白兎の兄が規格外なのは間違っているだろうか 作:ディーノpc35
の日の夜も更け、シンとベルの話は、互いがこれまで経験してきた大きな出来事から、次第に現在の生活へと移っていった。
約十億年というあまりにも長い時間を過ごしてきたシンの話は、一晩どころか数日を費やしたところで到底語り尽くせるものではない。
ベルもそれは理解していたため、無理にすべてを聞こうとはしなかった。
これからシンはこの世界にいる。
ならば、聞きたいことがあれば、その時に聞けばいい。
シンもまた、ベルがこの九年間で経験したことを一晩ですべて聞き出そうとは考えていなかった。
そうして話題が普段の生活へ移ったところで、シンは何気なく尋ねた。
「そういえば、ベル」
「何?」
「お前、普段はどうやって訓練している?」
突然の質問に、ベルは少し考え込んだ。
「一人でやることもあるけど……人に教えてもらうこともあるよ」
「誰にだ?」
「前からよく教えてもらってるのは、アイズさんかな」
その名前を聞いた瞬間、シンの目が僅かに細くなった。
「アイズ・ヴァレンシュタインか?」
「うん」
当然、シンもその名前は知っている。
アリアの娘。
そして、現在はロキ・ファミリアに所属する第一級冒険者。
二つ名は『剣姫』。
何より、ベルが以前アリアと会った際、アリア本人から娘について尋ねられたことで、ベルからある程度の事情を聞いていた。
「どこで教わっている?」
「オラリオの城壁の上だよ。人がほとんど来ない場所があって、そこで早朝に訓練してもらってるんだ」
「早朝か」
「うん。毎日じゃないけど、アイズさんと予定が合った時に」
シンはそこで少し考え込んだ。
アリアをアイズへ会わせること自体は、以前から考えていた。
黒竜の棲家で消滅寸前だったアリアを救った時から、彼女に娘がいることは聞いている。
そしてオラリオへ来て、その娘がアイズ・ヴァレンシュタインという名で冒険者をしていることも分かった。
ベルがアリアを初めて見た時など、アイズ本人と見間違えたほどだ。
それほど二人は似ている。
アリアにアイズのことを尋ねられたベルが、彼女がロキ・ファミリアに所属し、『剣姫』と呼ばれる第一級冒険者になっていると伝えた時の反応も、シンは覚えていた。
アリアは娘が生きていると知って喜んだ。
同時に、自分がいない間に娘がどのような人生を送ってきたのかを知りたがっていた。
ならば、いつまでも会わせない理由はない。
「ベル」
「何?」
「次にアイズと訓練する予定はいつだ?」
「明日の朝だけど」
「そうか」
シンはあっさり頷いた。
「なら、俺も行く」
「兄さんも?」
ベルは驚いた。
「アイズさんとの訓練を見たいの?」
「それもある」
「それも?」
その言い方に、ベルは僅かに目を細める。
再会してからそれほど長い時間が経ったわけではない。
それでも、幼い頃から兄弟だったからこそ分かることがある。
シンが何かを考えている。
「兄さん」
「何だ?」
「何かするつもり?」
「する」
あっさり認められた。
ベルは思わず苦笑した。
「そこは隠さないんだ……」
「隠す理由もない」
「じゃあ何するの?」
「明日になれば分かる」
「やっぱり教えてくれないんだ」
シンはそれ以上答えなかった。
ただ、危険なことをするつもりがないのはベルにも分かったため、それ以上追及することはなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
まだ太陽が完全には昇っていない時間帯。
ベルが準備を終えてホームを出ると、既にシンが待っていた。
「おはよう、兄さん」
「ああ」
「本当に来るんだね」
「昨日そう言っただろう」
「そうだけど……」
ベルはシンの姿を見る。
背には布で覆われた滅劫剣。
腰には絶劫刀。
普段と特に変わらない。
だが、昨日の言葉があるため、ベルとしてはどうしても気になってしまう。
二人は並んで早朝のオラリオを歩き始めた。
昼間なら多くの冒険者や商人で溢れている大通りも、この時間帯はまだ静かだった。
しばらく歩いたところで、ベルが何気なく尋ねる。
「そういえば兄さん、アイズさんとはまだほとんど話したことないよね?」
「ああ」
「大丈夫かな。兄さんが来ること、アイズさんには言ってないけど」
「問題ないだろう」
「たぶん大丈夫だと思うけど……」
ベルはそう答えてから、ふと昨日の会話を思い出した。
アイズ。
シン。
そして。
「……兄さん」
「何だ?」
ベルの足が止まった。
「もしかして」
シンも立ち止まり、ベルを見る。
ベルは少し声を落とした。
「アリアさんをアイズさんに会わせるつもり?」
シンは否定しなかった。
「ああ」
「やっぱり!」
ベルは思わず声を上げた。
早朝の静かな大通りに声が響き、少し離れた場所を歩いていた者が振り返る。
ベルは慌てて声を小さくした。
「昨日から何かあると思ってたけど……」
「ちょうどいい機会だろう」
「兄さんにとってはそうかもしれないけど……」
ベルは困ったような顔になる。
アイズにとって、アリアは長い間会うことのできなかった母親だ。
それを早朝の訓練へ突然連れてくる。
「アイズさんにも心の準備が必要なんじゃ……」
「先に教えてどうする」
「え?」
「母親が生きている。明日の朝連れてくる。そう伝えたところで、アイズが普段通りに待っていられると思うか?」
「それは……」
ベルは想像する。
そして、すぐに答えられなくなった。
アイズの普段の無表情を思い浮かべても、母親のこととなれば同じようにいられるとは思えない。
「……無理かも」
「だろう」
シンは再び歩き出した。
ベルも慌てて隣へ並ぶ。
「でも、アリアさんは?」
「本人には伝えてある」
「いつ?」
「今朝だ」
「今日!?」
「ああ」
シンはベルが起きる前に、アリアのもとを訪れていた。
そして、アイズと会う機会を作ったことを伝えた。
最初。
アリアは言葉を失った。
『今日……?』
そう聞き返した。
シンが頷くと、アリアは明らかに動揺していた。
娘が生きていることは既に知っている。
ベルから現在のアイズについても聞いている。
それでも、実際に会うとなれば話は違った。
自分の記憶にあるアイズは、まだ幼い。
それが今では成長し、冒険者として戦っている。
長い時間を離れていた娘と、どのような顔で会えばいいのか。
何を最初に言えばいいのか。
アリア自身にも分からなかった。
それでも最後には、はっきりと答えた。
会いたい、と。
「だから、アリアの方は問題ない」
「そっか……」
ベルは安心しながらも、今度はアイズの反応が心配になった。
「兄さん」
「何だ?」
「もう少し普通に再会させる方法はなかったの?」
「普通とは?」
「それは……」
聞かれてみると難しい。
何百年もの時を越えて母親と娘が再会する状況自体が、そもそも普通ではない。
ベルは考えることを諦めた。
「……もういいや」
「そうか」
「でも、アイズさんが混乱したら兄さんが説明してよ?」
「そのつもりだ」
そう話しているうちに、二人は城壁へ続く階段へ到着した。
◇ ◇ ◇
城壁の上へ出ると、早朝の冷たい風が吹き抜けた。
東の空が徐々に明るくなり始めている。
そして、いつもの訓練場所には既に一人の少女が待っていた。
長い金髪が朝風に揺れている。
腰には剣。
金色の瞳が、近づいてくるベルを捉えた。
アイズ・ヴァレンシュタイン。
「ベル」
「おはようございます、アイズさん」
ベルが笑顔で挨拶する。
アイズも僅かに表情を柔らかくした。
「おはよう」
そしてすぐに、ベルの隣を歩く見知らぬ青年へ視線が移る。
黒髪。
腰には刀。
背には布で覆われた長剣。
ベルと並んでいると、顔立ちの一部がどことなく似ていることにも気づく。
「……その人は?」
「僕の兄さんです」
アイズの瞳が僅かに大きくなった。
「兄?」
「はい。シン・クラネル。僕の双子の兄です」
「双子……」
アイズはベルとシンを交互に見る。
髪や瞳の色は違う。
それでも、よく見れば確かに似ている部分がある。
「九年前に生き別れていたんですけど、少し前に帰ってきたんです」
「……そうなんだ」
アイズはシンを見る。
「アイズ・ヴァレンシュタイン」
「シン・クラネルだ」
互いに短く名乗る。
シンも目の前のアイズを静かに観察した。
実際に近くで見れば、改めてよく分かる。
似ている。
アリアに。
髪の色。
瞳。
顔立ち。
ベルがアリアをアイズと見間違えたのも無理はない。
アリアをそのまま若くしたような姿だった。
ただし、纏っている雰囲気は大きく異なる。
アリアは穏やかで柔らかい。
対してアイズは静かで、その内側に非常に強い感情を押し込めている。
シンほどの感覚を持つ者なら、それを見逃すことはなかった。
強くなりたいという執着。
焦り。
そして、深い憎悪。
その根底には、幼い頃から抱え続けている大きな喪失がある。
シンは何も言わなかった。
今はまだ。
自分がそれを指摘する時ではない。
「兄さんは見てるだけ?」
ベルが尋ねる。
「ああ。まずはな」
「まずは?」
「気にするな」
「やっぱり何かする気じゃないか……」
ベルが小さく呟く。
その兄弟のやり取りを、アイズは不思議そうに眺めていた。
ベルに兄がいること自体、今日初めて知った。
それ以上に気になったのは、ベルの態度だった。
普段よりも自然に見える。
遠慮がない。
シンに対して文句を言いながらも、その根底には明確な安心感がある。
長い間離れていたとは思えないほど、二人の間には兄弟としての空気が残っていた。
やがてベルとアイズは距離を取った。
「お願いします!」
「うん」
剣を抜く。
そして訓練が始まった。
アイズが踏み込む。
ベルが剣を受ける。
金属音が早朝の城壁に響いた。
続けてアイズが剣を返し、ベルは身体を沈めて回避する。そのまま横へ踏み込み、反撃するが、アイズは最小限の動きで剣を受け流した。
シンは少し離れた場所から二人の動きを見ていた。
ベルがどのような訓練を受けてきたのか。
アイズがどのような剣を使うのか。
実際に見れば多くのことが分かる。
ベルの剣にはまだ粗さがある。
不要な力が入る瞬間もある。
判断が僅かに遅れる場面もある。
だが、基礎そのものは悪くない。
特に回避から反撃へ移る動きはかなり洗練されていた。
アイズから学んだ影響だろう。
一方で。
シンがより注意深く見ていたのはアイズだった。
速い。
正確。
余計な動きも少ない。
第一級冒険者と呼ばれるだけの技量はある。
しかし、剣の根底にあるものが気になった。
相手を倒す。
敵を斬る。
その一点へ、意識が強く向きすぎている。
今はベルとの訓練だから抑えている。
それでも、長年染みついたものまでは隠せない。
――これが、アリアの娘か。
シンは静かに考える。
母親を失い。
父親も失い。
黒竜への憎悪だけを抱えたまま長い年月を過ごしてきた。
アリアが現在の娘を見れば、何を思うのか。
それはシンにも分からなかった。
しばらく訓練が続いた後、二人は一度休憩へ入った。
ベルが息を整えながらシンのところへ来る。
「兄さん、どうだった?」
「悪くない」
「本当?」
「ああ。ただ、無駄な動きはまだある」
ベルの肩が少し落ちる。
「やっぱり……」
「以前より減っているなら問題ない。直せるところから直していけばいい」
「うん」
ベルは素直に頷いた。
アイズも近づいてくる。
その時。
シンが彼女へ視線を向けた。
「アイズ」
突然名前を呼ばれ、アイズがシンを見る。
「……何?」
「一つ確認したい」
「うん」
「お前の母親の名前は?」
ベルが息を呑んだ。
アイズの表情も一瞬で変わった。
先ほどまで僅かに緩んでいた空気が消える。
「……どうして?」
声には明確な警戒が混じっていた。
当然だった。
ほとんど初対面の男から、突然母親について尋ねられたのだ。
シンは表情を変えない。
「確認するだけだ」
アイズはしばらくシンを見つめた。
やがて。
小さく答える。
「……アリア」
その名前を聞いても、シンは驚かなかった。
「アリアか」
「うん」
「そうか」
あまりにも普通の反応。
だからこそ。
アイズは気づいた。
「……知ってるの?」
シンを見る瞳が鋭くなる。
「知っている」
アイズの身体が僅かに強張った。
「……母さんを?」
「ああ」
「どうして……?」
声が僅かに震える。
シンは嘘を言っているようには見えない。
だが。
アイズにとって、母親は遠い過去の存在だった。
幼い頃。
確かに自分の隣にいた。
優しく抱き締めてくれた。
名前を呼んでくれた。
そして。
黒竜との戦いによって失われた。
もう二度と会えないと思っていた存在。
「母さんは……」
その先が続かない。
シンはそんなアイズを静かに見た。
「俺から説明するより、本人に聞いた方が早い」
アイズの瞳が大きく開く。
「……本人?」
ベルは黙って二人を見守っている。
シンが右手を僅かに動かした。
何の詠唱もない。
魔法を発動したような気配さえ、アイズには感じ取れなかった。
それにもかかわらず。
シンの隣の空間が静かに歪んだ。
「……っ」
アイズの手が反射的に剣へ伸びる。
しかし。
そこから現れた人物を見た瞬間。
その手が止まった。
長い金色の髪。
澄んだ金色の瞳。
穏やかな顔立ち。
ベルが初めて見た時、アイズ本人と見間違えた女性。
成長したアイズと言われても信じてしまうほど、よく似た姿。
風の大精霊。
アリア。
転移してきたアリアも、最初はシンの隣に立ったまま動かなかった。
その視線は。
ただ一人へ向けられていた。
目の前に立つ金髪の少女。
「…………」
アイズも動かない。
記憶にある姿と比べれば、何も変わっていないように見える。
精霊であるアリアに、人間と同じような老いはない。
幼い頃。
何度も見た顔。
何度も聞いた声。
何度も抱き締めてもらった母親。
忘れるはずがない。
だが。
理解が追いつかない。
「……母、さん?」
ようやく漏れた声は、普段のアイズからは想像できないほど弱かった。
その一言を聞いた瞬間。
アリアの瞳が大きく揺れた。
目の前にいる娘は、記憶にある幼い少女ではない。
背も伸びた。
顔立ちも成長している。
腰には剣を帯びている。
ベルから聞いていた通り、今では一人の冒険者として生きている。
それでも。
分からないはずがなかった。
自分の娘だ。
「……アイズ」
アリアの声も震えた。
自分が消滅しかけていた間。
どれほど長い時間を、この子は自分なしで生きてきたのだろう。
どれほど寂しい思いをしたのだろう。
何故、自分は隣にいてやれなかったのか。
そんな思いが一気に押し寄せる。
アイズは剣から完全に手を離していた。
一歩。
ゆっくりと前へ出る。
アリアも同じように一歩近づく。
「本当に……?」
アイズが呟く。
「本当に、母さん……?」
その問いに。
アリアは今度こそ、はっきりと頷いた。
「ええ」
そして。
ずっと呼ぶことのできなかった娘の名前を、もう一度口にする。
「アイズ」
それだけで。
アイズの表情が崩れた。
普段ほとんど感情を表に出さない少女の瞳から、涙が零れ落ちる。
「母さん……!」
次の瞬間。
アイズが駆け出した。
剣士としての動きではない。
第一級冒険者としての動きでもない。
ただ。
長い間母親を求め続けていた、一人の娘として。
アリアへ飛び込む。
「アイズ!」
アリアも両腕を広げた。
その胸へ。
アイズが飛び込んだ。
アリアは娘の身体を強く抱き締める。
「母さん……母さん……!」
「ええ……ええ、アイズ……!」
アイズは何度も母親を呼ぶ。
まるで。
呼び続けなければ、また消えてしまうとでも思っているかのように。
アリアも娘を離さない。
何度も髪を撫でる。
「大きくなったわね……」
その言葉に。
アイズがさらに強くアリアへしがみついた。
本来なら。
当たり前のように見ているはずだった成長。
それを見ることができなかった。
その事実が、アリアの胸を締めつける。
「ごめんなさい……」
アリアが小さく呟く。
「ずっと、一人にして……ごめんなさい……」
アイズは首を振った。
「違う……」
涙を流しながら。
それでも必死に否定する。
「母さんが……悪いんじゃない……」
二人はそのまま、しばらく互いを抱き締め続けた。
少し離れた場所で。
ベルは何も言わず、その光景を見ていた。
自分も。
つい最近。
九年間会えなかった兄と再会した。
だから。
アイズが何を感じているのか。
すべてではなくとも、少しは分かる気がした。
隣へシンが来る。
ベルが小さく兄を見る。
「兄さん」
「何だ?」
「会わせてよかったね」
シンは抱き合う母娘を見る。
「ああ」
短い返事だった。
それ以上。
何も言う必要はなかった。
長い間。
引き離されていた母と娘。
黒竜によって途切れたはずだった時間が。
早朝のオラリオの城壁で。
ようやく。
再び動き始めていた。