白兎の兄が規格外なのは間違っているだろうか 作:ディーノpc35
女神祭を巡る騒動が進む中、シンが抱いていた懸念は、最悪の形で現実になろうとしていた。
その日のシンは、ヘスティア・ファミリアの本拠地に残っていた。
一緒にいるのはアリアとアイズだ。
アイズは母親と再会してからというもの、時間が許す限りアリアのもとを訪れるようになっていた。この日も早朝から本拠地を訪れ、久しく得られなかった母娘の時間を過ごしている。
ベル達はそれぞれ別の用事で外出していた。
ベルだけでなく、ヴェルフ、命、春姫、リリも現在は本拠地にいない。
ヘスティアも同様で、今はヘルメスと共にオラリオの外へ出ており、街道でフレイヤ本人と対面しているはずだった。
シンは彼らが別々に行動することを止めていない。
既に全員へ防護用の首飾りを渡してあるからだ。
何らかの攻撃を受ければ首飾りに仕込まれた防護結界が自動的に起動し、同時にシンへ異常が伝わる。
たとえシンから遠く離れていようと、その知らせが途切れることはない。
だからこそ、何か起きた瞬間に動けばいい。
そう判断していた。
「アイズ、ちゃんと休んでいる?」
居間では、アリアが娘の髪へ触れながら心配そうに尋ねていた。
「……休んでる」
「本当に?」
「うん」
「無理して訓練していない?」
その質問を受けたアイズの視線が、僅かに横へ逸れた。
アリアは見逃さなかった。
「アイズ?」
「……少しだけ」
「もう……」
アリアは困ったように笑いながら、娘の金髪を優しく撫でる。
アイズは少しだけ居心地が悪そうにしているものの、母親の手から逃げようとはしなかった。
そんな母娘の姿を、シンは少し離れた場所から静かに眺めていた。
アリアと再会してからのアイズは、明らかに変化している。
普段の無表情が消えたわけではない。
強さを求める気持ちも変わっていない。
だが、常に身体の奥底で張り詰めていた何かが、僅かに緩んでいる。
それは悪い変化ではないだろう。
シンがそう考えていた、その時だった。
突然、シンの表情から柔らかさが消えた。
「…………」
アリアがすぐに気づいた。
「シン?」
アイズも母親から視線を外してシンを見る。
「……どうしたの?」
シンはすぐには答えなかった。
自らと首飾りの間に存在する繋がりへ意識を集中させる。
ほぼ同時だった。
ベル、ヴェルフ、命、春姫、リリ。
五人へ渡していた首飾りから、立て続けに異常を知らせる反応が届いた。
単なる事故ではない。
五人全員の首飾りで防護結界が作動している。
それも、それぞれが別の場所にいるにもかかわらず、ほとんど時間差がない。
明らかに意図的な同時襲撃だった。
「……やはり来たか」
シンの声が低くなる。
アイズが即座に立ち上がった。
「何があったの?」
「ベル達が襲われた」
「え?」
アリアの表情からも笑みが消える。
「ベルだけではないの?」
「ああ。ベル、ヴェルフ、命、春姫、リリの五人が、ほぼ同時に襲撃を受けている」
その言葉を聞いた瞬間、アイズの手が腰の剣へ伸びた。
「私も行く」
「駄目だ」
シンは即座に止めた。
アイズが僅かに眉を寄せる。
「でも、ベル達が――」
「だからこそ、お前はここから動くな」
シンは立ち上がると、アイズだけではなくアリアにも視線を向けた。
「五人が別々の場所でほぼ同時に襲われている。偶然遭遇して戦闘になったわけではない。最初からヘスティア・ファミリアを狙って、それぞれの位置を把握した上で襲撃している可能性が高い」
アリアもすぐに意味を理解した。
「なら、ここも狙われるかもしれないのね?」
「ああ」
シンが頷く。
「俺達が全員外へ出れば、本拠地が無人になる。誰が何を仕掛けてくるか分からない以上、それは避けた方がいい」
「だったら、私がここに残る。アイズは――」
「二人とも残れ」
アリアの提案もシンは遮った。
「相手の目的が完全には分かっていない。アリアだけでなく、アイズまで狙われていないとは断言できない」
アイズは納得しきれない表情を浮かべる。
「でも……」
「それに、お前まで外へ出れば、アリアを守る者が減る」
その言葉でアイズの動きが止まった。
無意識に母親を見る。
ようやく再会できた母。
もう二度と失いたくない存在。
アイズはしばらく迷っていたが、やがて剣から手を離した。
「……分かった」
アリアも頷く。
「私もここにいるわ」
「それでいい」
シンは二人の返事を確認すると、右手を僅かに上げた。
直後、ヘスティア・ファミリアの本拠地を中心として空間そのものが変化した。
外見上の変化はほとんどない。
だが実際には、本拠地を覆うように複数の空間が重なり、外界との境界を断絶させていく。
アイズは周囲へ意識を向け、目を僅かに見開いた。
「……何をしたの?」
「空間断絶結界を張った」
「結界?」
「ああ。俺が解除するまで外から本拠地へ侵入することはできない」
アリアが周囲を見回す。
「どれくらい強い結界なの?」
「世界そのものを消滅させられる程度の力がなければ、外から破壊するのは難しい」
アリアとアイズが揃って黙った。
シンにとっては普通の説明なのだろう。
だが、聞かされた側からすれば基準がおかしい。
少なくとも、オラリオに存在する戦力でこの結界を突破できる者はいないと考えていい。
シンは二人を見た。
「俺が戻るまで、誰が来ても結界の外へ出るな」
「うん」
「分かったわ」
二人の返事を聞いたところで、シンの周囲に魔力とは異なる力が集まり始めた。
直後、シンの背後へ四つの人影が現れる。
アイズが目を見開いた。
四人とも、目の前にいるシンと全く同じ姿をしている。
黒髪も、顔立ちも、体格も同じ。
ただし、その身から感じられる圧力だけは本体より遥かに弱い。
「……シンが五人?」
「分身だ」
シンが簡潔に説明する。
アリアも興味深そうに四体の分身を見る。
「あなたの分身なのね」
「ああ。本体と比較すれば、強さは百分の一程度しかない」
その説明を聞いたアイズは、一瞬だけ四体の分身を見つめた。
本体の百分の一。
それならば、本体とは比較にならないほど弱い。
そう考えかけたアイズに、シンは何でもないことのように続けた。
「もっとも、百分の一でもこの世界の黒竜程度なら、軽い一撃で消滅させられるが」
アイズの表情が完全に止まった。
「…………」
自分が人生の大半を費やして追い求めてきた宿敵。
父と母を奪った黒竜。
その存在を倒すため、どれほど強くなっても足りないと考え続けてきた。
それを目の前の男は、本体の百分の一にまで弱体化した分身でさえ、軽い一撃で消滅させられると言った。
アリアは娘の表情に気づいたが、今は話をする時ではないと判断して何も言わなかった。
シンもアイズの反応を気にすることなく、四体の分身へ指示を出す。
「一体はヴェルフのところへ行け。残りはそれぞれ命、春姫、リリのところへ向かえ」
四体の分身が同時に頷いた。
「敵を殺す必要はない。まず襲撃者を制圧しろ。それぞれの安全を確保した後、状況を確認する」
「了解」
四体の分身が短く答える。
次の瞬間には、全員の姿が同時に消えていた。
転移によって、それぞれの首飾りから伝わる位置へ直接向かったのだ。
アイズがシンを見る。
「ベルのところには分身を送らないの?」
「ああ」
シンの瞳から、完全に感情が消える。
「ベルのところには俺が行く」
アリアはその一言だけで理解した。
ヴェルフ達を軽視しているわけではない。
本体の百分の一とはいえ、黒竜を一撃で消せる分身を一人ずつ向かわせているのだから、むしろ過剰と言っていいほどの戦力を送っている。
それでもベルだけは別だった。
五歳の時に守り切れず、自分だけが異世界へ消えた。
約十億年を経て、ようやく再会した双子の弟。
そこだけは、シン自身が向かう。
「すぐ戻る」
シンはそう言い残すと、アリアとアイズの返事を待つことなく姿を消した。
◇ ◇ ◇
その少し前。
ベルは既に戦闘状態へ入っていた。
目の前に立っているのは、フレイヤ・ファミリアの団長。
オッタル。
現在のオラリオにおいて、最強と称される第一級冒険者だった。
巨体がベルの進路を完全に塞いでいる。
「オッタルさん……」
ベルの声には明確な緊張があった。
どうしてオッタルが自分の前へ現れたのか。
何故、明確な敵意を向けてくるのか。
ベルには分からない。
だが、オッタルに道を譲る意思がないことだけは明らかだった。
「退いてもらえませんか?」
ベルが尋ねる。
オッタルは答えなかった。
代わりに、一歩前へ踏み出す。
その瞬間、ベルも反射的に身構えた。
次の瞬間には、オッタルの巨体が視界から消える。
「っ!」
ベルが反応するより先に、オッタルの拳が迫った。
だが、その拳がベルの身体へ届くことはなかった。
首元の首飾りが強い光を放ち、ベルの身体を包み込むように透明な結界が展開されたからだ。
オッタルの拳が結界へ激突する。
轟音が響き、周囲の地面に亀裂が走った。
それでもベルは一歩も動かない。
結界そのものにも、目立った損傷はなかった。
「……兄さん」
ベルは自分の首飾りへ触れる。
結界が発動した。
ならば同時に、シンへも知らせが届いている。
それを理解したベルは、先ほどより僅かに落ち着きを取り戻した。
オッタルもまた、ベルを守る透明な結界へ視線を向ける。
「防護結界か」
「兄さんが作ったものです」
ベルはオッタルから目を逸らさないまま答えた。
「だから、たぶんもう気づいています」
「……何にだ」
「僕が襲われていることに」
その直後だった。
ベルとオッタルの間に存在していた空間が歪む。
オッタルが即座に異変を察知し、大きく後退した。
次の瞬間。
何もなかった場所へ、黒髪の青年が姿を現した。
「兄さん!」
ベルの声を聞いたシンは、まず弟へ視線を向けた。
全身を確認する。
怪我はない。
首飾りも正常に機能している。
防護結界にも問題はない。
ベルが無事だと確認してから、初めてオッタルへ視線を向けた。
「お前がベルを襲ったのか?」
シンの声は静かだった。
怒鳴ってはいない。
殺気を撒き散らしてもいない。
だが、オッタルの全身を本能的な警戒が駆け抜けた。
目の前の男は危険だ。
これまで戦ってきたどの怪物とも違う。
強敵を前にした時に感じる闘争心より先に、生物としての本能が警告している。
戦うべきではない、と。
それでもオッタルは退かなかった。
女神フレイヤの命令を受けている。
その事実だけで、彼にとっては十分だった。
「女神の命だ」
低い声で答える。
シンの目が僅かに細くなった。
「フレイヤ本人の命令か?」
「ああ」
「何のためにベルを襲う?」
「答える必要はない」
「そうか」
シンはそれ以上問い詰めなかった。
オッタルが答えるつもりがないなら、ここで時間を使う意味もない。
「なら、まずお前を止める」
シンが一歩前へ出る。
オッタルも即座に構えた。
ベルはその二人を見ながら、先ほどとは別の意味で緊張していた。
オッタルがどれほど強いかは知っている。
しかし今は、オッタルの身を心配する必要があることも分かっていた。
◇ ◇ ◇
ベルがオッタルと対峙している頃、ヴェルフもまた別の場所で襲撃を受けていた。
彼の前へ現れたのは、フレイヤ・ファミリアの幹部であり、都市最速の異名を持つアレン・フローメルだった。
「何の用だよ」
ヴェルフは武器へ手を伸ばしながら問いかけた。
しかし、アレンは答えない。
次の瞬間には地面を蹴り、ヴェルフの視界から姿を消した。
「速――」
ヴェルフが最後まで言葉を発するより早く、槍が目前へ迫る。
だが、切っ先がヴェルフを貫く寸前。
首飾りが光を放った。
透明な防護結界が展開され、アレンの槍を正面から受け止める。
甲高い衝突音が響いた。
「……何だ、これは?」
アレンの表情が険しくなる。
一方のヴェルフは、自分の首元にある首飾りを見て状況を理解した。
「シンのやつ、本当にとんでもねえもん渡しやがったな……」
その直後、ヴェルフの隣の空間が歪んだ。
一人の男が姿を現す。
黒髪。
見慣れた顔。
「シン?」
ヴェルフが驚いて振り向く。
だが、現れたシンは首を横へ振った。
「本体ではない。分身だ」
「分身?」
「説明は後だ。怪我はないな?」
「あ、ああ」
「なら下がっていろ」
シンの分身はヴェルフを背後へ庇うように前へ出た。
アレンが不愉快そうに目を細める。
「偽物が俺の邪魔をするのか?」
「偽物という表現でも構わない」
「舐めやがって……」
アレンから殺気が膨れ上がる。
それでも分身の表情は全く変わらない。
「本体と比較すれば、俺の力は百分の一程度しかない」
その言葉にアレンの眉が動く。
ヴェルフも後ろから思わず声を上げた。
「おい、それ大丈夫なのか!?」
「問題ない」
分身はアレンを見ながら淡々と答えた。
「この程度の相手を制圧するには十分だ」
アレンの顔から表情が消えた。
「……殺す」
次の瞬間、アレンが地面を蹴った。
しかし。
分身の目には、その動きがあまりにも遅く映っていた。
◇ ◇ ◇
命、春姫、リリの三人も、ほぼ同じ頃にフレイヤ・ファミリアの幹部達から襲撃を受けていた。
誰一人として、最初の攻撃で傷を負うことはなかった。
シンから渡された首飾りが攻撃を感知し、本人達が反応するより先に防護結界を展開したためだ。
そして結界が起動してから間もなく、それぞれの場所へシンの分身が転移してきた。
命のもとへ現れた分身は、彼女と襲撃者の間へ立った。
「命、怪我はないか?」
「シン殿!?」
「本体ではない。分身だ」
「分身なのでござるか?」
命が驚く間にも、分身は襲撃者から視線を外さない。
「説明は後でする。今は首飾りを外さず、俺の後ろにいろ」
命は一瞬迷ったものの、すぐに頷いた。
「承知したでござる」
春姫のところへ現れた分身も同様だった。
突然目の前へシンが現れたことで、春姫は大きく目を見開いた。
「シン様!?」
「分身だ。怪我は?」
「だ、大丈夫です!」
「なら、そのまま結界の中にいろ。ここは俺が対処する」
「はい!」
春姫は首飾りへ手を添えながら、素直に後ろへ下がった。
リリのもとへ向かった分身も、到着すると最初に彼女の状態を確認した。
「リリ、無事か?」
「シン様! いえ……もしかして分身ですか?」
他の二人より察しが早かった。
「ああ」
「ベル様達も襲われているんですか?」
「五人同時だ。本体はベルのところへ向かった」
その説明だけで、リリの表情が険しくなる。
「やっぱり計画的な襲撃なんですね」
「その可能性が高い」
分身はリリを守るように前へ出る。
「だから今は、自分の安全を優先しろ。事情を調べるのは襲撃者を制圧してからだ」
「分かりました」
こうして、ヴェルフ、命、春姫、リリの前には、それぞれシンの分身が立った。
本体の力と比べれば僅か百分の一。
だが、その百分の一ですら、かつてオラリオの二大派閥を壊滅させた黒竜を軽い一撃で消滅させられる。
フレイヤ・ファミリアの幹部達が相手であろうと、力の差を論じること自体に意味がない。
彼らはまだ理解していなかった。
自分達が襲撃した五人が、既にシンの庇護下にあることを。
そして、彼らへ攻撃を仕掛けた瞬間。
シン・クラネル本人を敵として呼び寄せる仕組みが、最初から用意されていたことを。
◇ ◇ ◇
その頃。街道では、ヘスティアとヘルメスがフレイヤと向かい合っていた。
フレイヤはいつもと変わらぬ優雅な笑みを浮かべている。
対するヘスティアの表情には、明確な警戒があった。
「フレイヤ」
「何かしら、ヘスティア?」
「君、一体何をするつもりなんだい?」
フレイヤは問い詰められても表情を崩さない。
「私はただ、欲しいものを迎えに行こうとしているだけよ」
「欲しいものって……ベル君のことかい?」
フレイヤは答えなかった。
だが、その微笑みだけで十分だった。
ヘスティアの顔から表情が消える。
「ベル君は物じゃない」
「もちろん分かっているわ」
「分かっている神の言い方じゃないよ」
二柱の間に張り詰めた空気が流れる。
ヘルメスはその様子を見ながら、普段の軽薄な笑みを消していた。
今この場で不用意に口を挟めば、余計に話が拗れる。
そう判断している。
そして何より。
ヘルメス自身も、シンについて詳しく知っているわけではなかった。
ベル・クラネルには、九年前に行方不明となった双子の兄がいた。
その兄が突然オラリオへ帰還した。
現在ヘルメスが把握しているのは、その程度である。
フレイヤも同様だった。
シン・クラネル。
ベルと瓜二つというわけではないが、確かに顔立ちの一部が似ている黒髪の青年。
九年前に行方不明となっていたベルの双子の兄。
最近オラリオへ現れ、ヘスティア・ファミリアと行動を共にしている。
その程度の認識しか持っていない。
シンが異世界を巡ってきたことも。
本人にとって約十億年もの時間を過ごしてきたことも。
神殺しを経験していることも。
黒竜を軽々と消滅させられるほどの力を持つことも。
フレイヤは何一つ知らなかった。
それらをある程度知っている神は、現時点ではヘスティア、ヘファイストス、ゴブニュだけだった。
その時。
ヘスティアの首元にある首飾りが僅かに震えた。
「……っ」
ヘスティアが反射的に首飾りへ触れる。
自分自身が攻撃されたわけではない。
防護結界も発動していない。
しかし、同じ仕組みを持つ他の首飾りから異常が発生したことを知らせる反応が伝わってきた。
しかも一つではない。
複数。
ほぼ同時だった。
ヘスティアは瞬時に理解した。
ベル達だ。
シンが首飾りを渡した際、ベル、リリ、ヴェルフ、命、春姫の誰かに異常が起きれば、シン本人へ直接知らせが届くと聞いている。
そして今、自分の首飾りにも連動した反応が出た。
「……君」
ヘスティアがフレイヤを見る。
先ほどまで以上に険しい目だった。
「眷属を動かしたね?」
フレイヤは否定しなかった。
その反応を見たヘルメスの表情も変わる。
「フレイヤ……まさか」
ヘルメスが僅かに眉を寄せる。
「ベル君達のところへ?」
フレイヤは静かに笑う。
「必要なことをしているだけよ」
「必要なこと?」
ヘスティアの声が低くなる。
「うちの子達を襲うことが?」
「彼らには少しだけ退いていてもらう必要があるの」
「それを襲うって言うんだよ!」
ヘスティアの怒声が街道へ響く。
フレイヤはなおも落ち着いている。
彼女にとって。
ヘスティア・ファミリアとフレイヤ・ファミリアの戦力差は明白だった。
団長オッタル。
アレン。
ヘディン。
ヘグニ。
ガリバー兄弟。
オラリオ最強格の冒険者達。
ヘスティア・ファミリアの眷属達が抵抗したとしても、長くは持たない。
少なくとも。
フレイヤはそう考えていた。
唯一不明なのは、最近現れたベルの兄。
シン・クラネル。
だが。
フレイヤにとって彼は、まだ正体の分からない一般人に近い存在だった。
神の恩恵を授かっているという話も聞いていない。
目立った冒険者としての実績もない。
鍛冶神ヘファイストスやゴブニュと接触しているという話は耳にしていても、それが戦闘力を意味するわけではない。
だから。
警戒対象として最優先に置く理由はなかった。
ヘスティアはそんなフレイヤを見ながら、別のことを考えていた。
――知らない。
フレイヤは知らない。
シンが何者なのか。
どれほど強いのか。
何をしてきたのか。
ヘスティア自身も、シンの全てを知っているわけではない。
それでも。
自分が知っている範囲だけで十分だった。
黒竜を容易く消滅させられる。
神々を喰らう龍を倒した。
異世界では神殺しを何度も経験している。
そして。
ベルを何よりも大切にしている。
フレイヤは。
そのベルだけではなく。
リリ達にまで手を出した。
「……フレイヤ」
ヘスティアが低く呼ぶ。
「何?」
「君、自分が何をしたか分かってないよ」
フレイヤが僅かに首を傾げる。
「どういう意味かしら?」
「そのままの意味だよ」
ヘスティアはフレイヤを睨む。
「シン君のこと、どこまで知ってる?」
突然話題に出た名前に、フレイヤが少しだけ目を細めた。
「ベルの双子の兄でしょう?」
「それだけ?」
「九年前に行方不明になって、最近戻ってきた。それ以上に何かあるの?」
フレイヤの答えを聞いた瞬間。
ヘスティアは確信した。
本当に知らない。
何一つ。
ヘルメスも興味を示す。
「待ってくれ、ヘスティア」
「何だい?」
「ベル君のお兄さんに、何かあるのかい?」
ヘスティアは答えなかった。
シン自身が、自分の過去や能力をオラリオ中へ広めているわけではない。
なら、自分が勝手に話すべきではない。
「……ボクから言うことじゃないよ」
「それは余計に気になるんだけどね」
ヘルメスが困ったように笑う。
だが、ヘスティアはフレイヤから視線を外さない。
「ただ、一つだけ言っておく」
「何かしら?」
「シン君を、ただのベル君のお兄さんだと思わない方がいい」
フレイヤの表情に僅かな興味が浮かんだ。
「へえ?」
それでも危機感はない。
むしろ。
ベルの兄にも何か秘密があるのか。
その程度の好奇心だった。
ヘスティアには、それが逆に恐ろしく思えた。
今この瞬間にも。
ベルのもとにはシン本人が向かっているはずだ。
そしてリリ達のところにも、シンが何らかの手段を講じている。
首飾りが作動した時点で、既に動いている。
「フレイヤ」
「何?」
「今ならまだ、眷属を止められるんじゃないのかい?」
「止める理由がないわ」
即答だった。
ヘスティアの表情が沈む。
「……そう」
これ以上言っても無駄だ。
フレイヤは、自分が圧倒的に優位だと思っている。
フレイヤ・ファミリアの力を基準に考えれば、それも当然だった。
オラリオで彼らに正面から対抗できる派閥はほとんど存在しない。
だが。
今回。
相手に含まれているのは。
オラリオの常識の中に収まる存在ではなかった。
「後悔しても知らないからね」
ヘスティアが呟く。
「脅し?」
「忠告だよ」
フレイヤは微笑んだ。
「心配しなくても、ベルは私が大切にするわ」
その言葉を聞き。
ヘスティアの顔から完全に笑みが消えた。
「……それをシン君の前でも言えるといいね」ヘスティアがそう告げても、フレイヤはその言葉の意味を理解できなかった。
彼女が知っているシン・クラネルという青年についての情報は、あまりにも少ない。
九年前、五歳の時に行方不明となったベル・クラネルの双子の兄であり、最近になって突然オラリオへ戻ってきた。
フレイヤが知っているのは、その程度だった。
「どういう意味かしら?」
フレイヤが僅かに首を傾げながら問い返した、その直後だった。
何の前触れもなく、街道の空気が変わった。
「――っ?」
最初に異変へ反応したのはヘルメスだった。
普段の軽薄な雰囲気を消して周囲を見回すが、誰かが接近してくる気配はない。
魔力が高まったわけでもなければ、詠唱が聞こえたわけでもない。
それにもかかわらず、三柱の目の前に存在していた空間が突然歪んだ。
次の瞬間、何人もの人影が街道の上へ放り出された。
「なっ……!?」
ヘルメスが驚愕する。
一人や二人ではない。
何人もの人間が立て続けに何もない空間から現れ、折り重なるように地面へ落ちていく。
やがて、それはフレイヤの目の前で一つの人の山となった。
そして。
そこに積み上げられた者達の正体を認識した瞬間、フレイヤの顔から、それまで浮かべていた余裕のある微笑みが消えた。
「…………」
そこにいたのは、自らの眷属達だった。
しかも、ただの団員ではない。
フレイヤ・ファミリアの中核を担い、オラリオでも第一級冒険者として名を轟かせている団長と幹部達だった。
だが、誰一人として立ち上がることができない。
それどころか、立つために必要な手足そのものを失っていた。
全員の両腕と両脚が切断されている。
さらに視界を奪われ、声を上げることさえできないように目と喉まで潰されていた。
命だけは奪われていない。
意識を失っている者もいるが、生きていることだけは神であるフレイヤにも分かった。
しかし、それ以外は徹底的だった。
戦うための手足を失い、相手を見るための目を失い、声を上げるための喉まで潰されている。
戦闘を継続することはおろか、自力でその場から移動することさえできない。
オラリオ最強派閥と呼ばれるフレイヤ・ファミリアの最高戦力が、揃って完全な戦闘不能状態へ追い込まれていた。
「…………え?」
ヘルメスの口から、普段の彼からは考えられないほど呆然とした声が漏れた。
理解が追いつかない。
つい先ほどまで、フレイヤ・ファミリアの幹部達はベル達を襲撃するために、それぞれ別の場所へ向かっていたはずだ。
そこから、ほとんど時間は経っていない。
にもかかわらず、その全員が既に敗北している。
しかも、これは辛うじて勝敗が決したような状態ではない。
相手側がどれほどの傷を負ったのかと考える以前に、彼らがまともな戦闘を成立させることができたのかすら疑わしいほど、一方的な結果だった。
「これは……」
ヘルメスが言葉を失う。
ヘスティアも目の前へ積み上げられた者達を見て、思わず顔を引きつらせた。
シンが圧倒的に強いことは知っている。
黒竜ですら相手にならないことも聞いている。
神々を殺した経験があることも知っている。
そして何より、ベル達へ危害を加えた者に対してシンがどれほど容赦しないのかも、ある程度は予想していた。
それでも実際に、オラリオ最強派閥の最高戦力がまとめてこの状態で送り返されてくる光景を見ると、さすがのヘスティアも何とも言えない表情になった。
「……やっぱり、こうなったか」
思わず漏れた言葉に、ヘルメスが勢いよく振り返る。
「ちょっと待ってくれ、ヘスティア」
「何だい?」
「今、『やっぱり』って言ったかい?」
「言ったよ」
「どうして君はこれを予想できていたみたいな反応をしているんだ!?」
ヘルメスは思わず人の山を指差した。
そこに積み上げられている者達が誰なのか、彼も当然知っている。
オラリオの冒険者なら、その名前を知らない者の方が少ないほどの強者ばかりだ。
その全員が何もできない状態へ追い込まれている。
だが、ヘスティアは答えなかった。
シンのことをどこまで話していいのか、本人の許可を取っていないからだ。
その間も、フレイヤは何も言わず、自らの眷属達を見つめていた。
やがて、その銀色の瞳が人の山の中に一人の大男を見つける。
フレイヤの瞳が僅かに揺れた。
「……オッタル?」
そこには間違いなく、オッタルがいた。
フレイヤ・ファミリア団長。
都市最強と呼ばれる唯一のLv.7。
フレイヤが誰よりも信頼し、自らの望みを叶えるためならどのような敵が相手であろうと立ち向かう最強の眷属。
そのオッタルも、他の幹部達と何一つ変わらない状態だった。
両腕と両脚を失い、目と喉を潰され、完全に戦闘能力を奪われている。
フレイヤが名前を呼んでも返事はない。
返事をしたくてもできない。
その事実を認識したことで、フレイヤの表情から完全に余裕が消えた。
オッタルが絶対に負けない存在だと思っていたわけではない。
この世界には黒竜が存在する。
ダンジョンの深層には未知の怪物が存在する。
そして過去には、ゼウス・ファミリアやヘラ・ファミリアにオッタル以上の実力者も存在していた。
だから、オッタルが敗北する可能性そのものを考えたことがないわけではない。
しかし。
目の前にあるものは、フレイヤが想像していた『敗北』とはあまりにも違った。
戦って敗れたというよりも、最初から勝負として成立していなかったとしか思えない。
他の幹部達も同じだった。
誰一人として例外なく、同じように戦闘能力を奪われている。
「誰が……」
ようやくフレイヤの口から声が出る。
そこには、先ほどまで存在していた余裕がなかった。
「誰が、この子達をこんな状態にしたの?」
ヘスティアは答えなかった。
答える必要がなかったからだ。
その直後。
再び、街道の空間が歪んだ。
今度は先ほどのように誰かが地面へ放り出されることはない。
何もなかった空間から、一人の黒髪の青年が静かに姿を現した。
シン・クラネル。
フレイヤとヘルメスが知っているのは、彼がベル・クラネルの双子の兄だということだけだった。
九年前、五歳の時に突然行方不明となり、最近になってオラリオへ戻ってきた青年。
二柱にとっては、それ以上でもそれ以下でもない存在だった。
少なくとも、今この瞬間までは。
シンは街道へ姿を現すと、まずヘスティアへ視線を向けた。
「無事か?」
「ボクは大丈夫だよ。何もされてない」
「そうか」
ヘスティアが無事であることを確認すると、シンは次にヘルメスを見る。
「お前もか?」
「あ、ああ……僕も何もされていないよ」
普段のヘルメスなら、もう少し気の利いた返答をしただろう。
しかし今は、それどころではない。
ヘルメスの視線がシンと、目の前に積み上げられているフレイヤ・ファミリアの団長や幹部達との間を何度も往復する。
やがて、一つの可能性へ辿り着いた。
「……まさか」
ヘルメスが恐る恐る尋ねる。
「これをやったのは、君なのかい?」
「ああ」
シンは何でもないことのように答えた。
ヘルメスの表情が固まる。
「全員を?」
「ああ」
「この短時間で?」
「そうだ」
ヘルメスはさらにオッタルを見る。
「オッタルも……君が?」
「ああ」
返ってくる答えは変わらない。
ヘルメスは完全に言葉を失った。
シンにとって、オッタルと他の幹部達の間に大きな違いはなかった。
ベル達を襲った者。
フレイヤの命令を受けて実際に危害を加えようとした者。
それだけである。
もっとも、正確に言えば全員をシン本人が直接倒したわけではない。
ベルを襲ったオッタルを制圧したのはシン本人。
他の者達を制圧したのは、本体の百分の一の力を持つ四体の分身だった。
だが、ヘルメスもフレイヤもその事実を知らない。
そして仮に知ったところで、今以上に理解できなくなるだけだった。
シンはヘルメスから視線を外すと、最後にフレイヤを見た。
「お前がフレイヤか?」
初めて、二人の視線が真正面から交わる。
フレイヤの銀色の瞳が、目の前に立つ黒髪の青年を見つめた。
「……ええ」
今までのフレイヤにとって、シンはベルの兄というだけの存在だった。
だが今は違う。
自らが誇る最高戦力を、信じられないほど短い時間で全滅させた男。
少なくとも、それだけは否定できない。
「あなたが……この子達を?」
「ああ」
「どうして、ここまでしたの?」
フレイヤの問いを受けても、シンの表情は変わらなかった。
怒鳴ることもなければ、殺気を放つこともない。
ただ静かにフレイヤを見ている。
「それは俺が聞きたい」
「……何を?」
「何故、ベル達を襲わせた?」
フレイヤが僅かに目を細める。
「ベルだけじゃない。ヴェルフ、命、春姫、リリのところにも、それぞれお前の眷属を向かわせたな」
シンは一歩だけ前へ進んだ。
「五人が別々の場所にいたにもかかわらず、ほぼ同時に襲撃された。偶然じゃない。最初から全員の位置を把握していたと考える方が自然だ」
フレイヤは否定しない。
シンも余計な言葉を重ねなかった。
「何のためにベル達を襲わせた?」
短い沈黙の後。
フレイヤは答えた。
「ベルが欲しいからよ」
シンの目が僅かに細くなる。
それでも声の調子は変わらなかった。
「ベル本人は、それを望んでいるのか?」
「いずれ分かってくれるわ」
「俺が聞いていることに答えろ」
静かな声だった。
「ベル本人は、お前のものになることを望んでいるのか?」
今度はフレイヤが答えなかった。
その沈黙だけで、シンには十分だった。
「そうか」
小さく呟く。
それから初めて、シンはフレイヤの目の前に積み上げた眷属達へ視線を向けた。
「こいつらは全員、お前の命令で動いていると言った」
フレイヤの表情が僅かに変わる。
「だから殺していない」
ヘスティアがシンを見る。
ヘルメスも息を呑んだ。
あの状態にしておきながら、シンの中では明確に『殺さずに残した』という認識なのだ。
「命令された側だけを殺して終わらせても意味がない。命令を出した者がいるなら、まずそいつに理由を聞く必要がある」
シンは再びフレイヤを見る。
「確認する。ベル達を襲うよう命令したのは、お前で間違いないんだな?」
フレイヤはしばらくシンを見つめていた。
やがて、静かに答える。
「……ええ。私よ」
「分かった」
シンは小さく頷いた。
その瞬間。
フレイヤは初めて、シン・クラネルという男の意識が完全に自分だけへ向けられたことを理解した。
美の女神だから見ているのではない。
オラリオ最強派閥の主神だからでもない。
フレイヤという神そのものに興味を持ったわけでもない。
ベル達を襲わせた命令者。
シンにとって今のフレイヤは、それだけの存在だった。
そしてヘルメスも、ようやく理解し始めていた。
先ほどヘスティアが告げた、
『それをシン君の前でも言えるといいね』
という言葉。
あれは決して強がりでも脅しでもなかった。
ヘスティアだけは最初から知っていたのだ。
フレイヤ・ファミリアがどれほど強大であろうと、シン・クラネルを相手にした時点で、オラリオの常識に基づく戦力差など何の意味も持たなくなるということを。