教室に入ると、夏のあいだの話が、そこらじゅうで飛び交っていた。
誰がどこへ行ったか。誰が誰と何をしたか。ヒロは自分の席に座り、机の中に去年の落書きが残っているのを見つけた。誰が書いたものかは分からない。
「久しぶり」
隣の席の男子が、そう言って手を挙げた。
「うん。久しぶり」
「夏はどうしてた」
ヒロは口を開いて、そのまま閉じた。
半年かけて申請を通したこと。二週間前まで写真でしか見たことのなかった紙を、目の前で箱にしまわれたこと。手の甲に消えないものが焼きついたこと。国の代表になったこと。部屋に、五百年前の人が立っていること。
どれも言えない。言えないというより、言うための順番が、どうしても組み立てられなかった。
「……本を、読んでた」
「そうか」
相手は、そこで話を切って前を向いた。悪気はない。ヒロの答えが、続きを求めていない形をしていた。
一年前にも、同じ人が同じことを聞いた。あのときは日本の夏の話をした。祖父母の家と、蝉の声と、川原の花火の話である。相手は面白そうに聞いていた。
今年は、話せることが少ない。
一時間目は、英語だった。
配られた文章は十九世紀の小説の抜粋で、下に注釈がついている。ヒロは五分で読み終えて、設問を埋めた。間違いはひとつもなかった。
そのあと、教師が全体に問いを投げた。この場面で主人公はなぜ黙ったのか、という問いである。
答えは、頭の中にあった。三通りあって、どれもきちんと理由が立つ。
書いてある英語なら、いくらでも読める。困ったことは、この一年で数えるほどもない。それなのに、口に出す段になると、別の装置が動きはじめる。この言い方は自然か。発音は通じるか。三十人の前で間違えたとき、自分はどう見えるか。
そうして考えているうちに、答える場所が過ぎていく。
結局、最後まで手が上がらなかった。
別の生徒が答えて、教師がうなずいた。ヒロが考えていた三つのうちの、いちばん浅いものだった。それでも、口に出したほうが残る。
昼休みは、校舎の裏の階段に座って食べた。去年からの習慣である。
一人が好きなわけではない。輪に入るには、輪ができる前からそこにいなければならない。ヒロが来たときには、もうできあがっていた。
午後の授業も、午前と同じように過ぎていった。
放課後、校門を出て、下校の流れが切れたあたりで、ヒロはいったん足を止めた。
「あの」
声に出してから、周りに人がいないことを確かめた。
「もう、いいです」
言い終わる前に、隣に人が立っていた。
上着の袖の長い、背の低い人である。現れる音も、気配の変化もない。ただ、さっきまでそこにいなかったものが、いる。
「お疲れさまでございました」
「……ありがとうございます」
礼を言われる理由が、ヒロには分からなかった。校舎にいるあいだずっと、彼女は姿を消したままそばにいただけである。それを疲れと呼ぶなら、自分のほうこそ、何ひとつしていない。
そう思ってから、逆かもしれないと気づいた。誰にも見られず、誰にも数えられずに、六時間ぶん立っていた人がいる。労うとすれば、それはこちらの役目だった。
帰り道は、大聖堂の前を通る。
夕方になっても、観光客の数はまだ多い。芝生の縁に沿って歩いていくと、少し前のほうで、家族連れが立ち止まっていた。父親がカメラを構えていて、母親が子どもの位置を直している。
その家族は、この街に慣れていない歩き方をしていた。地図を持ち、看板を読み、写真を撮る位置を探している。休暇の終わりに、ここへ来る人たちだった。
その母親が、ふと、こちらを見た。
正確に言えば、見たのはヒロの隣だった。
視線が止まった。二秒か、三秒。すれ違う人の顔を見るには、明らかに長すぎる。
やがて、その人は言った。
「あら。どこかでお会いしませんでしたか」
英語だった。悪気のない、明るい声である。
ヒロは、自分の心臓の音を聞いていた。
この人が何と答えるのか、返事が来るまでのあいだ、まったく予想がつかなかった。名乗るなとは言われている。けれど、似ていると言われることまでは禁じられていない。この人はどこまでを守り、どこからを自分で決めるのか。
「いいえ」
彼女は、そう答えた。声の調子は変わらない。
「人違いかと存じます」
「そうかしら。ごめんなさいね。よく似た方を、どこかで見た気がしたものだから」
母親は笑って、子どものほうへ戻っていった。父親のカメラが、大聖堂の塔のほうを向いた。
命じられた範囲の、いちばん外側を正確になぞった返事だった。名乗ってはいない。嘘もついていない。似ているかどうかについては、何ひとつ答えていない。
やりとりそのものは、それで終わりだった。
ヒロは、すぐには歩き出せなかった。
どこかで見た気がする。あの母親が何を見たのかは、たぶん本人にも分かっていない。絵で見たのか、映画で見たのか、子どものころに読んだ本の挿絵だったのか。
どれであっても、大した違いはない。
この国の子どもは、アーサー王の話をどこかで必ず一度は通る。剣を抜く場面か、円卓の場面か、最後の戦いの場面か。入口はいくつもあるのに、たどっていけば道は一本になる。
あの本を経由して、この国の人間の頭の中には、同じ形の像が一つずつ入っている。像の顔のほうは決まっていない。決まっていないのに、似ていると感じることだけは、なぜかできてしまう。
隣を歩いている人は、そのあいだ何も言わなかった。似ていると言われたことについても、自分で否定したことについても、そのあと触れようとしない。
部屋に戻って、扉を閉めた。
彼女は、いつもの位置に立った。扉のすぐ内側で、二週間変わらない場所である。
ヒロは鞄を床に置いて、椅子に座った。
聞くなら今日だ、と思った。
街の真ん中で、知らない人から見覚えがあると言われたのだ。それを持ち出せば、話は自然に、そこへ向かう。あなたは誰に似ていると思われているのか。あなたは、それをどう思っているのか。
二週間、ずっと同じことを考えていた。聞けば済む。たぶん、正直に答えてくれる。嘘をつかないし、質問をはぐらかす技術も持っていない。
問題は、答えのほうではなかった。
ヒロは口を開いた。
「あの、さっきの人ですけど」
「はい」
言えたのは、結局のところ、そこまでだった。
続きの一文が、どうしても出てこない。出さない理由も、もう分かっている。あの母親と同じことを、こちらはずっと前からやっているからだ。
あの母親は、二秒見て、似ていると思った。
自分は、召喚された瞬間に思った。
二秒と、一瞬。二人の差があるとすれば、その程度でしかない。
向こうは、今日のうちに忘れる。こちらは、あの日から一度も忘れていない。忘れていないぶん、たちが悪い。
「……いえ。なんでもないです」
「はい」
彼女は何も聞き返さなかった。
窓の外で、街灯が一つずつ点いていく。新学期の一日目は、そうして終わった。