日本号は主の部屋の前、足を揃えて座り、待っていた。声がかかるのを。
やがて、小さな声が聞こえた。
「……夢?」
戸惑いの多い声。それはそうだろう。
「主」
声をかけると、少しの間の後で、戸が開いた。
夜着姿の主が目を丸くしている。夢の中のように。
「号……っ」
そして、慌てて自分の口を押え、あたりを見回した。
「俺だけだ」
「……そう」
胸をなでおろし、主はすっと無表情になった。
「なんで」
「どこまで覚えてる」
先に問うべきことを問うと、主は少しだけ眉根を寄せ、目を閉じた。
「あれは、本当に?」
「本当に――どうにかできるのですか」
日本号を見る冷たい眼差し。だと思っていたが、夢のあとならわかる。
これは、心配をしている。
「俺を誰だと思ってる」
「日ノ本一の槍だぞ」
日本号の返事に対し、主は深く息を吐いた。
「……とりあえず、入ってください」
招かれた部屋に入る。何もない殺風景な部屋だ。
障子を閉めた主は、日本号の前に座った。
「まずはどうするのか教えてください」
「無理なら止めます」
無表情ながらも、覚悟の決めた強い眼差しで言う主。そこに昨日までの諦めは見えない。
こうでなくてはな、と日本号は口角を上げて、徳利を出した。
「俺の酒で、あんたと俺をつなぐ」
「あとはあんたから凝りを取り出す」
「そんだけだ」
小さく眉根が寄る。
「昨日の?」
「ああ」
深く息を吐く主に酒を差し出す。
「あんたが俺を拒絶しなきゃ、できる」
「……試すだけですから」
主は日本号の酒を一息に飲み干した。
その小さな左手を掴む。
じっと霊体を見て、日本号は薬指の付け根に額をつけた。
「っ!?」
「じっとしてろ」
触れると、霊的な繋がりを感じる。昨日より少しだけ強い。
「……ぁ……っ!?」
凝りを意識して引っ張り上げる。
「ぁ……ぅ……っ」
苦し気な主の背を撫でる。
どろりとした昏い霊力の塊が一つ。日本号の神域に流れる。
続けて、と思ったが、もう届かない。
「主?」
「……はぁ……っ」
荒い息をつく主が日本号を見上げる。
「……済み、ました……?」
「まだ、ひとつだ」
こんな細い身体に、どれだけ溜め込んでいる。主の霊体はまだ暗く澱んだままだ。
それに、これだけでも主には負担が大きいらしい。
そっと背中を撫でる。
「少し眠れ」
「……すみ、ませ……」
謝りながら、主の意識が途切れる。
そして、勝手にまた主の中で、霊力が渦巻いて。
凝りを増やした。
日本号は頭を抱える。
(……嘘だろ……っ)
慣れれば、もう少しとれるかもしれないが、まさか減らしたそばから増えるとは思わなかった。
しかも、本人は眠っているというのに増えたということは。身体にそれが染みついているということだ。
試しに、また凝りに触れようとすれば、弾かれた。
先行きは暗い。
だが。
夢の中、主は本当に楽しそうに「生きていた」。
あの姿が本来なら、今ここにあるべきものだ。
数分で目を覚ました主が瞬きする。
「……少し、軽くなりました……?」
「ありがとうございます」
礼を言われて、日本号は苦いものが喉奥にこみ上げた。
「はぁ、全然だろ」
「え」
「あんた、寝てる間も増やしてたぞ」
「……」
わかっていたのか、主は表情を変えない。もともと現実ではそう変わらないが。
日本号が見つめる視線から、主は視線をそらさずに受け止める。無表情に。
主がその調子なので、日本号は娘を見つめたまま考え込んでいた。
霊体は変化していない。暗く澱んだ塊で埋まっている。
ひどく重そうだ。
手を伸ばす。なんとなく。
主がぴくりとわずかに身体を揺らした。
だが、逃げない。
日本号は主の頭に手を置く。
主がきゅっと目を閉じる。
(……なんだ、その反応)
手を軽く上げる。主が薄目を開ける。
手を置く。主がまた、きゅっと、目を閉じる。
そんな場合ではないのに、胸の奥が小さく温かくなる。
「……主」
「はい」
「あんた、面白いな」
「はい?」
「くくっ、いや、うん。まあ、もうちっとやるか」
主の手をもう一度とる。
「まだやるんですか」
少し呆れの混じる声。
「おう。消えた分増えただけなら、マシだろ」
「……」
「そうだ、こっちこい」
「え」
主の返事を待たずに、その体を膝に乗せる。
「っ!?」
すっぽりと収まる小さな体の耳元で囁く。
「じっとしてろ」
主の左手を掴んで、握る。
「っ」
「目、閉じてろ」
「な、なんで」
「その方が落ち着くだろ」
主は何かを言いたげだが、またきゅっと目を閉じた。
ああ、そうか。これ、さっきから目を閉じる時だけ、表情がある。
だから、なんか温かい。
「くくっ」
大きく主の身体が跳ねた。
「っと」
「ふ、ふざけるなら、やめます」
「悪い悪い。ちゃんとやるって」
薬指の根元を数回撫でる。
ここが入口。だが、さっきは一回きりだった。
だったら。
主の手を口元に近づけ。
手の甲から薬指の根元に口を付けた。
霊体に、直接触れる感覚。
これなら、もっと奥まで届く。
凝りを引き寄せる。
ひとつ。
「……ぁ……っ」
ふたつ。
「……ぅ……っ」
みっつ。
「……く……ま、っ」
口を話す。
「くま?」
主を見ると、顔を紅に染め上げ、涙を目元に溢れさせて震えている。
日本号が離れたとわかると、震えながら瞼があがり。
さらに顔を赤くする。
それに、日本号はにっと笑って見せた。
「大丈夫そうだな?」
びくりと震える主はもう、無表情ではなかった。
もう一度同じようにする。
だが。
「……主」
「む、無理です」
「なんで」
「もう下ろして……っ」
「まだ終わってねぇ」
今度は全然霊体に触れられない。
完全に塞がれている。
緊張のせいだろうか。
夢の中のように、抱きしめて、身体を優しく叩く。
「怖くない怖くない」
「っっっ」
さらに身体を固くしている。
なんだ、この反応。面白い。
ただし、続けても一向に届かなくなった。
「……今日はここまでだな」
膝の上から降ろしても、主は真っ赤になったままだ。俯いて震えて、返事もできない。
だが、霊体の主はこの程度では暗く澱んだ凝りをいくつも抱えたままだ。
先は長い。
見ている端から、また霊力が渦を巻く。
「……おい」
そして、減らした筈の凝りがまた増えた。
「……すみません」
小さな声で謝る主の頭を撫でる。
「まあ、長期戦は覚悟の上だ」
「楽にはなってんだろ?」
頷く主の頭を撫でる。
「ならいい」
日本号の言葉に顔を上げた主は、また無表情ではあったが。少しだけ眉を下げている。
「いい、んですか」
「毎日やりゃいい」
「……毎日」
虚空を見つめて、呟く主は顔をそむけた。耳まで赤い。
「……毎日……」
声は震えていた。でも、嫌がってはいなかった。