空崎ヒナのゲヘナ学園退学。そして、ミレニアムへの転入はキヴォトスを激震させた。
彼女は、謂わば抑止力でもあった。その存在だけで政治的な影響力や犯罪者集団への牽制など多くのことに対して影響を与えるのだ。それほどに空崎ヒナとはキヴォトスにおいても屈指の実力者。間違いなく最強格と言って差し支えのない存在であり、加えて本人はあらゆる面で優秀だった。
優秀なのだ。優秀過ぎたのだ。
成績は極めて優秀、戦闘能力は言わずもがな。加えて本人は人格者であり、難しい書類仕事や作戦の立案、政治的な手腕も優秀ときている。まさに完璧超人、それが空崎ヒナだった。
だからこそ多くが彼女に頼った。彼女を信頼した。
彼女に依存して、彼女ならばなんとかしてくれると思い込んだ。
それが意識的だったとしても、無意識だったとしてもだ。
本人の優秀さと、『自分がなんとかしなければならない』という当時は強迫観念にも近かった責任感の強さ、そして周囲からの依存とも呼べる羨望。その結果として、空崎ヒナという少女は外すことの出来ない仮面を被り続けることになった。
風紀委員長として、身体的にも精神的にも。無意識下でも自らを犠牲にし続けて、彼女は周囲の望む『空崎ヒナ』を演じ続けた。だが、それがずっと続くはずもなく。実力や素質においてキヴォトスでトップクラスの彼女でも、自らを蝕む疲労やストレスには耐えきれなかった。
本当は、畏怖される周囲が知る『空崎ヒナ』ではなくごく普通の、誰かに甘えたり笑ったりする生徒としての『空崎ヒナ』として在りたかったのだ。
被り続けてきた仮面は限界を迎える。そうして訪れたのが、分岐点。
このまま壊れるか、それとも仮面を捨てて選択するかという分岐点。
それが、偶然訪れたミレニアムとの共同作戦で出会ったC&Cのメンバーである生徒達。そして、本気で自分に対して向き合ってくれ。叱って。怒って。心配してくれた美甘ネルの存在と、ある言葉だった。
そうして、彼女は選択した。
選択したのは、新たな場所と自分。そして日常だった。
さて。
彼女のゲヘナ学園からの離脱、それによってキヴォトスに激震が奔った。特に、三大高と呼ばれるゲヘナ、トリニティ、ミレニアムに起こったそれは大きかった。
まず転校先のミレニアムだが、混乱や騒ぎというよりはプラスの意味での激震と言っていいだろう。単純にヒナという存在がミレニアムに来るということを喜ぶ生徒も居たが、元々ネルやリオと交友のあった彼女は、ミレニアム上層部もそうだが生徒達からも好意的に見られていた。ヒナの真面目さや本人の気質はミレニアムの気質と合う部分もあってか、すぐに受け入れられた。
最初の頃、リオと深夜にカップラーメンや半額弁当を食べながら業務をしていたのがトキに見つかり、そのままお説教され。そしてそのまま翌日、ユウカとノアにネルからのお説教フルコースを受けて二人揃って小さくなっていたのは別の話である。
続けてトリニティでは、やはり少なくない混乱が起こっていた。トリニティにおいてもヒナの存在は有名である。そんな彼女がゲヘナを退学した。エデン条約を前にして、『喜ばしいこと』『有利になった』と騒ぎ立てる心無いトリニティ生も居たが、トリニティのトップ。ティーパーティーであるナギサは、険しい表情をして思考を巡らせていた。
確かに、ヒナがゲヘナから居なくなったというのは政治的に見ても大きなことなのは事実だが、ナギサとしては『一体何があったのか』という思いのほうが強かった。トリニティとゲヘナという立場ではあるが、外交の場で顔を合わせた数はゲヘナの万魔殿のトップであるマコトよりヒナのほうが遥かに多かった。
ナギサから見てのヒナという生徒は、文字通りの完璧超人だった。そして、外交の場で話したこともあったが決して悪い印象ではなかった。トリニティだからといって差別せず、理性的で。正直に言ってしまえば武力だけでなく知略という点でも彼女を敵にするのが一番恐ろしいと考えていたほどだった。そんな彼女が、ゲヘナを辞めた。一体どうして?何かとんでもないことが起こっていたのではないのか?と。もう彼女はゲヘナでないのなら、外交抜きに落ち着いた頃にミレニアムとしての彼女と会って話してみようと考えた。
そうして、恐らく最も激震と変化が大きかったのはやはりと言うべきか。ゲヘナだった。
ヒナが居なくなってからのゲヘナはといえば。抑止力だった彼女が居なくなり、今まで以上に不良生徒が暴れに暴れていたり。崇拝に近いものを持っていた風紀委員会が崩壊して、組織としての統率を失い機能しなくなったり。
ということは、まったくなく。 ――むしろ、その逆だった。
その逆で、自由と混沌を愛するゲヘナという風潮を塗り潰していくように。その統治は苛烈に、厳格になっていっていた。
不良達も最初はヒナが居なくなったことで好き放題出来ると思っていた。だが、違った。ヒナが去ってから突然厳しくなった、風紀委員会。そして万魔殿直属の部隊からの取り締まり。規律を乱すものには制裁を、まるでその通りのようなことになったのだ。
風紀の乱れや規律違反、破壊行為などを起こした生徒にはその起こした問題の大きさにもよるが厳しい処罰が下され。そこに温情が入る余地は一切なかった。自由と混沌ではなく、規律と秩序。従う者には与え、従わない者は罰する。そうしてそれを成すのは、規律と武力による統治だ。表面上、傍から見て
そうして。普段と変わらないようなマコトがヒナが去ってから時偶呟く言葉があった。
誰にも見られることはない場所で一瞬だけ。まるで王者のような鋭く、冷たい眼で。
―――『ヒナならできたぞ』
―――『ならば、この
と。
◆ ◆ ◆
「はじめまして、先生……でいいのかしら。ミレニアムサイエンススクール3年、治安維持局の局長を務めている空崎ヒナよ。よろしく」
「こちらこそ初めまして。私もヒナでいいのかな?今日は時間を作ってくれてありがとう」
「ええ、それで構わない。時間については気にしないで。……今はだいぶ余裕があるから、たいしたことじゃない」
「……?それは、どういう」
「ごめんなさい、気にしないで」
気にしないで欲しいと言って、挨拶も程々にヒナは応接間の対面のソファへ座るように先生へと促す。もしゲヘナの頃なら、正直言って時間は作ったかもしれないが無理矢理に時間を作っていただろう。それくらいには余裕がなかった。
しかし、現在は違う。効率化された業務、報連相と規則を徹底された所属部署の部下に、優秀な後輩と同年代の友人。無理矢理に時間を作らなくとも時間を確保して。余裕を持って物事を行えるのだ。時間を作るために無理をすることもなければ、コンディションを悪化させることもない。
「今日は挨拶ということと聞いているけれど、それは例の……今噂になっているシャーレに関係してのもの?」
「うん、そうだね。暫く私も依頼で忙しくしていたんだけど、ちょっと落ち着いてきたから関係各所に挨拶をと思って」
「あまり無理しすぎないようにね、先生。無理している時って、自分では気が付かないから」
「な、なんだかヒナが言うと重みがあるように感じるね……?」
「ふふ。さて、どうかしら」
実際、経験則である。ヒナとしても今の環境ではだいぶ落ち着いていることから冷静に振り返ることが出来るが、そうすると風紀委員長だった頃はかなり無理をしていたのだと実感する。そうしてそれは、自分では中々わからないことなのだ。
実際ヒナは当時の業務状況のことをネルやリオに話したことがあるのだが、二人揃って引きつった笑みを返された。そうして、ミレニアムでそれをやると恐ろしいことになるとも言われれた。つまるところ、いい笑顔での後輩による『お時間よろしいですか?』である。
「気になったのだけれど、どうして私との会談を?挨拶回りなら、生徒会長のリオが……ああ、そうね。今は難しいかもしれないわね……」
「うん。実は、今途方もなく忙しいらしくて難しいと言われたんだ。だから、セミナーを通して代理に頼むって話になってね」
「それで私に、ということね」
現在、リオとヒマリはある案件で忙しくしている。護衛、C&Cのトキを連れて自治区の外に赴くこともあり、時折自分も護衛として同行もしている。ある存在についての調査が目的であり、それについてはヒナはある意味では関係があることから聞かされているがセミナーのユウカやノアには明かされていない。それだけ機密性の高いものなのだ。
「実は、ユウカやノアには時間がある時にシャーレの業務を手伝ってもらっているんだ。まだ部員が少なくてね、中々手が回らないことも多いから本当に助かってるよ」
「シャーレの活躍は聞いているわ。……良い機会だから、私も聞いていい?先生」
「なにかな」
シャーレの活躍はヒナとしても知っている。超法規的機関であり、様々な生徒からの依頼を受けて相談や救援などを行っている。それ故に知名度が高くなった今では、様々な方面に奔走しているとも聞く。だが、そんな状況に対して人手が足りていない、というのも聞く話だ。そうなってくると、シャーレに送られてくる依頼を受けるためには何処かで無茶をしなければならない。そうしてその無茶とは、『先生』なのだろうとも予測がついた。
ヒナ自身も、一度無理をし続けて手遅れになる一歩手前まで行った。無理とは、時として自分では気が付かない。もし先生が自らをも酷使してまでシャーレとしての活動を続けるのだとしたら、それはどうしてなのかと思ったのだ。
自分は、かつて一度途中からわからなくなってしまったから。
風紀委員長としての空崎ヒナをどうして続けているのか、それがわからなくなったのだ。
……そうして。先生が一切の迷いなく。それが当然で、自らの望むことであるかのように此方を見据えて言った言葉に、ヒナは目を見開いてただ呆れた。呆れ、狂人だとも思った。しかし同時、その真摯で誠実さは眩しくも。その目的を持つということはきっとあの時の限界だった自分が忘れてしまっていたことなのだとも思った。
あの時はわからなくなってしまった。だが、今は違う。今は理由と信念があるからこそ、時には無理だってするし頑張ろうと思えるのだ。
「先生、シャーレは手が足りてないのよね」
「え?まあ、そうだね……人手不足ではあるね。事務仕事についてはユウカやノアが手伝ってくれたりするけれど、現場方面がね……といっても、シャーレの依頼って色々だからそういうのを頼める相手もあまりまだいなくてね」
「なら、もし現場での手が必要な時は連絡して。私も治安維持局の業務で手伝えない時もあるけれど、手が空いていれば手伝うわ。……後輩に手伝わせて、私がやらないっていうのも格好がつかないし」
「それって、部員になってくれるってこと!?」
それくらいの余裕は今の環境ならばあるのだ。それに、もし自分が不在の時に何かあればその時は頼ればいいのだ。
――『頼れよ、この私を。私で力になれることなら、喜んで手を貸してやるさ。あ?なんでって……ダチだろ、私とヒナはさ』
――『あーっ!リーダーが格好つけてる!なら私とヒナちゃんも友達なんだし、私も力になるよ!』
思い出して、思わず口元に笑みが浮かぶ。
自分は救われたのだ、その言葉や伸ばされた手に。
ならきっと、あの時の自分と同じように助けを必要としている誰かがいるのではないのか。全ては無理でも、自分ができる範囲で自分がそうされたように、助けになることは出来るのではないだろうか。
それにかつては、誰かに頼るということができなかったが今ならば出来る。出来の良い生徒会の後輩や友人。そして、極めて優秀な治安維持局の副長官と、実働部隊の部隊長の生徒。それだけではない、ミレニアムという場所を頼っていいのだと、自分は教えられたから。
「そう取ってくれて構わないわ。 ――これからよろしく、先生」
選択した新しい日常。なら今度は、新しいことを始めよう。
そのために彼女は一歩踏み出した。