時の政府から本丸へと帰るゲート前には他に誰もいなかった。
今日呼ばれたのがうちの主と、別本丸の審神者だけで、先方は帰還済みだからだ。
でも、今、日本号にとってはどうでもいい。
「主」
呼びかけると、いつもどおり表情を無くしたままの主が振り返る。
隠さなくても何も読ませない、感情のない瞳。
さっきまではそこまで気になることではなかった。
「今日の見合いで、あんた、自分がどうしたいって話、一回もしてねぇな」
主は答えない。表情も変えない。何も見せない。
日本号の前で、ずっと徹底している。
「それに、そいつだ」
日本号の疑問はもうひとつある。
これまでも見えていた。人間の霊力。うちの主はそれがただ濃いだけだと思っていた。力の強い人間にはよくあることだ。
だが、さっきからみえているこれは、朝よりもかなり、濃い。
「あんたの霊体が妙だ。日に日に妙なもんが増えてる」
「妙な?」
「その凝りはなんだ」
霊体に溜まる、どす黒く濁った霊力の塊。それが、朝よりも増えた。
「……あぁ。霊力です」
主はまったく表情を変えずに、答えた。
「増えすぎるので、固めています」
「な」
「もう見えるほどになりましたか」
少し考え込む素振りをして。まるで他人事のように。
「引継ぎを急がないと」
「……マジで何言ってんだ……」
風が二人の間を強く吹く。主の一つに括られた腰まである真っ直ぐな長い髪を舞い上げる。
一瞬だけ、主が目を閉じた。風に長い髪が揺れる。その隙間にだけ。諦めと、寂しさが滲んだ。すぐにいつもの無表情へ戻る。
「本丸を引き継ぐ?」
寝耳に水過ぎた。酔いもさめる一言。続くと思っていた明日を一気に終わらせようとするそれに、日本号は無性に腹がたった。
「刀どもがそんなもん望むと思ってんのか」
日本号の唸るような声に、主は平然と返す。
「私は、ただの審神者です。代わりはいくらでもいます」
転移ゲートに立つ主と向かい合い、にらみつける。しかし、主である娘は意に介していないようにみえた。
転移の光が収まり、周囲が自本丸になる。その前にいたへし切長谷部が、声を上げた。
「主!」
「ただいま戻りました。出迎えありがとうございます」
いつものように、表情無く長谷部に頭を下げる主。
「主、少し顔色が……」
「問題ありません。では、失礼します」
主は振り返らずに、自室のある屋敷へと歩いていった。
心配そうな長谷部の隣に立った日本号は、深く息を吐く。
「日本号、なにがあった」
「あぁ?」
「主の様子が、いつも以上に固い」
険しい顔の長谷部を前に、日本号は頭をがしがしと掻いて、息を吐いた。
「……ふぅ」
「日本号」
「悪いが、少し預けてくれ」
「はあ?」
「……俺も納得できてねぇ」
日本号の目が、主の背の消えた先を睨みつけた。
夕餉後の本丸は少し騒がしい。
特に本丸の中心にある屋敷は、大広間と厨房があるだけに夜中まで賑やかであることが多い。
他の本丸がどうだか日本号は知らない。
ただ、この本丸の主の執務室と自室は、この屋敷の中心にある。
今はそれだけわかっていれば、十分だ。
主の自室の前の廊下に立っていると、小さな足音が聞こえた。
湯上りの主が歩いている音だ。本丸で足音を立てるものは多くない。
「……日本号さん?」
「おう」
主は日本号の姿を認め、立ち止まった。
暗闇でも主は表情を変えない。
「昼間の、続きだ」
「その件なら、明日にでも――」
「そうじゃねぇ」
荒げそうな声を抑える。この主に怒鳴っても聞き入れるわけじゃない。それはわかっている。自分より体格の大きな男士に怯えている姿なんてみたこともない。
「……馬鹿言ってんじゃねぇ」
抑えていても、苛立ちは声に乗った。
「俺ぁ人間なんざ何人も見送ってきた。だからわかる」
「あんたぁ、生きるのを諦めてる奴の顔じゃねぇ」
「死ぬ準備ばっかりして、生きる準備を一つもしちゃいねぇ」
日本号は、この主が自分を切り捨て続けていることに腹を立っていた。
別に主だろうが、小娘だろうが、そんなことはいい。
それよりも、こいつのモノのような生き方が気に食わない。
言わずにはいられなかった。
無表情がわずかに歪みかける。
主が、何かを言おうとして、口を開いて。
とっさに口を押えて、日本号から顔をそむけた。
次いで、身体を折るほど激しく咳き込み、血が手からあふれる。
「主…あんた…」
主に近づこうとした次の瞬間、日本号は目を見開いた。
主の内部の霊力が圧縮されてゆく。
渦のようなものを自分の中に生み出し、霊力を巻き込んで小さくして、凝りに変わるまで見えてしまった。
――ぽん。
幻聴が聞こえた。主の中に新たな凝りが生まれた。
唖然としている日本号の目の前、主は自分の手を見て、力なく口元を緩める。表情なんて一つも見せようとしなかった娘が、初めて人間の顔をしていた。
きっと、これは初めてのことではないのだ。この人間にとって。
主が、ミニタオルを取り出し、手と口を拭って、日本号に初めて笑いかける。
「……まだ、大丈夫です。ね?」
なにが、大丈夫だ。
「んなことしてるからだろーが……っ」
絞りだした声が震える。
主は、こいつは、自分が壊れていくことさえ当然だと思っている。
それが腹立たしく、苦しかった。
「……っ」
「限界まで抱え込んで」
「誰にも言わねぇで……っ」
壁に手をつき、誰にも助けを求めようとしない主を、自分と壁の間に囲い込む。
「あ、あの……?」
そこにあるのはいつもの無表情の主ではなく、ただの戸惑い。理性で全てを押し込んでいない、ただの娘だった。
「日本号さん、離してください」
弱弱しい力で離れようとする身体を、さらに狭く囲う。
「だめだ」
「え?」
そこには熱があった。感情があった。
日本号は、これが己の主であると、改めて気づいて、苦しかった。
今まで見ていた無表情の主。
ただ淡々と、そっけない姿勢を崩さない主。
人間の歳なら、箸が転げても笑う年頃の娘。
それが、生きていない。すべてを、己の死さえも受け入れている事実がただ、苦しかった。
「今だけは」
「主命でも何でも聞いてやる」
「だからこれは聞け」
日本号は人間が好きだ。
酒で笑う奴もいた。
泣く奴もいた。
喧嘩する奴もいた。
それでも皆、生きようとしていた。
人間はそういうものだと思っていた。
それなのに、こいつはなんでか全部を受け入れている。
人間なのに、生きていない。
それは苦しくて仕方ない。
なんでこんなふうになっちまった。
胸の奥が、どうしようもなく掻き回される。
言葉が出ない。
それでも。
「生きろ」
主に耳に届くように、呟く。
「主、頼む」
主は、こうじゃない。
本当はこいつはもっと、人間らしいはずだ。
それがこんなふうに終わっていいとはどうしても思えない。
「頼む」
身体が震える。
どうして、こんなふうに思うのかわからない。
ただ、苦しかった。
娘は何も言わずに、ただ日本号の腕にそっと触れた。
一瞬、手を伸ばすのを躊躇って。そのまま、優しく一度だけ叩いた。
それでも、それだけで礼を言われた気がした。
しばらくそうして、日本号は囲いを緩めて見下ろす。そこにはいつもの無表情な娘がいた。
ただ、弱い力で押し返して。
日本号の腕から出て、自分の部屋へ入っていった。
「……くそっ」
ただその背を見送って、日本号は苛立ちのままに、壁を一度叩く。
あの凝り。あれがなければいいのか。
主の霊体を、あの黒い塊が埋め尽くしていた。
あれがなければ、主はまだ生きられるのか。
(あの凝り……)
目に焼き付いて離れねぇ。
あれさえ。
あれさえ何とかできれば。
「……絶対、あんたを生かすからな、主……」
静かな廊下に、日本号の呟きが落ちて消えた。