あれから毎朝日本号が部屋に来る。
部屋に来て、夜に増えた分を取り出すのだという。
寝起きの良い自分が少し恨めしい。
朝から日本号を見て、ただ嬉しいと思ってしまう。
「主は、やりたいことねぇのか?」
終わってから聞かれて、困ってしまう。
私がやりたいことなんて、思いつかない。
強いていうなら、日本号のやりたいことを見てみたいのだけど。
「もう、よくわからなくて」
口には出せずに呟くと、思案した日本号は庭へ私を誘った。
本丸の庭。
見たことはあってもいったことはない。
私の本丸の世界は、この屋敷とそこから見える庭だけだったから。
靴を履いて、玄関から庭に回る。
後ろを振り返ると、日本号は何故か後ろからついてくる。
前でも横でもなく。
……私を後ろから見ている。
どういうことだろう。
とりあえず、歩くなら歩こう。
土の上に足を置く。一歩、また一歩。
石畳より、気持ち分沈む感触に、地面を軽く押し返しながら歩く。
生家の庭でもよく走り回って遊んだ。
夢の中のように。
もう感触なんて覚えてないけど。
「主、おはようございます!」
声を掛けられ、顔を向ける。
そこにいたのは、蜻蛉切。
今のは私にかけられた声だろうか。
軽く日本号を振り返る。
彼は何も言わない。
「今朝は散歩ですか?」
蜻蛉切に向き直る。
「は、はい」
「良い天気ですから、心地よいでしょう」
その視線が空に向いて、私も上を向く。
抜けるような蒼天。
懐かしい、あの日のような。
「……はい」
耳の奥で、笑い声が聞こえた気がして、口が緩む。
「はい、本当に」
子供の頃なら、こんな日は朝早くから皆で出掛けていた。
「ねぇねー」
「早くしないと朝ごはんに間に合わないわよー?」
「やぁ」
私の手を引く、姉様。
遠い、あの日の優しい記憶。
視線を戻すと、蜻蛉切が優しい眼差しで私を見ていた。
「鍛錬ですか?」
「はっ」
「では、きっと朝ごはんも美味しくいただけますね」
「は、はい」
「……」
「……あの、何か?」
そういえば、まだ彼には言っていないと気づいた。
これぐらいなら、いいだろう。
少し息を吸って、吐いて。
驚かせないように。
いつもどおりに。
「……お、おはよう、ございます」
「……蜻蛉切さん」
なんとか、言えた。
昔のようにはいかないけど。
ちゃんと、挨拶できた。
少し誇らしくなって、笑いたくなって。
「おはようございます、主」
蜻蛉切がまた、返してくれる。
どちらともなく笑い合う。
なんの含みもなく。ただ挨拶をしただけだ。
ただそれだけだ。
それだけなのに、胸の奥が温かい。
蜻蛉切が去った後、日本号は私の頭に軽く手を置いた。
私は日本号を見て、また嬉しさを潜ませて、笑った。
いいのかな。
こんなふうに、して。
こんなふうに、関わって。
わからない。
でも、日本号が笑ってくれるから。
たぶん、きっと、これでいい。
朝食後、書庫へ行って、過去の戦績資料を取って。
引継ぎ資料を長谷部に任せてしまった後。
迷う私は、日本号が使っているという部屋に連れてこられた。
部屋の中にいた御手杵が追い出されて。
胡坐をかいた膝の上、左手を取って、告げられる。
「増えてる」
「え」
「こんなに早く増えることなんてなかったろ」
今日は特に霊力を使っていない。
それでも、増える。
忘れていた。
そうだった。
先代もそう。
私もそう。
元々多い。
それがさらに加速してる。
わかってたのに。
「まずは、吸うぞ」
「は、い」
呆然とする私の薬指の下に、日本号が手の甲から口を付ける。
見えているはずなのに、何も見えない。
私の中に温かい波が入ってきたのに、すぐに引いていった。
「主……」
「……やっぱり、私は……」
確かに、増えてる。
意識しなくても、霊力は勝手に渦を巻いて、固まってしまう。
あんなに日本号が頑張ってくれても。
どうにもならない。
「なんでだよ……」
日本号から、低く唸る呟きがもれる。
目を閉じる。
やっぱり、もう時間は少ない。
これは変えられないのかもしれない。
もしかしたら、なんて。
希望を持っても。
打ち砕かれる。
外から鳥の囀りが聞こえる。
風に揺れる木の葉の音が聞こえる。
遠くで、水の流れる音が聞こえる。
ゆっくりと瞳を開く。
「やっぱり、止められない……」
「……勝手に、増えちゃう……」
日本号が腕に力を込めて、私を自分の胸に押し付ける。
「大丈夫だ」
「俺が何とかするっていったろ」
「俺のことはまだ信用できねぇか」
ふるふると首を振る。
信用なんて最初からしてる。
でも、それとこれは別だ。
(……姉様……)
怖いよ。
怖い。
このままじゃ、日本号が壊れる。
無理だって知ってしまったら。
そんなの。
「もう一度だ」
日本号は腕を緩め、また左手を取る。
さっき、何も変わらなかったのに、何をする気なのか。
左手をじっと見ていた日本号が、徐に手を返す。
(え)
掌側。
薬指の付け根に。
口が。
(えっ)
手の甲どころじゃない。
なんで。
なんでそこに。
息がかかってる。
口が触れてる。
驚きで動けない。
私の中に、何かが触れてくる。
何かを強く引き上げられる。
今までの比じゃない。
何が起きてるの。
身体が軽くなっていく。
何これ、怖い。
何が起きて――。
(大丈夫)
誰かの声が耳の奥で聞こえた。
姉様のような、他の誰かのような。
温かくて静かで優しい声。
日本号の目が私に向いて。
その手が耳元の髪を撫でる。
ほろり、と一滴が眦を流れ落ちた。
「主?」
手が離れ、私は目元をぬぐう。もう涙は出ていなかった。
「ち、ちがうんです、これは」
「なにか、今、外れた気が、して」
「うれしくて」
あれは誰だろう。
記憶にない声。
でも、懐かしい声。
「……まあ、うまくいったみたいだし、いいか」
日本号がいつものように、私の頭に軽く手を置く。そのまま、ぽんぽんと叩く。
「うん、こっちのがいいってことか」
「今度から、こっちだな」
とんでもない言葉に、目を見開く。
「こ、こっちって」
「内側の方が、あんたに届く」
「ぇえっ」
日本号の手を掴んで止める。
「ま、まって。それは……っ」
さっきのは今までより、近い。近すぎる。
「大丈夫だ。俺は壊れねぇよ」
「そ、そうじゃなくて……っ」
「このままもう少し休んでろ」
「そういうことでもなくて……っ」
日本号が私の顔を覗き込んでくる。
「ははっ、桃の実みたいに真っ赤だぜ」
膝の上で覗きこまれると、更に距離が近づく。
やめてほしい。
心臓が早すぎて、呼吸も止まって。
どうにもできない。
どうして、そんなに普通にしているの。
私ばっかり、こんなドキドキさせられる。
嬉しそうな日本号に、何を言っても勝てそうもなかった。
とりあえず、膝から降りたい。
それも聞き入れられなかった。