二人きりの部屋の中、甘い声音が私を呼ぶ。
「今更恥ずかしがることかよ」
「恥ずかしいのが変わるわけないでしょうっ」
言い返すと、くつくつと日本号は笑う。笑って、膝を叩く。
「早くしねぇと、誰か迎えに来ちまうぜ」
「……ぅ」
観念して、日本号の胡座の上に、横向きに座る。
太い指が私の首を撫でる。
「んっ」
「くくっ」
「は、早くしてください」
私が涙目で見上げて抗議すると、日本号はピタリと止まる。
それから、じわじわと頬を染める。
「あんたな……それヤバいぞ」
「な、なにが」
「いや、わかんねぇならいい」
左手を取られ、目をきゅっと閉じる。
今の何がいけなかったのだろう。
指先に口付けられ、びくりと体を震わせる。
「号さん」
「あとで、だよな」
それから左手の薬指の根本に、掌側から口付けられる。
これはゆるやかでいいのだ。温かい湯に揺蕩うようで、心地よい。身体も軽くなる。前よりもずっと時間は長くなっている。それでも、どこかでは止まっているらしい。
「このぐらいか」
日本号の呟きに身構える。
直ぐに、熱が、日本号の神気が少し入ってくる。熱は私の中を撫で回して、落ち着くことがない。
「っ、号……っ」
指先に口付けられる。この最中は、感覚が鋭いからやめてといっているのに、やめてくれない。
「むしろ、この程度にしてる俺を褒めてくれていいんだぜ」
何を言っているのか。理不尽すぎる。
指先から、掌の中心、手首の裏側、と口で触れられる。
身体の中はまだ熱が回り続けている。
「さっさと慣れろ」
「……無理です……っ」
「くくっ」
実に楽しそうに、治療をしてくる。
本当にこれは治療なのだろうか。
「あんたが凝りを作らなくなれば、必要ねぇが」
それが一番難しいと知っているのに、言う。
子供の頃から習慣づいているから、やめようとしてやめられるわけじゃない。今だって、外に溢れてもいないのに、霊力が渦巻いて。
「……毎日こうしてりゃ溜まることもねぇけどな」
「毎日って。……他の方法は?」
「今更するわけねぇだろ。あんたに触れられる大義名分だ」
「……そんなもの、もういらないじゃないですか」
呟いた瞬間、強く抱きしめられた。
「そろそろ襲ってもいいよな」
「は!?」
戸を叩く音が遮る。
「主、そろそろ宴の準備ができますので」
「ほ、ほら、号さんっ。長谷部さんが迎えに来ましたよっ」
腕が緩められ、ホッとしたのも束の間だった。
「長谷部、少し待て」
「は!?」
「その顔で行く気か」
真剣に言われながら、頬を撫でられる。
「どういう意味ですか」
「男を誘う顔だ」
「……そんな顔できませんっっっ」
思わず、日本号の顔を両手で叩いていた。
それでも、日本号は離してくれなかった。
長谷部には後で行くと言って。
大広間ではだいたい夜には、人が集まるようになった。
「大将、これ」
厚藤四郎がつまみの皿をテーブルに並べる。
「ありがとうございます」
礼を言うと、いいってことよと軽く返される。
私の手元には酒のはいった盃がある。
隣で日本号も盃を傾けている。
皆、楽しそうに騒いでいる。
今はこれが日常になりつつある。
「粟田口部屋の隣が空き部屋なっててさ」
「そこに今日冥府の奴、出たぜ」
「後藤がこう、軽く消してた」
後藤藤四郎が離れた場所で、声を上げる。
「厚!? 何言ってんだよ」
「お前だって、ついでにその辺の潰してただろっ」
対して、厚は苦笑いしつつ、他のテーブルにもつまみを運んでいる。
「すっかり日常だな」
「……後で、石切丸さんにお祓いを頼みましょう」
「伝えておこう」
隣で三日月宗近がおっとりと答える。
あれから大広間では、三日月がいつの間にかそばにいる。
私から月詠様の気配が濃く感じられると、こっそり教えてくれた。
加護が弱まった後なのに、なぜわかるのだろう。尋ねると、弱まったからだと、言われた。
もう少しちゃんと説明がほしい。
「よろしくお願いします」
「うむ」
「主」
三日月の注ぐ酒を、日本号が奪って呷る。
「やめてくれや」
「あなや」
「号さん?」
見上げると、頭に手を置いて宥められる。
「なんで?」
「あんた、酒強くないだろ」
「でも、号さんのは酔わないです」
「他のは酔うだろ」
「……試しても」
「だめだ」
実は手元の盃に入っている酒に、日本号の神気が入っているらしい。以前もそうだと言われたが、全然気づかなかった。
それだけ、大切にされるのはくすぐったくて、嬉しい。思わず、くすくすと笑いがこぼれる。
「わかりました」
日本号は私の答えに、満足そうに盃を傾ける。
それで、時々頭を撫でてくれる。
周囲から生温かい視線を感じるけど、そろそろ慣れてきた。
だって、日本号を好きなことはもう隠す必要がないから。
「日本号、今日は唄わないのか?」
どこからか声がかかる。
「ああ?」
「主も聞きたいよなあ!?」
「なんですか?」
「黒田節だ」
「酔うと定番だよなあ」
はじめて聞いた。
歌ってる姿なんて、見たことない。
見たい。聴きたい。
じっと日本号を見上げる。
日本号は目を細める。
「……少しだけな」
私だけに向けられる甘い声音に、目を細める。
盃を持ったまま、日本号が歌い出す。
低い声が大広間に深く響く。
長くないけど、十分すぎる破壊力があった。
「……ぅぅ……っ」
「どうした?」
「ん……ちょ、ちょっと、おまちください……」
歌い終わった日本号が、両頬を押さえて俯く私を覗き込む。
今の、すごく、心に響いてきた。酔いがまわってきたのかも。
身体の中、また熱が渦巻いて、たまらない。感情と霊力って共鳴してるのだろうか。
「主は日本号をすいとぅね」
博多に優しい声音で言われ、びくりと肩を震わせる。
「え、あ、その……」
バレてるのはわかっているんだけど。
「違うとか言わんでよ?」
「……違いません、けど……」
顔を両手で覆う。
「号さんの、い、良い声過ぎて……やば……」
日本号が身体の陰に隠してくれる。
「おい、その辺にしとけ」
「ははは、日本号も形無しだなー」
「うるせぇ」
周囲の揶揄う声なんて耳を素通りする。
今はずっと、さっきの歌声が耳に残って幸せだ。
「……今夜はもう、寝とくか?」
日本号の心配そうな声に、首を振る。
「もうちょっと」
「おう」
「……もうちょっとだけ、歌って?」
「はぁ? 大丈夫なのかよ」
「……聞きたい、号さんのお歌」
軽く息を吐いた日本号が、そっと囁いてきた。
「後で、部屋で歌ってやる」
二人の時に、と言われ、素直に喜べた。
私だけ。
特別。
嬉しい。
日本号も機嫌良く盃を煽っていた。
宴会を途中で退出し、部屋に二人きりになる。
他の男士たちに目の毒だと追い出されたとも言う。
治療ではないのだけど、日本号は膝に私を乗せて、低い声で歌ってくれている。
やっぱり、日本号のは、周りに響く良い声だ。前から良い声だと思っていたけど、歌になると、もっとすごく聴き惚れる。
歌い終わった後で、頭をそっと撫でられる。
「……なあ、少しだけ教えるから」
「黒田節、舞ってみんか」
ゆっくりと目を開ける。
「えぇ? できないって……」
「少しだけだ。な?」
舞はすごく下手なのに。これだけは姉様や先生も匙を投げたのに。
でも、日本号が願うと言うなら、断れない。
振りを教わり、動かす動きの硬さに笑われる。
「うぅ、だから……」
「俺だけしか見んから」
「もぅ」
覚えることはできるのだ。
覚えることだけは。
「じゃあ、一番だけ」
「ああ、一番だけ」
舞扇を手に、日本号の声で歌いだす。
さっき習った動きを動かす。
手が硬い。足が攣りそう。
うまくなんて、考えない。
見るのは日本号だけ。
……本当はもっと上手に踊りたいのだけど。
先代の姉様は当代一にもなれる舞手だった。
「楽しければ良いの」
「大切なのはそれだけ」
そう言っていたけど、それだけのはずがない。
一番が終わり、やり切った顔で笑う。
日本号も笑ってくれる。
「初めてにしてはよくできたな」
「号さんが教えてくれたから」
膝に戻ると、頭に手を置いて撫でてくれる。
「あんたなら、いつだって歌ってやる」
「だから、舞は俺だけ、な」
頼まれても、他の人の前でなんてできるわけない。
日本号が嬉しそうに頬を重ねてくる。
「……号さんだけ、ね」
くすくすと笑うと、日本号は更に強く抱き寄せてくれた。
もう明日が来ないと怯える夜は来ない。
大好きな人が笑い続ける明日を教えてくれたから。
きっとこれからも私はこの腕の中で、毎日を過ごすのだろう。
温かい本丸の青空と月の輝く夜に見守られながら。
穏やかな日々を、重ねていくのだ。
(おしまい)