白兎の兄が規格外なのは間違っているだろうか 作:ディーノpc35
その日の夜。
鍛冶神二柱と椿、そしてヴェルフへの指導を終えたシンは、ヘスティア・ファミリアのホームへ戻っていた。
昼間は相変わらず騒がしかったが、夜になればホームも静かになる。
リリ達はそれぞれの部屋へ戻り、ヘスティアも既に休んでいる。
居間に残っているのは、シンとベルだけだった。
二人の前には温かい飲み物が置かれている。
しばらく他愛のない話をしていたベルだったが、やがて少しだけ表情を変えた。
「兄さん」
「何だ?」
「そろそろ、ちゃんと話してもいい?」
シンがベルを見る。
「何をだ?」
「僕達が離れてからのこと」
ベルはそう言ってから、少しだけ苦笑した。
「再会した時に、兄さんが異世界で約十億年過ごしてきたことは聞いたけど……」
そこで一度言葉を切る。
「何をしてきたのかまでは、ほとんど聞いてないから」
確かにそうだった。
再会した時。
ベルは既に、シンがこの世界から消えていた九年間の裏で、本人にとっては約十億年もの時間を過ごしてきたことを知っている。
だが、それはあくまで大きな事実を聞いただけに過ぎない。
何故そこまで長い時間を異世界で過ごすことになったのか。
どのように生き延びたのか。
なぜ魔法や武功、鍛冶を身につけたのか。
なぜ神々を警戒するようになったのか。
そして、何故これほどまでの力を持つようになったのか。
ベルが知らないことは、まだあまりにも多かった。
「それと」
ベルは続ける。
「僕のことも、兄さんにまだ全部話してないし」
シンは少し考えた後、頷いた。
「なら、お前から話せ」
「僕から?」
「ああ。俺がいなかった九年間に何があったのか、改めて聞きたい」
ベルは手元の杯へ視線を落とした。
「……どこから話せばいいかな」
「俺が消えた後からでいい」
その言葉で、ベルの表情が僅かに曇った。
九年前。
まだ二人が五歳だった頃。
突然発生した時空の渦。
シンはベルを守るため弟を突き飛ばし、自分だけがその渦へ呑み込まれた。
ベルにとって、あれが兄を最後に見た瞬間だった。
「兄さんがいなくなった後、爺ちゃんはずっと探してたよ」
シンは黙って聞く。
「僕も探した。でも、何も見つからなかった」
遺体もない。
痕跡もない。
何が起きたのかすら分からない。
ただ、シンだけが突然消えた。
「最初は、すぐ帰ってくると思ってた」
ベルは少し笑った。
「兄さんって、僕から見たら何でもできるように見えたから」
「五歳だっただろ」
「それでもだよ」
幼いベルにとって、シンはいつも隣にいる存在だった。
何かあれば頼れる兄。
怖いことがあれば後ろへ隠れられる兄。
だから、いなくなったという事実をすぐには受け入れられなかった。
「一年経っても、二年経っても……いつか帰ってくるって思ってた」
シンの表情は変わらない。
だが、ベルの言葉を聞く手は止まっていた。
「爺ちゃんも最後まで、兄さんが死んだとは言わなかった」
「爺さんはどうなった?」
シンが静かに尋ねる。
ベルの表情が変わる。
「……僕がオラリオに来る少し前に、死んだって聞いた」
「聞いた?」
「ああ。出かけたまま戻ってこなくて、魔物に襲われたって」
シンは僅かに目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。
ベル自身がそう聞かされている以上、今ここで不用意な推測を口にする必要はない。
「それから?」
「一人になって……爺ちゃんが話してくれてた英雄譚を思い出した」
シンの眉が僅かに動く。
「やはり爺さんか」
「何が?」
「何でもない。続けろ」
ベルは少し不思議そうにしながらも話を続けた。
祖父から聞かされていた英雄譚。
困っている者を救う英雄。
強大な怪物に立ち向かう冒険者。
そして、自分もいつか誰かを救える英雄になりたいと思ったこと。
それが、ベルがオラリオを目指した大きな理由だった。
「最初は、どこのファミリアにも入れてもらえなかったけど」
「何故だ?」
「たぶん、弱そうだったから」
「実際には?」
「……弱かったよ」
神の恩恵もない。
戦闘経験もほとんどない。
田舎から出てきたばかりの十四歳。
探索系ファミリアから見れば、積極的に迎え入れる理由は少なかった。
「それでヘスティアに会ったのか」
「うん」
ベルの表情が柔らかくなる。
誰にも受け入れてもらえなかったベル。
まだ眷属を一人も持っていなかったヘスティア。
二人は出会い。
そこからヘスティア・ファミリアが始まった。
ベルは、自分が経験してきた出来事を一つずつ話していった。
初めてのダンジョン。
ミノタウロスから逃げ、アイズ・ヴァレンシュタインに助けられたこと。
短期間で急速に成長し始めたこと。
再びミノタウロスと戦ったこと。
中層での遭難。
十八階層での階層主ゴライアスとの戦い。
アポロン・ファミリアとの戦争遊戯。
リリ。
ヴェルフ。
命。
春姫。
仲間達との出会い。
異端児達との関わり。
そして。
ジャガーノート。
深層。
リューと二人きりで生還を目指した日々。
話が進むほど、シンの表情は少しずつ険しくなっていった。
やがて。
「……待て」
「何?」
「今の話」
「ジャガーノートのところ?」
「ああ」
シンはベルを見る。
「右腕を切断された?」
「はい」
「首も折れた?」
「……たぶん」
「腹も裂かれた?」
「そうだったと思う」
シンが黙った。
ベルが嫌な予感を覚える。
「兄さん?」
「何回死にかけている?」
「え?」
「聞いている限り、命を失いかけた回数が多すぎる」
ベルは視線を逸らした。
「でも、全部生き残ったから」
「結果の話をしているんじゃない」
シンの声は低かったが、怒鳴ってはいなかった。
「お前、自分の命を勘定から外す癖があるだろ」
「そんなつもりは……」
「誰かを助けるためなら、自分が死んでも構わないと思っている時がある」
ベルは返事に詰まった。
完全には否定できない。
シンは小さく息を吐く。
「やはり爺さんの英雄譚が原因か」
「何でも爺ちゃんのせいにしないでよ」
「俺も同じ話を聞いていたが、お前ほど無茶はしなかった」
「兄さんと一緒にしないでよ」
「何が違う?」
「兄さんは五歳の頃から僕よりずっと冷静だったじゃん」
それを言われると、シンも少し黙った。
ベルは苦笑する。
「僕だって、死にたいわけじゃないよ」
「なら生き残ることも考えろ」
「……うん」
「助ける側が死ねば、次に助けられる奴まで助けられなくなる」
「分かってる」
「本当に?」
「これからは、もっと気をつけるよ」
シンはベルをしばらく見た。
やがて、それ以上は追及しなかった。
過去に戻って判断を変えることはできない。
ならば、これから生き残る術を教えた方がいい。
「それで」
シンが尋ねる。
「今のファミリアは、お前にとってどういう場所だ?」
「家族だよ」
即答だった。
「ヘスティアも?」
「もちろん」
迷いはない。
その答えを聞き、シンは僅かに頷いた。
ヘスティアを完全に信用したわけではない。
だが、ベルが自ら選び、大切な存在だと考えている。
その事実まで否定するつもりはなかった。
「僕の方は、大体こんな感じかな」
「かなり色々あったな」
「兄さんに言われたくないよ」
ベルが苦笑する。
確かに。
ベルの九年間が波乱に満ちていたとしても。
約十億年を異世界で過ごした兄と比較すれば、到底同じ尺度では測れない。
ベルは少し姿勢を正した。
「じゃあ、今度は兄さんの番」
「ああ」
「十億年過ごしたこと自体はもう知ってる」
ベルは真剣な表情になる。
「でも、その間に何があったのかはほとんど知らない」
シンは少し黙る。
「全部を話すのは無理だぞ」
「分かってる」
ベルもそこは理解している。
十億年。
一晩で語れるような時間ではない。
「大きなところだけでいい」
「なら、最初から話すか」
シンは杯を置いた。
「俺があの渦に呑み込まれた後、最初に落ちた世界は戦争中だった」
ベルの表情が変わる。
「五歳で?」
「ああ」
言葉も通じない。
知り合いもいない。
帰る方法もない。
戦場の近くで。
五歳の少年が一人。
「最初は戦うどころじゃなかった」
シンは淡々と語る。
「逃げて、食べ物を探して、雨風を凌げる場所を探した。それだけだ」
「……怖かった?」
「ああ」
ベルが僅かに目を見開く。
今のシンからは想像しにくい答えだった。
「当時は俺も五歳だからな」
最初から強かったわけではない。
最初から神を殺せたわけでもない。
最初は。
ただ帰りたかった。
「お前と爺さんのところに戻りたかった」
ベルは黙って聞く。
「だから、生きる方法と帰る方法を探した」
その世界で知識を得る。
別の世界へ流される。
そこでも学ぶ。
そしてまた世界を越える。
最初のうちは、自分の意思で世界を渡っていたわけではなかった。
何らかの時空の乱れによって、シンは世界から世界へと流され続けた。
「魔法を覚えたのも、最初は帰還手段を探すためだった」
「時空間魔法?」
「最初はただの空間魔法だった」
転移。
空間把握。
座標固定。
異空間。
そこから時間について学び始める。
異なる世界では時間の流れそのものが違う。
その差を理解しなければ、故郷へ戻るどころか、同じ時間軸を特定することすらできない。
「それで時間魔法も覚えた?」
「ああ」
長い年月をかけ。
空間と時間を別々に扱っていた技術を統合していった。
それが現在の時空間魔法へ繋がっている。
ベルは改めて兄を見る。
「鍛冶は?」
「必要になったから覚えた」
「やっぱりそれなんだ」
シンが僅かに首を傾げる。
「何かおかしいか?」
「兄さんの鍛冶、必要になったから覚えたっていう程度じゃないよ」
「最初の理由はそれだった」
戦うほど武器が壊れる。
力が増すほど、市販の武器では耐えられなくなる。
ならば。
自分で作るしかない。
最初は本当にそれだけだった。
だが。
異世界を巡るうちに、様々な鍛冶技術と出会った。
人間の鍛冶。
異種族の鍛冶。
魔法を利用する鍛冶。
真気を使う鍛造。
神々の鍛冶。
龍の素材を扱う技法。
世界によって、鍛冶の常識そのものが違う。
「使えるものは全部覚えた」
「全部?」
「必要だと思ったものはな」
「……ヘファイストス様達が夢中になるわけだ」
ベルは少し納得した。
現在のシンの鍛冶は、一つの世界で完成した技術ではない。
約十億年の間に無数の世界から吸収した技術を、自分なりに統合し続けた結果なのだ。
「武功は?」
「それも生き残るためだ」
シンは続けた。
魔神剣功。
天魔剣功。
極刀神武。
二十四魔剣。
澳寒氷天功。
それらも最初から全て使えたわけではない。
師から学んだ技。
敵から学んだ技。
古い秘伝から得たもの。
そして自分で改良したもの。
長い年月を経て、今の形になった。
「滅劫剣と絶劫刀は?」
ベルが尋ねる。
その質問に、シンは少しだけ間を置いた。
「必要な敵が現れた」
「必要な敵?」
「普通に殺しても死なない奴らだ」
ベルの顔が僅かに引きつる。
シンは淡々と続ける。
肉体を破壊しても再生する。
魂を消しても、別の器へ移る。
時間を巻き戻して復活する。
輪廻を利用して何度でも転生する。
因果そのものを利用して死を無かったことにする存在。
「……そんなのと戦ってたの?」
「ああ」
「それで絶劫刀を?」
「そうだ」
ただ肉体を斬るだけでは意味がない。
なら。
肉体と魂を繋ぐものを断つ。
魂と輪廻を繋ぐものを断つ。
復活へ至る因果そのものを斬る。
そのために作ったのが絶劫刀だった。
「滅劫剣は?」
「存在そのものを終わらせる必要がある敵が増えたからだ」
ベルは少し黙った。
そして。
「兄さん、本当にどんなところを旅してたの……」
「色々だ」
「その一言で済ませないでよ」
ベルが苦笑する。
だが。
その笑みは、神々の話へ入ると少しずつ消えていった。
「兄さんが神様を警戒してる理由も聞いていい?」
「ああ」
シンは隠さなかった。
最初に神と敵対した世界。
そこでは神々が人間を家畜のように扱っていた。
信仰を増やすために国同士を戦わせる神。
自分達への供物を増やすため、人間へ災害を起こす神。
人間の魂を消耗品として利用する神。
眷属を道具として使い潰し、死ねば新しい者を選ぶだけの神。
人の人生を娯楽として弄ぶ神。
そうした存在を。
シンは何度も見てきた。
「全部の神がそうだったわけじゃない」
シンは付け加える。
人間を守った神もいた。
自らを犠牲にして世界を救った神もいる。
シンへ知識を与えた神。
鍛冶を教えた神。
友人になった神もいた。
「だから、神というだけで殺すつもりはない」
ベルは黙って聞く。
「だが、信用する理由にもならない」
「ヘスティア様も?」
「ああ」
即答だった。
しかし。
ベルが表情を曇らせる前に、シンは続けた。
「ただ、今のところ敵とは思っていない」
「……本当?」
「ああ」
ヘスティアがベルをどう扱っているか。
短い期間ながらシンは見ている。
少なくとも、弟を道具として扱っているようには見えない。
「何より、お前が家族だと言った」
ベルが顔を上げる。
「なら、それも判断材料にはする」
「……ありがとう」
「何故礼を言う?」
「兄さん、神様のことをすごく警戒してるから」
「警戒することと、お前の意思を無視することは別だ」
ベルは少し笑った。
そして。
最後に神龍魔気の話へ移った。
「神々を喰らい続けた龍……」
「ああ」
シンが遭遇したその龍は、神そのものを餌としていた。
神気。
神性。
権能。
神々が持つ力を喰らい、自分のものへ変える。
その龍は数え切れないほどの神を喰らい続け。
最後にはシンと戦った。
「勝ったんだよね?」
「そうでなければここにいない」
「……そうだよね」
ベルはもう慣れ始めていた。
シンはその龍を討滅した後、その真元真気を自らへ取り込んだ。
それが神龍魔気。
他者の力を吸収する。
無効化する。
そして吸収した力を、自らの糧へ変える。
「魔法も?」
「吸収できる」
「神様の力も?」
「ああ」
「呪いも?」
「大抵は問題ない」
ベルが兄を見つめる。
「……やっぱり規格外だよ」
「そうか?」
「そうだよ」
ベルは即答した。
「再会してからずっと思ってるけど、話を聞くたびに余計そう思う」
シンは少しだけ首を傾げた。
本人には、あまり自覚がないらしい。
ベルはそんな兄を見て苦笑した。
しかし。
やがて笑みを消し、静かに尋ねる。
「兄さん」
「何だ?」
「十億年の間……ずっと帰ろうとしてたの?」
シンはすぐには答えなかった。
この質問には、単純に「ああ」と答えるだけでは足りない気がした。
「最初の頃は、毎日考えていた」
「うん」
「帰るために空間を学び、時間を学んだ」
だが。
百年。
千年。
一万年。
それ以上。
時間が積み重なるほど。
シン自身も変わった。
故郷へ帰ったところで、自分が知るベルや祖父がまだ生きている保証などない。
そもそも世界そのものが残っている保証すらない。
「途中で、帰ることに意味があるのか分からなくなった時期もあった」
ベルは何も言わず聞いている。
「それでも」
シンはベルを見る。
「忘れたことはない」
ベルの指が僅かに動く。
「お前のことも」
そして。
「爺さんのことも」
約十億年。
無数の世界を越え。
人と出会い。
別れ。
国の興亡を見て。
世界の終わりさえ見て。
神を殺し。
龍を倒し。
それでも。
五歳の頃の故郷の記憶は消えなかった。
「だから、帰れる可能性があるなら探し続けた」
ベルは俯いた。
「……そっか」
しばらく沈黙が続く。
やがて。
ベルが小さく笑った。
「再会した時も言ったけど」
シンが弟を見る。
ベルは顔を上げた。
「もう一回言わせて」
「何を?」
「おかえり、兄さん」
シンは少しだけ目を見開いた。
ベルは続ける。
「十億年分の話なんて、全部聞くのは無理かもしれない」
「そうだな」
「でも、これから少しずつ聞くよ」
シンは静かに頷く。
「ああ」
「だから」
ベルが笑う。
「改めて、おかえり」
シンはしばらく黙っていた。
そして。
ほんの僅かに表情を緩める。
「ただいま、ベル」
九年。
そして約十億年。
二人が過ごした時間は、あまりにも違う。
その差を埋めることはできない。
だが。
互いが知らない時間について、これから話すことはできる。
ベルの九年間も。
シンの十億年も。
一晩で語り終える必要はない。
二人には今。
同じ世界で。
兄弟として話すための時間があるのだから。