白兎の兄が規格外なのは間違っているだろうか 作:ディーノpc35
ヘファイストス・ファミリアの本拠地を後にしたシンとベルは、再びオラリオの大通りを歩いていた。
シンの背中には布で厳重に包み直された滅劫剣があり、腰には絶劫刀が収められている。
先ほどまで鍛冶神を相手に二振りの武器を見せていたとは思えないほど、シンの様子は普段通りだった。
対するベルは、時折兄の背中にある滅劫剣へ視線を向けている。ただし、今までとは違い、決して長く見つめようとはしなかった。
鞘へ収められ、さらに布まで巻かれているため、先ほどのような影響を受けることはない。それでも、一度あの剣へ魅入られかけた経験がある以上、どうしても意識してしまう。
そんなベルの様子に気づき、シンが尋ねた。
「まだ気になるのか?」
「……少し」
「鞘に収めているから問題ない」
「それは分かってるんだけど……」
ベルは少し言いにくそうにしてから続けた。
「兄さんが、あれをずっと使ってきたっていう方が気になってる」
シンは何も答えない。
「僕が知らない間に、兄さんがどんなところにいて、何と戦ってきたのか……少しだけ分かった気がしたから」
滅劫剣の中に見えたもの。
崩壊する世界や消滅する神々、斬り伏せられる巨大な龍。
あれが本当にシンと滅劫剣が経験してきたものの一部なのだとすれば、自分には想像すらできないほどの戦いを兄は繰り返してきたことになる。
シンはしばらく無言で歩いていたが、やがてベルへ視線を向けた。
「その話は後でする」
「……うん」
「一度に全部話しても理解しきれないだろうからな」
「そんなに?」
「長いからな」
シンにとっては簡単な言葉だった。
しかし、ベルにはその言葉の本当の重さがまだ分からない。
兄が異世界を巡っていたことは聞いている。だが、それがどれほど長い旅だったのかまでは詳しく聞いていなかった。
ベルはそれ以上追及せず、話題を変えることにした。
「次はミアハ・ファミリアに行こうと思う」
「ミアハ?」
シンの眉が僅かに動く。
また神の名前だった。
「薬を扱っているファミリアです。主神のミアハ様はヘスティア様とも仲が良くて、僕も何度もお世話になっています」
「今回もか?」
「はい。ナァーザさんとダフネさん、それにカサンドラさんも色々と助けてくれました」
シンがベルを見る。
「三人ともミアハ・ファミリアか?」
「はい」
ベルは頷いてから、少し表情を引き締めた。
「特にカサンドラさんには、遠征中に何度も助けてもらいました」
その名前を口にした時のベルの変化を、シンは見逃さなかった。
「何があった?」
「カサンドラさんが、何度も危険を知らせてくれたんです」
「危険を?」
「はい。でも……その時は僕達も、ちゃんと意味を理解できなくて」
ベルの声が僅かに沈む。
カサンドラが語った予知夢。
遠征へ向かう前から、彼女は何度も警告していた。
破滅が訪れることを。
絶望が待っていることを。
しかし、その言葉は周囲へ正確には伝わらなかった。
「予知か?」
シンが何気なく尋ねる。
ベルが驚いて顔を上げた。
「え?」
「今の言い方なら、その可能性が高い」
「兄さん、分かるの?」
「未来を見る術そのものは珍しくない」
「……珍しくないんだ」
ベルが何とも言えない顔になる。
シンにとっての『珍しくない』が、この世界の常識とまったく噛み合っていないことには、そろそろ慣れ始めていた。
「本人を見れば分かる」
「予知夢かどうか?」
「ある程度はな」
シンはそれ以上聞かなかった。
どのような力なのかは、本人へ会ってから確かめればいい。
やがてベルが一本の通りへ入った。
大通りと比べれば人通りは少なく、その先には一軒の店が見えている。
「ここです」
ベルが足を止める。
店の看板には『青の薬舗』と書かれていた。
シンは建物を見上げる。
「ここがファミリアの本拠地か?」
「本拠地でもありますけど、お店でもあります」
「薬屋か」
「はい」
二人が中へ入ると、薬草と薬品が混ざり合った独特の匂いが漂ってきた。
棚には様々な瓶や容器が並び、傷薬や解毒薬をはじめとする多種多様な薬品が置かれている。
シンは一度店内を見回した。
薬草の種類や調合器具、完成した薬の保存方法などを確認するだけでも、この世界の薬学がどの程度発達しているのか大まかに判断できる。
異世界を巡る過程で薬学や錬丹術、錬金術にも触れてきたシンにとって、こうした店を見ること自体は珍しくない。
それでも、世界が違えば使用される素材や調合法も変わる。その点については多少興味があった。
その時だった。「いらっしゃい……って、ベル?」
店の奥から声がした。
現れたのは、一人の犬人の女性だった。
頭部には犬人らしい耳があり、右腕には義手が装着されている。落ち着いた雰囲気を持つその女性を見て、ベルの表情が明るくなった。
「ナァーザさん」
ナァーザ・エリスイス。
ミアハ・ファミリアの団長であり、『青の薬舗』で薬の調合や販売を担っている人物だった。
ナァーザはベルの姿を見ると、最初こそ笑みを浮かべたものの、すぐに不審そうな顔へ変わった。
「ベル……もう出歩いていいの?」
「それなんですけど――」
「確か、かなり酷かったって聞いてるけど」
ナァーザはベルへ近づくと、治療に携わる者らしく顔色や歩き方を確認した。
しかし、すぐに違和感へ気づく。
「……あれ?」
怪我人の動きではない。
無理をして歩いている様子もなければ、痛みを庇っている様子もなかった。
「ベル、本当に怪我してた?」
「してましたよ!」
ベルが思わず答える。
「じゃあ、どうしてそんなに普通なの?」
「兄さんに治してもらったんです」
「兄さん?」
そこで初めて、ナァーザの視線がベルの隣にいるシンへ向いた。黒髪の青年。
背中には布で包まれた長剣を背負い、腰には刀を差している。
顔立ちをよく見れば、確かにベルと似ている部分がある。しかし、髪や瞳の色が違うため、最初から兄弟だと気づくのは難しい。
ナァーザが首を傾げる。
「ベルのお兄さん?」
「はい。双子の兄です」
「……双子?」
またか。
シンは内心でそう思った。
オラリオへ来てから何度目になるか分からない反応だった。
「シン・クラネルだ」
「クラネル……本当に?」
「九年前に生き別れていた」
「九年前……」
ナァーザはベルを見る。
ベルが苦笑しながら頷いた。
「僕も今日再会したばかりなんです」
「今日?」
ナァーザの表情がさらに困惑する。
今日再会した、九年間行方不明だった双子の兄。
その兄がベルの重傷を治したという。
一度に増えた情報が多すぎて、どこから聞けばいいのか分からない様子だった。
「……ベルって、本当に色々起きるね」
「僕もそう思います……」
ベル自身、否定できなかった。
その時、店の奥から男性の声が聞こえた。
「ナァーザ、お客様かい?」
「ミアハ様。ベルが来てる」
「ベル君が?」
間もなく奥から一人の男神が姿を現した。
長い青髪に整った容姿を持ち、柔らかな雰囲気を纏っている。
シンは男が現れた瞬間、その存在を静かに観察した。
神であることは、わざわざ説明される必要もなかった。
この世界へ戻ってから既に何柱かの神を目にしているため、シンには判別できる。
権能を封じていたとしても、人間とは存在の在り方そのものが違う。
もっとも、ミアハから敵意は感じない。
こちらを探ろうとするような悪意もなかった。
ミアハはベルを見ると、安心したように笑った。
「ベル君。目覚めたとは聞いていたが、もう歩いて大丈夫なのかい?」
「はい。もう怪我は治りました」
「治った?」
ミアハも驚く。
ベルは再びシンを紹介した。
「兄さんが治してくれたんです。双子の兄のシンです」
「お兄さん?」
ミアハがシンを見る。
驚きはしたものの、ナァーザほど長く固まることはなかった。
「そうか。君がベル君の」
「初対面のはずだが?」
「もちろん初対面だよ」
ミアハは穏やかに笑った。
「ただ、ベル君から家族の話を聞いたことはある。幼い頃に兄を失ったこともね」
シンの目が僅かに細くなる。
「ベルが話したのか」
「以前、少しだけね」
シンは隣の弟を見る。
ベルは少し気まずそうに笑った。
「兄さんのことは覚えてたから」
その一言で、シンは何も言わなくなった。
五歳で別れた。
それでもベルは自分を覚えていた。
その事実だけで十分だった。
少しの沈黙の後、シンはミアハからナァーザへ視線を移した。
「今日は礼を言いに来た」
「礼?」
ナァーザが首を傾げる。
「ベルから聞いた。今回も、お前達のファミリアの団員が力を貸してくれたそうだな」
「ダフネとカサンドラだね」
ミアハが答える。
ベルも隣で頷いた。
シンは一度頷くと、ミアハとナァーザへ向き直った。
「ベルを助けてくれてありがとう」
そう言って、シンは深く頭を下げた。
ナァーザが僅かに目を見開き、ミアハも少し驚いたようだった。
シンはすぐに頭を上げる。
「俺がいなかった間、ベルが世話になった。今回だけではないらしいな」
ミアハは穏やかに笑う。
「私は大したことをしていないよ」
「それを決めるのは助けられた側だ」
シンは淡々と返した。
「ベルが世話になったと思っている。なら、兄として礼を言う」
ミアハは一瞬だけ目を丸くし、それから笑みを深めた。
「なるほど。ベル君のお兄さんだね」
「似ているか?」
「顔だけの話ではないよ」
ミアハの視線がベルへ向く。
「大切な相手のためなら、自分のことより先に動くところがよく似ている」
シンはその言葉には答えなかった。
ベルは少し照れたように頬を掻き、ナァーザも二人を見比べながら小さく笑った。
「確かに似てる」
「ナァーザさんまで……」
そんな会話を交わしていると、店の奥から別の声が聞こえてきた。
「ナァーザ、さっきから誰と話してるの?」
続いて姿を現したのは、桃色の髪を持つ少女だった。
ダフネ・ラウロス。
その後ろから、長い髪を揺らしながらもう一人の少女が顔を覗かせる。
「お客様……ですか?」
カサンドラ・イリオン。
ベルが二人を見る。
「ダフネさん、カサンドラさん」
「ベル?」
ダフネの目が大きく開く。
そして、ベルが何事もなかったように立っていることへ気づくと、すぐに表情を変えた。
「ちょっと待ちなさい! 何であんた普通に立ってるのよ!?」
「え?」
「『え?』じゃないわよ! あれだけの怪我だったでしょうが!」
「治ったんです」
「そんな早く治るわけないでしょ!」
「本当に治ったんですって!」
ダフネは信じられないといった様子でベルへ近づき、肩や腕を確認し始めた。
「ここは痛くない?」
「痛くないです」
「じゃあ、こっちは?」
「そこも大丈夫です」
「本当に?」
「本当です!」
そのやり取りを見ながら、シンは特に口を挟まなかった。
しかし、カサンドラが店の奥から出てきた瞬間から、その視線だけは彼女へ向けられていた。
ベルから聞いた話が正しければ、目の前の少女には未来へ干渉する何らかの力がある。
正確には未来を変える力ではなく、未来に起こり得る出来事を夢という形で観測する能力なのだろう。
一方、カサンドラもシンの姿を認めた瞬間、不意に足を止めた。
「……え?」
その反応にベルが気づく。
「カサンドラさん?」
しかし、カサンドラはすぐには返事をしなかった。
彼女はシンの姿を見つめながら、いつものように目の前の人物へ繋がる何かを無意識に感じ取ろうとしていた。
ところが、何も掴めない。
カサンドラは戸惑いながら眉を寄せた。
「……見えない」
その小さな呟きを聞き、ナァーザが首を傾げる。
「カサンドラ?」
「この人に繋がるものが……上手く見えません」
その言葉を聞いた瞬間、シンの目つきが僅かに変わった。
シン自身には、カサンドラが何をしようとしているのか大体理解できていた。
自分を起点として未来へ伸びる因果を捉えようとしている。
しかし、それが上手くいっていない。
理由もシンには心当たりがあった。
長い異世界の旅の中で、未来予知を行う者と出会ったのは一度や二度ではない。
占術や神託、時間魔法、因果観測など、その方法も様々だった。
そしてシン自身も時空間魔法を極める過程で、時間や因果について深く学んでいる。
そのため、自分の未来が通常の方法では観測しにくいことも知っていた。
カサンドラには、未来が存在しないように見えているわけではない。
むしろ逆だった。
彼女がシンの先にある未来を捉えようとするたび、あまりにも多くの可能性が同時に現れては分岐し、その直後には別の未来へと繋がっていく。
一つの選択によって未来が分かれるという単純なものではない。
シン自身が時間や空間、因果へ干渉できる存在であるため、現在から未来へ向かう一本の流れとして固定することができないのだ。
それは、カサンドラがこれまで夢で見てきた未来とは根本から異なるものだった。
「カサンドラさん?」
ベルが心配そうにもう一度声をかける。
その声でカサンドラはようやく我に返った。
「あ……ご、ごめんなさい」
シンはそんな彼女を見ながら尋ねる。
「お前がカサンドラか?」
「は、はい」
「ベルから聞いた。遠征の前から危険が起きることを知らせていたそうだな」
カサンドラの表情が僅かに曇った。
「でも……結局、上手く伝えられませんでした。誰にも信じてもらえなくて……」
「そうか」
シンはそれだけ答えた。
否定することも、笑うこともない。
そもそも彼女の言葉を疑っている様子すらなかった。
その反応の方が、カサンドラには理解できなかった。
「……信じるんですか?」
「何を?」
「私が……夢で未来を見ることをです」
シンは少しだけ眉を上げた。
「未来を見る力があることの何がおかしい?」
「え……?」
「精度や発動条件、観測できる範囲は能力によって違うが、未来を観測する術そのものは存在する。俺も過去に何種類も見てきた」
カサンドラは完全に固まった。
これまで何度説明しても、どれほど必死に訴えても、自分の予知夢をまともに信じてもらえることはほとんどなかった。
それを、今日初めて会ったばかりの青年が、まるで当然のことのように受け入れている。
しかも慰めるために話を合わせている様子ではない。
シンにとって未来予知とは、本当に存在して当然の力なのだ。
「お前の予知がどの程度のものかは、まだ分からないがな」
シンはカサンドラを観察しながら続けた。
「ただ、少なくとも嘘を言っているようには見えない。それに、さっき俺を見た時も何かを観測しようとしていただろう?」
「……分かるんですか?」
「ああ。俺の未来を見ようとしたんじゃないのか?」
カサンドラは驚きながらも、小さく頷いた。
「でも……駄目でした。見えないというより、何を見ればいいのか分からなくなって……」
「なら無理に見るな」
シンは即座に言った。
「え?」
「俺の未来は、お前が普段見ているものと同じ形では流れていない可能性が高い。無理に観測を続ければ、お前の方へ負担がかかる」
カサンドラは目を見開いた。
自分が未来を見られることを信じるだけではなく、その力が自分へ及ぼす負担まで考えている。
初対面の相手からそのような言葉をかけられるとは思っていなかった。
シンはそこで未来予知についての話を切り上げた。
今はカサンドラの能力を調べに来たわけではない。
本来の目的は別にある。
「それより、ベルを助けようとしてくれたんだろ?」
「……はい」
「なら、それでいい」
シンはカサンドラへ向き直り、僅かに頭を下げた。
「ありがとう」
カサンドラの瞳が大きく見開かれる。
「お前の警告が全て伝わらなかったとしても、ベルを助けようとしてくれた事実は変わらない。危険を知った上で、それを避けさせようとしてくれたんだろう?」
「はい……」
「なら、兄として礼を言う」
カサンドラは何も答えられなかった。
自分の予知夢を信じてもらえたことだけでも信じられないのに、その上で感謝までされた。
シンは続いてダフネへ視線を向ける。
「お前がダフネか?」
「え? あ、そうだけど……」
先ほどまでベルの身体を確認していたダフネが、少し戸惑いながら答える。
「ベル達と一緒に遠征へ参加していたと聞いた」
「まあね。同じ遠征隊だったから」
「ベルを助けてくれてありがとう」
シンが頭を下げると、今度はダフネが言葉を失った。
「ちょ、ちょっと待って。さっきから何なの、この人?」
ダフネがベルを見る。
ベルは苦笑しながら答えた。
「僕の兄さんです」
「兄?」
「双子の兄です」
「双子!?」
青の薬舗に、今日何度目になるか分からない驚きの声が響いた。
シンは小さく息を吐く。
「……この説明、あと何回すればいいんだ?」
「多分、しばらくは何回もすることになると思うよ」
ベルが苦笑する。
「面倒だな」
「仕方ないよ。僕だって、兄さんが帰ってくるなんて思ってなかったんだから」
そう言われると、シンも何も返せなかった。
五歳の時に突然姿を消してから九年。
ベルにとっては、死んだと思っていた兄が突然帰ってきたようなものだ。
しかも、シンの存在を知っている者そのものが少ない。
これからベルの知人へ会うたびに同じ説明を求められるのは避けられないだろう。
その様子を見ていたミアハが穏やかに笑う。
「大変そうだね、シン君」
「ベルの知り合いが多すぎる」
「それだけベル君が、この街で多くの縁を結んできたということだよ」
ミアハの言葉を聞き、シンは僅かに目を細めた。
確かにその通りなのだろう。
オラリオへ来てからまだそれほど時間は経っていない。
それでも、ベルを助けてくれた者へ礼を言うために回っているだけで、既に何人もの人間や神と会っている。
自分がいなかった九年間。
ベルは一人で生きていたわけではない。
多くの者と出会い、助けられ、時には相手を助けながら、この街で自分の居場所を作ってきた。
兄として、その事実を知ることができたのは悪くなかった。
一方、カサンドラだけは、まだ時折シンへ視線を向けていた。
初対面で自分の予知夢を疑わなかった人物。
それだけでも、カサンドラにとってシンはこれまで出会ったことのない相手だった。
だが、それ以上に気になるのは、自分の力で彼の未来を捉えられなかったことだ。
未来が存在しないわけではない。
何も起こらないわけでもない。
むしろ、シンを中心としてあまりにも多くの未来が生まれ、互いに重なり、分岐し、通常なら存在しないはずの道まで次々と現れていた。
まるでシン・クラネルという一人の存在が、決められた未来へ進むのではなく、自らの意思によって進む未来そのものを選び取れるかのようだった。
カサンドラには、その理由までは分からない。
ただ一つだけ理解できることがある。
目の前にいるベルの兄は、自分がこれまで予知夢の中で見てきた誰とも違う。
そして、その人物がベルのもとへ帰ってきたことで、これまで存在しなかった未来が無数に生まれ始めている。
カサンドラはそれ以上無理に予知しようとはせず、静かにシンとベルの兄弟を見つめていた。青の薬舗の中には、しばらく穏やかな空気が流れていた。
ベルが無事に目を覚まし、それどころか重傷を負っていたとは思えないほど完全に回復している。
ナァーザ達にとって、それだけでも十分に喜ばしいことだった。
もっとも、その治療を行ったという人物が九年前に生き別れたベルの双子の兄であり、今日になって突然オラリオへ現れたという話については、まだ全員が理解しきれていなかったが。
ダフネはベルとシンを交互に見比べていた。
「……言われてみれば、確かに似てるところはあるわね」
「そうですか?」
「顔の形とか目元とか。でも髪の色が全然違うから、最初は分からなかったわ」
ベルは白髪。
対してシンは黒髪だった。
双子と言われなければ、初対面で兄弟だと見抜くことは難しいだろう。
「五歳の時に生き別れたって言ったわよね?」
「ああ」
シンが答える。
「それで九年ぶりに帰ってきた?」
「この世界ではそうなる」
「……この世界では?」
ダフネが眉を寄せた。
シンは一瞬だけ彼女を見る。
「説明すると長くなる」
「ものすごく気になる言い方なんだけど」
「実際に長い」
「兄さん、本当に長いみたいだから……」
ベルも苦笑しながら補足する。
ダフネは追及しようとしたが、シンの表情を見る限り、今ここで詳しく説明するつもりがないことを察したのか、それ以上は聞かなかった。
その一方で、ナァーザは別のことを気にしていた。
「シン」
「何だ?」
「ベルの怪我を治したって言ってたけど、どうやったの?」
その質問に、ダフネとカサンドラも反応する。
ミアハも興味を持ったようにシンへ視線を向けた。
ベルが治療施設へ運び込まれた時の状態について、彼らもある程度は聞いている。
深層から奇跡的に生還したとはいえ、その身体には決して軽くない傷が残っていた。
それをシンは、短時間で完全に治してしまったという。
薬を扱うミアハ・ファミリアとしては、当然気になる話だった。
「魔法?」
ナァーザが尋ねる。
「魔法だけじゃない」
「じゃあ、治癒術?」
「それも使えるが、今回は違う」
シンは少し考えてから答えた。
「身体を構成しているものを正常な状態へ戻した」
ナァーザが瞬きをする。
「……どういう意味?」
「傷ついた肉体を治癒させたというより、肉体そのものを正常な状態へ再構築したと思えばいい」
今度は全員が黙った。
ベルだけは、既に兄ならそういうこともできるのだろうと半ば諦めたような顔をしている。
ナァーザは少し考え込んだ後、確認するように尋ねた。
「傷口を塞いだんじゃなくて……怪我をする前の状態に戻した?」
「近いが、時間を戻したわけではない」
「違うの?」
「ああ。時間逆行で治す方法もあるが、今回は使っていない」
さらりと言われた言葉に、ダフネが反応する。
「ちょっと待って。時間を戻して怪我を治すこともできるの?」
「できる」
「できるって……」
「時空間魔法を使えるからな」
ダフネはベルを見る。
「ベル」
「はい」
「あんたのお兄さん、さっきから普通にとんでもないこと言ってない?」
「……僕も今日再会したばかりなので」
「説明になってないわよ!」
ベル自身にも説明できないのだから仕方がない。
カサンドラはそんなやり取りを聞きながら、先ほど自分がシンの未来を上手く捉えられなかった理由を少しだけ理解していた。
時間そのものへ干渉できる。
それだけでシンの未来が通常とは異なる理由の全てを説明できるわけではないだろう。
しかし、少なくとも自分がこれまで見てきた者達とは根本的に違う存在であることは間違いない。
一方、ナァーザの関心は治療方法へ向いたままだった。
「再構築って、具体的には?」
「肉体を構成する物質を分解して、正しい状態へ組み直す」
「…………」
ナァーザは数秒ほど黙った。
「それ、失敗したらどうなるの?」
「普通なら死ぬ」
「普通なら!?」
ベルが思わず声を上げる。
シンは不思議そうに弟を見る。
「失敗していないだろ」
「そういう問題じゃないよ!」
「成功するから使った」
「兄さんはそうかもしれないけど、治された僕の立場にもなってよ!」
「意識を失っていたから何も感じていないだろ」
「後から聞いた方が怖いよ!」
ダフネが深く頷いた。
「それはベルが正しいわ」
「そうか?」
「そうよ!」
ナァーザも珍しくベルへ同情するような目を向けていた。
ただ、薬師としては別の意味で気になる。
「欠損も治せる?」
ナァーザが尋ねた。
その言葉と同時に、無意識なのか、彼女の視線が自分の右腕へ向いた。
そこには義手がある。
シンもその視線を追った。
「その腕か?」
ナァーザが僅かに表情を変える。
「……うん」
ベルも黙った。
ナァーザが右腕を失った経緯について、ベルも知っている。
冒険者時代にダンジョンで片腕を失い、多額の借金をして義手を作った。
それが原因となり、ミアハ・ファミリアが一時期ナァーザ一人だけになるほど衰退したことも。
シンは義手を見た後、ナァーザ本人を見る。
「治せる」
あまりにも簡単な返答だった。
ナァーザの表情が止まった。
「……え?」
「欠損した程度なら問題ない」
「本当に?」
「ああ」
ナァーザは何も言えなくなった。
失った腕。
それが戻る可能性など、今ではほとんど考えたこともない。
高位の治癒魔法でも、完全に失われた部位を元通りに再生することは容易ではない。
だからこそ義手を受け入れ、それを自分の身体の一部として生きてきた。
それを目の前の青年は、問題ないと断言した。
「……シン君」
ミアハが静かに口を開く。
先ほどまでの柔らかな表情は変わらない。
ただし、その声には主神としての真剣さがあった。
「本当にナァーザの腕を治せるのかい?」
「ああ」
「危険は?」
「俺がやるならない」
断言だった。
ミアハはしばらくシンを見つめる。
嘘を言っているようには見えない。
自分の力を誇示している様子もなかった。
シンにとっては、本当に可能なことを可能だと言っているだけなのだろう。
ナァーザは義手へ左手を添えた。
「……治してもらうことって、できる?」
シンは少しだけ眉を上げる。
「構わない」
「え?」
「ベルを助けてもらった礼もある。俺にとっては大した手間じゃない」
ナァーザが困惑する。
「でも……」
「何だ?」
「そんな簡単に頼んでいいことじゃないと思う」
ナァーザ自身、失った腕を取り戻せるなら嬉しくないはずがない。
だが、それほどの奇跡を無償で受け取っていいのかという戸惑いの方が大きかった。
シンは少し考えた後、ベルを見る。
「お前、このファミリアには世話になっているんだな?」
「え? う、うん。すごく」
「なら問題ない」
「それで決めるの?」
「ああ」
シンにとっては十分な理由だった。
弟が世話になった。
なら、その恩を返す。
単純な話だ。
シンは再びナァーザへ視線を戻す。
「ただし、決めるのはお前だ」
「私?」
「腕が戻ることと、戻したいと思うことは別だろ」
ナァーザが目を見開いた。
シンは義手を指す。
「それを使って長いなら、既に今の身体へ慣れているはずだ。失ったものを取り戻すことが、必ず本人にとって正しいとは限らない」
ナァーザは自分の右腕を見る。
長く使ってきた義手。
苦しんだ記憶もある。
それでも今では、自分の身体の一部と言ってもいいほど馴染んでいる。
シンは急かさなかった。
「今決めなくてもいい」
「……いいの?」
「ああ。俺はしばらくオラリオにいる。戻したくなった時にベル経由で呼べばいい」
ナァーザはしばらく黙っていた。
やがて、僅かに笑った。
「ありがとう」
「礼は治してからでいい」
「違うよ」
ナァーザは首を振った。
「選ばせてくれたことに」
シンはその言葉に何も返さず、僅かに頷いた。
ミアハはそんな二人のやり取りを穏やかに見守っていた。
やがてベルが店内を見回し、口を開く。
「兄さん、そろそろ次に行こうか?」
「ああ」
シンも頷く。
まだ礼を伝えていない者達がいる。
青の薬舗へ来た本来の目的は果たした。
「もう行くの?」
ダフネが尋ねる。
「ベルを助けてくれた奴を回っている途中だからな」
「全員?」
「ああ」
ダフネは少し呆れたような顔をした後、ベルを見る。
「……本当に兄弟ね」
「またそれ言うんですか?」
「だって、変なところで律儀なのがそっくりなんだもの」
ベルは否定しようとしたが、結局何も言えなかった。
カサンドラはシンへ小さく頭を下げる。
「あの……シンさん」
「何だ?」
「私の夢を信じてくれて、ありがとうございました」
シンは一瞬だけ彼女を見る。
「事実なら信じるも何もないだろ」
「それでも……嬉しかったです」
シンにはその言葉の重さまでは分からなかった。
カサンドラの予知夢が周囲から信じられないという性質を持つことを、まだ詳しく知らないからだ。
それでも彼女が感謝していることは理解できた。
「なら、次に何か見たらベルにも話せ」
「はい」
「ベル」
突然呼ばれ、ベルが背筋を伸ばす。
「な、何?」
「こいつが危険だと言ったら、最初から否定するな」
「うっ……」
遠征前のことを思い出し、ベルが言葉に詰まる。
「まず調べろ。それから判断しろ」
「……はい」
「分からないなら俺に言え」
「分かったよ」
カサンドラはその会話を聞きながら、僅かに目を潤ませていた。
自分の予知夢を、最初から検討する価値のある情報として扱ってくれる。
それだけのことが、彼女にとっては何よりも大きかった。
シンとベルは店の出口へ向かう。
その途中。
シンは一度だけ足を止めた。
視線の先には、棚に並べられた薬がある。
「ナァーザ」
「何?」
「今度、薬の作り方も見せてくれ」
ナァーザが少し驚く。
「興味あるの?」
「ああ。俺が知っている薬草とは種類が違う。調合法も見ておきたい」
「シンも薬を作れるの?」
「多少はな」
その『多少』を聞いたベルは、嫌な予感を覚えた。
ヘファイストスのところでも似たような流れがあったからだ。
「兄さん」
「何だ?」
「その『多少』って、本当に多少?」
「錬丹、調薬、錬金、毒薬、霊薬は一通り作れる」
「やっぱり!」
ベルが頭を抱える。
ダフネが呆れたようにシンを見る。
「何者なのよ、本当に……」
「ベルの兄だ」
「そういう意味じゃないわよ!」
青の薬舗に笑い声が広がった。
シンは何がおかしいのか分からない様子だったが、それ以上は追及しなかった。
「では、また来る」
「ああ。いつでも歓迎するよ」
ミアハが笑顔で答える。
ナァーザも小さく手を振った。
「ベルも、治ったからって無茶しないでね」
「はい!」
「特にベルは危険へ自分から突っ込むらしいからな」
シンが横から付け加える。
「兄さん!?」
「違うのか?」
「……完全には否定できないけど」
「なら気をつけろ」
「はい……」
肩を落とすベルを連れ、シンは青の薬舗を後にした。
外へ出れば、オラリオの街は相変わらず多くの人々で賑わっている。
シンは隣を歩くベルへ尋ねた。
「次は誰だ?」
ベルは少し考えた後、次に会うべき人物を頭の中で思い浮かべる。
今回の遠征。
深層。
自分が生還するまでに力を貸してくれた者は、まだいる。
「次は――」
ベルは兄へ次の目的地を告げた。
シンは短く頷くと、弟と並んで再びオラリオの街を歩き始めた。