白兎の兄が規格外なのは間違っているだろうか 作:ディーノpc35
最終精錬を終えた後も、ヘファイストスと椿はしばらくオリハルコンを見つめ続けていた。
二人とも言葉を発さず、先ほどまで太陽に匹敵する熱量の中にあった金属から目を離そうとしない。
その間にも、シンは炉の状態を確認しながら、最終精錬のために起動していた術式を一つずつ停止させていった。
精錬区画を満たしていた眩い光が徐々に弱まり、異常な熱量を閉じ込めていた結界も段階的に解除されていく。
もっとも、ヘファイストスと椿の首元にある防護用の首飾りは、まだ作動したままだ。
シンから外していいとは言われていない。
先ほどの光景を見た後では、二人とも勝手に外そうとは考えなかった。
やがてシンが炉から離れると、作業台の上に置かれているオリハルコンへ近づいた。
「もう少し待て」
ヘファイストスが振り返る。
「まだ駄目なの?」
「表面の温度はかなり下がっているが、内部の状態が完全には安定していない」
シンはそう答えながら、オリハルコンへ真気を通して内部の状態を確認する。
「純度を上げただけで終わりではない。完全に溶融させた以上、冷却する過程で内部構造を均一に整える必要がある」
「自然に冷やすだけじゃ駄目なの?」
「使えないわけではない。ただ、品質に差が出る」
その説明を聞いた椿が、興味深そうにオリハルコンを見た。
「どのような差が出るんじゃ?」
「冷却速度が一定でなければ、場所によって金属組織に差が生まれる。内部と表面で温度差が大きくなれば、微細な歪みも残る」
シンはオリハルコンへ流している真気を細かく調整しながら続ける。
「せっかく不純物を限界まで取り除いたのに、最後の冷却で品質を落とす理由はないだろう」
その言葉に、ヘファイストスは小さく息を吐いた。
「本当に最後まで徹底しているのね」
「武器を作るための素材だからな」
シンにとっては、それが当然だった。
素材の段階で妥協すれば、その欠点は完成した武器にも残る。
どれほど高度な鍛造技術を使ったとしても、素材そのものに存在する欠陥を完全になかったことにはできない。
だからこそ、シンは必要であれば素材の精錬から自分で行ってきた。
異世界を巡っていた頃も同じだった。
未知の鉱石を手に入れれば、その性質を調べる。
どの程度の熱に耐えるのか。
何を混ぜれば性質が変化するのか。
どのような方法なら不純物を除去できるのか。
それらを一つずつ確かめてから、ようやく武器を作り始める。
そうして積み重ねてきた経験が、現在のシンの鍛冶技術を形作っている。
ヘファイストスと椿は、再びオリハルコンへ視線を戻した。
しばらくすると、ヘファイストスが何かに気づいたように目を細める。
「……最初より小さくなってない?」
「ああ。小さくなっている」
シンは即答した。
「不純物を取り除いたんだから当然だ」
「どれくらい減ったの?」
シンは最初に持ち込まれた状態と現在の状態を比較する。
「重量で見ても、それなりに減っている。最初にお前達の工房で取り除いたものに加えて、ここでもかなりの不純物を分離したからな」
「それだけ混ざっていたということね……」
ヘファイストスの表情が複雑になる。
自分達がこれまで最高硬度の金属として扱っていたオリハルコン。
その中に、これほど多くの不純物が残されていたとは思っていなかった。
もっとも、それはヘファイストス・ファミリアの精錬技術が低かったからではない。
そもそも、完全精錬に必要となる温度へ到達できる炉が存在しなかったのだ。
「量を優先するなら、ここまで精錬する意味はない」
シンが言った。
「純度を上げれば、その分だけ最終的に残る量は減る。どこまで精錬するかは用途次第だ」
ヘファイストスはその説明を聞きながら、完成した素材を見つめる。
「でも、この状態なら減った分を考えても価値は遥かに高いでしょうね」
「じゃろうな」
椿も同意した。
まだ硬度試験すら行っていない。
それでも鍛冶師として長年金属に触れてきた二人には分かる。
目の前にあるオリハルコンは、これまで自分達が扱ってきたものとは明らかに違う。
やがてシンがオリハルコンから手を離した。
「安定した」
その一言に、ヘファイストスと椿が同時に反応する。
「もう触っていいの?」
「ああ」
ヘファイストスはすぐに一歩前へ出ようとした。
だが。
「待て」
シンに止められ、足を止める。
「何よ?」
「首飾りはまだ外すな」
ヘファイストスは自分の首元を見る。
「まだ危険なの?」
「精錬区画には余熱が残っている。結界も完全には解除していない」
「……分かったわ」
先ほど太陽に匹敵する火力を目の前で見せられたばかりである。
さすがのヘファイストスも、ここで反論する気にはならなかった。
シンは冷却を終えたオリハルコンを持ち上げると、それをヘファイストスへ渡した。
「――っ」
受け取った瞬間。
ヘファイストスの表情が変わった。
「……重い」
「元から重いじゃろう?」
椿が横から言う。
しかし、ヘファイストスは首を振った。
「そういう意味じゃない」
両手の中にあるオリハルコンへ意識を集中する。
不純物を取り除いたことで、総重量そのものは精錬前より減っている。
それでも、手に伝わってくる感覚が違う。
「密度が……違う?」
その言葉に、シンが僅かに頷いた。
「よく分かったな」
「鍛冶神を舐めないで」
ヘファイストスはそう答えたものの、その目はオリハルコンから離れない。
指先へ返ってくる感触も違う。
軽く爪を当てた時の感覚も違う。
そして何より、素材全体に妙な偏りがない。
天然の鉱石を精錬して作られた金属であるにもかかわらず、最初から一つの完全な物質として存在していたかのような均一さがある。
「椿」
「はい」
ヘファイストスからオリハルコンを渡された椿も、慎重に受け取った。
そして持った瞬間、その表情を変える。
「……なるほど」
「分かる?」
「はい。これは確かに違いますな」
椿はオリハルコンを作業台へ置くと、指先で軽く叩いた。
澄んだ金属音が工房へ響く。
椿の目つきが鋭くなる。
今度は少し離れた場所を叩く。
さらに別の場所。
何度か位置を変えて確かめる。
しかし、返ってくる音にはほとんど差がなかった。
「……均一じゃ」
椿が感嘆したように呟く。
「どこを叩いても音に濁りがほとんどない。これほど内部の状態が揃った金属は、わしも見たことがない」
ヘファイストスも頷いた。
普通の金属なら、どれほど丁寧に精錬しても僅かな偏りは残る。
特に天然の鉱石から作った素材ならなおさらだ。
しかし、目の前のオリハルコンは、その偏りが異常なほど少なかった。
しばらく観察した後、ヘファイストスがシンへ尋ねる。
「それで、これ……どれくらい硬くなってるの?」
「測ってみるか?」
「もちろん」
即答だった。
椿も楽しそうに笑う。
「ここまで来て調べずに帰れるわけがなかろう」
「なら試すか」
シンはオリハルコンを受け取ると、二人を精錬区画とは別の場所へ案内した。
◇ ◇ ◇
三人が移動した先には、素材の性質を調べるための試験設備が並んでいた。
単純な硬度だけを測る場所ではない。
素材へ徐々に圧力を加えて変形や破断が起きる限界を調べる装置や、瞬間的な衝撃を与えて耐久性を確認する設備がある。
さらに高温や極低温に晒した際の変化を調べる装置、魔力や真気を流した時にどの程度伝導するのかを確認する設備、酸や毒をはじめとした様々な物質への耐食性を調べるための区画まで存在していた。
未知の素材を武器へ使う前に、その性質を徹底的に把握するための場所だった。
ヘファイストスは並んでいる設備を見回し、呆れたような表情を浮かべる。
「あなた、武器を作るだけじゃなくて、毎回こんなことまでしてるの?」
「未知の素材を使う時はな」
シンはオリハルコンを試験装置へ固定する。
「性質を知らない素材で武器を作る方が危険だろう。完成してから想定外の欠点が見つかるくらいなら、先に調べておいた方がいい」
「それはそうなんだけど……ここまで徹底しているとは思わなかったわ」
シンはまず、最も単純な圧力試験から始めた。
装置が動き始め、固定されたオリハルコンへ少しずつ圧力が加えられていく。
最初のうちは、ヘファイストスも椿も黙って見ていた。
やがて負荷がさらに上昇する。
しかし、オリハルコンには何の変化もない。
シンはそのまま圧力を上げる。
それでも変形しない。
さらに上げる。
表面に亀裂が生じることもなければ、形が僅かに歪むことすらない。
「……まだ上げるの?」
ヘファイストスが尋ねる。
「ああ。まだ変化が出ていない」
その後も圧力は上昇し続けた。
やがて椿も訝しげな表情を浮かべる。
「どこまで上げるつもりじゃ?」
「素材に明確な変化が出るまでだ」
「まだ出ておらんのか?」
「ああ」
ところが、その直後だった。
オリハルコンではなく、試験装置の方から低い軋みが聞こえた。
シンの眉が僅かに動く。
ヘファイストスもすぐに気づいた。
「ちょっと待って」
シンは装置の状態を確認すると、圧力を上げるのを止めた。
「……先にこっちが限界か」
「は?」
ヘファイストスが固まる。
椿も試験装置とオリハルコンを交互に見る。
「素材ではなく、試験装置の方がか?」
「ああ。このまま続ければ装置が壊れる」
シンは試験を停止させた。
「この装置では正確な限界までは測れないな」
ヘファイストスが思わず声を上げる。
「あなたの工房にある試験装置でしょう!?」
「かなり昔に作ったものだからな」
「それでも十分おかしいわよ!」
シンは装置からオリハルコンを取り外し、表面を確認した。
先ほどまで強烈な圧力を受けていたにもかかわらず、目立った変形はない。
「圧力だけでは測りにくいか」
椿が苦笑する。
「お主の工房にある設備ですら限界を測れん素材を、わしらの工房へ持ち帰ってどう調べろというんじゃ……」
「別の方法を使えばいい」
シンは平然と答えた。
「例えば?」
ヘファイストスが尋ねる。
シンは少し考えると、自分の腰へ手を伸ばした。
その瞬間。
ヘファイストスと椿の表情が変わった。
シンの腰にあるのは絶劫刀だ。
「待ちなさい」
ヘファイストスが即座に止める。
「何だ?」
「まさか、それで斬るつもり?」
「ああ」
「駄目よ」
「なぜだ?」
「なぜって……!」
ヘファイストスは絶劫刀とオリハルコンを交互に見た。
絶劫刀がどのような武器なのかは既に聞いている。
神の骨と龍の角、牙を素材としてシン自身が鍛え上げた刀。
物質を斬るだけではなく、因果や魂、輪廻すら断ち切り、再生や蘇生、不死さえ許さない。
そんな武器を硬度試験へ持ち出されても、比較にならない。
「それで斬れたとしても、オリハルコンが弱いのか、その刀がおかしいのか分からないでしょう!」
シンは少し考えた。
「それもそうか」
「今気づいたの!?」
椿が横で堪えきれずに笑い出した。
「ははははっ! 鍛冶神様の言う通りじゃ! 絶劫刀は比較対象として不適切すぎるわ!」
シンは腰から手を離す。
「なら、もう少し普通の武器を使う」
ヘファイストスが嫌そうな顔をした。
「あなたの言う『普通』が、もう信用できないんだけど」
「この工房にある中では普通だ」
「余計に不安になったわ」
シンは武器を保管している場所へ向かい、その中から一本の剣を取り出した。
神や龍の素材を使ったものではない。
異世界で入手した高品質な金属を使い、シン自身が鍛えた剣だった。
滅劫剣や絶劫刀と比較すれば遥かに格は落ちる。
それでも、ヘファイストスと椿から見れば十分すぎるほどの業物だった。
「これならいい」
「……本当に普通なの、それ?」
「ああ」
ヘファイストスは疑わしそうに剣を見る。
「少なくとも滅劫剣や絶劫刀を持ち出されるよりはマシでしょうけど……」
シンは精錬済みのオリハルコンを固定した。
そして剣を振り上げる。
力任せには振らない。
素材の強度を見るため、純粋な剣そのものの性能だけで斬りつけた。
甲高い衝突音が工房へ響き渡る。
ヘファイストスと椿が目を凝らした。
シンが剣を離す。
オリハルコンの表面には、極めて浅い痕が残っているだけだった。
「……これだけ?」
ヘファイストスが近づいて確認する。
椿は、逆にシンの持っている剣を見た。
「シン。そちらを見せてみろ」
シンが剣を差し出す。
椿が刃を見る。
「……刃の方が欠けておるぞ」
オリハルコンへ残った傷よりも、剣の刃に生じた損傷の方が大きい。
「剣が負けた……」
ヘファイストスが呟いた。
シンは刃を確認する。
「この程度では駄目か」
「この程度って……」
ヘファイストスが呆れたようにシンを見る。
「その剣も相当な業物でしょう?」
「まあ、それなりにはな」
「それなりで済ませるのね……」
ヘファイストスは額へ手を当てた。
一方で、椿は違った。
精錬されたオリハルコンを見つめながら、徐々に楽しそうな笑みを浮かべていく。
「最高じゃな」
「椿?」
「鍛冶師として、これほど面白い素材があるか?」
椿の瞳には、明らかな闘志が宿っていた。
「今まで扱っていたオリハルコンより遥かに硬い。それどころか、わしらが使っている炉で加工温度まで持っていけるかも分からん。今の槌で叩いたところで、まともに形を変えられる保証すらない」
椿はオリハルコンの表面を撫でる。
「だからこそ、鍛えてみたい」
ヘファイストスも、その言葉を聞いて笑みを浮かべた。
「同感ね」
二人は鍛冶師だ。
扱いやすい素材だけを求めているわけではない。
未知の素材がある。
自分達の知らない精錬方法がある。
今まで使ってきた設備では扱えないほどの金属が、目の前に存在している。
ならば、それを自分達の手で武器へ変えてみたいと思うのは当然だった。
ヘファイストスがシンを見る。
「ねえ、シン」
「何だ?」
「これ、少し分けてもらえない?」
シンは精錬されたオリハルコンを見る。
そして不思議そうに答えた。
「元々、お前達が持ってきた素材だろう」
「そうだけど、ここまで精錬したのはあなたよ」
「だから?」
「……そういうところは妙に大雑把なのね、あなた」
ヘファイストスは苦笑した。
シンにとっては、素材の所有者がヘファイストスなら、精錬後も所有者はヘファイストスというだけの話だった。
「必要なら全部持っていけばいい」
「全部?」
「ああ」
今度は椿まで目を丸くした。
「シンよ。これがオラリオでどれほどの価値になるか分かっておるのか?」
「知らん」
即答だった。
「少なくとも、今まで流通していたオリハルコンとは比較にならん価値になるぞ?」
「だから何だ?」
シンにとって、金銭的な価値は大した問題ではない。
彼の異空間には、これより遥かに希少な素材が大量に保管されている。
それに、今回精錬したオリハルコンは最初からヘファイストス達が持ち込んだものだ。
シン自身がオリハルコンを必要とするなら、後でダンジョンへ行って採取すればいい。
「……分かったわ」
ヘファイストスは笑った。
「じゃあ、ありがたく持って帰る」
「ああ」
そこでシンは一つ付け加えた。
「ただし、それを加工するなら今までと同じ方法では無理だぞ」
ヘファイストスと椿の笑みが止まる。
「……やっぱり?」
「当然だ」
シンは純化されたオリハルコンを指す。
「お前達が今まで扱っていたものとは、硬度も熱に対する性質も変わっている。今まで使っていた炉で熱して、同じ槌で叩いてもほとんど変形しないだろう」
椿が腕を組んだ。
「では、どうすればいい?」
「まず炉から作り直せ」
「そこからか!」
思わず椿が叫ぶ。
しかし、シンは平然と続けた。
「今の炉では加工に必要な温度を長時間維持できない。さっき一度目の精錬をしただけで限界寸前だっただろう」
「……確かにそうじゃが」
「それから槌も必要だ」
椿の表情が固まる。
「槌もか?」
「ああ。素材より先に槌が壊れては意味がない」
シンはさらに考える。
「金床も今のものでは長く保たないだろうな。何度も鍛打を繰り返せば、先にそちらが損傷する可能性が高い」
ヘファイストスが額へ手を当てた。
「炉だけじゃなくて、槌も金床も……結局、設備をほとんど作り直さなきゃいけないじゃない」
「素材を扱えないなら、扱える道具を作るしかないだろう」
シンは当然のように答えた。
それは先ほど、ヘファイストス・ファミリアの団員達へ言ったことと同じだった。
知らないなら調べる。
失敗したなら原因を探す。
そして道具が足りないなら、自分で作る。
鍛冶師として極めて単純な話だった。
ただし、今回求められている水準が常識外れなだけである。
しばらくの間、ヘファイストスと椿は何も言わなかった。
二人とも、目の前の純化されたオリハルコンを見つめている。
現在の設備では満足に加工できない。
炉も足りない。
槌も足りない。
金床さえ足りない。
今まで築き上げてきた鍛冶技術と設備を、さらに一段上へ引き上げなければならない。
だが。
やがてヘファイストスの口元に笑みが浮かんだ。
「いいわ」
椿も同じように笑う。
「望むところじゃ」
扱えないなら、扱えるようになればいい。
炉が足りないなら、より高温に耐えられる炉を作る。
槌が壊れるなら、このオリハルコンを鍛えられる槌を作る。
金床が耐えられないなら、それ以上のものを用意する。
そしていつか。
自分達自身の手で、この純化されたオリハルコンを武器へ変える。
それは鍛冶神ヘファイストスと、彼女の最高の眷属である椿・コルブランドにとって、これ以上ないほど魅力的な挑戦だった。
二人の鍛冶師としての探究心に、新たな火が灯っていた。