白兎の兄が規格外なのは間違っているだろうか 作:ディーノpc35
戦争遊戯が始まって間もなく、ベル達は自分達の感覚と現実との間に生じている大きなずれに困惑していた。
オッタルも、アレンも、ヘディンも、ヘグニも、ガリバー兄弟も決して遅いわけではない。
むしろオラリオの基準で考えれば、誰もが最高峰の速度を持っている。
だが、ベル達は五年間、シンを相手に実戦を繰り返してきた。
一瞬でも判断が遅れれば、その時点で身体のどこかを斬り飛ばされる。視線だけを追えば簡単に死角へ回り込まれ、魔力の流れを読んでも、その読みそのものを利用して逆方向から攻撃される。
そんな戦闘を何年も続けたことで、ベル達の感覚にとっては第一級冒険者達の動きですら、ほとんど止まっているように見えていた。
だからこそ、別の問題が生まれていた。
「……これ、どのくらいで反撃すればいいんだろう」
ベルは自分へ迫るオッタルを見ながら、本気で悩んでいた。
勝てるかどうかではない。
どれほど力を抑えれば、相手を殺さずに済むのか。
そちらの方が問題だった。
異空間での修行中、シンを相手に攻撃する時は力を抑える必要などなかった。
ベル達がどれほど全力で攻撃しても、シンには通用しない。
そのため五年間、ベル達は基本的に「当たれば相手が死ぬかもしれない」という心配をせず、持てる力を最大限使うことを前提として戦ってきた。
だが、今の相手はシンではない。
ベルはオッタルの拳が自分へ届く直前まで観察した後、身体を僅かに横へずらした。
巨大な拳がベルの頬の横を通り過ぎる。
オッタルの目が僅かに見開かれた。
ベルは反撃のために右拳を握る。
「これくらいなら……」
魔力はほとんど込めない。
身体強化も最低限。
技術的な補正も可能な限り外し、本当に軽く押し返す程度のつもりで拳を放った。
狙ったのはオッタルの腹部。
拳が触れた。
その瞬間だった。
「――ッ!?」
鈍い衝撃音が響いた。
オッタルの巨体が大きく折れ曲がる。
そして次の瞬間、その身体が凄まじい勢いで後方へ吹き飛んだ。
「え?」
ベルが固まる。
オッタルは地面へ着地することすらできなかった。
後方に展開していたフレイヤ・ファミリアの団員達の中へ、そのまま砲弾のように突っ込んでいく。
「うわっ!?」
「団長!?」
「避け――!」
声を上げる暇もなかった。
オッタルの身体が一人目を巻き込み、さらに二人目、三人目を薙ぎ倒す。
そのまま十人近い団員を巻き込みながら地面を何度も跳ね、遥か後方でようやく止まった。
土煙が大きく舞い上がる。
観客席から歓声が消えた。
神鏡を見ていた神々も冒険者達も、何が起きたのか理解できずに黙り込んだ。
ベル自身も同じだった。
「…………」
自分の拳を見る。
そして、遠くまで吹き飛んだオッタルを見る。
「……軽く殴っただけなんだけど」
その声には、嘘も強がりもなかった。
本当に。
ベルとしては軽く殴っただけだった。
◇
ヴェルフの前では、アレンが高速で槍を突き出していた。
以前なら見えなかった攻撃。
今は、どこへ来るのかまで余裕を持って確認できる。
ヴェルフは半歩だけ身体をずらし、槍をかわした。
そのまま大刀を使おうとして、途中で止める。
「いや、刃物はまずいな」
今の自分がどれほど強くなっているのか分からない。
そんな状態で武器を使うのは危険すぎる。
ヴェルフは大刀から手を離し、代わりに拳を握った。
アレンが次の突きを繰り出す。
その動きを見ながら、ヴェルフは相手の胸元へ軽く拳を当てた。
本人としては、距離を取らせる程度のつもりだった。
「少し下がってろ」
次の瞬間。
轟音が響いた。
「がっ――!?」
アレンの身体が弾かれた。
いや。
弾かれたという表現では足りない。
身体が完全に地面から離れ、後方へ一直線に飛んでいく。
その先には、フレイヤ・ファミリアの団員達がいた。
「アレン様!?」
「何――」
アレンが団員達の中へ突っ込み、数人をまとめて吹き飛ばした。
それでも止まらない。
さらに後ろにいた団員達まで巻き込み、地面を何度も転がってからようやく停止する。
ヴェルフは拳を突き出した姿勢のまま固まった。
「…………マジかよ」
自分の拳を見る。
「今ので?」
以前なら、武器を持たずにアレンへ攻撃するなど考えもしなかった。
それが今は。
軽く殴っただけで。
都市最速と呼ばれる第一級冒険者が、後方の団員達ごと吹き飛んだ。
「シンの野郎……」
ヴェルフの顔が引きつる。
「俺達をどこまで鍛えやがったんだ……?」
◇
命の方でも同じことが起きていた。
ヘグニの剣を容易くかわしながら、命は刀へ手を伸ばしかけた。
しかし。
ベルとヴェルフの方から聞こえた轟音で動きを止める。
遠くでオッタルとアレンが吹き飛んでいくのが見えた。
「……刀は危険かもしれません」
瞬時に判断する。
今の自分が斬撃を放てば、相手を戦闘不能にするだけでは済まない可能性がある。
命は刀から手を離した。
ヘグニは、その行動を侮辱と受け取った。
「貴様……!」
剣を振り下ろす。
命はその軌道を見ながら、僅かに身体を横へ移動させた。
刃が空を切る。
そのすれ違いざま。
命は掌をヘグニの腹部へ添えた。
「申し訳ごさいません」
そして、本当に軽く押した。
それだけだった。
「な――」
ヘグニの身体が浮く。
直後。
猛烈な勢いで後方へ吹き飛んだ。
後ろにいた団員達が反応する。
だが。
間に合わない。
「ぐあっ!」
「ヘグニ様!?」
ヘグニの身体が何人もの団員を巻き込みながら飛び続ける。
一人が倒れれば、その後ろにいる者まで巻き込まれる。
まるで巨大な杭を横から打ち込まれたように、フレイヤ・ファミリアの隊列に一本の道ができた。
命はその光景を見ながら、静かに目を見開いた。
「……これでも強すぎますか」
自分としては。
本当に押しただけだった。
◇
春姫もヘディンを前にして、どう攻撃すべきか悩んでいた。
以前の春姫なら、第一級冒険者を前に攻撃するという発想自体がほとんどなかった。
だが、五年間の修行によって戦闘そのものへの恐怖は大きく減っている。
ヘディンの杖剣も見える。
踏み込みも読める。
魔力の変化から、魔法を使おうとしていることまで分かる。
だからこそ。
「えっと……」
春姫は少し困った。
「どのくらいなら大丈夫なのでしょうか……」
ヘディンの眉が動く。
「戦場で何を呆けている」
ヘディンが接近する。
春姫は一歩だけ横へ動いた。
それだけで攻撃をかわす。
そして。
命と同じように。
武器は使わなかった。
拳を握ることすらせず、掌をヘディンの胸元へ軽く当てる。
「すみません」
少し押した。
直後。
「――っ!?」
ヘディンの身体が吹き飛んだ。
春姫の狐耳が跳ね上がる。
「えっ!?」
ヘディンはそのまま後方へ飛び、味方の団員達を次々と巻き込んでいく。
数人。
さらに数人。
ようやく地面へ落ちても勢いは消えず、何度も転がった後、かなり離れた場所で止まった。
春姫は掌を見つめた。
「……押しただけなのですが」
命が隣で頷く。
「私もです」
「どうしましょう……」
「さらに弱くするしかないですな」
二人は真剣に相談を始めた。
相手を倒せるかどうかではなく。
どうすれば必要以上に傷つけずに倒せるのかを。
◇
そしてガリバー兄弟を相手にしていたリリも、ようやく反撃へ移った。
四人の連携を二巡、三巡と観察したが。
結論は変わらない。
攻撃と攻撃の間が広すぎる。
次に誰が動くのかも分かる。
リリはため息を吐く。
「いつまでも避けていても終わりませんね」
アルフリッグが怒りを露わにする。
「舐めるな!」
四人が一斉に仕掛ける。
リリには。
やはり遅かった。
最初にアルフリッグ。
リリは攻撃をかわしながら、胸元へ軽く拳を当てる。
「まず一人です」
軽く押し出す。
その瞬間。
アルフリッグの身体が消えた。
正確には。
あまりの速度で後方へ吹き飛んだ。
「兄者!?」
残る三人が反応する。
しかし。
アルフリッグは後方にいたフレイヤ・ファミリアの団員達を数人巻き込みながら吹き飛び、遠くで地面へ叩きつけられた。
リリの顔が固まる。
「…………」
一瞬だけ拳を見る。
「今のでも強いんですか?」
だが。
考える暇もなくドヴァリンが来る。
リリは身体を沈めて攻撃をかわす。
そして。
今度はさらに力を落とす。
指先で胸を押す程度。
「これなら」
ドヴァリンが吹き飛んだ。
「何でですか!?」
リリが思わず叫ぶ。
ドヴァリンも後方の団員へ激突し、複数人をまとめて薙ぎ倒す。
ベーリングとグレールの表情が変わった。
それでも止まれない。
二人が左右から同時に攻撃する。
リリは間を抜けた。
右手でベーリングの肩。
左手でグレールの胸へ触れる。
今度こそ、本当にほとんど力を入れない。
「お願いですから、これくらいで止まってください!」
二人を押した。
結果は変わらなかった。
ベーリングとグレールも左右へ吹き飛び、その先にいた味方を何人も巻き込んで地面へ倒れ込む。
一連の出来事が終わった後。
リリは戦場に立ち尽くしていた。
「……どういうことですか」
先ほどまで自分を四方向から囲んでいたガリバー兄弟が。
全員。
遠くで倒れている。
しかも。
四人だけではない。
それぞれが吹き飛ばされた先にいた団員達までまとめて倒されている。
「リリ、ほとんど力を入れてませんよ?」
当然。
答える者はいなかった。
◇
神鏡の前も。
完全な沈黙に包まれていた。
先ほどまで歓声を上げていた神々。
冒険者達。
市民。
誰一人として声を発していない。
理解できない。
ベル達がフレイヤ・ファミリアの幹部達の攻撃を容易くかわした。
そこまでは、五年間の修行の成果だと無理やり納得できた者もいた。
だが。
今のは違う。
ベルはオッタルへ軽く拳を当てただけだった。
ヴェルフも。
命も。
春姫も。
リリも。
誰一人として武器を使っていない。
魔法も使っていない。
外から見える範囲では。
大技らしい大技など何一つ放っていない。
それなのに。
フレイヤ・ファミリアが誇る第一級冒険者達が。
後方の団員を何人も巻き込みながら、簡単に吹き飛ばされた。
しかも。
倒れた幹部達のダメージは浅くない。
オッタルは腹部を押さえたまま、血を吐きすぐには立ち上がれなかった。
アレンも息を詰まらせ、立とうとして一度膝をつく。
ヘディンとヘグニも同様だった。
ガリバー兄弟に至っては、すぐに反撃へ移れる状態ではない。
軽い一撃。
見た目だけなら。
本当にそれだけだった。
ロキの口がゆっくり開く。
「……何やねん、あれ」
誰も答えられない。
フィンは神鏡を凝視していた。
「軽く見せているだけでは……ない」
「分かるんか?」
ロキが聞く。
「彼ら自身が一番驚いている」
フィンは答えた。
実際。
神鏡の中にいるベル達は。
勝ち誇っていない。
笑ってもいない。
むしろ。
全員が自分の手を見たり。
吹き飛んだ相手を見たりしている。
本気で困惑している。
アイズが小さく呟いた。
「力加減が分からないんだ……」
「は?」
ベートが振り向く。
アイズはベルを見る。
「シンと戦う時は、ずっと全力だったから」
五年間。
いくら強くなっても。
シンには届かなかった。
本気で攻撃しても。
全力で魔力を込めても。
シンが傷つくことはない。
だから。
五人は。
全力の出し方を徹底的に学んだ。
だが。
自分より遥かに弱い相手へ。
どれほど力を落とせばいいのか。
その訓練はほとんどしていない。
「だから今」
アイズは続ける。
「軽くしたつもりでも……まだ強すぎる」
ロキが神鏡を見る。
「……フレイヤんとこの幹部相手に、力加減の練習しとるんか?」
誰も否定できなかった。
その横では。
ヘファイストスとゴブニュが。
揃ってシンを見るような顔をしていた。
当のシンは戦場の端でベル達の戦いを静かに見ていて何も驚いていない。
当然だろう、ベル達がどこまで強くなったのか唯一、正確に知っているのはシンだけなのだから。
そして、戦争遊戯が始まってからまだ大した時間は経っていない、にもかかわらず、フレイヤ・ファミリアの前線には既に大きな穴が空き始めていた。
ベル達の問題は、どう勝つかではない。
どうすれば相手を殺さず、必要以上の重傷も負わせず、戦闘不能にできるか戦争遊戯は開始直後からそんな段階へ変わり始めていた。