方じゃ、あの二人を人質に使えって話が、出たことも正直ありました。せやけど、うちはそれに真っ向から反対したんです。ミッドガルの住民が安全に暮らせるかどうか――それは、うちが統括しとる都市開発部門の仕事の根っこそのものやから。市民を駒に使うような真似、うちの領分では絶対に許せへん」
「……」
「七番街のプレートを落とすことにも、最後まで反対しました。止められへんかったけど……それでも、これ以上、罪のない人間を巻き込むことだけは、うちの意地で食い止めてきたつもりですわ」
その声に、嘘の色は見えなかった。少なくとも、その一点においては。
「……」
「ニブルヘイムの神羅屋敷、あんさんらも見たでしょう。あの実験記録の数々。うちも、あの資料の一部には目を通しとりました。……正直、吐き気がしましたわ」
ケット・シーの顔が曇り、視線を下げる。
「被験者の名簿、施設の見取り図……うちが図面を引いた街の下に、あんな地獄が広がっとったなんて、思いもせえへんかった。知らん間に、自分の仕事が誰かを苦しめる装置の一部になっとった」
ケット・シーの声が、次第に速くなっていく。抑えていた感情が、堰を切ったように溢れ出していた。
「七番街のプレートも……うちが直接手を下したわけやない。せやけど、都市開発部門として、あの計画に関わっとった。知らんかった、では済まされへん。それくらい、分かっとります」
「……」
「せやのに、あんさんらと一緒に旅しとる間、何度も思いましたわ。この人らは、なんでこんな……見返りもなしに、必死こいて星のために戦えるんやろって。うちみたいに、誰かの安全を盾に取られてるわけでもないのに」
震える声で、ケット・シーは続けた。
「どっちの側につくべきなんか……自分が何を守りたいんか、正直、ずっと揺れとりましたわ」
「……」
しばしの沈黙のあと、ケット・シーはぽつりと付け加えた。
「うち、本当はもっと――綺麗な街を作りたかっただけなんですわ。魔晄炉に頼らへん、誰も泣かずに済む街を。都市開発部門に配属された時は、本気でそう思うとりました。せやのに、気づいたら……こんな汚れ仕事ばっかりや」
その声には、これまでの飄々とした調子からは想像もつかない、静かな自嘲が滲んでいた。理想と現実の隔たりを誰よりも自覚している者の声だった。
ナナキが静かに歩み寄り、ケット・シーの傍らに座った。
「……ずーっと、我慢してたんだね」
「ナナキはん……」
ケット・シーの声が、小さく震えた。
黙って成り行きを見守っていたヴィンセントが、初めて口を開いた。
「……迷いながらも、投げ出さなかった。それだけは、評価に値する」
短いその一言に、ケット・シーが驚いたように顔を上げた。
誰も、しばらく口を開かなかった。
バレットの拳は、まだ固く握られたままだったが、その視線からは先ほどまでの純粋な怒りとは別の色が滲んでいた。
「……マリンの、名前まで出しやがって」
低く呟いたバレットの声には、怒りとは別の、もっと複雑な何かが混じっていた。
「――提案がある」
静けさを破って告げる。
「貴方が神羅の内部にいるからこそ得られる情報がある。そして貴方がそのポジションに留まる限り、マリンとエルミナの安全も担保される」
ケット・シーの人形が、こちらを見上げた。
「監視役のまま、俺たちの手札になれ。二重スパイとして、な」
「……」
「貴方は、神羅という地獄の中で、ただでさえ少ない良心の一人だ。その苦悩、その葛藤……それは貴方だけのものだ」
詐欺師の才能がある、と言われれば、その通りだろう。ただ、たとえ短い間であっても、護衛対象として、そして仲間として。彼を信じるべきだと、声なき声が背中を押すような気がした。
「だからこそ、逃げ道を俺が作りましょう。
……二重スパイとしての、星と人を救う旅……それが、お前の犯した過ちへの、多少の贖いにもなるだろう。双方にとって、それが最も合理的な選択のはずだ」
あえて、途中で口調を戻す。仲間として、ケット・シーを受け入れる覚悟を示す。
ユフィを迎え入れたクラウドの決断に、倣うように。
皆の沈黙が落ちる。
やがてクラウドが、小さく息を吐いた。
「……ジュリアスがそう言うなら」
「クラウド……」
ティファが小さく名を呼ぶ。クラウドは頷きを返した。
「信じるとか、そういう話じゃない。ただ、利用できるものは利用する。それだけだ」
「無理に自分自身を納得させるな。責は俺にある」
そうクラウドをフォローすると、クラウドはそっと視線を逸らす。
バレットは長い沈黙のあと、やがて舌打ち混じりに武器を下げた。
「……マリンの安全がかかってんなら、話は別だ。だが次、裏切ったら容赦しねえぞ」
「バレットさん……ありがとうございます」
ケット・シーの声が、初めて安堵に緩んだ。
「――それと、一つ確認しときますわ」
先ほどまでの気弱さが少しだけ落ち着きを取り戻し、いつもの飄々とした口調が戻ってくる。
「うちの本体――リーブは、今も神羅ビルの中にいてます。せやから、これから追跡や連絡が必要な時は、ヘリを使えば動けますわ。裏で融通、利かせられます」
「流石に無茶だ。そこまでは求めん。いつものように、賑やかなムードメーカーでいてくれ」
否定しつつも、何でもないように答え、視線を仲間たちへ巡らせる。誰の表情にも、まだ完全に拭いきれない疑念が残っていた。それでいい。手札は疑いながら使うものだ。無条件の信頼など、この旅には端から必要ない。
「……それにしても」
ユフィが腰に手を当てて、ケット・シーを見下ろす。
「アンタ、うちのトッチャン相手にも、ずっとそんな二重生活続けてたわけ? よく心臓もつね」
「そら、こっちも命懸けですわ。せやけど――もう隠し事はやめます。約束しますわ」
「……おい、トッチャンって俺のことか?」
バレットの呟きに、他の面々はつい笑いが溢れる。
その様子に、張り詰めていた空気が少しずつ和らいでいく。
「――古代種の神殿へ向かう。黒マテリアの正体、セフィロスの狙い、全ての答えがそこにある」
告げると、それぞれが荷物を整え始めた。
ケット・シーがキーストーンの代わりに懐から取り出した予備の地図を広げた。緑深い密林の奥地を指す一点に、小さな印がついている。
「地図なら、うちにお任せを。今度こそ、ちゃんと役に立ちますわ」
「期待してるね!」
エアリスが地図を覗き込みながら、小さく頷いた。
「行きましょう。星が、待ってる気がするから」
その横顔に、いつもの明るさとは違う、どこか静かな決意が滲んでいるように見えた。理由を問う気にはならなかった。エアリスの中で何かが変わりつつあることは、旅の間、何度か感じていたことだ。
風がゴールドソーサーの外周を吹き抜け、遠く霞む地平の向こうへと続いていた。仲間たちがそれぞれの荷を背負い直し、歩き出す。
一つの裏切りが露見し、一つの絆が新たに結ばれた。手札はまた一枚増えた。だが、その代償として抱え込んだリスクも、決して小さくはない。
パークの出口へと続く長い階段を降りながら、隣を歩くユフィが小声で話しかけてきた。
「……ねえ。ああいう時、よく即座に見抜けるよね。怖くならない? 全部計算通りに人を動かすの」
「どうだろうな……。むしろ、計算通りのほうが気が楽だ。だが……時として、人は計算に寄らない、思いもよらない力を発揮する」
「なにそれ?」
思わず出た言葉に対するユフィの問いに、しばし口を閉ざす。
「戯言だ……,いや、訂正しよう。過去に持っていた俺の心情だ。今になって、また信じても良いと思っている……」
「ふうん……」
ユフィはそれ以上追及せず、ただ隣を歩き続けた。その沈黙が、かえって心地よかった。
密林へと続く街道の入り口で、一行は一度足を止めた。ケット・シーが広げた地図には、鬱蒼と茂る木々の奥に赤い印が刻まれている。
「この先、かなり複雑な構造になっとるみたいですわ。罠も多いて聞きます」
「――上等だ」
短く応じる。行く手にどれほどの障害が待ち受けていようと、今更歩みを止める理由にはならない。
その背を追いながら、まだ見ぬ神殿の奥に眠るものへ、静かに思いを馳せた。