あの人が入ってきた。
鎧のまま、足音をほとんど立てずに歩いてくる。机の手前で立ち止まり、それから膝を折った。朝と同じ動作である。順番を一つずつ確かめて置いていくような、どこか一拍長い折り方だった。
「立っていて構いません」
女がそう言っても、あの人は姿勢を変えなかった。
「これから申し上げることは、命令として受け取ってください」
「はい」
「あなたは、以後、自分の真名を口にしてはなりません。誰に対してもです」
返事は、間を置かずに来た。
「承知いたしました」
ヒロは、思わずそちらを見た。
早すぎる、と思った。考える時間も、嫌がる時間もなかった。自分の名前を名乗るなと言われて、そんなに早くうなずけるものだろうか。
「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
あの人は、床を見たままそう言った。顔は上げず、声も大きくならない。逆らっているのではなく、命令の中身を正確に受け取るために聞いている、という調子だった。
「他国に、別の名を推測させておいたほうが有利だからです」
「承知いたしました」
二度目も、同じ速さだった。
女は書類をめくって、事務的な声のまま続けた。
「他国へ送る通知は、一行だけです。イギリスは金髪の剣の英霊を立てた。真名は非公開。それ以上のことは書きません」
「顔も、性別も、書かないんですか」
「書く義務がありませんので」
「それは、嘘になりませんか」
「なりません」
女は、はじめて少しだけこちらを見た。
「わたしたちは、何も名乗らせないだけです。相手が何を思うかは、相手の側の話になります」
ヒロは黙った。
嘘をつくなとは教わってきた。名乗るなとは、言われたことがない。禁じられていないことだけを並べていくと、こういうものができあがるらしい。
やっていることは、正しくないと思う。けれど、どこが正しくないのかを指させない。指させないように作ってあるから、たぶんこの形になっている。
「青江さん」
名前を呼ばれて、背筋が伸びた。
「あなたも、あの名前を口にしないでください。今朝あの部屋にいた人間は、全員そう言われます」
「……はい」
言われて、ようやく気づいた。
あの名前を聞いた人間は、今日あの部屋にいた者だけである。そして今日から、その全員が黙る。あの人自身も、二度と言わない。
名前は、そこで止まる。
誰の口にも上らないまま、この街のどこかで止まったままになる。今朝あの部屋で一度だけ空気を震わせて、それきりだった。
女は書類挟みを閉じ、若い男を先に立たせて部屋を出ていった。扉が閉まる直前、廊下のほうで別の誰かの声がして、それもすぐに切れた。
外に出たときには、日が傾いていた。
石の壁が昼のあいだ吸っていた熱を、ゆっくり返している。丘の向こうの空だけが、まだ白い。観光客が大聖堂のほうへ流れていくのが、坂の上から見えた。
朝この道を上がってきたときと、街のほうは何ひとつ変わっていない。中で何があったのかを外に示すものは、ひとつも出ていなかった。変わったのは、自分の手の甲だけである。
坂を下りながら、ヒロは何度か足を止めた。止まる理由はない。足のほうが勝手に止まる。
今朝ここを上がったときは、頭の中に十時のことしかなかった。十時に何を見るかだけを考えて、あとは何も考えていなかった。
ヒロは下宿まで歩いた。
あの人は、少し後ろをついてきた。鎧のままである。それでも、すれ違う人は誰ひとり振り向かなかった。
大家の老婦人が、玄関に出てきた。手違いがあって朝から拘束されたと、政府の人間が説明していったという。婦人はそれ以上聞かず、夕食を温めておいたとだけ言った。
鎧の人のことには、ひとことも触れない。見えていないのか、見えていて言わないことにしたのか、ヒロには読み取れなかった。この街には、そういう手当てをする役目の者がいるらしい。
部屋に入って、扉を閉めた。
彼女は、扉のすぐ内側に立った。
狭い部屋である。机と、ベッドと、まだ片づかない段ボールが一つ。そこに鎧の人間が立っていると、床の面積がはっきり足りない。
段ボールの中身は、ほとんどが本だった。三分の一が同じ物語の別々の版で、そのうちの何冊かは、この人が書いたことになっている本の訳である。
名前は呼べない。今日、そう言われたばかりである。
クラスなら呼んでいいとも、誰にも言われていない。ただ、ほかに呼びようがなかった。
「あの、セイバーさん。座ってください」
「わたくしは、結構でございます」
「でも、ずっと立っていたら」
「立っているのは、疲れませんので」
嘘だ、とは思わなかった。本当にそうなのかもしれない。ただ、この人はたぶん、断り方を一つしか持っていない。
「食事は、どうされるんですか」
「必要ございません」
「じゃあ、寝るのは」
「そちらも、必要ございません」
ヒロは返す言葉に困った。必要がないと二度続けて言われると、こちらの暮らしのほうが余計なものに思えてくる。
黙っていると、彼女のほうから続けた。
「姿を消すこともできます。ただ、命じられるまでは、このままでおります」
「命じないと、駄目なんですか」
「いえ。命じてくださって構わない、という意味でございます」
言い方が、少しずつずれている。ずれているのに、こちらの言ったことは全部受け取っている。
ヒロは机の椅子を引いて、自分だけ座った。座ってから、そうすると相手を見上げる形になることに気づいた。
胸当ての留め具が、目の高さにある。
左の肩から下りてきた革帯が、金具の穴ひとつぶん、下でとまっていた。そこで締めるように作られていないのは、見れば分かる。金具の縁が、革の別の場所を長く擦っている。
合っていないまま、ずっと着ているのだ。
借りたものか、譲られたものか。どちらにしても、この人の寸法で作られた鎧ではない。そういうものを、直しもせずに着続けている締め方だった。
聞きたいことは、頭の中に山ほどあった。
どこから来たのか。どうして膝を折るのか。あの本のことを、どう思っているのか。そして、この人が本当に、あの名前の人なのか。
どれも、口から出てこない。
今日会ってから、聞けたことはひとつもない。座るかどうか、食べるかどうか、消えるかどうか。答えはすべて返ってきたのに、知りたいことは何ひとつ聞けていなかった。
出てこない理由は、途中で分かった。ヒロが本当に聞きたいのは、そのどれでもない。
あなたは、アーサー王ではないのですか。
それを聞いてしまえば、この人が何と答えても、自分が今日ずっと考えていたことを、相手に知られてしまう。
「あの」
「はい、マスター」
「……いえ」
マスター、という呼び方には、まだ慣れない。今日から言われるようになったばかりで、そのたびに、返事がわずかに遅れる。何かを持っている側か、何かを教える側に向けて使う。ヒロは、そのどちらでもない。
やめてくださいと言えば、この人はすぐに従うだろう。頼まないのは、代わりの呼び方が思いつかないからだった。
彼女は待っていた。三秒か、四秒。それから、続きがないと分かって、静かに視線を床へ戻した。
こちらが言葉を探しているあいだ、この人はいつまででもそうしているのだろう。会ってから、それ以外の姿を見ていない。
責める顔ではなかった。急かす顔でもない。何も聞かれなかったという事実を、そのまま受け取っただけの顔だった。
それが、いちばん応えた。
窓の外はもう暗い。街の音が遠く、丘のほうから風の抜ける音だけが、ときどき届く。
日本にいる家族は、まだ何も知らない。説明はこちらで用意すると聞いている。自分から電話をかける理由が、どこにも見つからなかった。
学校が始まるまで、まだ二週間ある。二週間、この部屋にはヒロとこの人しかいない。時間だけなら、いくらでもあった。
時間があれば聞ける、というものではないらしい。