白兎の兄が規格外なのは間違っているだろうか 作:ディーノpc35
ゴブニュとヴェルフがシンの精錬を見学してから、数日が経った。
シンは約束通り、二人へ鍛冶を教え始めていた。
もっとも、最初からシンが異世界で身につけた特殊な技術をそのまま教えているわけではない。
シンが二人に最初に求めたのは、徹底した基礎の見直しだった。
素材を観察し、炉へ入れる前に状態を確かめる。加熱中も表面の色だけを見るのではなく、金属がどのように変化しているのかを可能な限り読み取る。
槌を振るう時も、ただ形を変えるために叩くのではない。一打ごとに金属から返ってくる音や感触を確認し、次にどこへ、どの程度の力で槌を落とすべきなのかを判断する。
冷却についても同じだった。
素材の種類や厚さ、形状、最終的な用途によって適切な方法は変わる。
シンが教えている内容だけを聞けば、鍛冶師なら誰でも知っているような基礎に思える。
しかし、要求される精度がまるで違っていた。
「違う」
シンの声が飛ぶ。
ヴェルフの槌が止まった。
「……今度はどこだ?」
「三打前から力が強すぎる」
「三打前?」
「ああ。そこから金属内部の伸び方が僅かに偏っている」
ヴェルフは鍛造途中の金属へ目を凝らした。
しかし、すぐには違いを見つけられない。
「……分からねえ」
「今はそれでいい」
「いいのかよ」
「分からないなら、分かるようになるまで経験を積めばいい」
ヴェルフは苦笑した。
言うのは簡単だ。
だが、シンが無茶を言っているわけではないことも分かっていた。
実際、指摘された部分を後から細かく確認すると、確かに僅かな偏りが存在する。
これまでなら完成後の研磨や微調整で誤魔化していた程度の差を、シンは鍛造中の段階で見抜いているのだ。
一方、少し離れた場所ではゴブニュが別の金属を鍛えていた。
鍛冶神である以上、その技術は当然ながら高い。
槌を振るう速度も力加減も、打ち込む角度も極めて安定している。
それでも。
「ゴブニュ」
「何じゃ?」
「今の一打は駄目だ」
ゴブニュの槌が止まる。
「どこが悪かった?」
「狙った位置から僅かにずれている」
ゴブニュは鍛造途中の金属を見る。
「この程度なら仕上げで直せるぞ?」
「直せる」
「なら――」
「今直せるものを、後で直す理由は?」
ゴブニュが黙る。
数秒後、小さく頷いた。
「……ないな」
「なら今やれ」
「分かった」
ヴェルフはその光景を横目で見ながら笑った。
「神様相手でも本当に容赦ねえな」
「鍛冶を教えろと言ったのはこいつだ」
シンは当然のように答える。
「神かどうかは関係ない」
ゴブニュ自身も不満を示さない。
むしろ、自分の知らない技術や見方を学ぶことを楽しんでいた。
そんな日々が数日続いた。
そして当然ながら。
この事実が、いつまでもヘファイストス・ファミリアへ伝わらないはずがなかった。
◇ ◇ ◇
その日。
ヘファイストス・ファミリアの本拠地では、新しい炉を作るための試行錯誤が続いていた。
純化されたオリハルコンを自分達の手で加工する。
その目標へ向けて、団員達は以前にも増して鍛冶へ没頭している。
ヘファイストスと椿も、試作された小型炉を前に団員達から報告を受けていた。
「前回より耐熱性は上がっています」
団員の一人が説明する。
「炉壁の素材配合を変えた結果、最高温度も上昇しました。ただ、純化されたオリハルコンを加工できる水準にはまだ届いていません」
「最初からそこまで行けるとは思ってないわ」
ヘファイストスは試験結果へ目を通す。
「前より確実に進歩しているなら、それでいい。問題点を洗い出して、次の試作へ反映させましょう」
椿も炉の内部を確認しながら頷く。
「火力だけを上げても、また炉が先に参ってしまうからのう。耐熱性との釣り合いが重要じゃ」
「はい。それで次の案なんですが――」
団員が説明を続けようとした時だった。
近くを通りかかった二人の鍛冶師の会話が、ヘファイストスと椿の耳に入った。
「そういや、ヴェルフの奴、今日も行ってるらしいぞ」
「ああ。ゴブニュ様も一緒だろ?」
「ここ数日ずっとだって話じゃねえか」
ヘファイストスと椿の動きが、同時に止まった。
「…………」
「…………」
先ほどまで報告を続けていた団員も、二人の変化に気づいて口を閉じる。
ヘファイストスがゆっくりと顔を上げた。
「今、何て言ったの?」
その声を聞いた二人の鍛冶師が固まる。
「……え?」
椿も振り返った。
「ヴェルフとゴブニュ様が、どこへ行っていると言った?」
二人は顔を見合わせる。
どうやら。
主神と団長の二人とも知らなかったらしい。
「その……」
「答えなさい」
ヘファイストスに促され、一人が観念したように答えた。
「シンさんのところです」
ヘファイストスの眉が動く。
椿も僅かに目を細めた。
「何をしに?」
「鍛冶を……」
「鍛冶?」
「シンさんから教えてもらっているらしくて」
今度こそ。
ヘファイストスと椿が同時に固まった。
「…………」
「…………」
工房に妙な沈黙が流れる。
ヘファイストスが確認するように尋ねた。
「ヴェルフが?」
「はい」
椿が続ける。
「ゴブニュ様も?」
「はい」
「シンから?」
「そう聞いています」
「鍛冶を?」
「……はい」
二人は互いの顔を見た。
どちらも今初めて聞いたという表情だった。
数秒後。
「いつから?」
ヘファイストスが尋ねる。
「数日前からだと思います」
「数日前……」
ヘファイストスの声が低くなる。
一方、椿は少し違う意味で目を見開いていた。
「待て。ということは、ゴブニュ様もシンの精錬を見たのか?」
「そうらしいです」
「最終精錬まで?」
「詳しくは分かりませんが、その後から鍛冶を教わり始めたって話です」
椿が黙り込んだ。
自分とヘファイストスだけが見たと思っていた、あの常識外れの精錬。
太陽に匹敵する熱量でオリハルコンを完全に溶融し、不純物を限界まで取り除く工程。
それをゴブニュまで見た可能性が高い。
しかも。
そこからさらに。
シン本人から鍛冶まで教わっている。
「…………」
椿の片目が細くなる。
その横では。
ヘファイストスが静かに持っていた資料を机へ置いた。
「椿」
「はい」
「行くわよ」
「奇遇ですな」
椿は即座に答えた。
「わしも同じことを考えておりました」
二人は同時に歩き出す。
報告をしていた団員が慌てる。
「ヘファイストス様? 団長?」
「続きは後!」
「少し出てくる!」
「どちらへ!?」
ヘファイストスと椿が同時に答えた。
「「シンのところ!」」
◇ ◇ ◇
その頃。
シンはヘスティア・ファミリアのホーム近くで、ヴェルフとゴブニュへ鍛冶を教えていた。
「ヴェルフ」
「今度は何だ?」
「温度が高すぎる」
ヴェルフが炉を見る。
「これでも?」
「ああ。その素材ならもう少し低い方がいい」
「柔らかくした方が加工しやすいと思ったんだけどな」
「柔らかくすればいいとは限らない。温度を上げすぎれば内部の状態まで変わる」
「……なるほど」
ヴェルフが火力を調整する。
一方、ゴブニュは別の素材を炉の中で熱していた。
「シン」
「何だ?」
「これはもう出してよいか?」
シンが一度だけ炉を見る。
「あと少し待て」
「分かった」
鍛冶神が人間へ金属を炉から出す時機を尋ねている。
普通ならあり得ないような光景だった。
だが。
ここにいる三人は誰も気にしていない。
その時。
遠くから勢いのある足音が近づいてきた。
「シン!」
女性の声が響く。
ヴェルフの肩が跳ねた。
「……この声」
さらに。
「ヴェルフ! ゴブニュ様!」
今度は別の女性の声が続く。
ヴェルフの顔が引きつった。
「うわ……」
ゴブニュが振り返る。
シンも入口へ視線を向けた。
次の瞬間。
扉が勢いよく開いた。
そこに立っていたのは。
鍛冶神ヘファイストス。
そして。
ヘファイストス・ファミリア団長、椿・コルブランドだった。
二人とも、明らかに急いでここまで来た様子だった。
「シン!」
「何だ?」
シンは普段と変わらない。
一方。
椿の視線は、まずヴェルフへ向いた。
「ヴェルフ」
「……はい」
「お主」
椿が作業台を見る。
槌。
金属。
炉。
どう見ても鍛冶を教わっている最中だった。
「本当にシンから鍛冶を教わっておったのか?」
「まあ……はい」
「いつからじゃ?」
「数日前から」
椿の眉が僅かに動く。
ヘファイストスはゴブニュを見る。
「ゴブニュ」
「何じゃ?」
「あなたも?」
「見れば分かるじゃろう」
「本当に?」
「だから、見れば分かると言っておる」
ゴブニュは特に悪びれない。
むしろ炉の中を気にしている。
「シン。そろそろよいか?」
「ああ。出せ」
「分かった」
ゴブニュは炉から金属を取り出す。
それを見たヘファイストスと椿の表情が同時に変わった。
ゴブニュは本当に教えを受けている。
しかも。
かなり真剣に。
「……ゴブニュ様」
椿が呟く。
「何じゃ?」
「神であるあなたが、本当に人間から鍛冶を?」
ゴブニュは不思議そうに椿を見る。
「何か問題があるか?」
「いや……問題ではないですが」
「知らぬ技術があるなら学ぶ。それだけじゃ」
あまりにも当然のこととして返され、椿は口を閉じた。
ヘファイストスはシンへ向き直る。
「シン」
「何だ?」
「どうしてゴブニュとヴェルフには鍛冶を教えてるの?」
「頼まれたからだ」
「…………」
隣で椿も動きを止める。
非常に単純だった。
「頼まれたから?」
「ああ」
「それだけ?」
「他に何がある?」
ヘファイストスが額へ手を当てた。
確かに。
自分は頼んでいない。
シンの武器を見せてもらった。
工房も見せてもらった。
精錬も見た。
純化されたオリハルコンまで持ち帰った。
その後は、自分達自身の手でそこへ到達しようと考え、設備開発へ夢中になっていた。
シン本人から教わるという選択肢を、考えていなかったのだ。
椿も全く同じだった。
「……なるほど」
椿が苦笑する。
「完全に盲点じゃったな」
「椿も同じこと思ってた?」
「はい。わしもシンから教わるという考えが抜けておりました」
二人が同時にゴブニュを見る。
ゴブニュは鼻で笑った。
「知らぬものを知っておる者がいるなら、聞けばよかろう」
ヘファイストスの眉が動く。
「分かってるわよ」
「なら、なぜそんなに慌てて来た?」
「先に教わってるのを知ったら腹が立ったのよ!」
「知らんがな」
「ゴブニュ!」
二柱の鍛冶神が睨み合う。
椿はその横でヴェルフを見る。
「そしてお主も、何故わしに一言も言わん」
「いや……」
ヴェルフが視線を逸らす。
「別に隠してたわけじゃないですよ」
「では何故言わんかった?」
「聞かれなかったんで」
「…………」
椿の表情が止まった。
シンが僅かにヴェルフを見る。
同じ理屈だった。
椿が額へ手を当てる。
「……確かに聞いておらんな」
ヴェルフが小さく息を吐く。
「助かった……」
「何が助かった?」
「何でもないです」
即答だった。
ヘファイストスはゴブニュとの睨み合いを切り上げると、シンの正面へ立った。
椿もその隣へ並ぶ。
二人の表情は先ほどまでとは違い、真剣だった。
「シン」
「何だ?」
ヘファイストスが言う。
「私にも鍛冶を教えて」
その直後。
「わしにも頼む」
椿も続けた。
シンが二人を見る。
「二人とも?」
「ああ」
椿が頷く。
「お主の精錬を見てから、わしらなりに色々試しておる」
新しい炉。
新しい槌。
新しい金床。
純化されたオリハルコンへ近づくための精錬研究。
自分達の力で試すことに意味はある。
その考えは変わっていない。
「じゃが、それとお主から学ぶことは別じゃ」
椿は続ける。
「わしらが知らん見方や考え方があるなら、それを知って損をする理由はない」
ヘファイストスも頷いた。
「あなたの技術をそのまま真似できるとは思ってない」
シンの異空間工房。
異世界の素材。
真気。
術式。
陣法。
この世界には存在しない技術が大量に含まれている。
「だから、使えるところを学ぶ」
ヘファイストスははっきりと言った。
「真気が使えないなら、真気を使わずにどこまで素材を見極められるか考える」
「太陽と同等の火力を出せないなら、今の私達が扱える範囲で精錬技術を上げる」
「設備が足りなければ、新しく作る」
その瞳には鍛冶神としてではなく、一人の鍛冶師としての強い意思が宿っていた。
椿も同じだった。
「わしも、まだ自分の腕を上げられるなら上げたい」
シンはしばらく二人を見る。
神であるヘファイストス。
第一級冒険者であり、最高峰の鍛冶師でもある椿。
二人とも既にこの世界では頂点に近い。
それでも。
自分達は完成しているとは考えていない。
知らないなら学ぶ。
足りないなら鍛える。
その姿勢については、シンも悪く思わなかった。
「いいぞ」
ヘファイストスと椿の表情が同時に明るくなる。
「本当?」
「ああ」
「ありがたい!」
椿も笑う。
しかし。
シンはすぐに続けた。
「ゴブニュとヴェルフと同じところから始める」
二人の笑みが止まった。
「……同じところ?」
ヘファイストスが確認する。
「ああ」
椿がゴブニュを見る。
「今、何を教わっているのです?」
ゴブニュは平然と答えた。
「基礎じゃ」
沈黙。
「…………」
ヘファイストスが固まる。
椿も瞬きをする。
「基礎?」
「ああ」
シンが答える。
「素材の見方からだ」
ヘファイストスが自分を指した。
「私も?」
「ああ」
「鍛冶神なのに?」
「だから何だ?」
シンは即答する。
続いて椿を見る。
「お前も同じだ」
椿が自分を指す。
「わしも?」
「ああ」
「長年鍛冶をやってきたのじゃが」
「知っている」
「それでも基礎から?」
「俺の基準で教えるならな」
椿は数秒固まった後。
突然、大きく笑い始めた。
「はははははっ!」
ヘファイストスが横を見る。
「椿?」
「いや、面白い!」
椿は心底楽しそうだった。
「鍛冶神と、わしと、ヴェルフが揃って基礎からか!」
「ゴブニュもいる」
シンが付け加える。
「確かに!」
椿はさらに笑う。
ヘファイストスは額へ手を当てた。
しかし。
やがて諦めたように息を吐く。
「……分かったわよ」
袖を捲る。
「やればいいんでしょう。基礎から」
「ああ」
椿も腕を組み直す。
「わしも異論はない。お主が必要だと考えるなら、最初からやろう」
シンは近くに積んであった素材の中から二つの金属塊を取り出し、作業台へ置いた。
「では、まずこれを見ろ」
ヘファイストスと椿が作業台を見る。
「何の素材?」
ヘファイストスが尋ねる。
「それを調べろ」
「教えてくれないの?」
「素材を見るところから始めると言っただろう」
「…………」
隣からゴブニュの笑い声が聞こえた。
「わしも同じことをやらされたぞ」
ヘファイストスがゆっくりゴブニュを見る。
「楽しそうね」
「非常に楽しい」
「後で覚えてなさい」
そう言いながらも、ヘファイストスの意識は既に目の前の素材へ向いていた。
椿も同じだった。
二人とも瞬く間に鍛冶師の顔へ変わる。
ヴェルフはそんな光景を眺めながら、何とも言えない表情になった。
「……改めて考えると、とんでもねえ状況だな」
シンがヴェルフを見る。
「何がだ?」
「俺、鍛冶神二柱と団長と並んで、同じ人から鍛冶を習ってるんだぞ?」
「だから?」
「いや、あんたからしたらそれで終わりなんだろうけどよ……」
ヴェルフは苦笑する。
ゴブニュ。
ヘファイストス。
椿。
いずれも鍛冶の世界では、自分より遥か先にいる者達だ。
その全員が今。
同じ場所で。
同じ師から。
基礎を見直している。
だが。
誰一人として、それを恥だとは思っていなかった。
シンが淡々と言う。
「学ぶのに神も人間も関係ないだろう」
ゴブニュが頷く。
「その通りじゃ」
椿も素材を観察しながら笑った。
「わしも異論はない」
ヘファイストスも目の前の金属から視線を外さず、小さく頷く。
「知らないことがあるなら、覚えればいいだけよ」
こうして。
鍛冶神ゴブニュ。
鍛冶神ヘファイストス。
ヘファイストス・ファミリア団長、椿・コルブランド。
そしてヴェルフ・クロッゾ。
神と人間という立場の違いも、この場では何の意味も持たない。
四人の鍛冶師が。
シン・クラネルから同じように鍛冶を学ぶという、オラリオの鍛冶師達が知れば耳を疑うような光景が生まれることになった。