白兎の兄が規格外なのは間違っているだろうか 作:ディーノpc35
ベルは、シルから届いた手紙を何度も読み返していた。
女神祭の間、一日だけ自分と二人きりで過ごしてほしい。
簡単に言えば、デートの誘いだった。
当然ながら、ヘスティアとリリは大騒ぎした。
ヘスティアは断固反対し、リリもベルを一人で行かせることには難色を示した。
一方で、ベル本人はシルの気持ちを無下にすることもできず、どう返事をするべきなのか真剣に悩んでいた。
最終的に。
ベルは原作通り、シルとの約束を受け入れる方向へ進んでいった。
シンはその判断へ口を挟まなかった。
ベルが誰と会うのか。
誰と付き合うのか。
誰から好意を向けられ、それへどう答えるのか。
それはベル自身が決めることだ。
兄だからといって、そこまで干渉するつもりはない。
ただし。
相手が普通の少女であるならば、の話だった。
シル・フローヴァ。
シンは既に、彼女が単なる人間ではないことを見抜いている。
神が人間の姿へ自らを偽装し、ベルの近くで生活している。
その事実を知っている以上、何もしないわけにはいかなかった。
だからベルが女神祭へ向けて動き始める一方で。
シンもまた、別の方向から動き始めた。
◇ ◇ ◇
最初に話を聞いたのはヘスティアだった。
ホームの居間。
ベル達が外出した後。
シンはヘスティアと向かい合って座っていた。
「ヘスティア」
「何だい?」
「フレイヤについて聞きたい」
その名前を出した瞬間。
ヘスティアの表情が僅かに変わった。
「……フレイヤ?」
「ああ」
「急にどうしたんだい?」
シンはすぐには答えない。
「まず聞かせろ。どういう神だ?」
ヘスティアは少し考えた。
「一言で言えば……かなり厄介な女神だね」
「厄介?」
「美を司る女神で、魅了に関しては特に有名だよ」
シンの目が僅かに細くなる。
「魅了」
「ああ」
ヘスティアは頷く。
「神々の中でも、フレイヤの魅力はかなり特別だ。普通の下界の子供達なら、彼女から本気で魅了を向けられたら抗うのは難しいと思う」
「権能を封じていてもか?」
「完全な権能とは違うけど、神として持っている本質までは消えないからね」
その答えに。
シンの中で警戒が一段階上がった。
「他には?」
「魂を見ることができる」
「魂を?」
「ああ」
ヘスティアは続ける。
「フレイヤは下界の子供達の魂を見るのが得意なんだ。気に入った魂を見つけると、かなり執着することがある」
「かなり?」
「……かなりだよ」
ヘスティアは苦い表情になる。
「欲しいと思ったものには、かなり積極的になる」
シンは黙って聞く。
そして。
「ベルには?」
ヘスティアの動きが止まった。
「…………」
答えなくても。
その反応だけで十分だった。
「目をつけているのか」
「……前からね」
ヘスティアは認める。
「ベル君にかなり興味を持ってる」
「どの程度だ?」
「正直、分からない」
ヘスティアの表情が険しくなる。
「でも、フレイヤがベル君の魂を気に入ってるのは間違いないと思う」
シンはしばらく何も言わなかった。
そして。
「分かった」
立ち上がる。
ヘスティアが慌てる。
「待って、シン君」
「何だ?」
「まさか今からフレイヤのところへ行く気じゃないだろうね?」
「行かない」
「本当?」
「ああ」
まだ。
何も起きていない。
ただベルへ興味を持っているだけで、攻撃されたわけではない。
その段階でこちらから敵対する理由はない。
だが。
警戒する理由は十分にできた。
◇ ◇ ◇
次に。
シンはヘファイストスを訪ねた。
鍛冶の話ではないと伝えると。
ヘファイストスは少し意外そうな顔をした。
「フレイヤ?」
「ああ」
「どうして私に?」
「同じ神として、どう見ている?」
ヘファイストスは少し考え込んだ。
「危険な神よ」
「やはりか」
「ただし、単純に邪悪という意味ではないわ」
ヘファイストスは慎重に言葉を選ぶ。
「フレイヤは欲望に正直なの。自分が欲しいものを見つけたら、それを手に入れるためにかなり強引になることもある」
「止められる者は?」
「少ないわね」
「眷属は?」
ヘファイストスの表情が僅かに曇る。
「かなり忠誠心が強い」
「どの程度?」
「フレイヤのためなら死ねる、と本気で考えている者も珍しくないと思う」
シンの目が冷える。
神への盲目的な忠誠。
それは、シンが最も警戒するものの一つだった。
「本人の命令なら何でもする?」
「少なくとも、そういう傾向は強いわ」
「そうか」
ヘファイストスがシンを見る。
「ベル君のこと?」
「ああ」
「……やっぱりね」
「知っているのか?」
「噂程度には」
ヘファイストスは小さく息を吐いた。
「フレイヤがベル君へ興味を持っていることは、神々の間ではそれなりに知られているわ」
「何故誰も止めない?」
「まだ明確に何かをしたわけじゃないからよ」
「なるほど」
シンはそれ以上聞かなかった。
◇ ◇ ◇
ゴブニュの答えも。
大きくは変わらなかった。
「フレイヤか」
「知っているか?」
「当然じゃ」
ゴブニュは作業の手を止める。
「厄介な女神じゃぞ」
「それは聞いた」
「なら話は早い」
ゴブニュは腕を組む。
「欲しいと思ったものへ向かう時の執着が強い。しかも、あやつ自身が力を持っておるだけではない」
「ファミリアか」
「ああ」
ゴブニュの表情が真剣になる。
「オラリオでも最大級の戦力を持つ派閥じゃ。フレイヤ本人だけ警戒しておればいいという話ではない」
「眷属もか」
「そうじゃ」
ゴブニュは少し考えてから続けた。
「特に団長のオッタルを筆頭に、上位冒険者が多い。下手に敵対すればファミリア単位で動く」
「なるほど」
「シン」
「何だ?」
「お主なら戦えば勝てるかもしれん」
ゴブニュはそう言ってから。
「だが、ベルやヘスティア達は別じゃ」
シンは僅かに目を細めた。
その通りだった。
自分だけなら問題ない。
しかし。
相手が自分と戦わず。
ベル。
ヘスティア。
リリ。
ヴェルフ。
命。
春姫。
あるいはアリア。
そこへ手を出す可能性は。
否定できない。
◇ ◇ ◇
最後に。
シンはミアハのところへ向かった。
ミアハもまた。
フレイヤについて聞かれると、普段の穏やかな表情を少しだけ変えた。
「フレイヤかい」
「ああ」
「何かあったのかな?」
「まだ何もない」
「まだ?」
シンはそこには答えず。
「どういう神だ?」
とだけ尋ねた。
ミアハは少し考えた。
「魅力的で、自由で、そして自分の欲望に忠実な女神だよ」
「他の奴と似た答えだな」
「それだけ分かりやすいということでもある」
ミアハは苦笑する。
「ただし、彼女は単純な悪神ではない」
「ああ」
「誰かを本気で気に入れば、その相手を大切にしようとすることもある」
「手に入れるために相手の意思を無視してもか?」
ミアハが黙った。
少しして。
「……そこが問題なんだろうね」
シンは何も言わない。
「フレイヤは、自分の愛情が相手にとっても幸福だと考えてしまう時がある」
ミアハの言葉は静かだった。
「だから、本人に悪意がなくても危険になることがある」
その言葉で。
シンの中では。
ほぼ結論が出た。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
ヘスティア・ファミリアのホーム。
シンは全員を居間へ集めた。
ベル。
ヘスティア。
リリ。
ヴェルフ。
命。
春姫。
そしてアリア。
机の上には。
複数の首飾りが並べられていた。
シンプルな造りだった。
細い鎖。
そして小さな結晶。
以前。
オリハルコンの最終精錬を見る際に、ヘファイストスや椿へ渡したものと似ている。
ただし。
用途は違った。
「これを一人一つ身につけろ」
シンが言った。
ヘスティアが首飾りを見る。
「また何か危ない装備?」
「逆だ」
「逆?」
「守るためのものだ」
ベルが一つ手に取る。
「何から?」
「色々だ」
「兄さん、それじゃ分からないよ」
シンは小さく息を吐く。
「簡単に言えば、防護結界を展開する装備だ」
全員が首飾りを見る。
「防護結界?」
リリが聞き返す。
「ああ」
「何を防ぐんです?」
「物理攻撃。魔法。呪い。精神干渉。魅了。毒。状態異常。それ以外もある程度は防ぐ」
沈黙。
ヴェルフが首飾りを見る。
「……それ、ある程度って範囲か?」
「相手次第だ」
「十分おかしいだろ」
シンは気にせず続ける。
「装備者が一定以上の危険に晒された場合、自動で結界が起動する」
命が尋ねる。
「自分で発動させる必要はないのでござるか?」
「ああ」
「寝ている時も?」
「問題ない」
春姫が少し安心したように首飾りを見る。
シンは続けた。
「それと、もう一つ機能がある」
ベルが顔を上げる。
「何?」
「危険が発生した時、俺へ知らせが来る」
今度は全員がシンを見る。
「知らせ?」
「ああ」
シンは一つの首飾りを持ち上げる。
「装備者が攻撃を受けた場合。結界が強制的に発動した場合。意識を失った場合。強い精神干渉や魅了を受けた場合。その他、異常が起きれば俺に分かる」
「どこにいても?」
ベルが尋ねる。
「ああ」
「ダンジョンでも?」
「ああ」
「別の街でも?」
「ああ」
「……兄さん、これって」
ベルが首飾りを見る。
「かなりすごいものじゃない?」
「そうか?」
「そうだよ!」
もはや定番になりつつあるやり取りだった。
ヘスティアは首飾りを手に取りながら。
少し真剣な表情でシンを見る。
「シン君」
「何だ?」
「これって……フレイヤのことを調べたから?」
シンは否定しなかった。
「ああ」
場の空気が僅かに変わる。
ベルも表情を引き締めた。
「兄さん」
「何だ?」
「何か分かったの?」
「フレイヤが危険だということは分かった」
「危険……」
「特に」
シンはベルを見る。
「お前に対してな」
ベルが黙る。
ヘスティアも苦い表情になる。
シンは続けた。
「魅了を得意とする。魂を見る。気に入った相手へ強く執着する。しかも眷属には、フレイヤへ盲目的に従っている者が多い」
ヴェルフが眉を寄せる。
「かなり面倒だな」
「ああ」
「だからこれを?」
「そうだ」
シンは首飾りを示す。
「何も起きなければ、それでいい」
誰も答えない。
「ただし」
シンの声が僅かに低くなる。
「何か起きてから対処するより、先に準備しておく方がいい」
ベルは手の中の首飾りを見る。
「兄さんは、フレイヤ様が何かすると思ってる?」
「分からない」
即答だった。
「まだ何もしていない相手を敵と決めつけるつもりはない」
その言葉に。
ヘスティアが少し意外そうな顔をした。
シンは神々を強く警戒している。
だからこそ。
もっと最初から敵と断定するかと思っていた。
だが。
シンは続ける。
「ただ、警戒はする」
神であること。
強力な魅了を持つこと。
ベルへ執着していること。
巨大派閥を率いていること。
そして眷属の忠誠心が極端に強いこと。
それだけ揃えば。
警戒しない理由の方がない。
「アリア」
「何かしら?」
「お前も身につけろ」
シンが首飾りを一つ渡す。
アリアは少し驚く。
「私も?」
「ああ」
「私は精霊よ?」
「だから何だ」
即答だった。
「お前がどこまで魅了へ耐性を持つか、完全には確認していない」
「それは……そうね」
「それに、お前が狙われるとは限らないが」
シンは一度アイズのことを思い浮かべる。
「お前に何かあればアイズにも影響する」
アリアはその言葉で納得した。
「分かったわ」
首飾りを身につける。
それを見て。
ベル達も一人ずつ装備し始めた。
ベル。
リリ。
ヴェルフ。
命。
春姫。
ヘスティア。
アリア。
首元の結晶が僅かに光り。
それぞれの持ち主を認識する。
ベルが首飾りへ触れる。
「これで何かあったら、兄さんに分かるんだね」
「ああ」
「どれくらい早く?」
「ほぼ同時だ」
「……じゃあ」
ベルは少し笑った。
「兄さんがどこにいても?」
「ああ」
「助けに来る?」
シンはベルを見る。
そして。
当然のように答えた。
「必要なら一瞬で行く」
その返事に。
ベルの表情が僅かに柔らかくなる。
ヘスティアも首飾りを見ながら小さく笑った。
「随分過保護なお兄さんだね」
「ベルが死にかけた回数を聞いた後だからな」
「うっ」
ベルが言葉に詰まる。
ヴェルフが笑った。
「そりゃ反論できねえな」
「ヴェルフ……」
その場に少しだけ笑いが広がる。
だが。
シンだけは。
完全には警戒を解いていなかった。
シル。
人の姿をした神。
そして。
ベルへ強い興味を持つ女神フレイヤ。
まだ。
断定はしない。
だが。
もし。
自分の推測通り。
シルとフレイヤの間に深い繋がりがあり。
女神祭で何かを仕掛けようとしているのなら。
ベル達が無防備なまま、その中へ入ることだけは避ける。
シンは全員が首飾りを身につけたことを確認する。
これで。
最低限の準備はできた。
あとは。
ベルが原作通り、シルとの女神祭へ向かう。
そして。
シンは。
少し離れた場所から。
女神フレイヤが次に何をするのか。
静かに見極めることにした。