白兎の兄が規格外なのは間違っているだろうか 作:ディーノpc35
シンは微弱な精霊の気配を辿りながら、荒れ果てた大地を進んでいた。
黒竜との戦いは既に終わっている。
戦闘と呼べるほどのものだったかは怪しいが、少なくとも先ほどまで周囲を満たしていた黒竜の強大な気配は完全に消えていた。
それでも、この土地に生命の気配はほとんどない。
黒竜が長く棲みついていた影響なのか、周囲の山々は崩れ、大地には巨大な亀裂が幾重にも走っている。植物もほとんど育っておらず、時折吹き抜ける風だけが荒野を通り過ぎていた。
そして、その風の中に微かな精霊の気配が混じっている。
「……こっちか」
シンはその気配を捉えると、進む方向を僅かに変えた。
感じ取れる気配そのものはかなり弱い。
普通の冒険者や魔導士であれば、そこに何かが存在していることすら気づけないかもしれない。
しかし、シンには分かった。
単純に弱っているから気配が小さいのではない。
存在そのものが希薄になっている。
精霊としての力をほぼ使い果たし、魂に相当する根源部分まで消滅へ向かっている状態だった。
「何をしたらここまで消耗するんだ?」
独り言を漏らしながら、さらに奥へ進んでいく。
やがてシンの視線の先に、不自然なものが見えてきた。
岩山の間に、巨大な術式の痕跡が残されている。
もっとも、既にその大部分は崩壊していた。
シンが空間に残留する力を読み取っていくと、それが何らかの対象を内部へ閉じ込めるために構築された結界であったことが分かった。
対象を内部へ封じ込めるだけではなく、外部への力の流出まで抑制するように作られている。
かなり強固な結界だったのだろう。
だが、今は既に役目を終えていた。
封じるべき対象が存在しないからだ。
先ほど、シン自身が消滅させてしまった。
「ということは……」
シンは結界跡から視線を動かした。
その中心から少し離れた場所に、一人の女性がいた。
正確には、人の女性に近い姿をした精霊だった。
淡い光に包まれた身体は半透明になりかけており、その輪郭も酷く不安定だった。
今にも吹き抜ける風へ溶け、そのまま消えてしまいそうなほど存在が薄い。
それでも、本来は美しい女性なのだろう。
長い金色の髪が弱い風に揺れ、その身体からは精霊特有の清浄な気配が感じられる。
しかし、今はその力もほとんど残されていなかった。
シンは少し離れた場所で足を止める。
「生きているか?」
返事はなかった。
意識が残っているかどうかも怪しい。
シンは女性の前まで歩いていくと、その状態を詳しく確認した。
「……酷いな」
肉体的な負傷ではない。
そもそも精霊を人間と同じ基準で診ること自体が間違っている。
問題なのは、存在を維持するための力がほぼ完全に失われていることだった。
精霊力が枯渇しているだけならば、時間をかければ自然に回復できる可能性もある。
しかし、この精霊はその段階を遥かに通り越していた。
自らの存在そのものを削り、それを燃料として何かへ力を供給し続けていた形跡が残っている。
「さっきの結界か」
シンは後方に残る術式へ視線を向けた。
先ほどまで黒竜を封じていた結界。
この精霊は、あれを維持していたのだろう。
しかも、残留している術式を解析してみれば、それが数年程度の話ではないことも分かる。
何十年、あるいはそれ以上。
途方もない年月にわたって、自分の力を結界へ注ぎ続けていた。
それならば、ここまで弱っているのも当然だった。
シンが再び精霊へ視線を戻す。
「俺が来るのがもう少し遅かったら、完全に消えていたな」
その言葉に反応したのか、女性の瞼が僅かに動いた。
「……ぁ……」
小さな声が漏れる。
シンは急かさず、そのまま待った。
やがて女性の瞼がゆっくりと開き、翡翠色の瞳がぼんやりとシンを映した。
まだ焦点が定まっていない。
それでも、目の前に誰かがいることには気づいたらしい。
「……誰……?」
掠れた声で尋ねられ、シンは普通に名乗った。
「シン・クラネル。今、この辺りに来た」
「……人……?」
「一応な」
女性の瞳が僅かに動き、シンの姿を確かめる。
だが、すぐにその表情へ困惑が浮かんだ。
「……違う……」
「何がだ?」
「人……なのに……人だけの……気配じゃない……」
シンは少し眉を上げた。
この状態でも、自分の内にある異質な力を感じ取れるらしい。
「色々あってな」
今すぐ詳しく説明する必要はないだろう。
それよりも、シンには確認したいことがあった。
「お前は?」
「…………」
「名前だ」
女性はしばらく黙っていたが、やがて消え入りそうな声で答えた。
「……アリア」
当然ながら、シンの表情に変化はない。
その名前を知らないからだ。
「アリアか」
それだけだった。
だが、アリアの方は別のことが気になったらしい。
「黒竜……は……?」
「黒い龍のことか?」
アリアの瞳が僅かに開かれる。
「……見た……の?」
「ああ」
「逃げ……て……」
アリアが身体を動かそうとする。
しかし、既にほとんど力が残っていない身体は思うように動かず、その輪郭が大きく揺らいだ。
シンが眉を寄せる。
「動くな。消えるぞ」
「早く……逃げて……」
「何故?」
「黒竜……が……」
「それなら死んだ」
アリアの動きが止まった。
数秒ほど、言葉の意味そのものを理解できなかったらしい。
「……え?」
「死んだと言った」
「…………」
「正確には消滅させた」
アリアの瞳が大きく開かれる。
「……何を……言って……?」
「襲ってきたから斬った」
シンにとっては、それ以上説明することがなかった。
しかし、アリアにとっては到底それだけで済ませられる話ではない。
「黒竜……を……?」
「ああ」
「あなたが……?」
「ああ」
「一人……で……?」
「他に誰もいなかっただろ」
アリアは完全に言葉を失った。
信じられないのも当然だった。
自分が長い年月を費やして封じ続けていた怪物。
かつて世界最強と呼ばれた二大派閥でさえ討つことができなかった存在。
それを目の前の男は、まるで道を塞いでいた魔物を倒した程度のことのように話している。
「……嘘……」
「なら確認してみろ」
シンは止めなかった。
アリアは残された力を使い、僅かに意識を周囲へ広げる。
この土地に存在する気配を探る。
黒竜の気配は、長い年月にわたって一日たりとも忘れたことがない。
恐ろしいほど巨大で邪悪な存在。
少しでも結界が弱まれば、再び世界へ災厄を振り撒く怪物。
その気配が、どこにもない。
隠れているわけでも、遠ざかったわけでもない。
本当に完全に消えている。
「…………ない」
アリアの声が震えた。
「本当に……?」
「ああ」
「黒竜が……本当に……」
「消した」
アリアはゆっくりと目を閉じた。
そして、その頬を涙が伝った。
悲しみから流れた涙ではない。
安堵だった。
ようやく役目が終わった。
もう結界を維持しなくていい。
黒竜が再び世界へ出ることを恐れなくてもいい。
長い年月、自分の存在そのものを削り続けてまで守ってきたものが、ようやく報われた。
「……終わった……?」
アリアの声は小さかった。
「黒竜が……本当に……」
それを理解した瞬間、張り詰め続けていたものが切れた。
同時に、アリアの身体から急速に力が抜けていく。
「……あ」
身体の輪郭が大きく崩れ、光の粒子が次々と離れ始めた。
シンの表情が僅かに変わる。
「おい」
「……大丈夫……」
アリアは弱々しく笑った。
「もう……いいの……」
「何がだ?」
「役目は……終わったから……」
身体がさらに薄くなっていく。
それでもアリアの表情は穏やかだった。
自分の消滅を、既に受け入れている。
「これで……やっと……」
「待て」
シンが言った。
アリアが僅かに目を開く。
「勝手に満足して消えるな」
「……でも……もう……」
「役目が終わったから死ぬつもりか?」
シンは呆れたようにアリアを見る。
「随分馬鹿な話だな」
「……え?」
「役目が終わったなら、その後は好きに生きればいいだろ」
アリアは呆然とした。
そんなことを言われるとは思っていなかった。
「でも……私は……もう……」
「力が残っていないだけだ」
「……それは……」
「なら補えばいい」
あまりにも簡単に言われ、アリアは一瞬言葉を失った。
「そんな……こと……」
「できる」
シンは即答した。
アリアがシンを見る。
冗談を言っている様子は一切ない。
「精霊力が枯渇しているだけなら簡単だったんだがな。お前は存在そのものを削りすぎた」
シンはアリアの状態を改めて詳しく調べていく。
今のアリアに必要なのは、単純な魔力や精霊力の補給ではない。
長い年月にわたって失われ続けた精霊としての根源そのものを修復する必要がある。
魂に相当する部分だけではなく、精霊としての核や肉体に相当する霊的構造まで崩壊しかけているため、それらを全て正常な状態へ戻さなければならない。
「少し面倒だが、治せる」
シンがアリアへ手を伸ばした。
「……本当に……?」
「ああ」
「でも……」
アリアは戸惑いながら尋ねる。
「どうして……?」
「何がだ?」
「どうして……私を助けるの?」
シンは少しだけ考えた。
だが、答えは単純だった。
「助けられるから」
「…………」
「それじゃ不満か?」
アリアは何も言えなかった。
シンにとっては、それだけで十分な理由だった。
目の前の精霊は敵ではない。
むしろ誰かを守るために、自分が消滅する寸前まで結界を維持していた。
そして今、自分の目の前で消えかけている。
自分には助ける力がある。
それなら、見殺しにする理由などなかった。
「動くな」
シンはアリアの胸元へ掌を向ける。
直接触れてはいない。
僅かな距離を空けた状態で、その存在そのものへ意識を集中させる。
「少し変な感覚がするかもしれない」
「何を……?」
「お前を作り直す」
「…………え?」
アリアが聞き返すより早く、シンの力が動いた。
今回は、相手の力を奪い取る神龍魔気を使うわけではない。
長い異世界巡歴の中で身につけた、生命や魂そのものへ干渉する技術を使う。
さらに時空間魔法まで組み合わせ、崩壊する以前のアリアの状態を読み取りながら、失われた部分を再構築していく。
淡い力がアリアの身体全体を包み込んだ。
「……っ!」
アリアが目を見開く。
失われていたものが戻ってくる。
最初に感じたのは、風だった。
長い間、結界を維持するために自らの力を使い続けたことで、ほとんど感じることさえできなくなっていた自分自身の風。
それが再び戻ってくる。
「これは……」
アリアの周囲で風が舞い始める。
最初は弱々しかった風が、時間とともに少しずつ力強さを増していく。
同時に、薄れていた身体の輪郭も鮮明になっていった。
先ほどまで光の粒子となって崩れていた部分が、今度は逆に身体へ吸い寄せられるように戻っていく。
「そんな……」
アリアは自分の手を見る。
半透明だった指が、元の姿を取り戻している。
「ありえない……」
「喋るな。集中が乱れる」
「……ご、ごめんなさい」
思わず謝ったアリアに構わず、シンは再構築を続ける。
単純に大量の力を流し込んでいるわけではない。
崩壊しかけている精霊としての構造を一つずつ読み取り、本来あるべき状態を割り出しながら欠損した部分を補っていく。
さらに、長い年月によって蓄積していた損耗まで丁寧に取り除いていった。
やがて。
アリアの存在が完全に安定したことを確認したシンは、ゆっくりと手を下ろした。
「これでいい」
周囲を巡っていた風が穏やかになる。
そこには、先ほどまで消滅寸前だった精霊の姿はなかった。
完全な存在として再構築された風の大精霊アリアが、確かな姿で大地へ立っていた。
「…………」
アリアは自分の身体を見下ろす。
試すように手を握り、もう一度開く。
続いて意識を集中すると、周囲に風が生まれた。
全てが思い通りに動く。
それどころか。
「力が……」
アリアは驚愕する。
結界を維持し始める前の状態へ戻っただけではない。
長年の損耗が全て消え、身体も精霊としての核も完全な状態へ戻っている。
「どうなって……」
アリアが顔を上げる。
そして、信じられないものを見るようにシンを見つめた。
「あなた……何者なの?」
「さっき名乗っただろ」
「そういう意味じゃないわ!」
先ほどまで消滅寸前だったとは思えないほど大きな声が出た。
シンは少しだけ目を細める。
「元気になったな」
「誰のせいだと思ってるの!?」
「治した俺だろ」
「そうだけど!」
アリアは言葉に詰まった。
しばらくシンを見つめていたが、やがてその表情から驚きが薄れ、代わりに柔らかな笑みが浮かんだ。
「……ありがとう」
今度は、はっきりとした声だった。
「本当にありがとう、シン」
「ああ」
シンは短く答える。
それだけだった。
助けたことを理由に恩を売るつもりもなければ、何かを要求するつもりもない。
アリアはそんなシンを不思議そうに見ていたが、やがて何かを思い出したように表情を変えた。
「そういえば……」
「何だ?」
「あなた、ここがどこか分かっているの?」
「知らない」
「……知らない?」
「ああ。さっきこの世界に帰ってきたばかりだからな」
アリアが固まった。
「帰ってきた?」
「ああ」
「どこから?」
「異世界」
「…………」
アリアはしばらく黙り込んだ。
そして、聞き間違いではないかと疑うような顔で尋ね直す。
「……もう一回言って?」
「異世界から帰ってきた」
再び沈黙が落ちた。
黒竜を一人で消滅させ、消えかけていた大精霊を完全に復活させた人物が、異世界から帰ってきたばかりだから現在地すら知らないと言っている。
アリアは頭痛を堪えるように額へ手を当てた。
「……あなた、ものすごく面倒な人でしょう?」
「初対面で失礼だな」
「今までの話だけで十分分かるわよ!」
シンは何を言われているのか分からないというように首を傾げる。
その反応を見たアリアは小さく溜息をついた。
しかし、その表情には久しく浮かべることのできなかった穏やかな笑みがあった。
黒竜はもういない。
そして、自分も消えずに済んだ。
長い年月をかけて果たしてきた役目は、本当に終わったのだ。
一方。
約十億年に及ぶ異世界巡歴を終えて故郷へ帰還したシン・クラネルは、自分が帰還初日に何を成し遂げたのかをまだ理解していなかった。
人類最大の脅威として恐れられていた隻眼の黒竜を消滅させ、長きにわたって黒竜を封じ続けていた風の大精霊アリアを救った。
この世界の人々が知れば、歴史そのものが覆るほどの出来事だった。
だが、今のシンにとっては、それよりも遥かに重要なことがある。
「アリア」
「何?」
「人が多くいる場所を知らないか?」
「……知っているけど」
「なら、そこまでの場所を教えてくれ」
シンが故郷へ帰ってきた目的は、英雄になることでも黒竜を討伐することでもない。
長い旅の果てまで忘れることのなかった家族を探すことだった。
そして何より。
五歳のあの日に離れ離れになった、双子の弟。
ベル・クラネルを探すためだった。