ストラテジー怪現象を、キャラクター視点で見る 作:匿名の筆者
観戦ルームのなかで、その男の存在感はとりわけ異彩を放っていた。
若手からベテランまで、多くの軍関係者が熱気とともに大スクリーンを見上げるなか、彼だけは微動だにせず、テラス席のチェアに深く腰を沈めている。
階級章のほかに、複数の作戦従軍勲章、勤務従軍勲章が刻まれる。右胸に勲章が集中しすぎて、重量に偏りが発生するほど名誉が施された軍服は、彼がこれまでに歩んできた過酷な戦歴を静かに物語っていた。
「アルバトロ上級軍曹、特別訓練所へようこそ。認証を完了しました」
無機質で冷徹な自動音声が階級を告げたのも数瞬のこと。男の視線はすでに、目の前に広がる大スクリーンへと釘付けになっていた。
そこに映し出されているのは、現実世界と見紛うほど精巧にモデリングされた市街地の風景。
ビルは鉄骨が見え、崩れかけたコンクリートたちから突き出る自動販売機。
風に揺れる街路樹、そして密林の匂いさえ漂ってきそうなほどの圧倒的なツタだらけのビルたち。
現代の軍事ドクトリンにおいて、仮想空間における有人シミュレーションは、もはや単なる訓練の枠を超え、戦略の根幹を成す常識として深く染み付いている。
環境マップは数千種類をはるかに超え、逐次作られる。コンセプトとしては、自然に侵食された市街地。
マップで訓練を行うことは、全くもって常識。
実弾射撃場において、風向きや湿度までを計算に入れた狙撃訓練を行うのと何ら変わらない。現実と寸分違わぬ精度での物理演算が可能となった今、軍上層部にとって最大のメリットは、予算の大幅な節約と、敷地面積を最小限に抑え、またありとあらゆる内容を変更可能な訓練所であった。
無論、この仮想空間を構築し、維持管理するための巨大なサーバー群やシステム開発費など、シミュレーションにかかる初期費用は天文学的な数字。
しかし、それらはすべて固定費として割り切れるのだ。例えば、一発発射すれば予算が灰と化す最新鋭の対空ミサイルであっても、この空間であれば数千回、数万回という途方もない回数の試験を、追加コストなしで繰り返すことができる。
かつては大型艦船の航行テストや、広域の部隊展開シミュレーションから始まったこの技術は、やがて仮想空間に人間の意識そのものをダイブさせるという領域へと発展し、兵士たちに極限状態での理想的な訓練を可能としたのである。
肉体の軛からの解放――シミュレーション・ポッドとは、人間と情報空間を繋ぐための巨大な蚕の繭。
搭乗者はまず、導電性と冷却性を兼ね備えた特殊なジェルを首筋や脊髄に沿って念入りに塗布される。
これは、仮想空間における行動のみならず疑似的な感覚や重力、加速Gといったフィードバックを、脳幹を介してダイレクトに神経系へ伝達するための重要な触媒となる。
さらに、頭部には思考波を読み取るための特殊なヘッドギアが装着される。数千の微小なセンサーが脳の電気信号をミリ秒単位で解析し、仮想空間で動くためのデジタルデータへと変換していく。
その速度は電子の動く速度に縛られるが、人間にとっては思考と動作が完全に一致するも同然。
肉体の限界という枷を外された兵士たちが、そこで圧倒的かつ超人的な光景を繰り広げるのは、この施設においては半ば日常と化していた。
スクリーンの中では、小型の偵察ドローンが散開し、統制の取れた動きで市街地を索敵している。それらは主の意のままに動き、遮蔽物から飛び出しては、ひたすら後退する奇妙な行動を繰り返していた。
過去の果てしない対人シミュレーションの反復によって構築した偵察ドローンの使い方。その戦法は、どのような戦局においても変わらず有効な、最適解の一つであり続けている。
「……遮蔽物の配置が、今回はやけに厄介そうだな」
スクリーンを見つつ、呟いたその男こそ、リンのかつての教官であった。
彼は現役時代、天才的な操縦センスでエースパイロットとして持て囃された生ける伝説だ。皮肉なことに、彼の全盛期には軍を揺るがすような大規模な反乱は起きず、その真価が歴史的な大舞台で発揮されることはなかった。しかし、その技術と経験は決して色褪せてはいない。
他でもない彼こそが、特殊作戦員としてのリンの才能を見出し、鍛え上げ、あのパワードスーツの複雑極まりない操縦技術を叩き込んだ張本人なのである。
スクリーン上では、激しい銃撃戦が展開されていた。
市街地の四つ角、互いに街路樹やひび割れたコンクリートの壁に身を隠しながら、二つの影が牽制し合っている。
どちらも、リンだ。
片方は現在の彼女、もう片方は蓄積された戦闘データから生成された完全なるシミュラクラの幻影。
同じ思考回路、同じ癖、同じ反射神経。
だからこそ、戦術も必然的に踏襲される。相手の次の一手が手に取るように分かる。
同じ前提があれば同じ結果が導かれる。両者とも最適解を導き出すため、同一の動作となり、無数の読み合いが発生する。
つまり、致命傷を与えることが極端に難しくなるのだ。
距離を取ろうと動けば即座に遮蔽物に隠れられ、膨大な弾薬が消費されることを躊躇することなく、弾幕が展開される。
機関銃で確実に回避行動を制限するため、銃口は常に水平を描き、敵を追跡するのではなく……あえて横薙ぎ、進行方向を遮るの軌道を取る。
機関銃程度なら被弾しても大丈夫、現代の装甲技術なら旧時代の薬莢長ではハードプレートを貫通することはまず無い。
実戦で一気に廃された最大の理由が装甲にあるが、シミュレーションゆえ、その装甲は過小な防御力へと修正が施されている。
もし、これを忘れ、上空へ跳躍しようものなら、その瞬間にパワードスーツの推進装置のガスを消費させられるばかりな、着地の硬直という致命的な隙を晒し、装甲で耐えはするが蜂の巣になる。
かといって安全な遮蔽物の裏に隠れ続ければ、偵察ドローンが飛んでいき、場所を露呈する。
1対1の戦闘において、相手に移動し続けるか、停止して的になるかの二択を延々と突きつけ続ける行動こそが最も強く、そして残酷だ。
自分の強みも弱みも、骨の髄まで理解している。だからこそ、彼女はあえてリスクを冒さない。華麗な必殺技など必要ない。徹底的に手堅く、相手の焦りを誘い、完全なる塩試合に持ち込んでやるという冷徹な意志!
テラス席から戦況を見つめながら、アルバトロ上級軍曹はかつての教え子の成長ぶりに、微かな戦慄と誇りを覚えていた。仮想の空に響く乾いた銃声は、終わりの見えない膠着状態を告げるように、ただ空間に鳴り響き続ける。
が、オブザーバーは訓練において秘匿すべき事項を知っている。ドローン操縦技術、パワードスーツ操縦技術のうち、ドローンの行動原理はリンだけではなく、管理人のデータをモンタージュし、仕上げたものなのだ。
過去のリンの操縦技術だけでは、容易に負けうる。処理能力を再現すれば、当時のリンは三機との協力が完璧にはできない。
よって、穴埋めとして管理人のデータを秘密裏に混ぜた。
しかし長年見てきた軍曹でさえ、巧妙に織り交ぜられた攻防の中では判断基準が別人のものにスワップしていることに気が付かない。
過去の自分に打ち勝つのなら、より強敵にしたほうが良いだろうという節介のつもりでオブザーバーは強化している。
機関銃の撃ち方も、推進装置の使い方も。全く同じなのに、ドローンの操作が回り込むようにしてやってきて、まるで偃月の陣に展開する。
この状況下ではそれが最適解だが……どこか、旋回のクセが違うとリンは戦いの最中で気がついていた。