時の政府の一室に通された日本号は、どかりと椅子に腰掛けた。
到着したのはついさっき。
転移ゲートを超えた先で、すでにあの職員が待ち構えていた。
「審神者様、お待ちしておりました」
「え?」
「先方はお待ちであられます。すぐに御支度を」
そう言って、さっさと主は連れて行かれた。
詳しいことは言われなかったが、このやり方は覚えがある。
主に加護を与えている神が、待っているのだろう。
神に目見えるために、主に支度が必要というのはわかる。
深く息を吐く。
今朝は、危ない所だった。
朝、いつものように主の部屋に行けば、既に出掛ける用意を終えていたのだ。
行動力があるとは知っていたが、まさか一人で済ませようとするとは。
(悪い癖だよな)
頼らないことに慣れてしまった主は、加護の件さえも一人で訊ねるつもりだったのだろう。
「どこへ行く」
「……時の政府へ」
顔ごと視線を逸らした主に、日本号は息を深く吐いた。
「少し待て。俺も行く」
「え、一人で……」
「行く」
なんとか主を頷かせて、そこからは急いだ。
何しろ、待たせ過ぎれば、一人で行くのが目に見えている。
同室に身支度を手伝ってもらい、ゲート前で待っていた主の元へ急いだ。
「用意できたぞ」
「あ、日本号……さん」
日本号の姿を認めた主が硬直した。
内番着でも戦装束でも、和正装姿にしたからだろう。
「な、んで」
ゆっくりと、主の頬が、耳が、首が、淡い桃色に染まる。
「おかしいか?」
「いえ! 全然! か……」
「か?」
「いいい行きましょうっ」
動揺する主の隣に立つ。
「今日は隣におらんとな」
「……私なんかじゃ……」
耳元に顔を下げて、囁く。
「んなことねえよ。今日はいっとうあいらしか」
「に、日本号……っ」
朝の覚悟の決まった顔より、よほど良かった。
戸を叩く音に、顔を上げる。
「お待たせしました」
職員の後ろに、白い影が立っていた。
「……主?」
日本号が呼ぶと、びくりと身体を震わせる。
職員は苦笑しながら、その背を部屋の中へ押した。
「少しだけ時間をとっても」
「い、いいですっ」
部屋に入ってきた主。
白い薄布の向こうで、不安そうな瞳が揺れる。
息を呑んだ。
白の直衣。
緋袴。
一族だけに伝わる白拍子の装束。
白銀の髪飾りから流れる黒髪を、薄布が柔らかく包んでいた。
布越しに覗くのは、愛しき娘。
「……」
言葉が出なかった。
「……こ、これ、うちの正装で……」
「に、似合わないんですけど」
震える声。
「……似合うさ……」
掠れた声が、日本号の喉を震わせる。
それ以上の言葉が、出てこない。
目が離せないまま近づく。
「……日本号さん?」
その肩にそっと手を伸ばしかける。
「では、参りましょうか」
職員の苦笑の混じる声に、二人で我に返った。
「……あまりお待たせできませんので」
少し申し訳なさそうな職員に問いながら、主の肩に手を置く。
「主の加護の神か」
主が小さく息を飲む。
職員は、頷いた。
「月詠様であらせられます」
月。
その一文字だけで、主の肩が小さく震えた。
日本号もまた、静かに息を呑む。
神の名としては、あまりにも大きい。
案内されたのは、特別な場だとよくわかった。
途中から職員は案内を辞した。先に進めるのは、呼ばれた者か、資格を持つ者だけだから、と。
主の手を取り、ゆっくりと歩く。
「……日本号さんがいて、良かった……」
静かな空間に、主の小さな声はよく通る。
日本号は答えずに、ただ苦笑する。
(そりゃ、俺の台詞だ)
声を出してはいけない気がしていた。
ここはもうほとんど神域。
勝手に口を開くことは、出来ない。
主の前、震えることなどないが、戦場なら槍を構えずにはいられないだろう。
主の被る薄布に、護りの縫取りがある。
神威に人が耐えるための。
やがて、八畳ほどの部屋にたどり着く。
その入り口に、二人並んで膝をつき、頭を下げた。
奥に御簾がさがり、その向こうに髪の長い少女のような人影が映る。
「……あらまあ」
「まさかの組み合わせねえ」
コロコロと錫の鳴るような声。
月と宵闇の静けさを体現するような存在感。
これが。
月詠。
天照大神の妹姫。
月を統べる神。
「顔をおあげなさいな」
「それで、何を願うの?」
思ったよりずっと気さくに、主に問いかける。
主は震えている。
「あ、の、ずっと、ご加護いただきまして、ありがとうございます」
主の礼の言葉にまた、軽やかな笑いをこぼす。
「いいのよ、あなたは、私の愛し児だもの」
「それで、その刀と契りをむすんでいるようだけど」
続いた言葉に、日本号も覚悟する。
やはり、気づかれていた。
主は気づいていないが。
「っ! え、い、いえっ」
「その、彼は、私の身体には大きすぎる霊力、のために、その、そうしてくださっているだけ、でしてっ」
顔を上げて、慌てている。
「ええ? でも……つながっているわよ?」
「っ!?」
視線を感じて、日本号は伏せたまま、声を出す。
「月詠命様とお見受けいたします」
咎めはない。そのまま続ける。
「主は、御加護により、短命となっていることを存じておられますか」
「主? ……ああ、そちらも絡むのね」
「私は、この方の隣を、歩きとうございます」
「っ日本号さん!?」
「どうか、今一度、その加護を弱め、私に預けていただきたい」
「なっ」
慌てる主に落ち着けと言いたいところだが、神威が強まり、頭をあげられない。
汗が首筋を伝い落ちた。
静寂を長く感じる。
「……私の愛し児は、闇に好かれやすい」
「加護はその魂を守るものである」
「あなたはそれを完全に守りきれる?」
また一段、神威が強くなる。
主には何も効いていないようだが。
ここで耐えられぬようなモノに、預ける気はない、ということか。
胎に力を込めて、ゆっくりと答える。
「はい」
主が隣で息を呑んだのがわかった。
「……愛しい児、あなたが望むなら、弱めてもいい。でも、無くすのはできない」
日本号に対するのとは違い、柔らかいが申し訳なさを潜ませて、月詠神がいう。
主は、少し息を吸い、静かに頭を下げた。
「それでもいいです」
「私は……もう少し、この方といたい……」
部屋から音が消えた。
日本号は、その意味を理解するまで、息をすることさえ忘れた。
(今、なんて)
頭を下げたままの主は、首から上を濃い桜色に染めている。
御簾の向こう、コロコロと愉しげな笑い声がした。
「ふふ、その顔で言われては敵わぬな。よいだろう」
「必ず護れよ、九十九の神、日本号」
改めて、日本号は頭を下げる。
「はい、必ず」
主も共に頭を下げた。
「ありがとうございます……っ」
涙ながらの声の後だ。
日本号はぎくりと身体を強張らせた。
御簾があがる音。
近づいてくる重圧。
そして、主の前、幾重にも重ねた衣が広がる。
「加護は弱くなっても、あなたはずっと私の愛し児よ」
「……どうか幸せになってちょうだい」
まるで、母のように慈しむ姿が目に浮かぶが、視線は向けられない。
関係ない、見るなとばかりに、神威を押し付けてくる。
「はいっ」
主の涙交じりの答えを受け。
さや、と衣擦れの音が遠ざかる。
その最中。
日本号の耳にだけ、それが届けられた。
「……もし、愛し児が傷つくことがあれば、返してもらうぞ」
肝の冷える声は、流石に古き月の神。
退出前、日本号は立ったまま、もう一度御簾の向こうに頭を下げた。