Fate/empty Vessel   作:ホーマー

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第1話 四度目の申請

 夏の終わりの光は、この街では白く濁らない。

 

 八月の終わりが近づくと、ウィンチェスターの朝には薄い霧が残るようになる。青江(あおえ)ヒロは下宿の二階で窓を押し上げ、まだ人の出ていない通りを見下ろした。淡い色の家並みの向こうに、大聖堂の塔が四角く突き出している。霧に溶けかけていて、屋根の色までは見分けがつかなかった。

 

 留学して、一年が過ぎようとしていた。

 

 初めてこの窓を開けた朝のことは、いまでも覚えている。あのときは塔の位置さえ分からず、街の地図を何度もたたみ直した。それがいまでは、目をつぶっていても大聖堂まで歩いていける。丘へ上がる坂の傾きも、イッチン川にかかる橋の板が一枚だけ低く鳴る場所も、足のほうが先に覚えた。

 

 階下では、大家(おおや)の老婦人がラジオをつけたところだった。この時間の番組はいつも天気の話から始まって、途中で政治の話に移り、最後にまた天気へ戻ってくる。一年前はほとんど聞き取れなかったその英語が、いまは半分ほど分かる。半分というのは、ヒロにとって決して悪くない数字だった。

 

 洗面所の鏡には、癖のある黒髪を寝かせそこねた顔が映っている。背は高いほうではなく、いくら食べても肉がつかない。日本でもここでも、すれ違った人の記憶に残る顔ではないだろうと思う。ヒロはそれを、不満に思ったことがなかった。目立たなければ、本を読む時間はそのぶん長くなる。

 

 部屋の壁際には、日本から送った段ボールが一つ、まだ完全には片づかないまま積んである。中身のほとんどは本で、そのうちの三分の一は同じ物語の別々の版だった。子ども向けに書き直されたもの、注釈だけで本文の倍ある研究書、表紙が気に入っただけで買った古い訳。同じ話を何度読んでも飽きないというのは、それだけで一種の才能なのだと、ヒロは自分に言い聞かせている。才能でないとすると、ただの偏りになる。

 

 この街を選んだ理由も、結局はそこにあった。留学先の候補はほかにもいくつかあったし、大きな街のほうが授業も設備も充実していると勧められもした。それでもヒロは、地図の上でロンドンから南西へ指を滑らせて、ここで止めた。あの本には、円卓のある城とはこの街のことだと書かれている。書いた本人がそう記しているのだから、それ以上の理由は要らなかった。

 

 机の上のパソコンを開くと、受信箱のいちばん上に、見覚えのある差出人の名前があった。

 

 グレート・ホール資料室。

 

 指が止まった。半分だけ開いた窓から風が入ってきて、めくれたノートの端が乾いた音を立てる。ヒロは椅子に座り直し、背筋を伸ばしてから本文を読んだ。

 

 事務的な英語というのは、ヒロにとって、もっとも読みやすい種類の英語だった。申請の件につき、複製葉(ふくせいよう)の閲覧を許可する。日時は三日後の午前十時。当日は正面の受付で名前を伝えること。手袋はこちらで用意する。

 

 何度読み返しても、文面はどこも変わらなかった。

 

 立ち上がったとき、膝が机の裏にぶつかった。痛みより先に、笑いに似たものが喉から出た。

 

 学期が始まっていたら、平日の午前十時に呼ばれても動けなかった。休暇の終わりにこの返事が来たのは、単に運がよかっただけだ。

 

 写本そのものは、この街にはない。ロンドンの図書館の書庫で、温度と湿度を管理された箱に入って眠っている。ヒロが見られるのは、その一葉(いちよう)原寸(げんすん)で写し取った複製が一枚きりで、それも台の上に一時間ほど置かれるだけだ。それでも半年のあいだ、ヒロは申請の文面を書き直し続けてきた。留学生が学術目的で申請するには目的の欄が短すぎると、三度も突き返されている。

 

 四度目に書いた文章は、いまでも暗記していた。

 

 この写本は、後世が思い描くアーサー王の姿を決めた、もとの文章を伝えています。その姿がどのような手つきで紙の上に置かれたのかを、見たいと考えています。

 

 書いた当時から、自分でも大げさだとは思っていた。それが通ったのはたぶん、担当者が根負けしたからだろう。

 

 昔、それの何が面白いのかと、真顔で聞かれたことがある。うまく答えられなかった。答えられないまま海を渡って、答えはいまも見つかっていない。ただ、面白いかどうかを聞かれると困るものが、世の中にはある。自分は、そのひとつに当たってしまった。このごろは、そう思うようになっていた。

 

 部屋にいても落ち着かなかったので、ヒロはパーカーを引っかけ、財布と鍵だけをポケットに入れて外に出た。

 

 通りに下りるころには霧はもう薄れていて、壁が乾いた色を取り戻していた。ハイストリートは観光客が動き出す前の時間で、パン屋の店先だけが甘い匂いを流している。掃除を終えた店主が水を()くと、濡れた敷石が朝の光をまとめて返した。すれ違いざまに挨拶をされて、ヒロは声を出す代わりに会釈をした。

 

 声を出さずに済む場面では、いつもそうしてしまう。それでもこの一年で、会釈だけは自然になった。最初のころは角度が深すぎて、相手をかえって驚かせていた。

 

 英語は、読むだけならほとんど困らない。十五世紀の(つづ)りでも辞書なしで進めるし、擦れた文字を前後から補うのは、むしろ得意なほうだ。ところが口に出すとなると、話はまるで別になる。留学して二か月目に、通りの向かいのパブで昼食を頼もうとして、注文の一文が最後まで出てこなかったことがある。カウンターの向こうの店主は気長に待ってくれて、その気長さが、かえって耐えがたかった。以来ヒロは、その店の前を通るときだけ歩く速さが上がる。

 

 この街は歩いて回れて、それがヒロには都合がよかった。大聖堂の芝生を抜け、水郷(すいごう)沿いの小道に入り、川に沿って下れば丘のふもとに出る。全部合わせても、一時間はかからない。南へ二十キロほど行けば港と海に届くと聞いているが、そちらへ足を向けたことは数えるほどしかなかった。

 

 大聖堂の前の芝生は、朝露を吸って、まだ重たそうに見えた。塔を見上げると、首が痛くなる角度になる。下から見上げられることを、石を積んだ人間ははじめから計算に入れていた。そう分かる高さだった。ヒロは芝を横切らず、わきの小道を選んで歩いた。

 

 水郷に入ると、空気の温度がはっきり下がる。細い水路がいくつにも分かれ、水草が同じ向きに倒れたまま揺れていた。橋を渡るとき、板が一枚だけ低い音を返す。その板の位置を、ヒロはもう間違えなくなっていた。

 

 水路の(ふち)には、去年と同じ場所に、同じ鳥がいた。名前は知らない。灰色の脚を水に差し込んだまま、こちらが通り過ぎても動こうとしない。ヒロは足音を小さくして、その横を抜けた。追い立てる理由がないのに追い立ててしまうのは、この街に来てから覚えた気の使い方だった。

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