白兎の兄が規格外なのは間違っているだろうか 作:ディーノpc35
それからシンとベルは、深層からの帰還に関わった者達のもとを順番に訪ねていった。
ベルから一人一人について話を聞き、実際に会える者には直接会って礼を伝える。
シンにとって、それは単なる形式ではなかった。
自分がこの世界にいなかった間、ベルは何度も危険な目に遭っている。
今回の遠征もその一つだった。
特に深層での出来事について詳しく聞くほど、ベルが生還できたのは決して本人一人の力ではなかったことが分かる。
リューをはじめ、遠征に同行した者達。
帰還するために力を貸した者達。
戻ってから治療に関わった者達。
その全員が少しずつ力を貸したからこそ、ベルは今こうして自分の隣を歩いている。
だからシンは、可能な限り自分の言葉で感謝を伝えた。
突然現れたベルの双子の兄に驚かれることは多かった。
ベルに兄がいたこと自体を知らない者もいれば、九年前に行方不明となっていた人物が突然戻ってきたことに困惑する者もいた。
それでも、シンがベルを助けたことに対して本気で感謝していると分かれば、最後には大半の者が好意的に応じてくれた。
そして、最後の一人への挨拶を終えた頃には、既に日が傾き始めていた。
「これで全員か?」
シンが尋ねる。
隣を歩いていたベルは、頭の中で今日訪ねた者達をもう一度確認してから頷いた。
「はい。今日会える人には全員会えたと思う」
「そうか」
シンは短く答えた。
ベルはそんな兄を横目で見る。
「兄さん、本当に全員に会ったね」
「最初からそのつもりだっただろ」
「そうだけど……」
ベルは少し笑った。
「なんか、嬉しかった」
シンがベルを見る。
「何がだ?」
「僕を助けてくれた人達に、兄さんがあんなに真剣にお礼を言ってくれたこと」
「当然だろ」
シンは前を向いたまま答える。
「お前が生きていることに力を貸してくれた奴らだ。俺が感謝しない理由がない」
あまりにも当然のこととして言われ、ベルは少し照れたように笑った。
九年間。
兄がいないことが当たり前になっていた。
幼い頃にはいつも隣にいた存在だったはずなのに、その記憶さえ遠いものになりかけていた。
それが今では、再びこうして隣を歩いている。
まだ不思議な感覚は消えていない。
それでも少しずつ、シンが帰ってきたという事実が現実のものとしてベルの中へ馴染み始めていた。
その時だった。
「ベル君ー!」
聞き慣れた声が前方から響く。
ベルとシンが視線を向けると、そこにはヘスティアが立っていた。
その後ろにはリリ、ヴェルフ、命、春姫の姿もある。
「神様?」
「遅いよ、ベル君! 待ってたんだから!」
ヘスティアが駆け寄ってくる。
「すみません。思ったより時間がかかっちゃって」
「まあ、シン君が直接お礼を言いたいっていうんだから仕方ないけどね」
ヘスティアはそう言うと、シンを見る。
「終わったのかい?」
「ああ。今日会える奴には一通り礼を言った」
「それならちょうどいい」
ヘスティアが満足そうに頷いた。
ベルが首を傾げる。
「ちょうどいい?」
「今日はお祝いだからね!」
「お祝い?」
「当然だろう!」
ヘスティアは胸を張った。
「ベル君が深層から無事に帰ってきたお祝い! それから――」
今度はシンを見る。
「九年間行方不明だったベル君のお兄さんが帰ってきて、兄弟が再会できたお祝いだよ!」
ベルが目を丸くする。
「そこまでしてくれるんですか?」
「するに決まってるだろう!」
リリも笑いながら頷く。
「ベル様の無事な帰還だけでも、きちんとお祝いするつもりでしたからね。それにシン様との再会まで重なったんです。まとめて盛大にお祝いすることになりました」
「場所は?」
シンが尋ねる。
ヴェルフが笑った。
「もう決まってるぜ」
◇ ◇ ◇
しばらくして。
一行は西のメインストリートにある一軒の酒場の前へ到着した。
シンが建物を見上げる。
周囲の店と比べてもかなり大きい。
そして夕食時ということもあり、中からは大勢の客の声が聞こえてくる。
「ここです」
春姫が嬉しそうに言った。
ベルも笑う。
「『豊穣の女主人』です」
「酒場か」
「はい。僕もよく来るところです」
ヘスティアが少しだけ頬を膨らませる。
「ベル君は来すぎな気もするけどね」
「神様?」
「何でもないよ!」
リリが呆れたようにヘスティアを見る。
シンはそのやり取りを気にすることなく店へ視線を向けた。
ベルがよく利用している店。
それならば、ここで働く者達とも関係があるのだろう。
「入ろう」
「うん」
ベルが扉を開ける。
途端に、店内の喧騒が耳へ飛び込んできた。
冒険者達の笑い声。
食器が触れ合う音。
注文を取る従業員達の声。
料理と酒の匂い。
かなり繁盛しているらしい。
「いらっしゃいませー!」
明るい声が響いた。
猫人の少女がこちらへ駆け寄ってくる。
「おっ、ベルじゃニャいか!」
「アーニャさん」
「元気になったのかニャ!?」
「はい。もう大丈夫です」
「よかったニャー!」
アーニャが大きく笑う。
その声を聞いた他の従業員達もベル達へ気づいた。
「ベル?」
「本当にもう歩いて大丈夫なの?」
「無茶してないでしょうね?」
次々と声をかけられ、ベルが苦笑しながら答えていく。
シンはその少し後ろで店内を見回していた。
視線。
足運び。
身体の使い方。
魔力。
客の中にも冒険者が多い。
そして従業員の中にも、明らかに一般人とは異なる者が複数いる。
ただの酒場ではないらしい。
「ベル」
厨房の方から低い声が響いた。
大柄な女が姿を現す。
店主であるミア・グランドだ。
「ミアさん」
「退院したばかりだってのに、もう出歩いてるのかい」
「怪我はもう治ったんです」
「聞いてるよ。兄貴が治したんだって?」
ミアの視線がシンへ向く。
「その黒髪がそうかい?」
「ああ。シン・クラネルだ」
「ミア・グランドだ。この店をやってる」
短い挨拶。
しかし、その間に双方が相手を観察していた。
シンはすぐに理解する。
この女は強い。
今は酒場の女主人として立っているが、明らかに相応の戦闘経験を積んでいる。
一方のミアも、シンを見て僅かに目を細めていた。
冒険者ではない。
少なくとも、神の恩恵を受けた者の雰囲気ではない。
それなのに。
妙だった。
鍛えた人間特有の気配はある。
だが、その底がまったく読めない。
「……まあいい」
ミアはそれ以上探ることなく言った。
「今日は祝いなんだろ。席は取ってあるよ」
「ありがとうございます、ミアさん」
ベルが頭を下げる。
「礼なら食ってから言いな」
そう言ってミアが厨房へ戻ろうとした、その時だった。
「ベルさん!」
柔らかな声が聞こえた。
ベルの表情が明るくなる。
「シルさん」
シンの視線が、自然と声の主へ向いた。
灰色の髪を持つ少女。
店の制服を身につけ、料理を載せた盆を手にしている。
シル・フローヴァ。
彼女はベルの姿を見ると、心から安心したような笑みを浮かべた。
「もう大丈夫なんですか?」
「はい。怪我は全部治りました」
「よかった……」
シルは胸元へ手を当て、本当に安堵したように息を吐く。
「ベルさんが深層から戻ったと聞いた時も安心しましたけど、重傷だって聞いてずっと心配していたんですよ?」
「すみません」
「どうしてベルさんが謝るんですか」
シルが少し困ったように笑う。
そのやり取りを。
シンは無言で見ていた。
表情は変わらない。
呼吸も。
立ち方も。
何一つ変化していない。
しかし。
意識だけが完全に切り替わっていた。
――神。
それを理解するまで、一瞬も必要なかった。
シンの目には、目の前の少女がただの人間には見えていなかった。
肉体は人間。
表面に現れている気配も人間のものとして巧妙に整えられている。
普通の冒険者なら疑問すら抱かないだろう。
神の恩恵を持つ者が見ても、簡単には気づけないほど自然だった。
だが。
シンは神という存在を知りすぎていた。
世界ごとに神の在り方は異なる。
肉体を持つ神。
概念そのものに近い神。
信仰によって生まれた神。
世界法則の一部となった神。
そして、人の姿へ自らを偽装する神。
数え切れないほど見てきた。
だからこそ分かる。
どれほど人間らしく装っていても、存在の根底にあるものまでは完全には隠せない。
シンは神気を一切表へ出さないまま、シルを観察した。
――何故、神が人間のふりをしている?
しかも。
ベルは気づいていない。
ヘスティアも普段通りだ。
リリ達も。
周囲の冒険者も。
従業員達でさえ、誰一人として目の前の少女を神として扱っていない。
つまり、少なくとも公には人間として生活している。
シンの中で警戒度が一段上がった。
ただし。
何もしない。
殺気も向けない。
敵意も見せない。
シンは長い旅の中で、敵を発見した瞬間に攻撃するほど短絡的ではなくなっている。
神である。
それだけでは敵と断定する理由にならない。
重要なのは。
――目的は何だ?
神が人間へ正体を偽り、酒場で従業員として働いている。
それだけなら、まだシンにとって問題ではない。
奇妙ではあるが、他人がどのような生活を選ぼうと興味はない。
しかし。
シルはベルと親しい。
その一点だけで話が変わる。
「ベルさん?」
「はい?」
「そちらの方は?」
シルの視線がシンへ向いた。
その瞬間。
二人の視線が初めて正面から交わった。
シルは柔らかな笑みを浮かべている。
シンも平静な表情のままだった。
ベルが何も知らずに紹介する。
「僕の兄です」
「お兄さん?」
シルが目を丸くする。
「はい。双子の兄のシンです」
「双子……」
シルはシンを見る。
「初めまして。シル・フローヴァです」
「シン・クラネルだ」
シンも普通に名乗った。
それだけ。
表面上は。
だが、シンは同時にシルの反応を細かく観察していた。
視線。
呼吸。
表情。
神気。
そして。
ベルを見る時の変化。
そこに何があるのか。
単なる友人への好意なのか。
それとも別の目的があるのか。
今はまだ判断できない。
「ベルさんのお兄さんがいたなんて知りませんでした」
シルが言う。
「九年前に行方不明になっていたんです」
ベルが説明する。
「それで今日、再会できたんです」
「今日?」
シルが驚く。
「はい」
「それは……本当におめでとうございます」
その言葉と笑顔に、少なくとも表面的な嘘は見えない。
ベルとの再会を祝っている。
だが。
シンの警戒は解かれなかった。
むしろベルとの関係が深いと分かったことで、注意すべき相手として明確に認識した。
「ありがとう」
シンは短く答える。
シルが僅かに首を傾げる。
ほんの一瞬だった。
シンの視線に、何か普通ではないものを感じたような気がしたからだ。
しかし、次に見た時には何もない。
ただ弟の隣に立つ兄がいるだけだった。
「シン君?」
ヘスティアが呼ぶ。
シンは自然にそちらを見る。
「何だ?」
「席、こっちだよ」
「ああ」
それだけ答えて歩き出す。
誰も気づいていない。
シンがシルの正体を看破したことにも。
彼女を警戒対象へ加えたことにも。
シル自身にすら、確信を持たせるような反応は一切見せていなかった。
今ここで正体を暴く意味はない。
ベル達が祝いのために集まった席で騒ぎを起こす必要もない。
何より。
シンはまだ何も知らない。
この神が誰なのか。
何故、人間の少女として生活しているのか。
何故、ベルと親しいのか。
そして。
ベルへ何を求めているのか。
調べるべきことは多い。
シンは案内された席へ腰を下ろした。
隣にはベル。
向かいにはヘスティア。
その周囲にはリリ、ヴェルフ、命、春姫が座っていく。
「今日は飲むぞー!」
ヘスティアが早くも上機嫌で声を上げる。
「神様、まだ料理も来てませんよ」
ベルが苦笑する。
「いいじゃないか! 今日はめでたい日なんだから!」
「ヘスティア様、飲み過ぎは禁止ですからね」
リリが釘を刺す。
「分かってるって!」
「その返事が一番信用できないです」
ヴェルフが笑い、命と春姫も楽しそうに会話へ加わる。
シンはそんな光景を静かに眺めていた。
ベルが今暮らしている場所。
ベルが選んだ神。
ベルが作った仲間。
自分がいなかった九年間に、弟が築いたもの。
それを知るための時間でもある。
だからこそ。
シンは祝いの席を壊すつもりはなかった。
やがて料理を運ぶため、シルが再びこちらへ近づいてくる。
「お待たせしました」
笑顔で料理を並べていくシルを見ても、シンは特別な反応を示さない。
「ベルさん、たくさん食べてくださいね」
「はい!」
「シンさんも遠慮しないでください」
「ああ」
短く答えながら。
シンは内心だけで考える。
――今は何もしない。
相手が神であるというだけで処断するつもりはない。
この世界の神々については、まだ知らないことが多すぎる。
だが。
もし。
人間のふりをしてベルへ近づいている理由が、弟を利用するためのものなら。
その時は話が変わる。
シンの瞳の奥で、一瞬だけ冷たい光が宿る。
それすらも誰にも悟らせることなく、すぐに消した。
「兄さん?」
ベルが隣から声をかける。
「何だ?」
「どうしたの?」
「何でもない」
シンはベルを見る。
そして。
「今日はお前の無事を祝うんだろ」
「うん」
「なら楽しめ」
ベルは一瞬だけ目を丸くした後、嬉しそうに笑った。
「兄さんもね」
「ああ」
シンはそう答え、目の前に置かれた料理へ手を伸ばす。
その間にも。
店内の様子。
従業員達。
そしてシルの位置は、常に把握していた。
誰にも悟らせないまま。
ベル自身にさえ気づかせないまま。
シン・クラネルは、この世界へ帰還してから初めて出会った。
神であることを隠し。
人として弟の傍にいる存在を。
そしてその事実は、シンにとって決して見過ごせるものではなかった。