薄暗い石壁の中で幾重にも連なった蝋燭の日が揺れている。古びたシャンデリアと高価な調度品。蜘蛛の巣の張った石壁の中で、木戸から覗くのはいつだって星空だった。
ゆっくりと視界が揺れている。眠気を誘うような心地よい揺れが永遠に。
生活の一部となってしまったツンとくるカビの臭いと、それすらも打ち消す甘いミルクと咲き乱れた薔薇を想起させる母の香り。シルクの布の上で、母の腕という揺りかごに揺られていた遠い記憶。
「お日様はね、私達に恵みを下さるの」
ある時は畑いっぱいの黄金の海をもたして、ある時は暖かさを、そして、ある時は闇と恐怖を打ち払う光を。
「だから、日々感謝をしなければならないのよ」
穏やかな日々。幼少の時分の泡沫。それは自分に取って安らかで穏やかな時間だった。
けれど。決まって最後に母は悲しい顔をした。今にも泣きそうで、何処か思い詰めた顔。
「私達には許されないことだけど。──それでも」
優しい手が頭を撫でている。話に聞く聖母のような母だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
パチパチと火の粉が爆ぜる音がした。暖炉からは橙の火が熱をもたらしている。
口に広がる甘露は実に得も知れぬもので、極上の美味が広がっている。デキャンタ満杯にあったソレは、右手のグラスが残るのみになっていた。
「太陽ではなくとも、充分なはずだ」
回想の中の母。それは優しい記憶と共にあり、そして焼け焦げた肉体の香りとも同居していた。あれからどうにも肉はダメだ。魚もモノによっては楽しめない。眉を顰めながらグラスに入った『生きる糧』を煽った。十代程の処女の血。修道女ともなれば格別なものであった。
そんな晩餐に舌鼓を打ちながら、炎に目を遣る。炭化した薪が、恨めしそうにこちらを見返して崩れ落ちていく。
「暖も、糧も、そして、光すらも」
グラスに注がれた赤い液体を見る。母もまた父に見初められる前は修道女だったらしい。
母が村から捧げられた供物であり、上位の貴族階級である父に見初められ、食料では無く同族として迎え入れられていた。
その事を知ったのは自分が初めて血を喰らった日であり、母が日光の下に身を投げ出し焼身自殺をした日の夜の事だった。
油をぶちまけたように燃え上がる身体と、穏やかにあなた達が憎いと叫ぶ視線。そしていく度も忘れなかった神への祈りと、最後に堪えずに零した、恨みつらみ。
夜になってようやく駆け寄った私は、燃え尽きて、炭になった母をすくいあげる。けれど、それすらも拒むように塵となり風へと攫われた。悲しい人だ、けれど愛が深かったのも事実だ。そう思うようにした。
程なくして父も母の後を追った。
同じ焼身自殺で、より苦しんで、斬鬼の念をひたすらに口にしながら、彼は穏やかさの欠片も無いような地獄を口にして冥界へと旅立っていた。愚かな人だ。母と同じ所へはいけないのだろう。そう思う。
我々、吸血鬼に終わりはない。そして終わりを選ぶのは愚か者の役割だ。
思索に耽っていると、しわがれ声の小鬼がノックも無しに部屋へと飛び込んでくる。
「ご主人様。食糧村より造反の気配有り。やはり供物の量は例年通りに戻した方が──」
「捨て置け」
「は?」
二度は言わん。とグラスを投げ捨てる。毛皮の絨毯にどす黒い染みが飛び散った。
「時に、太陽が昇る時刻を何と言う?」
「……。『昼』と、食糧共は呼称しております」
「そうか、分かった」
訝し気に首を傾げた小鬼を下がらせると、黒くなった染みを見る。肉体が燃えた後の炭のような赤く昏い色。
「あぁ、そうだ。名前を聞くのだった」
村一番の器量よしとして寄こされた女は実に気丈であった。嫌なところが似てしまったものだ。と亡き父を思う。
死ぬ運命を受け入れながら直前まで祈りを捧げ続け、最後にはこちらを憐れむような視線まで向けてみせた。とても清らかで、汚して手に入れたいと本能が叫んでいた。しかし彼らと同じ命運を辿る事になると、冷酷な自分がその手を止めた。
「殺めた女は、どうしたのだっけな」
あぁ、そうだ。焼いて串刺しにして晒したのだ。戒めとして、そして心を奪った復讐として。
けれど、心が一切晴れる事はなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
血が滴っている。おびただしい程の血だ。それが自身の身体から止めどなく溢れて止まらない。
太い杭が何本も突き刺された肉体はもう長くないのだ。と悟るには充分すぎる程にズタズタにされていて、左胸には心臓の代わりに大蒜が詰められている。
十字架を背負わされ、農夫たちに担がれて古城の長い廊下を歩かされていた。そんなに怯えずとも、もう死ぬというのに、この食糧たちは何をするのか。と思っていた。その答えはすぐに示された。
あの日から一度も触れる事の無かった門扉。外へと繋がる扉が打ち壊されて、開いている。破片と破壊に満ちたその境界からは光が漏れ出ていた。
瞬間、目が、腕が、足から炎が上がる。
音を立てて熱がうねり、容赦なく身体を食い荒らした。
『お日様はね、私達に恵みをもたらすの』
だから、感謝をしなければならないのよ。と母は言っていた。
「あぁ、綺麗だ。憎らしい程に」
自然と動かない筈の両手が合わさる。人間は届かないからこそ祈るらしい。
焦がれていたのだ。母を焼き、父を狂わせたモノを。
焦がれていたのだ。本当は駆け寄ちであったという二人の事を。
焦がれていたのだ。感情を受け入れる器を。
けれど、その器らしきものは打ち壊した。焼いて、殺して、炭にした。
その時点で狂ってしまったのだ。もう戻れない程に。
「もし、願うのならば」
一秒でも長くこの美しき『昼』を。
終わる事の無い。この『地獄』を。
恋焦がれた一瞬の『永遠』を。
手を伸ばしても届かない太陽へと、それでも腕を伸ばした。
あの日、目に焼き付いた光景に手を伸ばすように。
「あぁ、感謝する──。」