白兎の兄が規格外なのは間違っているだろうか 作:ディーノpc35
ヘスティアとの話を終えたシンは、彼女と共に病室へ戻った。
扉が開くと、真っ先にベルがこちらを見る。
「兄さん、神様!」
二人が揃って戻ってきたことに安心したのか、ベルの表情が少し緩んだ。
「大丈夫だった?」
「何がだ?」
「何がって……」
ベルが困ったようにヘスティアを見る。
ヘスティアは小さく笑った。
「大丈夫だよ、ベル君。ちょっと話をしただけさ」
「本当に?」
「本当だ」
シンも答える。
「だから余計な心配をするな」
「兄さんの言い方が余計に心配になるんだけど……」
「面倒な弟だな」
「心配させてるのは兄さんだよ!」
病室に小さな笑いが広がった。
シンはそのままベルのベッドへ近づき、改めて弟の身体へ視線を向けた。
再会した時から状態そのものは確認している。
今すぐ命を落とすような危険はない。
しかし、それはあくまで生命が安定しているというだけで、身体が治っているという意味ではなかった。
全身には未だに多くの損傷が残っている。
骨折していた箇所は治療によって固定されているものの完全には癒えておらず、筋肉や腱にもかなりの損傷がある。内臓への負担も大きく、深層で長時間にわたって限界を超えた行動を続けた影響が全身に残っていた。
治癒魔法によってかなり回復しているのは間違いない。
それでも、本来の状態へ戻るまでにはまだ時間が必要だった。
シンの眉間に僅かに皺が寄る。
「やっぱり酷いな」
ベルが苦笑する。
「治療してもらって、かなり良くなったんだよ」
「これでか?」
「最初はもっと酷かったから……」
その言葉を聞いたシンの表情がさらに険しくなった。
ベルが慌てる。
「兄さん?」
「動くな」
「え?」
シンは右手を伸ばし、掌をベルの胸元へ向けた。
直接身体へ触れているわけではない。
それでも、その瞬間に病室の空気が僅かに変わった。
ヘスティアとエイナが揃ってシンを見る。
アリアだけは、シンが何をしようとしているのか察したように黙っていた。
「兄さん、何をするの?」
「治す」
ベルが目を瞬く。
「治す?」
「ああ」
「でも、もう治療してもらってるよ?」
「まだ途中だろ」
シンは当然のように言う。
「放っておいてもいずれ治るだろうが、今すぐ元に戻せるなら待つ必要はない」
「そんな簡単に言われても……」
ベルが言い終えるより早く、シンの力が動いた。
淡い光がベルの身体を包み込む。
だが、それはこの世界で一般的に使われる治癒魔法とは明らかに異なっていた。
ただ傷へ魔力を流し込んで治癒を促しているのではない。
シンはベルの身体の状態を、表面だけでなく内部まで正確に読み取っていた。
骨格の歪みや筋肉の断裂、血管や神経への損傷、内臓の状態から魔力の流れに至るまで、一つずつ確認していく。
どの箇所が傷ついているのかを把握し、その上で本来あるべき状態へ戻していく。
「……っ」
ベルが小さく息を呑んだ。
全身に残っていた痛みが急速に消えていく。
骨折していた箇所が完全に繋がり、裂けていた筋肉も元の状態へ戻っていく。内臓に残っていた損傷も修復され、深層で限界まで酷使したことで生じた負担まで取り除かれていった。
さらに、失った血液や体力まで補われていく。
「これは……」
エイナが呆然と呟いた。
治癒魔法を扱える者はオラリオにもいる。
高位の治療師であれば、重傷者を短時間で回復させることも不可能ではない。
しかし、今目の前で起きているものは、それとは明らかに違う。
「魔法……なんですか?」
リリも驚きを隠せない。
「一部はな」
シンが答える。
「生命に干渉する技術と、時空間魔法を組み合わせている」
「時空間……」
また聞き慣れない言葉が出てきたことで、ベル達の表情が揃って複雑になる。
だが、ベルの状態が明らかに良くなっていることだけは誰の目にも分かった。
シンはさらに細かく身体を確認する。
治すとはいっても、ベルの身体を必要以上に強化するつもりはない。
あくまで、本来のベル・クラネルの身体へ戻すだけだ。
深層で負った損傷を消し、失われた血液を補い、身体機能を正常な状態へ整える。
一方で、戦いの中で身体が覚えた感覚や、極限状態を乗り越えたことで得た経験まで消すことはしない。
それはベル自身が積み上げたものだからだ。
やがて、全身の状態が完全に安定したことを確認すると、シンは手を下ろした。
「これでいい」
ベルを包んでいた淡い光が消える。
「…………」
ベルは自分の身体を見下ろした。
恐る恐る腕を動かしてみる。
痛みはない。
指を握っても違和感はない。
続いて上半身を起こす。
「ベル君!」
ヘスティアが反射的に止めようとした。
だが、ベルはそのまま身体を起こした。
「……痛くない」
脚も動かしてみる。
やはり問題はない。
「本当に……治ってる」
ベル本人が最も信じられないような表情を浮かべていた。
シンは当然のように答える。
「治すと言っただろ」
「いや、そうなんだけど……」
「何だ?」
「兄さんの言う『治す』って、こんなにすぐ終わるものなの?」
「傷の程度による」
「僕が知ってる治療と全然違うよ」
「世界が違えば技術も違う」
それだけ言って話を終わらせようとするシンへ、エイナが慌てて声をかけた。
「待ってください!」
「何だ?」
「今の治療、本当に身体へ問題はないんですか?」
担当アドバイザーとして当然の質問だった。
シンはエイナを見る。
「ない」
「でも……」
「俺の言葉だけで信用できないなら医者に診せればいい」
エイナが一瞬言葉を失う。
シンは自分の力を疑われたことへ不快感を示しているわけではなかった。
むしろ、それが当然だという顔をしている。
「別の人間に確認してもらった方が安心できるなら、その方がいいだろ」
「……分かりました。念のため診てもらいます」
「ああ」
すぐに治療施設の医師が呼ばれた。
そして、ベルの身体を一通り調べ終えた医師は、完全に言葉を失った。
「……異常がありません」
ヘスティアが聞き返す。
「本当に?」
「はい。むしろ完全に治っています」
「完全に?」
「骨も筋肉も内臓も問題ありません。失血の影響も消えていますし、身体機能も正常です」
医師自身が一番混乱していた。
少し前まで重傷患者として治療を続けていた少年が、短時間で完全な健康体へ戻っている。
この世界の医療常識から考えれば、到底理解できない出来事だった。
ベルはベッドから立ち上がり、試すように身体を動かしてみる。
深層から帰還した直後とは思えないほど身体が軽い。
「すごい……」
自分の手を見ながら呟く。
シンはそんなベルを見て尋ねた。
「動けるな?」
「うん」
「なら少し付き合え」
「え?」
ベルが兄を見る。
「どこに行くの?」
シンは椅子から立ち上がった。
「お前を助けた奴らのところだ」
ベルが目を瞬く。
「僕を助けてくれた人達?」
「ああ」
シンは先ほど聞いたベルの話を思い返す。
ベルは深層へ落ちた。
しかも一人ではない。
リュー・リオンという女性が傍にいて、二人で死線を越えた。
さらに地上からは救助隊が送り込まれ、最終的には彼らの力によってベル達は地上へ戻ることができた。
シンにとって、それは決して小さな話ではない。
自分がいなかった間に、ベルが最も危険な状況へ陥った。
その時、自分は何もしてやれなかった。
だが、代わりにベルの傍へいてくれた者がいた。
一緒に戦い、生き残るために力を貸し、最後まで諦めなかった者達がいる。
「礼を言いに行く」
ベルが少し驚いた顔をする。
「兄さんが?」
「ああ」
「僕を助けてくれたから?」
「他に理由があるか?」
あまりにも当然のように返され、ベルは少しだけ笑った。
「……そっか」
「何だ?」
「ううん。何でもない」
兄が自分の知らない仲間達を知ろうとしてくれている。
それが何となく嬉しかった。
ヘスティアが尋ねる。
「誰のところへ行くつもりなんだい?」
シンがベルを見る。
「一番近い相手からでいい」
ベルはすぐに答えた。
「それならリューさんかな。たぶんまだこの治療施設にいると思う」
「同じ場所か?」
「うん。僕と一緒に運ばれてきたから」
シンが頷く。
「なら先にそこへ行く」
「でも兄さん」
「何だ?」
「リューさんもかなり怪我してたよ」
シンの足が止まった。
「どの程度だ?」
ベルが少し考えてから答える。
「僕と同じくらいか、もしかしたらもっと酷かったかもしれない」
「そうか」
返答は短かった。
しかし、ベルは何となく次の展開を察した。
「兄さん?」
「案内しろ」
「う、うん」
「まだ傷が残っているなら治す」
ベルは苦笑した。
「やっぱりそうなるんだ……」
シンにとっては当然のことだった。
弟を助けてくれた人間が傷ついている。
しかも、自分なら治せる。
それなら放っておく理由はない。
「他にもいるんだろ?」
「うん」
ベルは頷く。
「深層まで僕達を探しに来てくれた人達もいる」
「全員に会えるか?」
「すぐに全員は難しいかもしれないけど、誰が来てくれたかは分かるよ」
「なら頼む」
ベルが少し驚く。
「全部回るつもりなの?」
「当たり前だろ」
「結構人数いるよ?」
「関係ない」
シンは迷わなかった。
「俺がいない間に、お前の命を繋いでくれた奴らだ」
その言葉に、ベルの表情が変わる。
シンは静かに続けた。
「俺がこの世界へ戻ってきた時、お前は生きていた。その理由の一部でも、そいつらのおかげなら、兄として礼を言う」
ベルはしばらく何も答えなかった。
やがて、嬉しそうに笑う。
「分かった」
「ああ」
「じゃあ僕が案内するよ」
ベルはそのまま歩き出そうとした。
だが。
「待て」
「え?」
シンがベルの服を見る。
「その格好で行く気か?」
ベルも自分の身体を見る。
治療施設から支給された患者用の服を着たままだ。
「……駄目?」
「街を歩く格好じゃないだろ」
その言葉にヴェルフが吹き出した。
「そこは普通に気にするんだな」
「普通にとは何だ?」
「いや、お前なら『服なんて何でもいい』とか言うかと思ってた」
「俺一人なら気にしない」
「ベルは駄目なのかよ」
「今の格好だと病み上がりにしか見えない」
「実際、ついさっきまで病人だっただろ!」
病室に笑い声が広がる。
結局、ベルは一度普段着へ着替えることになった。
◇ ◇ ◇
しばらくして。
普段着へ着替えたベルは、シンと並んで治療施設の廊下を歩いていた。
アリアは病室に残っている。
彼女には彼女で、この後アイズとどう再会するかという大きな問題が待っていた。
廊下を進みながら、ベルが隣の兄を見る。
「兄さん」
「何だ?」
「リューさんには、あんまり怖い顔しないでね」
「何故?」
「いや……なんとなく」
「助けてもらった相手へ敵意を向ける理由はない」
「それならいいんだけど」
ベルは少し安心した。
それから、深層での出来事を思い出すように話し始める。
「リューさん、本当にすごかったんだ」
「そうか」
「うん。何度も助けてもらった」
ベルは歩きながら、深層で経験したことを少しずつシンへ話していった。
ジャガーノートとの戦いで追い詰められたこと。
右腕を失いかけるほどの傷を負ったこと。
絶望的な状況の中で、リューが何度も自分を助けてくれたこと。
もちろん、ベル自身もリューを支えながら進んだ。
二人とも限界まで傷つきながら、それでも生きることを諦めなかった。
シンは途中で口を挟まず、ベルの話を静かに聞いていた。
やがてベルが小さく笑う。
「リューさんがいなかったら、僕は絶対に帰ってこられなかったと思う」
その言葉を聞いたシンは、僅かに目を細めた。
「なら、最初に会う相手としては丁度いい」
しばらく歩いたところで、ベルが一つの病室を指した。
「ここだよ」
シンは扉を見る。
その向こうに一人の生命反応がある。
ベルほどではないが、かなり消耗している。
身体にも複数の傷が残っていた。
「この中か?」
「うん」
ベルが頷く。
「リュー・リオンさん」
シンは静かに扉を見つめた。
約十億年もの間、自分はベルの傍にいることができなかった。
その自分に代わって、この世界でベルと出会い、弟が死にかけた時には共に地獄を歩いてくれた人間がいる。
ならば。
まずはきちんと顔を見て。
自分の言葉で礼を伝えるべきだろう。
「会おう」
ベルが頷き、病室の扉へ手を伸ばした。
シン・クラネルは、自分の知らない九年間の中でベルを支えてくれた者達と、一人ずつ向き合おうとしていた。ベルが病室の扉を軽く叩いた。
「リューさん、入ってもいいですか?」
少し間を置いて、中から聞き覚えのある声が返ってくる。
「ベルですか? どうぞ」
「失礼します」
ベルが扉を開け、シンと共に病室へ入った。
そこにはベッドの上で身体を起こしているリューの姿があった。
深層から帰還して治療を受けたとはいえ、その身体にはまだ包帯が巻かれている。顔色も万全とは言えず、長期間にわたって極限状態を耐え抜いた疲労が色濃く残っていた。
そして、病室にいたのはリューだけではなかった。
ベッドの傍に置かれた椅子には、褐色の肌を持つ長身の女性が座っている。
豊穣の女主人で働く賞金稼ぎ上がりの店員――ルノア・ファウストだった。
「お、ベルじゃないか」
入ってきたベルを見たルノアが片手を上げる。
だが、すぐにその表情が変わった。
「……って、お前、もう歩いて大丈夫なのか?」
「はい。もう大丈夫です」
「いや、大丈夫って……」
ルノアは立ち上がり、ベルを上から下まで確認する。
彼女もベルがどれほど酷い状態で地上へ戻ってきたのかを知っている。
深層から救出された直後の姿を考えれば、自力で歩いて病室へ現れるには早すぎた。
「確か、まだしばらく安静だったはずだろ?」
「それが……」
ベルは隣にいるシンを見る。
それにつられてルノアとリューの視線もシンへ向かった。
黒髪の青年。
腰には刀を差し、背には布で包まれた長剣を背負っている。
見覚えのない人物だった。
「ベル、その人は?」
ルノアが尋ねる。
ベルは少し嬉しそうに答えた。
「僕の兄です」
「……兄?」
ルノアの目が丸くなる。
リューも驚いたようにシンを見る。
「ベルに兄がいたのですか?」
「はい。双子の兄なんです」
「双子?」
今度はルノアがベルとシンを交互に見た。
「待て待て。お前、兄貴がいたなんて話、一度もしてなかっただろ?」
「僕も兄さんが生きてるって今日知ったんです」
「……どういうことだ?」
当然の疑問だった。
ベルは簡単に事情を説明した。
五歳の頃にシンが行方不明になったこと。
それから九年間、一度も会っていなかったこと。
そして今日、突然オラリオへ現れ、治療施設まで自分を探しに来たこと。
もちろん、シンがその九年間に相当する時間をどのように過ごしたのかについては省いた。
約十億年もの異世界巡歴など、簡単に説明できる話ではない。
「九年前に行方不明になった双子の兄貴が今日帰ってきたって?」
「はい」
「……相変わらず、お前の周りは普通のことが起きねえな」
ルノアが頭を抱える。
「僕に言われても……」
ベルも困ったように笑う。
一方、リューはシンを静かに観察していた。
冒険者には見えない。
少なくとも、ファルナを持つ冒険者特有の気配がない。
にもかかわらず、隙らしい隙がまったく見つからなかった。
武器を持っている以上、戦闘経験がないとは考えにくい。
だが、どれほど強いのかを測ることすらできない。
シンもリューを見ていた。
敵意はない。
ただ、ベルから聞いた人物と目の前の女性が同一人物であることを確認している。
「あなたがリュー・リオンか?」
「……はい」
リューが頷く。
「そうです」
シンは一歩前へ出た。
その動きにリューが僅かに身構える。
ルノアも無意識にシンの動きを目で追った。
だが、シンは二人の反応を気にすることなくリューの前で足を止めた。
そして。
深く頭を下げた。
「ありがとう」
リューの目が見開かれた。
ルノアも驚いてシンを見る。
ベルだけは、兄が何のためにここへ来たのか知っていたため黙っていた。
「……何のことでしょうか?」
リューが戸惑いながら尋ねる。
シンは頭を上げた。
「深層でベルを助けてくれたことだ」
「…………」
「ベルから聞いた。お前がいなければ、自分は生きて帰れなかっただろうとな」
リューがベルを見る。
ベルは少し照れたようにしながらも頷いた。
「本当のことですから」
「ベル……」
リューの表情が僅かに揺れる。
シンは続けた。
「俺は長い間、こいつの傍にいなかった」
その言葉には、シンにしか分からないほど長い年月が込められていた。
「今回も、ベルが死にかけていた時に俺は何もしていない」
だからこそ。
その時にベルの傍へいた者には、きちんと礼を言いたかった。
「お前がベルと一緒にいて、生きて帰るために力を尽くしてくれた。そのおかげで俺は今日、弟と再会できた」
シンはリューの目を真っ直ぐに見る。
「兄として感謝する」
リューはすぐに答えることができなかった。
ベルの兄が自分へ礼を言う。
そんなことを想像していなかったのだろう。
しばらくして、リューは静かに首を横へ振った。
「私は……礼を言われるようなことはしていません」
「何故?」
「深層では、私もベルに助けられました」
リューの脳裏に、あの地獄のような時間が蘇る。
ジャガーノート。
深層。
次々と襲いかかってくるモンスター。
尽きていく体力。
迫り続ける死。
あの状況でベルがいなければ、自分も生きて地上へ戻ることはできなかった。
「私がベルを助けたのと同じくらい……いいえ、それ以上に、私もベルに助けられています」
シンは黙って聞く。
「ですから、私だけが感謝されるのは違います」
「そうか」
シンはあっさり頷いた。
そしてベルを見る。
「なら、お互いに助け合ったんだな」
「はい」
ベルが笑う。
シンは再びリューを見る。
「それでも礼を言うことに変わりはない」
「ですが――」
「お前がベルに助けられたことと、俺がお前に感謝することは別の話だ」
リューが言葉を止める。
「ベルがお前を助けたなら、それはベルが自分で選んでしたことだ。俺が礼を要求する話じゃない」
シンは淡々と続けた。
「だが、お前がベルを助けたことについては、兄として俺が感謝している。それだけだ」
「…………」
リューはしばらくシンを見つめた後、静かに目を伏せた。
「……分かりました」
そして、小さく頭を下げる。
「その言葉は、ありがたく受け取らせていただきます」
「ああ」
そのやり取りを見ていたルノアが腕を組んだ。
「へえ……」
シンがそちらを見る。
「何だ?」
「いや。ベルの兄貴って聞いたから、もっとベルみたいなのを想像してた」
「どういう意味だ?」
「全然似てねえな、性格」
ベルが苦笑する。
「それ、神様にも言われたよ」
「だろうな」
ルノアは即答した。
「ベルは初対面の相手にこんな堂々と話さねえだろ」
「う……」
ベルには反論できない。
シンは特に気にした様子もなく、今度はルノアへ視線を向けた。
「お前は?」
「あたしか?」
「ああ」
「ルノア・ファウスト。リューと同じ店で働いてる」
「同じ店?」
「『豊穣の女主人』って酒場だ」
その店名にはシンも覚えがあった。
オラリオについて情報を集めた際、有名な酒場の一つとして名前を耳にしている。
だが、その時。
ベルが補足した。
「ルノアさんも僕達を助けに来てくれた一人だよ」
シンの視線がルノアへ戻る。
「何?」
「あ」
ルノアが僅かに顔を引きつらせた。
ベルは気づかず続ける。
「深層まで救助に来てくれたんだ」
「ベル、お前――」
ルノアが何か言おうとした時には遅かった。
シンは完全に彼女へ身体を向けていた。
「そうなのか?」
「いや、まあ……そうだけどよ」
「なら」
シンは迷うことなく頭を下げた。
「ありがとう」
「お、おう……」
先ほどリューへ向けられたのと同じ、真っ直ぐな感謝だった。
「ベルを助けに来てくれたことに感謝する」
ルノアは明らかに困った顔をする。
「別にあたし一人で行ったわけじゃねえぞ?」
「それはベルから聞いている」
「だったら――」
「一人じゃなければ礼を言わなくていい理由にはならないだろ」
「…………」
ルノアが黙る。
やがて頭を掻きながら、諦めたように息を吐いた。
「分かった分かった。礼は受け取っとくよ」
「ああ」
「ただし」
ルノアはベルを指差した。
「そこの馬鹿が無茶しすぎた結果だからな」
「えっ」
突然矛先を向けられ、ベルが固まる。
「ジャガーノートだか何だか知らねえが、毎回毎回とんでもねえところに突っ込んで死にかけやがって」
「いや、今回は好きで深層に落ちたわけじゃ……」
「結果的に死にかけただろ」
「それは……はい」
ベルの声が小さくなる。
シンの目が細くなった。
「毎回?」
ベルの肩が跳ねる。
ルノアは気づかない。
「そうだぞ。こいつは前からそうだ。誰かが危険だと自分まで飛び込んで――」
「ルノアさん!」
ベルが慌てて止めようとする。
だが、シンは既にベルを見ていた。
「ベル」
「はい……」
「後で詳しく聞く」
「……はい」
兄から逃げられないと悟ったベルは、素直に項垂れた。
その様子を見ていたリューの口元がほんの僅かに緩む。
しかしシンは、そこで本来の目的をもう一つ思い出した。
改めてリューを見る。
先ほどから分かっている。
表面的には治療されているが、まだ身体の損傷はかなり残っている。
ベルと共に深層を生き抜いた代償だった。
「ところで、リュー」
「はい?」
「まだ怪我が残っているな」
リューが自分の身体を見る。
「ええ。ですが、治療は受けています。時間が経てば――」
「ベル」
「はい?」
シンが弟を見る。
「お前と同じ程度だったと言ったな?」
「深層から帰ってきた時は、です。リューさんもすごく酷い状態で……」
「分かった」
シンがリューへ向き直る。
「治す」
「……はい?」
リューが珍しく間の抜けた声を出した。
ルノアも首を傾げる。
「治すって何をだ?」
「怪我だ」
「いや、それは分かるけどよ」
ルノアがシンとリューを交互に見る。
「ここ治療施設だぞ?」
「知っている」
「治療師もいるぞ?」
「それも知っている」
「じゃあ何でお前が治すんだ?」
シンは当然のように答えた。
「俺の方が早いからだ」
「…………」
ルノアがベルを見る。
ベルは苦笑しながら頷いた。
「本当に早いですよ」
「どのくらい?」
「僕の怪我は全部治りました」
「…………は?」
ルノアの顔から表情が消えた。
リューも目を見開く。
二人とも改めてベルを見る。
先ほどから何かがおかしいとは感じていた。
ベルはつい最近まで全身を包帯で覆われ、まともに動くことすら難しい状態だった。
それが今は普通に立ち、歩き、顔色まで完全に戻っている。
「まさか……」
リューがシンを見る。
「あなたが?」
「ああ」
シンは頷いた。
「だから、お前も治す」
「待ってください」
リューは反射的に制止した。
「私は大丈夫です。時間をかければ治ります」
「そうだな」
シンも否定しない。
「なら――」
「だが、今治せるのに放置する理由もない」
リューが言葉に詰まる。
シンにとって話は単純だった。
目の前にいる女性はベルと共に深層を生き抜き、弟の命を繋いでくれた。
その結果として傷ついている。
自分には、その傷を治す力がある。
それなら、治せばいい。
「ベルを助けた礼の一部だと思ってくれ」
「しかし……」
リューは戸惑っていた。
見ず知らずの相手から、それほどの治療を無償で受けていいものなのか判断できない。
その時、ベルが口を開いた。
「リューさん」
リューがベルを見る。
「兄さんに任せても大丈夫です」
「ベル……」
「僕も治してもらいましたから」
ベルは自分の腕を曲げ伸ばしして見せる。
「本当に何ともありません」
リューはベルとシンを交互に見た。
しばらく迷った末に、小さく息を吐く。
「……分かりました」
そしてシンを見る。
「お願いします」
「ああ」
シンはリューのベッドへ近づいた。
その様子をルノアが興味深そうに見ている。
「本当に一瞬で治るのか?」
「見ていれば分かる」
シンがリューへ手を向ける。
次の瞬間、淡い光が彼女の身体を包み込んだ。
「……これは」
リューが目を見開く。
痛みが消えていく。
身体の奥に残っていた傷も、骨や筋肉に蓄積した損傷も、急速に修復されていく。
単なる治癒促進ではない。
壊れた部分が正確に元の状態へ戻されている。
長い深層での死闘によって蓄積していた肉体的な消耗まで取り除かれ、身体が本来の状態を取り戻していった。
ほんの僅かな時間の後。
シンは手を下ろした。
「終わった」
「…………」
リューは呆然としていた。
恐る恐る腕を動かす。
続いて身体を起こし、脚を動かしてみる。
どこにも痛みがない。
「……本当に」
リューは自分の手を見つめる。
「治っています」
ルノアも目を丸くしていた。
「嘘だろ……?」
「だから言ったでしょう?」
ベルが苦笑する。
「兄さんの治療、僕達の知ってるものと全然違うんです」
「違うとかいう問題か、これ……?」
ルノアが呆れたようにシンを見る。
一方、リューは自分の身体が完全に治っていることを確認すると、シンへ向き直った。
「ありがとうございます」
今度はリューが深く頭を下げる。
シンはそれを見て、僅かに首を振った。
「礼は必要ない」
「ですが――」
「先に言っただろ」
シンはベルを示す。
「弟を助けてもらった礼だ」
その言葉に、リューはしばらく何も言えなかった。
やがてベルへ視線を向ける。
ベルはどこか嬉しそうに笑っていた。
九年間離れていた兄。
そして、自分がオラリオで出会った仲間達。
その二つが少しずつ繋がり始めている。
ベルにとって、それは不思議でありながらも嬉しい光景だった。
やがてシンはルノアへ視線を向けた。
「他にもベルを助けに行った奴がいると言ったな?」
「ん? ああ」
ルノアが答える。
「結構いるぞ」
「名前を教えてくれ」
「全員か?」
「ああ」
迷いのない返答だった。
「会える奴には直接会って礼を言う」
ルノアが少し驚いたようにシンを見る。
「律儀だな、お前」
「そうか?」
「普通、そこまで一人ずつ回らねえぞ」
シンはベルへ一度視線を向けてから答えた。
「俺にとっては、こいつが生きていること以上に重要なことはほとんどない」
ベルが僅かに目を見開く。
「だから、ベルを助けるために命を懸けてくれた相手には、それ相応の礼をする」
シンにとって、それは特別な善意ではなかった。
途方もなく長い年月を経て、ようやく再会できた唯一の弟。
そのベルが今こうして生きている。
自分の知らない場所で、その命を守ろうとしてくれた者達がいたのなら。
兄として感謝を伝えるのは当然だった。
ルノアはそんなシンをしばらく見た後、少しだけ笑った。
「分かったよ。だったらあたしも手伝ってやる」
「手伝う?」
「ああ。救助に行った連中なら、ベルよりあたしの方が今どこにいるか分かる奴もいる」
ベルも頷いた。
「確かに、その方が早いかもしれません」
「だろ?」
ルノアは立ち上がる。
「それに、どうせなら『豊穣の女主人』にも来いよ」
「店に?」
「ああ」
ルノアはリューを見てから、再びシンへ視線を戻した。
「ベルが普段どんな連中に世話になってるか、兄貴なら知っておいてもいいだろ?」
シンは少し考える。
自分が知らないベルの九年間。
その全てを一度に知ることはできない。
ならば、ベルがこの都市でどのような者達と関わり、誰に支えられて生きてきたのかを一人ずつ知っていけばいい。
「分かった」
シンは頷いた。
「案内してくれ」
「決まりだな」
ルノアが笑う。
ベルも嬉しそうに頷いた。
こうしてシンは、ベルとルノアの案内で、自分の知らない九年間に弟と関わり、そして深層からの生還に力を貸してくれた者達のもとを訪ねることになった。