朝早いのもあり、主は机に向き合っている。
先程の最低限の仕事を終わらせるためだ。
日本号はそれを後ろで寝転がって眺める。
ちら、と日本号を見た主は、すぐに視線を仕事に戻した。
(なんだ?)
霊体に変化はない。凝りも増えてはいない。
至って当たり前の光景。
長い髪が揺れる。
ああ、そうか。今日はまだ髪を結っていない。
「主」
びくりと身体が大きく跳ねた。
「なんですか?」
だが、振り返った主は無表情を貼り付けている。
「いや、髪が邪魔そうだなと」
主は軽く自分の髪を持ち上げる。
「……そうですね。そろそろ切ってもいいかもしれません」
「は!?」
「一応、お役目の間は禁じられていたのですが」
「待て待て、何も切れとは言ってねえ」
焦る日本号とは対照的に、主は落ち着いている。
「切るなよ。勿体無え」
起き上がり、主の長い髪を手に取る。冷たくて硬い感触は、黒鋼の糸のようだ。
「いつもは結えてただろ」
「……はい」
「それで十分だと」
するりと髪が滑り落ちた手の向こう、主は頬を染めて俯き震えていた。無表情に。
(なんだ、その反応?)
別に普通のことしか言っていないはずだ。日本号は首を捻る。
主は器用に髪をまとめる。紐ひとつ使わずに。手品のようだ。
「これでいいですよね」
主は息を吐いて、仕事に戻った。
仕事を終えた主を部屋の外へ連れ出す。
この部屋には主一人分の食事しかないので、日本号も食事をするためだ。
ついでに、共に食べることを提案したら、あっさりと頷いた。
半分はこれまで男士と交流を持たなかった主に、慣れさせるため。いきなりは無理だろうし、大広間で食べるぐらいなら出来るだろう。
もう半分は、ほかの奴らに主の変化を見せるためだ。
「おい、二人分頼めるか」
厨に声をかける。中にいるのは厨当番と料理好きな男士が数人。
「日本号が朝食なんて、珍しいね」
歌仙が手を拭きながら、寄ってきた。
「二人分っつったろ」
背後の主を見せると、歌仙が固まった。
「主、和食でいいよな」
「はい。……選べる?」
「洋食も出してくれる。パンとか」
主は瞬きを繰り返す。知らなかったらしい。
「あの、日本号さんと、同じものを」
視線を落とし、主が小さく言う。
「だとよ」
厨は静まり返っている。そらそうだろう、と日本号はニヤニヤと笑った。
「す、すぐに用意しよう!座って待っていてくれ」
次いで、忙しそうに走り出す歌仙他の男士たち。
首を傾げている主を置いて、日本号は近くのテーブルについた。主も急いで向いに座る。
「ここ、どういうシステムなんですか?」
主に説明していると、すぐに歌仙がプレートを二つ持ってくる。
「ありがてえ」
「ありがとうございます」
歌仙に主が礼を言うと、歌仙が嬉しげに微笑む。
「どういたしまして」
すぐに厨に戻ったが、主をじっと見ている。
「いただきます」
主は手を合わせた後、すぐに箸をつけ、食べ始める。小さな一口を懸命に動かして。
無表情だが、時折、ゆるりと口元が綻ぶ。頬が下がる。目を細める。
ああ、やっぱり、と日本号は思う。
元来素直なのだろう、と。
「美味いだろ?」
日本号を見た主が、こくりと頷く。
「……久しぶりに、ごはんを食べた気がします……」
その言葉に、唖然とする。
主は首を傾げた。それから、はっとした様子で取り繕う。
「生家ではちゃんと食べてましたよ」
「ただ審神者になってからは、帰っていませんでしたし」
「ひとりでのごはんでしたし」
深く息を吐く。
「これからはこっちで食え」
何かを言おうとした様子だったが、主は頷いた。
「……日本号さんが一緒でしたら……」
そう、付け加えて。
食後、二人でのんびりと緑茶を飲んで一息つく。
主は戻りたそうだが、日本号は気づかないふりで欠伸をする。
そこに、歌仙が小皿を持って近づいた。
「主、甘いものは好きだろうか」
置かれたのは、ぷるんとした水羊羹。中に餡子が見える。
主は歌仙を見て、日本号を見て、水羊羹を見て。まだ日本号を見る。
日本号が笑っているだけなので、どうしたらいいかわからなくなっている。
「くくっ」
「日本号」
歌仙と主の困った様子の視線を受けて、日本号の口から苦笑が漏れ出た。
「どうなんだ?」
聞かれたら主は、眉を下げる。
「これ、私だけですか?」
「日本号さんには……」
まさか気にしているのが、自分にだけ供されたことだとは思いもよらなかった。
「俺ァ酒のがいい」
「貴殿はそうだろうね」
二振の言葉を聞いて、主は歌仙を見た。
「少しなら、食べます」
「これ、綺麗ですね」
主は一口を口に入れ、目を丸くする。それから、頬を上げて、目を細めた。
「……美味しい……」
ほぅ、と温かな吐息を零す主を見て、歌仙は安堵の息を漏らした。
「口に合ったようで良かった」
「はい、ありがとうございます、歌仙さん」
主が名を呼ぶと、歌仙は驚いた後で微笑んだ。
「うん」
歌仙がいなくなった後。
「日本号さん」
「あん?」
「少し食べませんか?」
「俺は……」
「甘すぎて、食べ切れなくて」
残せないし、と肩を落としている。
「……かせ」
ばくりと残りを一口で日本号が食べると、主はほっと胸を撫で下ろした。
そわそわしている主の頭に、日本号が手を置く。
主が、きゅっと目を閉じて。日本号の手がそのまま動かないのを見て、そろ、と主は目を開けた。
「……日本号さん?」
「あんた、意外と顔に出てるな」
「え?」
「おひたし、好きだろ」
「……」
「伝えてやりゃいい」
「……」
困った様子の主の頭を撫でる。
今すぐには、関わるのはやはり難しい。
だが、少しずつでも、変わればいい。
間に合うようにするのは、日本号の役目だ。
「ま、そのうちな」
「はい」
日本号が席を立つと、主も立ち上がる。
大広間を出る前に、主は厨に小さく頭を下げていた。
たぶん、今頃大騒ぎだろうなと思いながら、日本号は歩き出す。
その後を主がついてくる。
少し歩いて、日本号は立ち止まり、庭に視線を向けた。主も立ち止まる。
主の視線が眩しそうに、青空を見ている。
「夏の景趣に、したらどうだ」
「暑すぎますよ」
「虫取りできる」
「……しません」
「くくくっ」
「しませんよ。もう」
懐かしいものを見るように、主の視線は遠くを見ていた。
主が自室に戻るのを、部屋の前で日本号は待っていた。
今日、主はずっと日本号に着いてまわっていた。
霊力は使わせなかったが、よくわからないタイミングで凝りは増えていた。
歩いている時、庭を眺める時、男士と話す時。
朝減らした分の半分は戻っていた。
(なんなんだろうな、ありゃあ)
他の男士には見えていないようだ。それこそ、御神刀連中なら、分かりそうなものだが。せいぜいが流れが悪い程度らしい。
(俺がわかるからいいけどよ)
「日本号さん?」
風呂上がりの主が駆け寄ってくる。
ほんのりと温まった肌が、桜色に染まっている。
「何かありましたか」
無表情の変わらない主の頬を摘む。
「いや、増えてるからな」
「寝る前にやるぞ」
そのままムニムニと揉む。
なかなか素直にならない表情。これもこれからだ。
「んむ……っ」
日本号の手を外した娘は、頬を染めて俯いた。
「……はい」
部屋の中だと、もう少し表情が緩む。
膝に乗せると、主は目を閉じているが、緊張している。
「疲れたか?」
「……はい」
頭に軽く手を置く。主は少し口元を緩めた。
「ごはんが美味しいことを、思い出しました」
食事を思い出して主の気が抜けたようなので、左手をとって、薬指の付け根に口をつける。
霊体に触れ、凝りを吸い出す。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。
「日本号さんは、いっぱい食べますね」
ぶつり、と吸い出す繋がりが途切れる。
これ以上はダメか。
「主が少なすぎるんだろ」
「俺ァ普通だ普通」
口を離すと、主が目を開く。
そして、ゆる、と口を緩めた。
部屋の外よりもほんの少し、表情が出るのは、ここが娘の唯一の居場所だったからだろう。
「明日から楽しみにしとけ」
「え?」
「厨の奴ら、張り切ってたからな」
日本号が喉の奥で笑うと、娘は困惑を浮かべる。
「どうして……」
「そりゃ、主が美味そうに食ってたからだろ」
「え、顔に、出てました?」
「ちっとだけな」
自分の頬を両手で押さえて、娘の目が柔らかくなる。
(な)
見たことのない笑顔に、心の奥が跳ねた気がした。
止まりそうな呼吸を無理やりに整える。
気づかれないように、問いかける。
「明日は、何する?」
「……あ、明日?」
戸惑う娘の顔を自分から隠すように、日本号はまた小さな頭を撫でた。