朝食後、廊下を歩く。
今日はまだ、主の凝りは増えてはいない。
振り返った主が日本号に、申し訳なさそうに笑う。
「大丈夫ですよ」
気を遣っているのだと、わかってしまう。主に表情があるから。
心配しても、増える時は増える。わかってはきたが、やるせない。
立ち止まった主の前、日本号も立ち止まる。
下から見上げてくる主は考えこんでいる。
日本号は無意識に、霊体を見てしまう。癖になりつつあった。
半分以上、まだ昏く濁ったままだ。続けていても、結局は途中で止まってしまう。
「日本号さん」
主が手招きする様子に屈んだ。
細い腕が伸びて、片手は日本号の肩に。もう片方は、頭にのる。
ぽん、ぽん、と頭の上で、柔らかく叩く。
それから、くるりと背を向けて、歩き出した。
(な、んだ、今の?)
日本号は顔に熱が集まるのがわかって、片手で押さえる。
主は数歩先で振り返り、はにかんで微笑んだ。
「主ー、なにしよっと?」
博多が通りがかり、問いかける。
「あ、えっと」
「主!」
そこに長谷部まで、ファイルを抱えてきた。
「終わりました!」
「え、もう?」
「はい! 他にもなんなりと命じてください!」
主は長谷部を見て、博多を見て、困った様子で日本号を見て。不安そうにしている。
(ああ、もう、しゃーねーなー)
日本号が隣に来ると、明らかに安堵していた。
長谷部からファイルを受け取って。
「ありがとうございます、長谷部さん」
「それ、なんじゃと?」
「これは、戦績のまとめ、です」
博多の問いに、ちら、と日本号を見て、主が続ける。
「いつ、引き継ぎとなっても困らないように」
主が言ったとたん、二振が真顔になった。
とうとう言うのか、と日本号は眉を寄せる。
「……それは、どういう意味ですか?」
長谷部の問いに、主は困った様子で微笑む。
それだけだ。
「主?」
博多が主を見上げる。
短刀いうより、幼子に見えるように、計算して。
「私にはあまり時間が――」
「主」
日本号が静かに言うと、主は言葉を止めた。
「まだだ」
「日本号さん……」
「俺は、諦めてねえからな」
「…………はい」
主は俯いたまま、頷いた。
今日も日本号の内番に付き合って、主は馬当番をしていた。
だから、疲れたのだろう。
夕刻に、三名槍の部屋で、少しの仮眠をとらせていた。日本号の膝の上で。ついでに凝りも取っておいた。
「……引継ぎか」
主の長い髪を手慰みに、いじりながら呟く。
これだけ楽しそうでも、主は引継作業を止めない。部屋を片付け、戦績をまとめ、静かに去る準備をしている。
それに。
(見合いは、なんのためだ?)
主の凝りが減るわけじゃない。なのに、必要だからという。
人間が見合いをするのは、大体跡継ぎのためだ。
主にはほとんど時間がないのに、何の意味があると言うのか。
それなら、ここで楽しく過ごした方がいいに決まっている。
――日本号の、隣で。
眠る主の顔を見下ろす。表情のない寝顔だ。
その頬を撫でる。
ずっと、主を生かすことだけを考えてきた。
何のために生きてほしかったのかを置き去りにして。
夢で見た笑顔。あれを現実で、隣で見たかった。
それはなぜか。
(最初から、か)
逃したくないと思ってしまった。その瞬間からきっと始まっていた。
「……悪いな、主」
(あんたが隣にいない本丸は、俺が耐えられねぇ)
もう一度頬を撫でると、主の目がうっすらと開いた。
日本号を映し、幸せそうに微笑む。
「……」
小さな口が動いて、また目を閉じて寝息を立てる。
日本号は動けなかった。
自分を見て、安心して笑う主。
音にならずに紡がれたのは。
(号さん)
主が夢でだけ呼ぶ、名。
こみ上げる嬉しさに、力が入りそうになる。
こんなにも。
求めているのに。
日本号を、手放そうとする。
困った主だと言うのに。
「……参った」
顔が熱い。
笑顔一つで、こんな風になるのはもう、誤魔化しようもない。
口元を緩め、日本号はいつまでも俯いていた。
主の部屋の前で待つのは、もう何度目か。
寝る前に凝りをとるのは、習慣になりつつある。
「日本号さん」
風呂上がりの主が小走りに駆け寄ってくる。
無防備なんてもんじゃない。隙だらけだ。
思わず眉間にしわが寄る。なんで、俺は今までこれが平気だったんだ。
「お待たせしました」
どうぞ、と部屋に招き入れる主は、嬉しそうだ。
部屋の中は変わらずに殺風景で、いつでも退去できる状態。
(まあ、もうさせねぇが)
胡坐をかいて座る。主が横向きに乗ってくる。
そういう風にしていたのは確かだが。
思わず、主の額を叩く。
「っ!?」
驚いて目を丸くする主を笑う。
(本当、なんで平気だったんだろうなぁ?)
顔が熱い。
だが、気づかれないように左手を取り。
(っ)
目を閉じて、身構えている主を見て、固まる。
「……日本号さん?」
思わず、主の目元を抑える。
「わ」
「目、閉じてろ」
「はい」
気づかれないように深呼吸して、主の左手の内側から、薬指に口を寄せる。
(これは治療だ。治療)
目を閉じて、霊体を視る。凝りを取り出し、いつも通りに神域へ流す。
一度に取れるのは、多くて十二。それ以上は何かに止められる。
それでも、日に何度かやれば、減っては来る。
減った場所が空いているから、凝りが増えているのだろうか。
「……主、ちっと試していいか?」
「っ……は、はい」
空いた場所へ、日本号の神気を流しいれてみる。
「……っ!?」
驚いた主が、手を引いた。
腕の中で目を丸くしている。
「な、なな、何を!?」
左手を右手で押さえて、顔を紅潮させて震えている。
「あー……」
「あんたの霊体に、直接神気を入れてみた」
「凝りが増えるのを抑えられるんじゃないか、と」
娘が涙目になった。
「そ、それは、」
「痛みはあるか?」
「な、ないです、けど!」
「まあ、元々酒で入れてる分もあるし、反発はねぇな」
娘の頭を撫でて、そのまま頬まで降ろす。
「このまましばらく待つぞ」
「な!?」
「なんかあったら、大事だろうが」
体中を真っ赤にしている娘を見ていて思い出す。
そういえば最初から、娘は治療で頬を染めていた。
それはきっと、そういうことだ。素直で、隠せない性質の娘だった。
「……なあ、見合い、なんでするんだ?」
「それは、子供が……跡継ぎが必要だから」
「それだけか?」
「それだけです」
うる、と娘の目元が潤む。
「も、もういいんじゃないでしょうか?」
「まだだ」
逃げ出しそうな娘の頬を撫でると、娘はぴたりと止まった。
「に、日本号さん……っ」
「なんだ?」
「今日、変じゃないですかっ?」
「そうかもな」
変にもなる。愛しい娘が、こんなにも無防備に傍にいるのだから。
「ぇ!?」
「ははっ、真っ赤だ」
「ぅ……っ」
おそらく、揶揄う日本号も赤いだろう。
慌てる娘を見つめる瞳もきっと、蕩けるほどに甘くなっている気がする。
でも、それで伝わるような娘じゃない。
「……あんた、あいらしかね……」
囁くと、さらに赤くなる娘を、日本号はいつまでも見ていた。