白兎の兄が規格外なのは間違っているだろうか 作:ディーノpc35
工房には、何とも言えない沈黙が広がっていた。
誰も口を開かない。
いや、正確には何を言えばいいのか分からなかった。
ヘファイストス・ファミリアの鍛冶師達が見つめているのは、シンが一度目の精錬を終えたオリハルコンと、その代償として限界寸前まで酷使された炉だった。
彼らにとって、その炉は決して安物ではない。
ファミリアが所有する炉の中でも、特に高級な素材を扱うために作られたものだ。
耐熱性も非常に高く、オリハルコンの加工にも使用されてきた。
そんな炉が、たった一度の精錬で見るも無惨な状態になっている。
外壁は熱によって変色し、内部の耐火材にも明らかな劣化が見える。接合部分には熱膨張による負荷が残り、一部には細かな亀裂まで生じていた。
完全に壊れたわけではない。
修理すれば再び使える。
しかし、このまま続けて同じ精錬を行えば、次は間違いなく炉そのものが耐えられない。
しかも、シンは炉の扱いを間違えたわけではなかった。
むしろ逆だ。
炉全体の状態を把握し、どの部分へどれほどの負荷がかかっているのかを確認しながら、壊れないぎりぎりの領域まで性能を引き出した。
その結果として、これまでオリハルコンの一部だと思われていた物質が、不純物として大量に取り除かれた。
「……なあ」
ようやく、一人の鍛冶師が口を開いた。
「俺達が今まで使っていたオリハルコンって……精錬が終わってなかったのか?」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
「いや……終わってるだろ」
別の鍛冶師が反論する。
しかし、その声には自信がない。
「採掘した鉱石をそのまま武器にしているわけじゃない。選別も精錬もしている」
「だったら、さっき出てきたあれは何なんだ?」
視線が、シンによって取り除かれた不純物へ集まる。
誰も答えられない。
全員が見ていた。
シンが異常な高温までオリハルコンを加熱し、その内部に混ざっていた成分を分離させた。
そして槌を使い、それらを外へ押し出した。
何より、精錬後のオリハルコンは明らかに変化している。
「俺達がオリハルコンだと思っていたものの中に、あれだけ別のものが混ざっていたってことか……?」
「そうなるんだろうな」
「でも、あんな温度で精錬なんて普通やらないぞ」
「やらないんじゃない」
年配の鍛冶師が低い声で言った。
周囲の視線が集まる。
男は限界寸前になった炉を見ながら続けた。
「できないんだ」
その一言で、再び工房が静かになった。
「俺達が今までやってきた精錬が間違っていたわけじゃない。あそこまで温度を上げれば、炉が先に駄目になる。実際に見ただろう」
男が炉を指す。
「あいつが炉の状態を確認しながら調整しても、一回でこれだ。普通の鍛冶師が同じことをやれば、途中で炉を壊していてもおかしくない」
周囲の鍛冶師達が頷く。
「それ以前に採算が合わん。オリハルコンを一つ精錬するたびに最高級の炉を大修理していたら、武器を作る前に工房が潰れる」
「確かにな……」
「炉だけでいくら飛ぶと思ってるんだ」
何人かが乾いた笑いを漏らす。
だが。
「それなのに……」
若い鍛冶師が呟いた。
「まだ途中なんだろ?」
笑い声が止まった。
全員が思い出す。
シンは確かに言った。
大きな不純物を取り除いただけ。
細かな不純物は、まだ残っている。
しかも。
次の精錬には、さらに高い温度が必要になる。
「……どうするんだよ、それ」
「この炉より上って……」
「そんな温度に耐えられる炉、うちにあるのか?」
団員達の視線が自然とヘファイストスへ向かう。
ヘファイストスは腕を組んだまま、限界寸前になった炉を見ていた。
やがて小さく息を吐く。
「少なくとも、この工房では無理ね」
「ヘファイストス様でも?」
「私だから分かるのよ」
ヘファイストスは炉を指す。
「この炉は、うちが所有している中でも最高水準のものよ。これより高い温度を長時間維持しながら、安全に精錬できる設備なんて簡単には用意できないわ」
団員達の表情が曇る。
そこで、一人がシンへ尋ねた。
「シンさん」
「何だ?」
「あなたなら、この続きができるんですか?」
「ああ」
即答だった。
「設備があれば?」
「設備もある」
「……やっぱりあるんだ」
何人かが苦笑する。
既に驚くことに疲れ始めていた。
シンは限界寸前の炉を見ながら続けた。
「俺の工房なら、この程度の温度で炉が傷むことはない」
「この程度……」
その言葉に何人もの顔が引きつった。
つい先ほど、彼らが最高級と認識していた炉が限界寸前まで酷使された温度である。
それをシンは「この程度」と表現した。
「シンよ」
椿が苦笑する。
「お主の工房を基準に話すと、こやつらが混乱するぞ」
「事実を言っただけだ」
「それが問題なのじゃ」
周囲から僅かな笑いが起こる。
しかし、すぐに鍛冶師達の視線は精錬されたオリハルコンへ戻った。
ヘファイストスも同じだった。
「シン」
「何だ?」
「この段階でも、元のオリハルコンより性能は上がっているのよね?」
「ああ」
シンはオリハルコンを確認する。
「不純物によって阻害されていた部分が減っている。硬度も上がっているはずだ」
「魔力伝導性は?」
「多少は改善している。ただ、このオリハルコンはミスリルほど魔力伝導に特化した素材ではないようだな」
周囲の鍛冶師達は会話を聞き逃すまいと耳を傾ける。
「なら、この状態で武器を作れば?」
「今までより質の高いものは作れる」
何人かの表情が明るくなる。
だが。
「ただし、加工難度も上がっている」
すぐに表情が固まった。
「やっぱり……」
ヘファイストスには予想できていた。
「不純物が減って、オリハルコン本来の硬さが強く出ているから?」
「ああ」
シンは頷く。
「不純物は必ずしも悪いものではない。混ざっていることで加工性が上がる場合もある。今回のオリハルコンもそうだ」
「つまり……」
椿が精錬後のオリハルコンを見る。
「今まで以上に硬くなった代わりに、今まで以上に鍛えるのが難しくなったということじゃな?」
「そういうことだ」
団員達がざわつく。
「ただでさえオリハルコンは面倒なのに……」
「これ以上硬くなったら、どうやって加工するんだ?」
「炉も今まで通りじゃ足りなくなるんじゃないか?」
「その可能性はある」
シンが答える。
「精錬だけでなく、加工する時にも今まで以上の温度が必要になるだろう」
「……だよな」
鍛冶師達の顔に、何とも言えない表情が浮かぶ。
優れた素材になった。
しかし。
自分達が扱えるとは限らない。
それは鍛冶師として、かなり悔しい事実だった。
「……くそ」
若い鍛冶師が小さく呟いた。
シンが視線を向ける。
「何だ?」
「いえ……」
若い鍛冶師は少し迷った後、正直に答えた。
「俺達、結構上まで来てると思ってたんです」
ヘファイストス・ファミリア。
オラリオ最大級の鍛冶派閥。
所属するだけでも、鍛冶師にとって一種の名誉になる。
その中で腕を磨き続けてきた。
「でも、素材一つでこんなに知らないことがあるとは思わなかった」
周囲にいる者達も同じような表情をしていた。
自信を失ったわけではない。
だが。
自分達が知っている鍛冶技術が全てではない。
その事実を、これ以上ないほど分かりやすい形で突きつけられた。
シンは彼らを見る。
そして、特に慰めることもなく答えた。
「当然だろう」
若い鍛冶師が顔を上げる。
「俺もこのオリハルコンを扱ったのは今日が初めてだ」
「……あ」
言われて初めて思い出す。
シンにとっても、この世界のオリハルコンは未知の素材だった。
「だから最初に調べた」
シンは精錬後のオリハルコンを示す。
「内部へ真気を通して構造を確認した。熱を加えた時の変化を見た。その結果から、どの程度まで温度を上げれば不純物を分離できるか判断した」
「最初から知っていたわけじゃないのか……」
「当然だ」
異世界を巡り続けてきたシンは、数え切れないほど未知の素材と遭遇している。
最初から全ての扱い方を知っていたわけではない。
調べ。
試し。
失敗し。
また調べる。
必要なら新しい道具を作る。
炉が足りなければ、より高温に耐えられる炉を作る。
そうやって鍛冶技術を積み上げてきた。
「知らないなら調べればいい」
シンは淡々と続ける。
「失敗したなら原因を探す。道具が足りないなら作る。素材を扱えないなら、扱える方法を考える」
椿が静かにシンを見る。
「最初から何でも知っている鍛冶師などいないだろう」
シンにとっては、それだけの話だった。
だが。
その言葉を聞いた鍛冶師達の表情は少し変わった。
先ほどまでの衝撃が、徐々に別の感情へ変わっていく。
知りたい。
試したい。
自分達にもできるようになりたい。
鍛冶師として当然の欲求だった。
椿が楽しそうに笑う。
「なるほどのう。お主が鍛冶でも化け物になった理由が、少し分かった気がするわ」
「化け物は余計だ」
「最高の褒め言葉じゃ」
二人のやり取りに、周囲から笑い声が漏れた。
張り詰めていた空気がようやく緩む。
しかし。
ヘファイストスだけは、精錬されたオリハルコンをじっと見つめていた。
「……シン」
「何だ?」
「続きをやるんでしょう?」
「ああ」
シンは即答する。
「この炉では無理だから、俺の工房でやる」
周囲の鍛冶師達が反応した。
シンの工房。
先ほど椿が口にした場所。
当然、鍛冶師なら興味を持つ。
だが、誰も連れていってほしいとは口にしなかった。
ヘファイストスと椿が既にシンの工房を見ていることは、先ほどの会話から分かっている。
同時に。
そこがシンの個人的な工房であることも理解している。
鍛冶師にとって工房とは、自らの技術そのものが詰まった場所だ。
他人が勝手に入っていい場所ではない。
ヘファイストスも団員達の視線に気づいたが、取り合わなかった。
「椿」
「はい」
「行くわよ」
「もちろんです」
最初から、その二人だけだった。
シンの武器を保管している異空間へ入ったのも。
シンの工房を見せてもらったのも。
そして今回、オリハルコンの精錬の続きを見ることを許されるのも。
鍛冶神ヘファイストスと、その眷属である団長・椿だけ。
その線引きを変える理由はなかった。
一人の団員が名残惜しそうに精錬途中のオリハルコンを見る。
「……完成したら、見せてもらえるんでしょうか?」
シンは少し考える。
「見るだけなら構わない」
その一言で団員達の表情が明るくなった。
「本当ですか!」
「ああ」
「触るのは?」
「完成後の性質を確認してからだ」
「分かりました!」
即答だった。
ヘファイストスが苦笑する。
「随分素直ね、あなた達」
「だって気になりますよ!」
「今でも元のオリハルコンとは全然違うんですよ!?」
「これが完成したらどうなるのか、見たくない鍛冶師なんていませんって!」
次々と声が上がる。
椿も笑っていた。
「まあ、当然じゃな」
ヘファイストスも否定しなかった。
彼女自身、同じ気持ちだからだ。
むしろ自分は。
その続きを間近で見ることができる。
「それじゃあ行きましょう」
ヘファイストスがシンを見る。
シンは精錬途中のオリハルコンを回収した。
「炉は先に修理しておけ」
その言葉に、団員達が一斉に限界寸前の炉を見る。
「……そうだった」
「忘れてた……」
「これ、修理に何日かかる?」
「内壁は交換だろ」
「接合部も全部点検しろ。下手したら歪んでるぞ」
「精錬一回で大仕事増えたな……」
先ほどとは別の意味で工房が騒がしくなる。
ヘファイストスは額へ手を当てた。
「やっぱり高くついたわね……」
「やめるか?」
シンが尋ねる。
「やめるわけないでしょう」
ヘファイストスは即答した。
炉一基の修理費。
それは決して安くない。
だが。
自分達が最高硬度の金属として扱ってきたオリハルコンが、本来どこまで精錬できるのか。
その答えを知る機会と比べれば、惜しいとは思わなかった。
「行きましょう、シン」
「ああ」
シンが時空間魔法を発動する。
その対象となったのは二人だけ。
ヘファイストス。
そして椿。
次の瞬間。
三人の姿が工房から消えた。
残された団員達は、しばらく三人がいた場所を見つめていた。
やがて。
一人が限界寸前の炉を見る。
「……修理するか」
「ああ」
別の鍛冶師が精錬の際に取り除かれた不純物を見る。
「その前に、これ全部保管しておこうぜ」
「何で?」
「調べるんだよ」
男は当然のように答えた。
「何が混ざってたのか分かれば、俺達の精錬方法も改善できるかもしれないだろ?」
周囲の表情が変わる。
「なるほど」
「ヘファイストス様が戻るまでに分析しておくか」
「炉の修理も忘れるなよ」
「分かってる!」
工房は再び騒がしくなった。
未知の技術を直接見ることはできない。
シンの工房へ入ることも許されていない。
だが。
だからといって、何もできないわけではない。
自分達が見たもの。
残された不純物。
限界寸前になった炉。
精錬中にシンが行っていた温度調整。
そこから学べることはいくらでもある。
その日。
ヘファイストス・ファミリアの鍛冶師達は、炉の修理と並行して、シンが残していった精錬の痕跡を調べ始めた。
一方。
シンとヘファイストス、椿の三人は。
オリハルコンを本来の姿へ近づけるため、再びシンの異空間工房へと移っていた。シンの時空間魔法によって、三人は再び異空間に存在する工房へと戻ってきた。
先ほどまでいたヘファイストス・ファミリアの工房とは、設備の規模も種類もまるで違う。
無数の炉。
用途ごとに分けられた作業区画。
壁一面に並ぶ工具。
異世界で手に入れた鉱石や金属、魔獣や龍、さらには神に由来する素材まで、それぞれが適切な環境で保管されている。
一度見ているとはいえ、ヘファイストスと椿は改めて周囲を見回していた。
だが、今回の目的は見学ではない。
ヘファイストス・ファミリアの工房では続行できなくなったオリハルコンの精錬。
シンは精錬途中のオリハルコンを作業台へ置くと、工房のさらに奥へ向かって歩き始めた。
「こっちだ」
「さっき見せてもらった炉とは違うところへ行くの?」
「ああ。次の工程では、さっきの炉より温度を上げる」
ヘファイストスは足を止めなかったものの、僅かに表情を引き締めた。
先ほどの精錬を思い出したからだ。
自分達の工房にある最高水準の炉。
それを限界寸前まで酷使して、ようやく一段階目の精錬を終えた。
しかもシンは、その先にはさらに高い温度が必要だと言っていた。
「どの程度まで上げるんじゃ?」
椿が尋ねる。
「素材の状態を見ながら決める。ただ、お前達の工房で使った温度とは比較にならない」
「……比較にならない、か」
椿の表情から笑みが消える。
やがて三人は、工房の奥にある精錬区画へ到着した。
そこには巨大な炉が据えられていた。
ヘファイストス・ファミリアの工房にあった炉とは構造そのものが違う。
炉壁には複雑な術式が幾重にも刻まれ、周囲の床や壁にも巨大な魔法陣が広がっている。
炉の周囲には熱を遮断するためと思われる設備も設置されていた。
ヘファイストスが興味深そうに近づこうとする。
しかし。
「待て」
シンが止めた。
「何?」
「そのままでは始められない」
シンはオリハルコンを作業台へ置くと、近くにある収納棚へ向かった。
そこから取り出したのは二つの首飾りだった。
見た目そのものは、それほど派手ではない。
細い鎖の先に、小さな結晶のようなものが取り付けられている。
一つをヘファイストスへ。
もう一つを椿へ差し出す。
「着けろ」
ヘファイストスが首飾りを見る。
「これは?」
「防護用の装備だ」
「防具?」
「ああ」
椿も受け取った首飾りを確認する。
「これを着けなければならんほど危険なのか?」
「危険というより、必要だ」
シンの答えは淡々としていた。
「着けなければ、お前達は精錬を始めた時点で死ぬ」
沈黙。
ヘファイストスと椿の動きが同時に止まった。
「…………何?」
ヘファイストスが聞き返す。
シンは表情を変えない。
「聞こえなかったか?」
「聞こえたから確認してるのよ!」
ヘファイストスは思わず声を上げた。
「精錬を見てるだけで死ぬってどういうこと!?」
「そのままの意味だ」
シンは炉を示す。
「これから使う温度では、この区画にいるだけでお前達の肉体が耐えられない」
椿が炉を見る。
「……焼け死ぬということか?」
「それ以前の問題になる可能性が高い」
「それ以前?」
「ああ」
シンは平然と説明する。
「炉を開いた瞬間に放出される熱だけでも、お前達なら致命傷になる。まともに受ければ身体の水分が急激に失われ、皮膚や肉が焼ける。近づきすぎれば耐える時間すらない」
ヘファイストスの視線が、自分の手にある首飾りへ落ちる。
先ほどまで単なる装飾品にしか見えなかったものが、急に全く違うものへ見えてきた。
「……これ、本当に必要なのね」
「だから渡した」
「先に説明しなさいよ……」
「今説明しただろう」
「そういう意味じゃないわよ!」
椿が横で苦笑する。
しかし、彼女も首飾りを持つ手は先ほどより慎重になっていた。
「シンよ。一つ聞いていいか?」
「何だ?」
「お主は?」
椿がシンを見る。
「お主の分はどこにある?」
シンは一瞬、何を聞かれているのか分からないような顔をした。
そして答えた。
「必要ない」
「…………」
椿が黙った。
ヘファイストスもシンを見る。
「必要ない?」
「ああ」
「これから私達が防護装備なしでは死ぬような温度にするのよね?」
「そうだ」
「あなたは?」
「その程度の熱なら問題ない」
ヘファイストスは額を押さえた。
「……もう少し鍛冶師として普通の基準で話してくれない?」
「無理を言うな」
「どうして私が無理を言ってることになるのよ……」
椿が笑いを堪えながら、首飾りを身につけた。
その瞬間だった。
首飾りの先端に取り付けられていた結晶が淡く輝く。
直後。
椿の身体を目にはほとんど見えない薄い膜が包み込んだ。
「む?」
椿が自分の腕を見る。
「これは……結界か?」
「似たようなものだ」
シンが答える。
「熱を遮断するだけではない。装備者の周囲を一定の環境に保つように作ってある」
ヘファイストスも首飾りを身につける。
同じように結晶が輝き、身体の周囲に薄い防護膜が形成された。
ヘファイストスはすぐにその構造へ意識を向けた。
鍛冶神として、装備そのものにも興味が湧く。
「熱耐性を付与する魔道具とは違う……?」
「ああ。使用者自身の耐熱能力を上げているわけじゃない」
「じゃあ、周囲の熱を遮断してるの?」
「それだけでもない。外部から伝わる熱、冷気、圧力、有害な気体などを遮断して、装備者の周囲だけ生存可能な環境に維持する」
ヘファイストスが首飾りを摘まむ。
「……これだけで?」
「ああ」
「これ、鍛冶用の装備なの?」
「元々は違う」
「何に使っていたの?」
「環境そのものが生物の生存に適していない場所で活動するために作ったものだ」
ヘファイストスは質問を止めた。
シンが異世界を巡ってきたことは聞いている。
ならば、どんな環境へ行ったのかまで一つ一つ聞けば、それだけで話が終わらなくなるだろう。
椿は自分を覆う防護膜を確認しながら尋ねる。
「これを着けておれば、炉の近くまで行っても大丈夫なのじゃな?」
「基本的にはな」
「基本的には?」
椿の眉が動いた。
シンが炉を指した。
「防護装備を着けているからといって、勝手に炉へ近づくな。俺が許可した範囲から出るな」
先ほどまでより声が僅かに厳しくなる。
「特に炉を開けている時は絶対にだ」
ヘファイストスと椿も、その変化を察した。
これは冗談でも大袈裟な警告でもない。
「分かったわ」
「承知した」
二人が素直に頷く。
シンはそれを確認すると、精錬途中のオリハルコンを持ち上げた。
「それと、その首飾りは精錬が完全に終わるまで外すな」
「外したら?」
ヘファイストスが尋ねる。
「死ぬ」
即答だった。
「……分かったわよ」
今度は絶対に外さないと決めた。
シンは二人を指定した場所へ立たせると、ようやく精錬炉の前へ向かった。
炉の状態を確認する。
術式を起動する。
工房の床に刻まれた魔法陣が、一つずつ光を帯び始めた。
低い駆動音が精錬区画へ響く。
ヘファイストスと椿は真剣な表情で見つめていた。
やがて炉の内部に火が灯る。
その瞬間。
「――っ!」
ヘファイストスが目を見開いた。
首飾りを身につけているため、自分自身は熱をほとんど感じない。
だが。
見れば分かる。
炉の周囲で空気が激しく歪んでいる。
しかも、まだ火を入れたばかりだ。
本格的な加熱など始まってすらいない。
椿の表情からも、完全に笑みが消えていた。
「……シン」
「何だ?」
「今は、どの程度なんじゃ?」
「まだ予熱だ」
椿が黙った。
ヘファイストスも何も言わない。
予熱。
ただ炉を温め始めただけ。
それにもかかわらず、首飾りの外側では既に尋常ではない熱量が発生している。
二人はそこでようやく理解した。
シンが精錬を始める前に防護装備を渡した理由を。
あれは念のための装備ではない。
安全性を高めるためでもない。
この場所で精錬を見学するための、最低条件なのだ。
「ここから上げる」
シンが炉へ真気を流し込む。
次の瞬間。
炉の炎が一気に勢いを増した。
空間そのものが揺らいで見えるほどの熱が放たれ、精錬区画を覆う術式が次々と作動していく。
ヘファイストスと椿の首元でも、二つの首飾りが先ほどより強い光を放ち始めた。
それを見たヘファイストスは、自分を守っている防護膜へ一度だけ目を向ける。
そして、絶対に首飾りへ手を触れないよう両腕を組んだ。
「……これが、あなたにとっての本当の精錬なのね」
「まだ始めたばかりだ」
シンは精錬途中のオリハルコンを手にしたまま答えた。
その言葉に、ヘファイストスと椿は顔を見合わせる。
今度は驚きの声すら出なかった。
鍛冶神とオラリオ最高峰の鍛冶師。
その二人は防護装備に命を預けながら、自分達がこれまで一度も目にしたことのない領域の精錬が始まる瞬間を見つめていた。炉の内部に灯された炎が、徐々に勢いを増していく。
ヘファイストスと椿は、シンから渡された首飾りを身につけたまま、その様子を見つめていた。
二人の身体を覆っている防護膜のおかげで熱そのものは感じない。
しかし、目の前で起きている現象を見れば、首飾りの外側がどれほど異常な環境になっているのかは理解できた。
炉の周囲では空気が激しく揺らぎ、床や壁に刻まれた術式が次々と起動している。
それでもシンは火力を上げ続ける。
「……まだ上げるの?」
ヘファイストスが尋ねた。
「ああ」
シンは炉から目を離さない。
「今はまだ、オリハルコンを次の精錬へ移すための温度まで上げているだけだ」
「これで?」
「ああ」
ヘファイストスは思わず椿を見る。
椿も同じような表情をしていた。
先ほどまで使っていたヘファイストス・ファミリアの炉なら、とっくに使用を中止しなければならないほどの熱量に見える。
にもかかわらず、シンの工房にある炉には異常らしい異常が起きていない。
炉壁は変形しない。
亀裂も入らない。
周囲の設備にも損傷は見られなかった。
それどころか。
「……まだ余裕があるのか?」
椿が気づいた。
「ある」
シンは当然のように答える。
「この炉なら、今の火力は大した負荷ではない」
椿は黙り込んだ。
先ほど、自分達の工房にある最高級の炉を一度の精錬で限界寸前まで追い込んだ男が言うのだから、冗談ではないのだろう。
ヘファイストスは炉そのものを観察する。
「この炉……何で作ってるの?」
「複数の耐熱金属と、龍の素材を混ぜている。それに術式で補強してある」
「龍……」
「普通の龍ではないがな」
ヘファイストスはそれ以上聞かなかった。
聞けば聞くほど話が脱線する予感しかしなかったからだ。
今はオリハルコンの精錬を見るべきだった。
シンは精錬途中のオリハルコンを手に取る。
ヘファイストス・ファミリアの工房で大きな不純物を取り除いたことで、最初とは既に色合いが変わっている。
しかし、シンからすればまだ不十分だった。
真気を内部へ浸透させる。
細部まで調べる。
「……やはり、かなり残っているな」
「不純物が?」
「ああ。最初の工程で取り除いたものとは性質が違う」
ヘファイストスがオリハルコンを見る。
彼女の目には、既に相当高品質な素材に見えている。
「それも熱で分離するの?」
「基本的にはな。ただし、ここから段階的に温度を上げる」
シンはオリハルコンを炉へ入れた。
そして火力をさらに上げる。
時間をかけて加熱しながら、真気によって内部の状態を確認していく。
オリハルコン内部に残っていた不純物が、少しずつ本体から分離し始める。
シンは適切な段階に達すると炉から取り出し、槌を振るった。
甲高い音が響く。
一打ごとに、内部で分離した不純物が表面へ追い出されていく。
ヘファイストスと椿は無言で見ていた。
一度。
二度。
三度。
加熱と鍛打を繰り返すたびに、オリハルコンの純度が上がっていく。
同時に。
必要となる温度も上昇していった。
やがてシンが一度作業を止めた。
「ここまでだな」
ヘファイストスが反応する。
「終わったの?」
「いや」
シンはオリハルコンを見る。
「通常の方法で取り除ける不純物が、ほぼなくなっただけだ」
「……まだあるのね」
「ああ」
シンは真気をさらに深く浸透させた。
オリハルコンそのものへ強固に結びついている、極めて微細な異物。
単純な加熱と鍛打だけでは、完全には分離できない。
シンはしばらく確認を続ける。
そして。
「最終精錬に入る」
ヘファイストスと椿の表情が変わった。
「ようやく最後か」
「ああ」
シンは炉の状態を確認し始める。
これまでとは明らかに違った。
炉の周囲に刻まれていた術式を追加で起動する。
一つ。
二つ。
三つ。
今まで光っていなかった術式まで次々と起動していく。
精錬区画全体を覆う巨大な魔法陣にも光が走った。
ヘファイストスはその様子を見て眉を寄せる。
「……待って」
「何だ?」
「今まで使っていなかった術式まで起動してるでしょう?」
「ああ」
「何のため?」
「炉を保護するためだ」
その答えだけで、ヘファイストスには嫌な予感がした。
「今までより、そんなに温度を上げるの?」
「ああ」
「どのくらい?」
シンは特に大したことでもないように答えた。
「最終精錬には、太陽と同等の熱量を持つ火力が必要になる」
「…………」
ヘファイストスが固まった。
椿も動きを止める。
数秒。
誰も喋らなかった。
やがて椿が口を開く。
「……今、何と言った?」
「太陽と同等の熱量が必要だ」
聞き間違いではなかった。
「太陽……」
ヘファイストスが呟く。
視線が炉へ向かう。
「あなた、今からこの工房の中で太陽みたいな火力を出すつもりなの?」
「ああ」
「待ちなさい!」
ヘファイストスの声が工房に響いた。
「それ、鍛冶で使っていい火力じゃないでしょう!?」
「必要だから使う」
「そういう問題じゃないわよ!」
椿もさすがに笑っていなかった。
「シンよ」
「何だ?」
「先ほど渡されたこの首飾り……」
椿は自分の首元にある防護装備を指した。
「本当に耐えられるのじゃろうな?」
「ああ」
「絶対にか?」
「俺が作ったものだ」
その答えに、椿は僅かに安心する。
滅劫剣。
絶劫刀。
そしてこの異空間工房。
既にシンの技術力が常識外れなのは嫌というほど理解している。
それでも。
これから太陽に匹敵する熱量を目の前で扱うと言われれば、確認したくもなる。
ヘファイストスも自分の首飾りを握った。
「だから、これを渡したのね」
「ああ」
シンは頷く。
「ここまでの工程なら、なくても距離を取れば短時間は耐えられたかもしれない」
「最終精錬は?」
「無理だ」
即答だった。
「防護なしなら?」
「炉の近くにいる時点で死ぬ」
ヘファイストスは首飾りから手を離した。
絶対に外さない。
改めてそう決めた。
「それと」
シンの声が僅かに低くなる。
「ここからは指定した場所から一歩も動くな」
二人の表情が引き締まる。
「この防護装備があれば熱そのものは防げる。だが、炉の直近まで近づくことを想定して渡したわけではない」
「分かったわ」
「承知した」
今度は二人とも一切反論しなかった。
シンはそれを確認すると、炉へ向き直る。
「始める」
最終精錬が始まった。
炉を中心として展開された術式が完全に起動する。
工房そのものを守るための防護術式。
熱を外部へ逃がさないための封鎖術式。
炉そのものを補強する術式。
さらに万が一制御を失った場合に、炉を周囲の空間ごと隔離するための時空間術式まで起動していく。
ヘファイストスは目を見開いた。
「空間まで……?」
「念のためだ」
シンはそう言うと、炉へ真気を送り込んだ。
直後。
炎が変わった。
赤でもない。
橙でもない。
青でもない。
炉の内部が、直視することすら困難なほど眩い白へ染まる。
ヘファイストスと椿は反射的に目を細めた。
首飾りの防護膜が一気に強くなる。
二人の周囲だけは何も変わっていない。
温度も。
空気も。
呼吸も。
全て正常。
しかし。
防護膜の外側は違った。
空気が激しく揺らぐ。
炉の周囲に展開された術式が眩い光を放つ。
床や壁を保護する結界が何重にも重なり、発生した熱を完全に封じ込めていく。
それでも。
シンは火力を上げ続けた。
「……これでもまだなの?」
ヘファイストスが呟く。
「まだ足りない」
「これ以上……?」
さらに上がる。
炉の内部では、もはや普通の炎として認識することさえ難しい光景が広がっていた。
そして。
ある地点に達した瞬間。
シンの目が細くなる。
「到達した」
「何に?」
ヘファイストスが尋ねる。
シンは炉の中を見ながら答えた。
「最終精錬に必要な領域だ」
ヘファイストスの表情が変わる。
「つまり……」
「ああ」
シンは炉の状態を制御しながら告げる。
「ここからが太陽と同等の熱量を使った精錬になる」
椿は何も言えなかった。
鍛冶師として長年生きてきた。
数え切れないほどの炉を使った。
数え切れないほどの金属を鍛えた。
だが。
太陽に匹敵する火力を使って金属を精錬するなど、想像したことすらない。
その中へ。
シンは精錬途中のオリハルコンを投入した。
瞬間。
オリハルコンが眩い光に呑み込まれる。
「シン!」
ヘファイストスが思わず叫ぶ。
「溶けるわよ!」
「溶かすんだ」
「え?」
「ここからは鍛打ではない」
シンの真気が炉の内部へ入り込む。
高熱の中にあるオリハルコンを包み込み、その状態を完全に把握する。
「オリハルコンそのものを一度完全に溶融させる」
炉の中で。
超硬金属オリハルコンが、徐々にその形を失い始めた。
ヘファイストスの瞳が大きく見開かれる。
彼女達が知るオリハルコン。
最高硬度を誇り、加工することすら困難な金属。
それが。
目の前で液体へ変わっていく。
「……オリハルコンが」
椿が呆然と呟く。
「溶けておる……」
シンは答えない。
ここから先は、僅かな制御の狂いも許されない。
完全に溶融したオリハルコンから、最後まで残っていた異物だけを分離する。
必要な成分まで失わないように。
オリハルコンそのものを壊さないように。
真気によって内部の変化を追い続ける。
やがて。
液状になったオリハルコンの中から、僅かに異なる物質が浮かび始めた。
ヘファイストスがそれに気づく。
「……まだ出るの?」
「あれが最後だ」
シンが答えた。
「今までの温度では、オリハルコンそのものと強く結びついていて分離できなかった」
「だから太陽と同等の火力まで……」
「ああ」
ヘファイストスは完全に言葉を失った。
ようやく理解した。
シンが最初に言っていた「純度が低い」という評価。
それは彼女達の精錬が雑だったという意味ではない。
そもそも。
この世界の鍛冶設備では、完全精錬に必要な領域へ到達できていなかったのだ。
技術以前に。
炉が耐えられない。
そして仮に必要な熱量を生み出せても、鍛冶師自身が生きていられない。
だからこそ。
誰も、その先を知らなかった。
シンは最後の不純物を完全に分離すると、ゆっくりと火力を落とし始めた。
ただ冷やすのではない。
液状となったオリハルコンの組成を均一に保ちながら、極めて慎重に温度を下げていく。
急激に冷却すれば内部構造に歪みが生じる。
時間をかけて。
少しずつ。
オリハルコン本来の構造へ再形成していく。
やがて炉の光が弱まり始めた。
それでも通常の鍛冶炉とは比較にならない熱量が残っている。
シンは最後まで真気による制御を続ける。
そして長い時間をかけ。
ようやく。
「終わった」
シンが告げた。
炉が開く。
ヘファイストスと椿は、その中を見た。
そこにあったものを見て。
二人とも声を失った。
最初に持ち込んだオリハルコンとは、明らかに違う。
不純物による濁りが消えている。
表面には異様なほど均一な光沢があり、素材そのものが淡く輝いているようにさえ見えた。
シンはそれを取り出し、作業台へ置く。
「これが、この世界のオリハルコン本来の状態だ」
ヘファイストスはゆっくりと近づこうとする。
だが。
「まだ触るな」
即座に止められた。
ヘファイストスの足が止まる。
「まだ熱い?」
「ああ」
「首飾りがあっても?」
「首飾りはお前を守る。だが直接触れる必要はないだろう」
「……それもそうね」
ヘファイストスは素直に引き下がった。
そして完成したオリハルコンを見つめる。
鍛冶神である彼女でさえ。
これほど徹底的に精錬されたオリハルコンを見るのは初めてだった。
隣では椿も同じように凝視している。
やがて椿が、小さく笑った。
「……参ったのう」
ヘファイストスが横を見る。
椿は完成したオリハルコンから目を離さない。
「わしらは今まで、オリハルコンを知っておるつもりだった」
その言葉に。
ヘファイストスも静かに頷いた。
自分達が知っていたのは。
自分達の炉で精錬できる範囲のオリハルコンに過ぎなかった。
そして今日。
太陽に匹敵する火力を使うことで。
二人は初めて――オリハルコンという金属が持つ、本来の姿を目にした。