白兎の兄が規格外なのは間違っているだろうか 作:ディーノpc35
「……ええ。私よ」
ベル達を襲わせたのは自分だと、フレイヤははっきり認めた。
その答えを聞いたシンは、しばらく何も言わなかった。
怒鳴ることもなければ、声を荒らげることもない。ただ目の前のフレイヤを静かに見つめ、その言葉が嘘ではないことを確認する。
「分かった」
短く答えた直後。
シンの中で、フレイヤに対する認識が完全に変わった。
ベルを狙っている神ではない。
話し合う余地のある相手でもない。
ベル本人の意思を無視し、眷属を動かして力ずくで奪おうとしたうえ、その仲間達まで襲わせた張本人。
ならば、残しておく理由はない。
その判断と同時に、シンが完全に抑え込んでいた殺意が僅かに外へ漏れ出した。
その余波だけで遠く離れたオラリオでは、Lv.3以下の強さしか持たない者達が次々と意識を失い、それ以上の実力者達も、どこかにいる強大な存在が本気で誰かを殺そうとしていることを感じ取っていた。
だが、シン自身はオラリオで起きていることを気にも留めていなかった。
意識の全てがフレイヤへ向いている。
「シン君……?」
ヘスティアが不安そうに名前を呼ぶ。
シンは答えず、一歩だけフレイヤへ近づいた。
その動きだけで、フレイヤの身体が無意識に強張った。
自分が何を恐れているのか、フレイヤ自身にも理解できていない。
目の前にいるのは、九年前に行方不明となっていたベルの双子の兄。
少なくとも今日までは、それ以上の認識を持っていなかった。
だが今は違う。
オッタルを含む自らの最高戦力を、信じられないほど短い時間で全滅させた。
そして今。
ただ殺意を向けられているだけで、神である自分の本能が逃げろと叫んでいる。
「ベルが欲しいと言ったな」
シンが静かに尋ねる。
「……ええ」
フレイヤは辛うじて答えた。
「ベルは、お前を選んだのか?」
返事はなかった。
「フレイヤ・ファミリアへ入りたいと、ベル自身がお前に言ったのか?」
フレイヤは答えない。
シンはさらに確認する。
「ベルが拒絶しているにもかかわらず、お前は眷属を使って力ずくで奪おうとした。そのためにヴェルフ、命、春姫、リリまで襲わせた。そういうことだな?」
沈黙。
シンには十分だった。
「なら、もう話すことはない」
その言葉を聞いた瞬間、ヘスティアの顔色が変わった。
「待って、シン君!」
しかし、シンは既に右手を僅かに上げていた。
詠唱はない。
魔力が集まる気配もない。
それなのに、フレイヤの周囲にある空間が音もなく歪み始める。
単なる転移ではない。
空間そのものを利用し、フレイヤという存在をこの世界から切り離そうとしている。
しかもシンが狙っているのは、下界に存在する肉体だけではなかった。
神としての根本。
魂。
神性。
存在を成立させている全て。
天界への送還など許さず、フレイヤという存在そのものを完全に消し去るつもりだった。
フレイヤも神であるからこそ、自分へ何が起ころうとしているのかを本能的に察した。
「……あなた……」
銀色の瞳が大きく見開かれる。
「私を……消すつもりなの?」
「そうだ」
シンは何の感情も込めずに答えた。
「ベルを奪うために、本人の意思も仲間の安全も無視する。なら、お前が存在している限り同じことを繰り返す可能性がある」
フレイヤの周囲の空間がさらに歪む。
「だったら原因そのものを消す」
「シン君!」
ヘスティアがシンの腕へしがみついた。
「止めて!」
そこで初めて、シンの動きが僅かに止まった。
ヘスティアを見る。
「何故止める?」
「何故って……本当に消すつもりなのかい!?」
「ああ」
一切迷わない。
「こいつ自身が、自分の命令だと認めた」
「それは分かってるよ!」
ヘスティアもフレイヤの行動を許すつもりはない。
ベルを力ずくで奪おうとした。
リリ達まで襲わせた。
怒っていないはずがなかった。
それでも、目の前で神そのものを完全に消滅させようとするシンを、そのまま見過ごすこともできない。
「一度落ち着いて話そう!」
「話すことはもうない」
「あるよ!」
「何がある?」
シンは本当に疑問に思っているようだった。
ヘスティアが即座に答えられずにいると、今度はヘルメスが割って入った。
「シン君、少し待ってくれ!」
シンの視線がヘルメスへ向く。
「何だ?」
それだけでヘルメスの身体が強張る。
自分へ殺意を向けられたわけではない。
それでも、目の前にいる存在がオッタル達を瞬く間に壊滅させ、さらに神そのものを消そうとしている事実を知ってしまった以上、平静ではいられなかった。
それでもヘルメスは言葉を続ける。
「フレイヤがやったことを擁護するつもりはない。ベル君達を力ずくで襲わせた以上、相応の責任は取らせるべきだ」
「なら邪魔をするな」
「でも、フレイヤを完全に消した場合、その影響は彼女一人では終わらない」
シンの目が僅かに細くなる。
「フレイヤ・ファミリアか?」
「ああ」
ヘルメスはフレイヤの前に横たわっているオッタル達へ視線を向けた。
「彼らがフレイヤへ向けている忠誠心は普通じゃない。フレイヤが天界へ帰るだけでもどうなるか分からないのに、完全に消滅したと知れば、後を追おうとする者が大量に出る可能性がある」
「自殺するということか」
「そうだ」
「なら、それはそいつらの選択だろう」
あまりにもあっさり返され、ヘルメスは一瞬言葉を失う。
だが、すぐに首を横へ振った。
「それだけなら、僕もここまで止めない」
「なら何だ?」
「黒竜だ」
その名前が出た瞬間。
ヘスティアの表情が僅かに変わった。
一方でシンは、何の反応も示さなかった。
ヘルメスはそれに気づかず続ける。
「今のオラリオには、いずれ黒竜を討伐しなければならないという使命が残っている」
かつてゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアを壊滅させた隻眼の黒竜。
オラリオどころか、世界全体にとって最大級の脅威。
現代の冒険者達に残された三大冒険者依頼、その最後にして最大の目標。
少なくとも。
ヘルメスはそう認識している。
「今のオラリオで黒竜へ挑むなら、ロキ・ファミリアとフレイヤ・ファミリアの戦力は絶対に必要だ」
ヘルメスは真剣な表情でシンを見る。
「ここでフレイヤが消え、その結果フレイヤ・ファミリアまで壊滅すれば、黒竜討伐の可能性はさらに下がる」
「だから?」
「フレイヤを消す代わりに、別の方法で決着をつけてほしい」
ヘルメスはそこで一度言葉を切った。
「戦争遊戯だ」
ヘスティアが目を見開く。
「戦争遊戯?」
「ヘスティア・ファミリアとフレイヤ・ファミリアで正式に戦争遊戯を行う。今回先に実力行使へ出たのはフレイヤだ。なら神会でも、ヘスティア側に有利な条件を認めさせられるはずだ」
ヘルメスはさらに続ける。
「勝った側が、負けた側へ要求を通せる。フレイヤがベル君へ二度と強制的に手を出せないようにすることもできるし、フレイヤ・ファミリア全体へ制約を課すこともできる」
シンは黙ってヘルメスの話を聞いていた。
そして。
「断る」
即答だった。
ヘルメスの表情が固まる。
「……え?」
「その提案を受ける理由がない」
「待ってくれ。黒竜が――」
「黒竜なら、もういない」
今度はヘルメスだけではなく。
フレイヤまで動きを止めた。
「…………何?」
ヘルメスが聞き返す。
シンは何でもないことのように答える。
「この世界へ戻ってきた時、最初に落ちた場所に黒竜がいた」
ヘスティアだけは事情をある程度聞いていたため驚かなかった。
だが、ヘルメスとフレイヤは違う。
「待ってくれ」
ヘルメスが困惑した表情でシンを見る。
「君は……黒竜に会ったのか?」
「ああ」
「それで……どうした?」
「邪魔だったから消した」
沈黙が落ちた。
ヘルメスは瞬きを繰り返す。
フレイヤもシンを凝視していた。
「……消した?」
「ああ」
「倒したという意味かい?」
「そう言ってもいい」
「隻眼の黒竜を?」
「ああ」
「君が?」
「ああ」
ヘルメスの頭が情報処理を拒絶し始める。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
額を押さえる。
「黒竜だよ? ゼウスとヘラの両ファミリアを壊滅させた、あの黒竜だ」
「そうらしいな」
「そうらしいって……!」
「俺が知ったのは後からだ。遭遇した時は名前も知らなかった」
「…………」
ヘルメスは言葉を失った。
シンは淡々と続ける。
「だから、フレイヤ・ファミリアを黒竜討伐の戦力として残すという理由には意味がない」
ヘルメスが提案の根拠としていたものが、完全に崩れた。
黒竜が既に存在しないのであれば。
フレイヤ・ファミリアを失うことで討伐戦力が不足するという問題自体が存在しない。
「なら、この話は終わりだ」
シンが再びフレイヤへ向き直る。
フレイヤの顔色が変わった。
先ほど弱まっていた空間の歪みが、再び強まり始める。
「待って!」
ヘスティアが再びシンを止める。
「今度は何だ?」
「シン君」
ヘスティアはシンの正面へ回り込んだ。
「君が怒ってる一番の理由は何だい?」
「ベルの意思を無視したことだ」
即答だった。
「フレイヤがベル君本人の気持ちを無視して、自分の欲望だけでベル君を奪おうとしたからだよね?」
「ああ」
「リリ達まで襲わせたことも?」
「当然だ」
ヘスティアは頷く。
そして。
「じゃあ、ベル君達に何も聞かずに君が全部終わらせるのは?」
シンの動きが止まった。
「…………」
ヘルメスがヘスティアを見る。
フレイヤも黙っている。
ヘスティアは続けた。
「フレイヤはベル君の意思を無視した」
シンは答えない。
「だから君は怒った」
「ああ」
「だったら」
ヘスティアは真っ直ぐシンを見る。
「君までベル君の意思を無視しちゃ駄目だよ」
その言葉だけは。
シンもすぐには否定できなかった。
「ベル君は、この件の中心にいる」
ヘスティアは続ける。
「リリも、ヴェルフも、命も、春姫も実際に襲われた。みんな当事者だ」
シンの殺意が僅かに弱まる。
「なのに、本人達に何も聞かずに君一人でフレイヤを消して全部終わらせたら」
ヘスティアは少し声を落とす。
「それは形が違うだけで、君もベル君達の意思を無視してることになるんじゃないのかい?」
シンは黙った。
先ほどまでなら。
フレイヤを消せば問題は終わる。
それが最も確実だと考えていた。
実際、安全だけを考えれば間違ってはいない。
フレイヤという原因そのものが消えれば、少なくとも彼女がベルへ手を出すことは二度とない。
だが。
ベルがそれを望んでいるかは聞いていない。
リリ達がどうしたいかも聞いていない。
フレイヤの行動が許せないからこそ。
ベル本人の意思を無視したことに怒った。
その自分が。
ベルの意思を確認することなく、全てを決めていいのか。
「…………」
シンの右手が、ゆっくり下がった。
フレイヤの周囲で歪んでいた空間も止まる。
ヘルメスが小さく息を吐いた。
ヘスティアもようやく肩の力を抜く。
「……確かにそうだな」
シンが静かに認めた。
ヘスティアが僅かに笑う。
「だろう?」
「ああ」
シンはフレイヤを見る。
殺意は完全には消えていない。
だが。
今すぐ消滅させようとする意思だけは、一度引っ込めた。
「ベル達に聞く」
「うん」
「その上で、ベル達が戦争遊戯で決着をつけると言うなら受ける」
ヘルメスが反応する。
「つまり、戦争遊戯の提案そのものは?」
シンはヘルメスを見る。
「ベル達が望むなら反対しない」
「……十分だ」
ヘルメスは心底安堵したように息を吐いた。
だが。
シンは続ける。
「ただし」
ヘルメスの身体が再び固くなる。
「戦争遊戯をすることになっても、俺がフレイヤを許したわけじゃない」
フレイヤへ視線を戻す。
「ベル達が戦争遊戯を選ぶなら、その判断を尊重する。それだけだ」
「…………」
フレイヤは何も答えなかった。
自分へ向けられていた殺意が消えたわけではない。
ただ。
ベル達の意思を確認するために、処分が一時的に止まった。
それだけだと理解していた。
シンは次に、フレイヤの前へ倒れているオッタル達を見る。
「こいつらも戻しておく」
ヘルメスが目を見開く。
「戻す?」
「このままではベル達が戦争遊戯を選んでも参加できないだろう」
シンが軽く手を向ける。
すると。
切断されていた手足が再生を始めた。
失われた眼球も元の状態へ戻り、潰されていた喉も修復されていく。
傷口を治療しているというよりも。
肉体そのものが本来の形へ再構築されていた。
ヘルメスとフレイヤは、言葉もなくその光景を見つめる。
僅かな時間の後。
オッタルを含むフレイヤ・ファミリアの幹部達は、全員が元通りの肉体を取り戻していた。
ただし、まだ意識は戻らない。
「しばらくすれば起きる」
シンはそれだけ告げる。
ヘルメスは倒れているオッタル達を見た後、改めてシンを見た。
一つだけ。
どうしても頭から離れないことがある。
黒竜。
世界最大の脅威。
ゼウスとヘラを壊滅させた怪物。
その存在を。
目の前の青年は。
この世界へ帰還した直後。
名前すら知らないまま。
ただ『邪魔だった』という理由で消滅させたと言った。
ヘルメスはようやく。
自分がこれまでシン・クラネルについて何も知らなかったのだと、嫌というほど理解し始めていた。
そしてシンは。
そんなヘルメスの内心など気にすることなく、ヘスティアへ言った。
「ベル達のところへ戻るぞ」
「ああ」
「本人達に決めさせる」
それこそが。
フレイヤが最初からしなかったことだった。
自分の欲望ではなく。
ベル達自身の意思を確認する。
その結果として戦争遊戯を望むのであれば。
シンはそれを尊重する。
こうして。
その場でフレイヤという神が完全に消滅する事態は、寸前のところで回避された。
そして。
ヘスティア・ファミリアとフレイヤ・ファミリアの争いは。
今度こそ当事者であるベル達自身の意思によって。
戦争遊戯という形へ向かい始めることになった。