早朝、うとうとと転寝していた日本号の耳に、静かに戸の開く音がした。
見ると、主が顔色悪く、戸口に凭れて、立っている。
「……日本号さん……」
伸ばされた手を掴む。
「主!」
その場にへたり込む主は、首を振る。
「話、を」
「そんな場合じゃねぇだろっ」
手を振りほどき、主が言う。
「聞かせて、ほしいんです」
「なぜ、あなたが私を?」
「引継ぎの子は、もっと素直です」
「私より、よほど」
息を整え、主が立ち上がる。立ち上がり、日本号を見据える顔は、無表情ではなく、苦し気だ。
「あんただって、素直だろ」
「本当はそうだった」
日本号が言うと、主は泣きそうになる。
口が開き、閉じる。何かを言おうとして、躊躇っている。
「言え」
「全部聞いてやる」
手を伸ばし、主の肩を掴んだ。
「聞いてやるから」
「俺に、あんたの時間をくれ」
日本号を見上げる主は、目を見開いた。
それから一度閉じる。
「――はい」
初めて聞く声音で、初めて見る表情で、日本号は息が止まった。現実とも夢とも違っていた。
主に招き入れられ、部屋に入る。
ふらつく主を、日本号は座ってすぐに、胡坐をかいた膝に乗せた。
「……もう、抵抗すんなよ」
主の小さな左手を取り、その薬指の付け根に口を寄せる。
目を閉じて、浅い呼吸を繰り返す主が不安げに呟く。
「どうして、ここまでしてくださるのですか?」
霊体からあふれ出ている凝りを引き出し、神域に流す。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
「あんたが、生きていないからだ」
途切れたところで、一度離れる。
主の目をまっすぐに見降ろす。不安そうな顔の頬を撫でる。主はきゅっと目を閉じる。
「生きて……」
「命の話じゃねぇ」
言いかけをとらえ、遮る。
「あんたはもっと気楽に笑え」
「笑う……」
「その方が、いい」
困ったように眉根を寄せる。
「続けるぞ」
もう一度、凝りを取り出すために、薬指に口を寄せる。
「……ぁ……」
腕の中、目を閉じた主がゆっくりと深呼吸をしている。
霊体に触れ、再び凝りを取り出す。よっつ、いつつ、むっつ、ななつ。
するすると抜け出てくる凝りだが、まだまだ主の中に溜まっている。
幸い、神域に流しているから、日本号に影響らしい影響はない。
(なんでか俺が壊れることを気にしてるからな)
ちらりと主の顔を見る。ばちり、と視線が合わさった。
(俺を、見ていた)
顔に熱が集まりそうになる。だが。
ぶつり。
唐突に繋がりを絶たれ、我にかえった。
「おい」
「な、何もしてないです」
主の霊体は、昨日の朝ぐらいまでには凝りが薄れた。
――今、増えたのは、見なかったことにしたい。
「に、日本号さん」
「なんだ?」
「あの、日本号さんは、私が、その生きてないって」
主の頭に手を置く。主がきゅっと目を閉じる。
「あんた、感情を殺してるだろ」
「……そう、見えますか」
「見える」
「……はぁ」
「そういう生き方は、違うだろ」
頭を撫でて、その手を滑らせ、娘の頬に当てる。
「なあ、笑えよ」
「俺はあんたの笑った顔で酒が飲みたい」
主の顔が赤くなり、華奢な身体がふるふると震えた。
「……何言って……」
そこにいるのはもう無表情な主ではなかった。
日本号の膝から降りようとする主を、止める。
「え」
「もうちっと休んどけ」
「それは布団で」
「ここでいいだろ」
「それは、困ります」
ふいと娘が顔を背ける。
だが、日本号にも困る事情がある。
娘の霊体の凝りは減ったが、減っただけだ。元々幾百幾千溜まっていたものが、簡単になくなるわけじゃない。少しはましになったとはいえ、どす黒さはほんの少ししか薄れない。
何かあってもこの距離なら、すぐに対処できる。
「あんたが、もうちっと心を開いてくれりゃあなぁ」
主の視線が日本号に、ちらりと困った色で向く。
「……これ以上、どうしろと……」
小さく小さく呟く声に吹き出す。
確かに以前とは比べ物にならない。
こんなにも人間らしく不満を口にしている。
「その調子だ」
娘の頭を軽く撫でる。
また、きゅっと目を閉じる。
なんだろう。この小動物は。
「ちょ、日本号さん」
「号さん、でいいんだぜ」
「え」
娘の顔が面白いように固まった。
「くくっ」
「う、うわ……」
そのうえ、顔を自分で隠して、日本号を指の間から覗き見ている。
「……やだもう……」
「ほら」
「呼びません」
「呼んでみろって」
「うぅ」
肩を柔らかくたたく。
かなり表情が出てきたことに、日本号は安堵する。
ここまでの時間、今日は凝りが増えていない。
ひとまずは落ち着いたのだろう。
「今日はもう仕事するなよ」
「は?」
「するなら、俺が付く」
「え」
「増えそうなら止める」
「……」
「人前では出来ないだろ」
娘が視線を外へ向ける。
「……最低限、終わらせるものがありまして……」
「おう」
「……終わったら。もう少しだけ、あなたの時間をください……」
ゆっくりと日本号を振り返った娘は、恥ずかしそうに微笑んでいた。
春の野に咲く小さな小花のように。控えめに。
「んなけち臭いこと言うなよ」
日本号は自分の首元が、ムズムズとこそばゆくなって。
でも、娘の変化が嬉しくて、目を離せなかった。
(そうだ、その顔だ)
「もっともっていっても構わねぇぞ」
「え、い、いえ。少しで、大丈夫です」
慌てた様子で娘が続ける。
それから、柔らかく笑う。
「……それで、十分です」
主が眩しそうに日本号を見つめる。
「何がだ?」
意味も分からず、日本号が問い返すと。
「もう私の時間は多くないですから」
「少しだけ」
言葉の意味を考え、日本号は笑いを消す。
流石に、考えを変えるまでには至っていないらしい。
「……くそっ、絶対、生きたいって言わせるからな」
悔しさの滲む声に、娘が苦笑を返す。
「頑張ってください」
「他人事にすんな」
日本号の指摘に、娘はただ笑って、何も答えなかった。
ただし娘の視線は、少し迷うように揺れていた。