朝食後、足元に滑り込んできた黒い塊に足を止める。
猫、ではない。
もっと形の不確かなモノだ。
「鵺ー!」
聞こえた声に顔をあげる。
金の髪の獅子王だ。いつも肩に乗っている鵺がいない。
つまり、この足元のは。
「主、すまねえ。鵺の奴がいきなり飛んでっちまって」
獅子王が鵺に手を伸ばす。
「ほら、主が困ってんだろ、鵺」
する、と鵺が私の陰に隠れる。
「鵺さん?」
しゃがんで手を伸ばすと、目元を擦り付けてくる。
可愛い。温度はないけど、なんだか気持ちがほわほわする。
「んっ、獅子王さんがお困りですよ」
「お困り……いや、困るのは主だろ!」
顔をあげて、獅子王に首を傾げる。
「困りません」
「は」
「鵺さん、そこが心地よいのですか?」
また鵺に視線を向ける。
指先を辿り、手のひらに乗ってくる。
不意に、鵺が持ち上げられた。
日本号がそのまま獅子王に渡す。
「獅子王」
「あんがとな、日本号」
「おう」
あまりに唐突で、驚いた。
「日本号さん?」
呼んでも視線を顔ごと逸らされる。
どうしたのだろう。
悪いことをしたみたいな、罰の悪そうな顔をしている。
後で聞いてみよう。
「獅子王さん、鵺さんを叱らないであげてください」
「え、あ、ああ。でも、こいつ、そんなこと言ったら、調子に乗るぜ?」
「大丈夫です。猫みたいなものでしょう?」
「猫って」
獅子王の肩に手を伸ばすと、鵺が綿雲のような黒い体を伸ばしてくる。
可愛い……。
「日本号さん?」
「日本号?」
何故か間に日本号の大きな手が入って、遮られた。
「なんでもねえ」
なんでもなくはないだろう。
どうしたというのだろう。
鵺に何かあるのだろうか。
……あるのかもしれない。
私にはわからないけど。
そうだ、と獅子王が日本号を見る。
「日本号、畑当番だったろ」
「あ? あー、そうだったか?」
「俺もだ」
獅子王が私を見て、笑って手を差し伸べる。
「な、主は畑行ったことないだろ?」
「は、はい」
「んじゃ、行こうぜ。今日は面白いもんも見られる」
「…………面白いもの?」
日本号を見上げる。その視線は獅子王に向いている。
「何かあったか?」
「収穫、今日は燭台切だからさ」
「なるほど」
(なるほど?)
「張り切ってたし」
「何があるんですか?」
獅子王は笑う。
「それは見てのお楽しみ、さ」
差し出されたまま獅子王の手を見て、日本号を見て。すすっと、日本号のそばに寄る。
「じゃあ、行ってみます」
日本号を見上げる。
これは、行っていいんだろうか。
「ああ、行くか」
日本号が軽く頷き、こちらへ手を差し出した。大きな手に自分の小さな手を重ねる。
しっかりと握り返された手に、初めて手を繋いだと気づいたが遅かった。
なんで。
自然に、やってしまった。
これは違う。
間違えた。
でも、少しだけ。今だけだから。
歩き出してしまったから、離すタイミングがないだけだから。
畑は思ったよりは広くない。二振で世話をできるギリギリの範囲なのだろう。
でも、育っている作物はどれも彩りの良い葉が揺れている。
私は木陰で獅子王と日本号の作業を見ていた。
内番作業は意味があるから、手は出せない。
木陰で上を見ると、木漏れ日がキラキラしている。
「主?」
「わ、主がいる!」
「こら、鯰尾」
「だって」
同田貫正国、鯰尾藤四郎、一期一振の三振りが声をかけてきた。
軽く頭を下げる。
「ああ、日本号は畑か」
私の視線の先に気づいた同田貫が頷く。
「……皆さんはどちらへ?」
問いかけると、鯰尾が元気に答えた。
「釣り!」
「釣り?」
「あっちの川で釣れるって、山伏さんが言ってたから!」
釣りのできる川があるらしい。
自分の本丸なのに知らなかった。
「それは楽しそうですね」
「主も……」
視線を畑に向ける。
ちょうど日本号が獅子王の頭を撫で回しているところだった。
「……主、今夜の夕食を楽しみにしてくだされ」
「いーっぱい釣ってくるから!」
「はい」
三振を見送り、一息つく。
少し、緊張した。
……それにしても、と畑を見る。
私といるより、日本号は自然体な気がする。
気を遣わせている。
それが申し訳ない。
本当に、日本号の望みを叶えるのは、合っているのだろうか。
ざっと強く吹いた風に、髪を抑えて目を閉じる。
あと少しだけ、のつもりだったのに。
一日一日が楽しみになりつつある。
……姉様に、なんて言えばいい。
先に逝った人たちに、なんと言い訳すれば。
(からかわれるだけかも)
そう思ったら、苦笑が浮かんだ。
(あと、少しだけだから)
自分に言い訳しながら、私は大好きな人の笑顔を心に留めた。
夕食前、また私は日本号の膝に乗せられている。
やっぱり霊力が増えすぎてるって。
どうりで頭が少し重い。
左手の内側から薬指の付け根に口付けられながら、少しだけ目を開ける。
真剣な横顔。
意外と睫毛が長い。
髭が生えてる。
男の人に見える。
(……なんでかな……)
最初から目が離せなかった。
ずっと最初から。
子供の頃から周囲には女ばかりだし、免疫がないといえばそうなんだけど。
目を閉じる。
私の内側。何かを動かされてる。
たぶんそれが固めた霊力。
日本号は神域に流しているから平気だって。
それは、本当に平気なのだろう。
調子が悪そうには見えない。
私にも、そんな風に霊力を逃す場所があれば。
「……ここまでだな」
熱が離れても、目を開けられなかった。
さっき、目を開けるんじゃなかった。
今頃になって、恥ずかしさが襲ってきた。
「主?」
低い声が身体に響いてくる。
優しい声。
温かい声。
身体が熱い。
「……日本号さんは」
「あのように笑うのですね」
恥ずかしさを堪えて、目を開ける。
思い出すのは畑での笑顔。
「お、おう?」
「畑で、獅子王さんと」
「ああ、あれか。あれは……」
「私には、気を遣っていただいているようで」
「は?」
「少し、申し訳ないです」
見ていると、大きな手が頭に乗せられ、見えなくなる。
「何言ってんだ」
「あいつらと同じってわけにゃいかんだろ」
「あんたは……主なんだから」
そう。
私は主だ。
「そうですね」
目を閉じる。
主でいられるのは。
あと少し。
わかってる。
戸を叩く音がした。
「主、そろそろ夕餉の提供時間です」
長谷部の声に、起き上がる。
「はい、ありがとうございます、長谷部さん」
立ち上がった日本号を振り返る。
「では、参りましょう。日本号さん」
そうして、二人で部屋を出る。
今日は三人でテーブルを囲むことになりそうだ。