白兎の兄が規格外なのは間違っているだろうか 作:ディーノpc35
戦争遊戯当日。
オラリオから離れた広大な戦場には、夜明け前から異様な熱気が漂っていた。
今回の戦争遊戯は、大将を旗に見立てたフラッグ戦である。両陣営がそれぞれ一人の大将を選び、その大将が戦闘不能になった時点で敗北が決まる。
ヘスティア・ファミリア側の大将は、団長であるベル・クラネル。
対するフレイヤ・ファミリア側の大将は、オッタルだった。
どちらも自らのファミリアを代表する団長が大将を務める形となったが、周囲から見れば両陣営の戦力差はあまりにも大きかった。
フレイヤ・ファミリアには、大将であるオッタルに加えてアレン、ヘディン、ヘグニ、ガリバー兄弟といった第一級冒険者達が揃っている。
それに対して、ヘスティア・ファミリアはベル、リリ、ヴェルフ、命、春姫の五人を中心とする少数派閥だった。
シンも戦場に入っているが、神会で決められた条件により、ヘスティア側の戦闘員が全員戦闘不能になるか、戦争遊戯の途中で神の権能が使用されない限り、戦闘へ直接介入することはできない。
そのため、大多数の観客はフレイヤ・ファミリアの圧倒的優位を疑っていなかった。
五日前までのベル達が相手なら、その予想は間違っていなかっただろう。
しかし、現在のベル達は既に別物だった。
外の世界では、たった五日しか経っていない。
それでも本人達にとっては、シンが作り出した異空間の中で五年間もの修行を続けてきた。
その五年間で身体の使い方そのものを徹底的に作り直し、魔力を正確に感知する技術を身につけ、自らの魔力による身体強化や武器強化、遠距離攻撃、属性変換まで修得している。
しかも、その成果は単にフレイヤ・ファミリアへ対抗できるという程度ではなかった。
今のベル、リリ、ヴェルフ、命、春姫は、それぞれが単独でこの世界の黒竜を相手にしても完勝できるほどの領域へ到達している。
かつてゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアを壊滅させた黒竜。
世界最大級の脅威として恐れられてきた怪物を一人で相手にし、そのまま正面から圧倒して倒し切ることができる。
五人とも、既にそこまで引き上げられていた。
だが、その事実を正確に把握しているのはシンだけだった。
ベル達自身でさえ、自分達がどこまで強くなったのかを完全には理解していない。
その最大の理由は、五年間の比較対象があまりにも間違っていたからである。
ベル達が異空間で最も多く戦った相手は、シン本人だった。
身体強化を覚えた後も、武器強化を習得した後も、遠距離攻撃を使えるようになった後も、五人は何度も何度もシンとの実戦を繰り返している。
しかし、成長すればするほど勝てるようになったという感覚は一度もなかった。
攻撃を仕掛けようと考えた時には、既にシンが死角へ回っている。
防御しようとした時には、攻撃そのものが終わっている。
五人で包囲しても、その包囲が完成する前に最も弱い箇所を突破される。
一人を囮にしても、囮であることを最初から見抜かれ、本命側が先に潰される。
速度を上げても、それ以上の速度で動かれた。
魔力の流れから攻撃を読もうとしても、その読みを逆手に取られて何度も倒された。
修行の後半にもなると、ベル達が目指していたのはシンに勝つことですらなくなっていた。
一秒でも長く生き残る。
一撃でも多く防ぐ。
一度でも攻撃を回避する。
わずかでもシンへ攻撃を届かせる。
そんな基準で五年間を過ごした結果、ベル達の戦闘速度に対する感覚そのものが大きく狂っていた。
そして、それを本人達が初めてはっきりと理解することになるのが、この戦争遊戯だった。
戦場の外では、神々や冒険者達が巨大な神鏡を通して戦いを見守っていた。
ヘスティアは落ち着かない様子で神鏡を見つめ、その近くにはヘファイストス、ゴブニュ、ミアハ、タケミカヅチもいる。
アイズもロキ・ファミリアの仲間達と共に観戦していた。
「さて、どうなるんやろな」
ロキが腕を組みながら呟く。
フィンは神鏡から目を離さなかった。
アイズから、ベル達がシンの異空間で本人達にとって五年間の修行を行ったことは聞いている。
しかし、何をどこまで身につけたのかまでは分からない。
特にシンがベル達へ教えた魔力操作という技術については、観戦している側には正確に感知できない。
ベル達自身とシン以外には、体内の魔力がどこへ流れ、どれほどの量が身体や武器へ使われているのかを正確に把握することができないからだ。
だからこそ、神々も冒険者達も、五年間でベル達がどこまで変わったのかを実戦で確認するしかなかった。
アイズも神鏡の中にいるベルを見つめる。
「ベル……」
五日前に異空間へ入る前と比べて、立ち方だけでも変わっていることは分かる。
しかし、その変化が戦闘でどれほどの意味を持つのかは、まだアイズにも分からなかった。
やがて、戦争遊戯の開始を告げる合図が戦場へ響き渡った。
その瞬間、フレイヤ・ファミリアの幹部達が一斉に動いた。
今回、様子を見るつもりはない。
自分達が少し前にシンへ一方的に敗北したことは忘れていない。
だが、今回はそのシンが最初から戦えない。
ならば、シンの出番が来る前にヘスティア・ファミリアを潰し、大将であるベルを戦闘不能にすればいい。
オッタルが地面を蹴った。
巨大な体躯からは想像できないほど鋭い加速によって、一瞬のうちにベルとの距離を縮めていく。
同時にアレンもヴェルフへ向けて加速した。
ヘディンとヘグニも命と春姫へ向かい、ガリバー兄弟は四人一組のままリリを包囲するように展開していく。
観客席から一斉に歓声が上がった。
「始まった!」
「オッタルが最初から行ったぞ!」
「アレンも速い!」
一般の観客には、フレイヤ・ファミリアの幹部達が一斉に消えたようにすら見えた。
第一級冒険者達であっても、誰もが最初からかなりの速度で仕掛けたことを理解する。
だが、攻撃を受ける側であるベル達の反応は、観客達の予想とは全く異なっていた。
ベルは自分へ迫るオッタルを見ながら、思わず目を瞬かせた。
「……え?」
オッタルは間違いなく走っている。
大地を強く踏み込み、身体を前へ傾け、その巨体を一気に加速させている。
だが、今のベルにはその一連の動作があまりにもゆっくりと見えた。
右脚へ力を入れる。
踏み込む。
重心を前へ移す。
次の一歩へ繋げる。
腕を引く。
拳を放つ準備へ入る。
その一つ一つが、まるで細かく区切られた動作のようにはっきりと認識できる。
魔力感知を使えば、さらに情報が増える。
オッタルの体内でどこへ魔力が集まっているのか。
次の瞬間にどの部位を強化しようとしているのか。
攻撃へ移る前段階の変化まで見える。
だが、それ以前の問題だった。
魔力の流れまで読まなくても、普通に見える。
あまりにも遅い。
「……遅い?」
ベルは思わず呟いた。
自分で口にしてから、その言葉に戸惑う。
目の前にいるのはオッタルだ。
都市最強と呼ばれるLv.7。
以前のベルであれば、本気で動くオッタルの攻撃を見切るだけでも命懸けだった。
そんな男の動きが、今は走っているというよりゆっくり近づいてきているようにしか見えない。
ベルは一瞬、自分が身体強化を使いすぎているのではないかと考えた。
しかし、今はまだ戦闘開始直後であり、魔力による強化も最低限しか行っていない。
それでもオッタルが遅く見える。
そこでベルの頭に、五年間の修行が蘇った。
シンとの実戦では、攻撃を見てから反応していたのでは間に合わなかった。
シンが動いたことを認識した瞬間には、既に何度も殺されている。
魔力を読み、気配を読み、身体の僅かな変化を読み、それでもなお先を取られ続けた。
そんな相手を五年間の基準にしてしまった。
「……兄さんを基準にしちゃ駄目だったんだ」
ベルは戦争遊戯が始まって初めて、自分達がどれほど異常な環境で鍛えられていたのかを別の意味で理解した。
同じ頃、ヴェルフも全く同じ困惑を味わっていた。
彼の前へ迫っているのは、都市最速と呼ばれるアレン・フローメルだった。
以前襲われた時、ヴェルフにはアレンの動きをまともに捉えることすらできなかった。
槍が目前へ迫って初めて攻撃されたことを理解し、シンから渡されていた首飾りの防護結界に救われた。
だからこそ、ヴェルフは戦争遊戯が始まる前からアレンをかなり警戒していた。
五年間修行したとはいえ、都市最速の動きがどこまで見えるのか。
そう考えていた。
しかし、戦闘が始まった瞬間、その心配が全く別の困惑へ変わった。
「……おいおい」
アレンが地面を蹴るところから見える。
槍の角度を変えるところも分かる。
低く身体を沈め、相手の死角へ潜り込もうとしていることも分かる。
次にどの足で踏み込み、どこへ槍を突き出すのかまで予想できる。
そして何より、アレンが目的の距離まで来るのが遅い。
「こいつ、こんなに遅かったか?」
ヴェルフは本気で戸惑った。
以前は何も見えなかった男だ。
今は攻撃が届くまでの間に、どう避けるかを考える余裕がある。
それどころか、避けた後にどの角度から反撃すればいいかまで考えられる。
槍を受け流すか。
かわして懐へ入るか。
一度距離を取って魔力斬撃を飛ばすか。
選択肢を比較する時間まである。
ヴェルフは、自分が攻撃を避けることを忘れそうになるほど拍子抜けしていた。
命と春姫も同じだった。
二人の前にはヘディンとヘグニがいる。
どちらも第一級冒険者として長い経験を持ち、剣技、魔法、判断力のどれを取ってもオラリオ最上位に入る。
以前の命や春姫では、戦うことすら難しい相手だった。
だが、今の命にはヘグニの剣がはっきりと見えていた。
肩が僅かに動く。
腰が回る。
足が踏み込まれる。
その動作に合わせて剣がどの軌道を通るのかまで、攻撃が完成する前に分かる。
さらに魔力感知を重ねれば、ヘグニの体内で魔力がどこへ流れているのかも読み取れる。
以前なら、攻撃が放たれてから対応するしかなかった。
今は攻撃が始まる前から、何をしようとしているのかが見えてしまう。
「……シン殿と比べると、あまりにも遅いです。」
命は、相手に聞こえない程度の声で思わず呟いた。
ヘグニを侮っているわけではない。
頭では、相手が第一級冒険者であり、極めて高い技量を持っていることを理解している。
それでも、五年間シンと戦い続けた感覚からすると、あまりにも余裕がある。
春姫も同じように戸惑っていた。
以前の自分なら、第一級冒険者が本気で襲ってくるというだけで身体が固まっていたかもしれない。
今はヘディンの動きを落ち着いて観察できる。
杖剣を持つ手。
視線。
足の位置。
重心。
そして魔力の流れ。
攻撃する前から、何を狙っているのかがかなり分かる。
春姫は本気で困った表情を浮かべた。
「命様……これを普通に避ければいいのでしょうか?」
「私も、それで良いと思います。」
二人とも自信がないわけではない。
むしろ逆だった。
あまりにも見えすぎるせいで、本当にこれがフレイヤ・ファミリアの最高幹部達の全力なのか疑っていた。
そして、ベル達の中でも特に大きな困惑を味わっていたのがリリだった。
彼女の前には、ガリバー兄弟の四人が展開している。
アルフリッグ、ドヴァリン、ベーリング、グレール。
四人のパルゥムは、それぞれが独立した高い戦闘能力を持ちながら、兄弟ならではの連携を最大の武器としている。
一人の攻撃が終わる前に、別の一人が死角から入る。
二人目を防げば、三人目が逃げ道を潰す。
三人目へ対応した瞬間には、四人目が決定打を狙う。
そして四人目が終わる頃には、最初の一人が次の攻撃へ戻っている。
攻撃が途切れない。
そのため、ガリバー兄弟の連撃は「止まらない連携」と評されていた。
普通の冒険者からすれば、その言葉は決して誇張ではない。
一度流れへ捕まれば、反撃する間もなく押し切られる。
しかし、今のリリには、その連携が全く別のものに見えていた。
最初にアルフリッグが踏み込む。
その少し後にドヴァリンが側面へ回る。
ベーリングがリリの退路を潰そうと移動し、グレールが最後の一撃を放つために位置を変える。
リリはその全てを見ながら、しばらく攻撃せずに観察していた。
アルフリッグの一撃へ対しては、身体を僅かに横へずらすだけでかわす。
続くドヴァリンの攻撃は、頭を少し傾けただけで通り過ぎる。
ベーリングが来れば半歩後ろへ下がり、グレールが死角を狙えば逆に一歩前へ出る。
四人がどれほど攻撃しても、一度もリリへ触れることができない。
それでもリリは反撃しなかった。
四人の連携を最後まで確認しようとしていたからだ。
一巡目が終わる。
再びアルフリッグへ戻る。
そして二巡目。
そこまで見たところで、リリの表情が本気で困惑した。
「……これが、止まらない連携なんですか?」
アルフリッグの眉が動く。
リリは相手を挑発するつもりなどなかった。
本当に分からなかっただけだ。
「四人が同時に動いているわけではありませんよね」
次の攻撃をかわしながら、リリは続ける。
「一人目が攻撃して、その攻撃が終わる頃に二人目が動いて、その後に三人目と四人目が続いているだけです」
ガリバー兄弟の表情が変わる。
リリはそんな反応にも気づかず、自分が五年間シンとの修行で経験した連携を思い返していた。
ベル、ヴェルフ、命、春姫、そして自分。
五人でシン一人を相手にした。
誰か一人が単独で攻撃しても意味がない。
だから、全員が同じ瞬間に違う場所を塞ぐ必要があった。
一人が囮として正面から仕掛けている間に、別の二人が左右を塞ぐ。
残る二人が退路と上空を封じる。
だが、それでもシンには簡単に抜けられた。
一人でも判断が遅れれば、その瞬間に全員が死ぬ。
それを何度も経験した。
次第に五人は、言葉を交わさなくても互いの動きを読み、誰かが動いた瞬間には残る四人も同時に次の行動へ移れるようになった。
それでもシンから見れば、まだ遅いと言われ続けた。
そんな修行を五年間続けたリリからすれば、目の前のガリバー兄弟の連携にはあまりにも大きな隙間があるように見える。
「シン様との修行では、一人を相手に五人がもっと同時に動いて、それでも連携が遅いと言われました」
リリは再び四人の攻撃を避ける。
「だから、もっと四人の攻撃が重なってくると思っていたんです」
アルフリッグが歯を食いしばった。
「貴様……我らの連携を愚弄するか」
「いえ、そういうつもりではありません」
リリは本当に困った顔をした。
「ただ、次に誰が動くのか全部見えてしまうので……」
四人の位置を確認する。
「これだと、連携というより順番を決めて攻撃しているように見えます」
その言葉は、神鏡を通して観戦していた者達の耳にも届いた。
一瞬、会場全体が静まり返る。
ガリバー兄弟の連撃を、ただ順番に攻撃しているだけだと評した。
しかも、それを言ったのは以前までサポーターとして知られていたリリルカ・アーデだった。
ロキが神鏡を凝視する。
「……何や、あれ」
フィンもすぐには答えられなかった。
ベートが眉をひそめる。
「アイツ、舐めて遊んでんのか?」
「違う」
アイズが静かに否定した。
ロキが振り向く。
「何が違うんや?」
アイズは神鏡の中のリリを見つめる。
さらにベル。
ヴェルフ。
命。
春姫。
誰も相手を嘲笑していない。
余裕を見せつけようとしているわけでもない。
五人全員が、本気で困ったような表情をしている。
「みんな、本当に困ってる」
「困っとる?」
「うん」
アイズは五人の表情を見比べながら言った。
「フレイヤ・ファミリアの人達が、思っていたより遅すぎるんだと思う」
ロキ達が言葉を失った。
戦場では、ベルがオッタルの動きを見ながら戸惑い、ヴェルフもアレンの速度へ困惑し、命と春姫もヘディンやヘグニの攻撃を余裕を持って観察している。
そしてリリは、オラリオでも屈指の連携とされていたガリバー兄弟の攻撃を、一度も反撃することなく全てかわしながら「連携と呼べない」と感じている。
五年間。
シン・クラネルという、あまりにも異常な存在を相手に実戦を続けた。
その環境がベル達の基準を完全に作り替えていた。
ベル達は修行中、自分達が弱いと思い続けていた。
どれほど成長しても、シンには全く届かなかったからだ。
だが、それはベル達が弱かったからではない。
比較対象がシンだったこと自体が間違っていた。
戦争遊戯が始まって、初めて普通の第一級冒険者達を相手にしたことで、五人はようやく理解し始めていた。
自分達が五年前とは比べものにならない場所へ到達していることを。
そして。
自分達一人一人が既に、この世界で最強とされてきた黒竜を単独で圧倒できるほどの力を身につけていることを。
ベル達自身がその事実を完全に理解するまで、もう少しだけ時間が必要だった。