白兎の兄が規格外なのは間違っているだろうか 作:ディーノpc35
異空間から戻ったベル達には、その日の訓練を一切させなかった。
外では五日しか経っていないとはいえ、本人達にとっては五年間に及ぶ修行を終えた直後である。
身体そのものに大きな損傷はない。
異空間を出る前に、シンが全員の肉体を完全な状態へ戻している。
疲労も、筋肉や骨の損傷も、魔力枯渇による負担も残っていない。
それでも。
精神的な疲労だけは別だった。
五年間。
何度も死に。
何度も身体を壊し。
何度も限界まで追い込まれ。
そのたびに元通りにされて、また修行を続けた。
肉体を治すことはできても、その経験まで消すつもりはシンになかった。
だからこそ。
「今日は何もしなくていい」
異空間から戻って少ししたところで、シンはベル達へそう告げた。
ベルが少し驚く。
「本当に?」
「ああ」
「訓練は?」
「しない」
ヴェルフが疑うような目を向けた。
「……何か裏があるんじゃねえだろうな」
「ない」
「明日まとめて倍とか?」
「やらない」
「本当に?」
「しつこい」
その返答を聞いた瞬間、ヴェルフは心底安心したように椅子へ沈み込んだ。
「よかった……」
リリも同じように机へ突っ伏す。
「リリは今日は絶対に動きません……」
「賛成でござる」
命も珍しく即座に同意した。
春姫に至っては、既にソファへ座ったまま眠りかけている。
ヘスティアがそんな五人を見ながら苦笑した。
「身体は元気なのに、みんなすごい疲れ方だね」
「精神的な疲労は残してあるからな」
シンが答える。
ヘスティアが振り向く。
「そこも消せないの?」
「できる」
「できるんだ!?」
「ただ、消す意味がない」
シンはベル達を見る。
「経験したことまで都合よく消せば、修行の意味が薄れる」
五人の表情が微妙になった。
正論なのだろう。
少なくともシンの中では。
だが今は反論する気力もなかった。
「今日は食って寝ろ」
シンが続ける。
「明日も激しい訓練はしない。身体を外の時間感覚へ慣らしながら、戦争遊戯に向けた確認だけする」
ベルが頷いた。
「分かった」
「食料が減っているな」
シンは台所の方を見る。
五年間異空間にいたベル達が戻ったことで、しばらく食事量も増える。
特に今は、身体こそ完全に回復していても食欲そのものはかなり強い。
「買ってくる」
「あ、兄さん」
ベルが立ち上がろうとする。
「僕も――」
「休め」
「でも」
「五年ぶりに外へ戻った直後だろう」
その一言でベルは止まった。
確かに。
シンにとっては五日前でも。
ベル自身にとっては。
この本拠地で普通に過ごしたのは五年前の感覚だ。
「……分かった」
「必要な物があれば言え」
その後。
リリから食材。
春姫から茶葉。
ヴェルフから飲み物。
ヘスティアから菓子まで追加され。
シンは一人で本拠地を出た。
◇
戦争遊戯まで、残り二日。
街へ出ると。
オラリオは既に、その話題で持ち切りだった。
「フレイヤ・ファミリアが有利に決まってる!」
「いや、ヘスティア側にはベル・クラネルがいるぞ!」
「一人でどうにかなる差じゃないだろ!」
「それに、例の兄も参加条件付きで出るらしいぞ?」
「でも最初から戦えないんだろ?」
「なら結局フレイヤ側だろ!」
酒場。
市場。
大通り。
どこへ行っても、似たような話が聞こえてくる。
シンは特に気にせず食材を選んでいたが。
しばらく歩いているうちに。
妙な人だかりへ気づいた。
冒険者。
商人。
一般市民。
様々な者達が集まり。
紙を見ながら金を出している。
シンは立ち止まった。
「……何をしている?」
近くにいた商人へ尋ねる。
商人が不思議そうに振り向いた。
「知らないのか?」
「ああ」
「戦争遊戯の賭けだよ」
「賭け?」
「そうそう」
商人は手元に持つ紙を見せる。
そこには。
ヘスティア・ファミリア勝利。
フレイヤ・ファミリア勝利。
さらに。
勝利条件。
戦闘不能者数。
大将撃破までの時間。
様々な項目が並んでいた。
「戦争遊戯じゃ毎回盛り上がるんだ」
商人は楽しそうに言う。
「今回なんて特にフレイヤ・ファミリアが出るからな。金が動くぞ」
「どちらが人気なんだ?」
「そりゃフレイヤだ」
即答だった。
「ヘスティア・ファミリアも最近かなり有名だけど、相手が悪い」
別の男も話へ入ってくる。
「オッタルだぞ? それにアレン、ヘディン、ヘグニ、ガリバー兄弟までいる」
「人数差も酷いしな」
「普通に考えればフレイヤの圧勝だ」
シンは黙って聞く。
「ヘスティア側へ賭ける奴はいないのか?」
「いるにはいる」
商人は紙の別の部分を指差す。
「ベル・クラネル人気でな。夢を見たい奴とか、倍率狙いの奴はそっちへ入れてる」
「完全勝利は?」
「完全勝利?」
「ヘスティア・ファミリア側が一人も戦闘不能にならず、大将も残したまま勝つ場合だ」
商人が笑った。
「そんな項目もあるぞ」
紙を指す。
「ただし、ほぼ誰も賭けてない」
「何故?」
「何故って……」
商人が逆に困惑した。
「相手はフレイヤ・ファミリアだぞ?」
それ以上の説明が必要なのか。
そんな顔だった。
シンは紙を見る。
倍率は。
異常に高かった。
フレイヤ・ファミリアの勝利が本命。
ヘスティア・ファミリアの単純勝利ですら高倍率。
その中でも。
ヘスティア・ファミリア完全勝利。
一人の戦闘不能者も出さず。
相手大将を戦闘不能にする。
その項目だけは。
ほとんど捨て札のような扱いになっていた。
「……なるほど」
シンが小さく呟く。
「面白いな」
商人が笑う。
「兄ちゃんも賭けるのか?」
「ああ」
「フレイヤか?」
「いや」
シンは紙から目を上げる。
「ヘスティア・ファミリアの完全勝利だ」
商人の笑顔が止まった。
「……は?」
「そこに賭ける」
「待て待て」
男が慌てる。
「悪いこと言わねえからやめとけ。いくら倍率が高くても、それはさすがに――」
「今は賭けない」
「え?」
「金を取ってくる」
シンはそれだけ言い。
買い物を終えると。
本拠地へ戻った。
◇
「ヘスティア」
本拠地へ戻ったシンは。
買ってきた食材を置いた後。
居間にいたヘスティアへ声をかけた。
「何だい?」
「全財産はいくらある?」
一瞬。
居間が静かになった。
ヘスティアが眉を寄せる。
「……何で?」
「賭ける」
「何に!?」
ベル達まで振り向いた。
シンは平然と答える。
「戦争遊戯だ」
ヘスティアが頭を抱えた。
「何で買い物に行っただけで賭博の話になって帰ってくるの!?」
「街で知った」
「だからって!」
リリがすぐに反応する。
「待ってください、シン様」
「何だ?」
「何に賭けるつもりです?」
「ヘスティア・ファミリアの完全勝利」
リリの表情が止まる。
ベル達も。
一瞬。
何を言われたのか分からなかった。
「完全勝利って……」
ベルが尋ねる。
「僕達が誰も戦闘不能にならずに勝つってこと?」
「ああ」
「それに全財産を?」
「そうだ」
ヘスティアが立ち上がった。
「ちょっと待って!」
「何だ?」
「ボクの全財産だよね!?」
「ああ」
「勝手に決めないでくれる!?」
「だから提案している」
「提案の規模がおかしいよ!」
シンはヘスティアを見る。
「嫌ならやめればいい」
「え?」
「お前の金だ。決めるのはお前だろ」
ヘスティアが少し黙る。
以前なら。
シンがそのまま勝手に賭けてもおかしくない。
だが。
ベル達の意思を無視しないと決めてから。
こういうところでも一応確認するようになっている。
「……で」
ヘスティアが慎重に聞く。
「何で完全勝利なの?」
シンはベル達を見る。
「負けると思うのか?」
「いや」
ヘスティアも五人を見る。
五年間の修行。
実際の強さがどこまで変わったのかは。
ヘスティアには正確には分からない。
しかし。
ベル達本人は違った。
誰も。
否定しない。
ヴェルフが苦笑する。
「まあ……負ける気はねえです」
命も頷く。
「私も同感です」
リリも少し考えてから。
「少なくとも、修行前とは全く違います」
春姫も静かに頷いた。
ベルは最後に。
「僕も勝つつもりです」
シンがヘスティアへ視線を戻す。
「そういうことだ」
「でも完全勝利だよ?」
「問題ない」
「何でそんな自信あるのさ」
「俺が五年間相手をした」
それだけだった。
ヘスティアが黙る。
ベル達も。
何とも言えない顔になる。
実際。
五年間。
何度も。
何度も。
何度も。
シンを相手に戦った。
一度も勝てなかったどころか。
途中からは。
どれだけ長く生き残れるか。
どれだけ攻撃へ反応できるか。
そういう基準になっていた。
フレイヤ・ファミリアの幹部達が弱いとは思わない。
だが。
シンと比較してしまう。
「……確かに」
ヴェルフが呟く。
「オッタル達が速く見える気がしねえな」
命も頷く。
「シン殿と五年戦った後では、そう感じるでござるな」
ヘスティアが嫌そうな顔をする。
「君達、完全に感覚おかしくなってない?」
「シン様のせいです」
リリが即答した。
シンは気にしない。
「それで?」
ヘスティアを見る。
「賭けるか?」
ヘスティアは腕を組む。
悩む。
かなり悩んだ。
そして。
「……倍率は?」
「かなり高い」
「どのくらい?」
シンが教える。
ヘスティアの目が変わった。
「…………」
ベルが嫌な予感を覚える。
「神様?」
「シン君」
「何だ?」
「もう一回聞くよ」
ヘスティアの目が。
完全に金勘定を始めた神の目になっていた。
「本当に勝つ?」
「ああ」
「完全勝利?」
「ああ」
「絶対?」
「戦場でフレイヤが直接権能でも使わない限り、問題ない」
「…………」
ヘスティアは立ち上がった。
「リリ君!」
「はい?」
「ファミリアの資産確認!」
「えっ」
「使える分全部!」
「ヘスティア様!?」
こうして。
ヘスティア・ファミリアは。
自分達の完全勝利へ。
使える資産を大きく賭けることになった。
◇
それで終わらなかった。
「他にも教えておいた方がいいな」
シンが言った。
「何を?」
ベルが尋ねる。
「賭けのことだ」
「誰に?」
「関係が深い奴ら」
そして。
最初に訪れたのは。
ヘファイストスだった。
「……何?」
シンから話を聞いたヘファイストスは。
最初。
完全に呆れた顔をした。
「あなた、わざわざ戦争遊戯の賭けを勧めに来たの?」
「ああ」
「しかもヘスティア・ファミリア完全勝利?」
「ああ」
「……どこまで自信あるのよ」
「負ける要素が見当たらない」
ヘファイストスはシンをじっと見る。
五年前。
正確には外の時間で五日前。
ベル達は確かに今より未熟だった。
そして今。
五年間シンに鍛えられて帰ってきた。
ヘファイストスには彼らの魔力操作を正確に感知することはできない。
それでも。
動き。
姿勢。
武器の扱い。
目に見える部分だけでも。
以前とは全く違うことは分かる。
そして。
何より。
目の前の男が。
これほど断言している。
「……倍率は?」
シンが答える。
ヘファイストスが黙る。
「…………」
そして。
「椿」
「はい?」
「使える金を確認して」
椿が目を丸くする。
「賭けるんですか?」
「少しね」
「少し?」
「……かなり」
シンは何も言わなかった。
◇
次はゴブニュだった。
話を聞いたゴブニュは。
しばらくシンを見る。
「お主がそこまで言うか」
「ああ」
「完全勝利じゃぞ?」
「ああ」
「フレイヤ・ファミリア相手に?」
「ああ」
ゴブニュは腕を組み。
少し考えて。
笑った。
「面白い」
「賭けるか?」
「乗ろう」
即答だった。
「わしは鍛冶師じゃ。己の目で見たものを信じる」
五年間の修行を終えたベル達。
その技術の全容は理解できない。
しかし。
あれだけの変化を。
実際に見ている。
「それに」
ゴブニュは笑う。
「もし外れたとしても、久しぶりに面白い賭けじゃ」
◇
アイズにも話した。
「賭け?」
「戦争遊戯のだ」
「ベル達に?」
「ああ。完全勝利」
アイズは少し考えた。
金銭的な賭けに。
それほど強い興味はない。
だが。
「ベル達は勝つの?」
「勝つ」
「誰も倒れない?」
「そのつもりで鍛えた」
アイズはしばらく黙る。
そして。
「分かった」
「賭けるのか?」
「うん」
「いくら?」
アイズは少し考える。
「使っていい分」
シンは頷く。
その後。
アイズは黄昏の館へ戻った際。
何故突然戦争遊戯へ賭ける気になったのかを聞かれ。
結果的に。
ロキまでその話を知ることになる。
◇
さらに。
ミアハ。
タケミカヅチ。
その他。
ヘスティア・ファミリアと普段から関わりの深い者達にも。
シンは同じ話をした。
「ヘスティア・ファミリアの完全勝利へ賭けるなら、今のうちだ」
当然。
最初は誰もが驚いた。
相手はフレイヤ・ファミリア。
オラリオ最大派閥。
常識だけで考えれば。
完全勝利など。
まず有り得ない。
しかし。
シンの言葉。
そして。
五年間の修行を終えたベル達を知る者は。
次第に考えを変えた。
特に。
シンが何かを断言する時。
それが単なる希望的観測ではないことを知っている者達ほど。
真剣に賭けを検討した。
こうして。
戦争遊戯まで残り二日となったオラリオで。
人知れず。
一つの異様な動きが始まった。
大多数の市民。
冒険者。
商人。
神々。
彼らは。
フレイヤ・ファミリアの勝利を本命としている。
一方。
ヘスティア。
ヘファイストス。
ゴブニュ。
アイズ。
ミアハ。
タケミカヅチ。
そして。
ヘスティア・ファミリアと深い繋がりを持つ者達。
彼らの一部は。
常識では有り得ないとされる。
ヘスティア・ファミリアの完全勝利へ。
次々と金を入れ始めていた。
その理由は。
ただ一つ。
五年間。
ベル達を直接鍛え続けたシン・クラネルが。
何の迷いもなく。
「完全勝利する」
そう断言していたからだった。