二週間は、あっという間に過ぎたわけでもなく、長かったわけでもなかった。
毎日、ほとんど同じ時間に起きて、同じ棚から本を出して読み、同じ椅子に座って、同じ人が同じ場所に立っているのを見ていた。そういう日が、一つずつ積み重なっていった。
そのあいだ、部屋の外でヒロが顔を合わせた相手は、二人だけである。
一人は大家の老婦人で、もう一人は、召喚の翌日に同じ階へ入ってきた人だった。
ヒロの部屋の、廊下を挟んだ向かいである。学校が借り上げている建物なので、本来は学生しか置かない。未成年の留学生の後見という名目で、政府が一室を出させたのだと、当人が最初に一度だけ説明していった。
名目が後見であることは、その説明の仕方のほうで分かった。では実際には何と呼ぶのかを、確かめる相手がヒロにはいない。
亜麻色の髪を短く整えた、あの人である。ニューボールド、と名乗った。名前を知ったのは、そのときが初めてだった。
朝と夕方に扉の開く音がして、階段ですれ違えば短く挨拶をする。会話がそれ以上に伸びたことは、一度もない。
学校は休みで、下宿の外に用事もない。政府からは週に一度、確認の連絡が来るだけだった。変わったことはありませんか。ありません。それで終わる。
二度目の連絡のとき、日本側の手続きが済んだと告げられた。同じだけの日数がかかったらしい。それ以上のことは何も言われず、ヒロも聞かなかった。
変わったことなら、部屋の中にいる。
彼女のほうは、扉のすぐ内側からほとんど動くことがない。
三日目に、ヒロは思いきって、こう言ってみた。
「セイバーさん。外を歩きませんか」
「それは、ご命令でしょうか」
「いえ、あの、お願いです」
「では、参ります」
そのやりとりで、ようやく分かったことがある。この人は、頼まれごとと命令の区別を、いちおうは聞く。そして聞いたうえで、どちらであっても、同じように動く。
断るという選択肢は、はじめから入っていないらしい。
水郷のほうへ歩いて、橋を渡って、また戻ってきた。時間にすれば、三十分ほどである。道すがら、彼女は半歩後ろを保ったまま、先に立つことがなかった。何か話しかけようとするたび、頭の中で組み立てた文が、口に出す前に崩れていった。
このころは、まだ鎧を着ていた。それでも、通りの人はこちらに目もくれない。召喚のあった日と、そこは同じだった。
彼女は道の名前も、建物の名前も、一つとして尋ねてこない。知らない街を歩いているはずなのに、興味を示す素振りがまるでない。
興味がないのではなく、聞いてよいかどうかを決めかねているのだろうと、ヒロは途中から思うようになった。この人は、自分から何かを求める形を持っていない。
この街を円卓の城と同じ名で呼んだのは、あの本である。もしこの人が、それを書いた本人なのだとしたら、いま並んで歩いているこの街は、自分で名づけた場所ということになる。
そういう顔は、していなかった。
その日も、何ひとつ聞けないまま終わった。
五日目の夜に、一度だけ、彼女が本を見ているのに気づいた。
段ボールから出したまま床に積んである、その背表紙である。目だけが端から端へ動いていた。声をかけようとした瞬間、その目がこちらへ戻ってきて、それきり動かなくなった。
見ていましたか、とは聞けない。読みますか、とも言えない。あの山の三分の一ほどは、もとをたどればこの人の名前に行き着く。差し出せば、黙って受け取るだろう。命じられれば読むだろう。
そこまで考えたところで、ヒロは伸ばしかけた手を止めた。
一日のうちで、食事の時間がいちばん落ち着かなかった。
大家の婦人が用意してくれた皿を机へ運んで、一人で食べる。向かいには誰も座っていない。食卓につかない人が、すぐそばにいるだけである。最初の日に、召し上がりませんか、と聞いてみた。必要ございません、と返ってきた。それ以上どう言えばいいのか分からず、以後は黙って食べている。
噛む音だけが、自分の頭の中で、やたらと大きく響いた。
夜になっても、彼女は立ったままだった。
明かりを消してくださいと言われたことはない。消していいですかと聞くと、どうぞ、と返る。暗くなっても、扉のそばの輪郭だけは見分けられた。
二日目までは眠れなかった。三日目からは眠れた。人はたいていのことに慣れる、ということを、こういう形で知りたくはなかった。
六日目の午後になって、政府から荷物が届いた。
中身は衣類で、上下と、薄い上着と、靴が入っていた。寸法はこちらで見繕ったと、同封の紙に書いてある。見繕った、という言葉の意味を、ヒロはそのとき初めて考えた。
誰かが、会ったこともない人の背丈を推し量って、店で選んで、箱に詰めた。その人はたぶん、この人がどんな顔をしているかも知らない。
顔も知らない相手のために選ばれたものを、この人は着ることになる。
彼女は箱を開け、中身を確かめて、机の上に置いた。
二日たっても、三日たっても、箱は机の上から動かなかった。
「あの、着ないんですか」
「命じられておりませんので」
当たり前のことを聞かれた、という調子でそう答えた。
ヒロはしばらく黙ってから、ようやくこう言った。
「……着てもらえますか」
「承知いたしました」
彼女が着替えるところは、見ていない。翌朝、目を覚ましたときには、もう届いた服を着ていた。
袖は、手の甲が半分隠れるほど長い。インクの染みのある指だけが、先から出ている。肩の幅も余っている。誰かが目分量で選んだ寸法が、そのまま彼女の姿になっていた。
鎧のときと、まったく同じだった。
寸法が合っていないことを、本人はまるで気にしていない。裾を折るでもなく、袖をまくるでもなく、届いた形のままで立っている。
直していいんですよ、と言いかけて、やめた。言えば、そのとおりに直すだろう。直したいから直すのではなく、言われたから直す。
十日目に、一度だけ、聞きかけたことがある。
あの、と言った。はい、と返ってきて、そこで止まった。
それから今日まで、一度も先へ進んでいない。
新学期の朝は、ちょうど雨が上がったばかりだった。
窓から見える石畳が、まだ濡れて光っている。去年から着ている制服を、ヒロは久しぶりに引っ張り出した。袖を通してみると、去年より少しだけ、肩のあたりが窮屈になっている。
鏡の前で襟を直していると、後ろのほうから声がした。
「そちらが、学びの場の装いでしょうか」
「はい。制服です。みんな同じものを着ます」
「みなさま、同じものを」
「決まりなので」
そう答えたが、それでは何の説明にもなっていない。なぜ同じものを着るのか、ヒロ自身も考えたことがない。
彼女は少しのあいだ、その言葉を考えているようだった。それきり、何も聞いてこない。
これまでこの人が自分から尋ねたのは、命令の中身だけだった。
ヒロは鞄を持って、扉の前で立ち止まった。
言わなければならないことが、一つある。昨日の夜から、頭の中で三回ほど組み立ててあった。
「セイバーさん。学校のあいだなんですけど」
「はい」
「姿を、消してもらえますか」
自分の声が、思ったより硬く響いた。耳の裏が、じわりと熱い。
「承知いたしました」
いつもの速さだった。嫌がる素振りも、理由を聞き返す気配もない。そのうえで、彼女はこう言い足した。
「そばには、おります」
次の瞬間には、姿が消えていた。物音はしない。空気の重さも変わらない。部屋の中で、目を向ける先が一つ減っている。
その一点が、どうにも据わりが悪かった。
学校までは、歩いて十五分ほどの道のりである。
通りに出ると、そこはもう、新学期の朝の景色になっていた。同じ制服の生徒が、二人、三人と坂を上がっていく。夏のあいだ観光客に占領されていた道が、今日だけは、地元の人間のほうへ戻っていた。
坂の途中で、去年から顔を知っている生徒と何度かすれ違った。おはよう、と言われて、おはよう、と返す。やりとりはそこまでだった。
この学校に日本人はヒロ一人で、去年の九月はそのことが物珍しがられた。今年はもう誰も聞かない。物珍しさは、一年で切れる。
ヒロは、その列の後ろのほうを歩いた。
一年やってきて分かったのは、この学校で自分がどう扱われているか、ということだった。嫌われてはいない。無視されてもいない。ただ、話しかける理由が、誰にもない。
英語が読めることは、ここではほとんど役に立たなかった。役に立つのは、休み時間に軽い冗談を返せるかどうかである。その返しが、ヒロにはできなかった。