Fate/empty Vessel   作:ホーマー

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第13話 三度目の供述

 雨季の終わりのデリーは、紙にとって、一年でいちばん悪い季節である。

 

 国立文書館の地下書庫では、除湿機が一日じゅう、低く唸っている。ミラ・チャタルジーは棚のあいだを歩きながら、通路ごとに置かれた湿度計を、順に見ていく。数字を手元の帳面に書き写して、次の通路へ移る。

 

 紙は湿気で膨らみ、乾けば縮む。その繰り返しが、綴じ糸を切る。除湿機が三日止まった年に何冊が読めなくなったか、ミラはその数を覚えている。

 

 三十七番の棚で足を止めた。

 

 この棚には、東インド会社時代の司法関係の綴りが入っている。上から二段目の、右から四つ目。触れずとも位置は分かる。ここへ配属された初日に、ミラはまっすぐこの棚まで来た。

 

「チャタルジーさん」

 

 通路の入口から声がかかった。

 

「上でお客さまです。内務省の方が二名」

 

 同僚の声には、含みのようなものが混ざっていた。この部署に省庁の人間が来ることなど、年に一度もない。

 

「ありがとう。すぐ行きます」

 

 ミラは帳面を閉じて、階段のほうへ歩き出した。棚のほうは、もう見なかった。

 

 この仕事に就いて三年になる。指の皮が乾いて硬くなり、紙をめくる音が同僚と違ってきたと言われたのが去年で、悪い意味ではなく、慣れたということらしい。

 

 内務省の二人は、応接室で紅茶に手をつけずに待っていた。

 

 用件そのものは、短かった。国際的な催しがあり、この国も参加することになった。参加の形式は、そちらのご一家にお任せするほかない。以上である。

 

 催しの中身については、二人とも一言も触れない。説明できないのではなく、説明する必要がないと判断されている口ぶりだった。

 

「うちは、国の機関ではありませんが」

「存じております」

 

 年上のほうが、静かにそう言った。

 

「だからこそ、こちらからお願いする形になります」

 

 この国には、魔術の行政を扱う機関がない。置けなかったのではなく、置かなかったのである。かつてこの土地に敷かれた枠組みは、海の向こうから持ち込まれたものであり、独立のあとにそれを引き継ぐかどうかで、何年も揉めたという。

 

 引き継がないと決めた家は、代わりに自分たちの手の中へ権限を残した。ミラの家も、その一つである。

 そう決めたのは、ミラの祖父の代だった。母はその話を一度だけしている。持っていても使い道はない、ただ、返す先がないから持っている。そういう言い方だった。

 

 だから、国が代表を立てる必要に迫られたとき、頼める相手は個人しかいない。

 持っているものに使い道ができたのは、今日が初めてである。

 

「お受けします」

 

 ミラがそう答えるまでに、迷いはなかった。二人は少し驚いた顔をしてから、書類を出した。

 

「では、本日付で。インドの代表は、あなたということになります」

 

 代表、という言葉が、書庫の湿度計と同じくらい遠く聞こえた。

 

 書類には、この街の名前と、別の地名が印字されていた。開催地の欄にあるのは、聞いたことのないイギリスの土地である。

 

 こちらが埋めるべき欄は、二つしかない。呼ぶ相手の名と、触媒。どちらも空白だった。

 

 ミラは触媒の欄を見て、そこではじめて息を吐いた。

 

 十二年前、ミラは中学の課題でこの文書館へ来た。祖先の名前が資料に出ていると母から聞かされて、それを確かめに来たにすぎない。

 

 見つけたのは、司法関係の綴りの中の一冊だった。

 

 一八三〇年代、中部インドの街道筋で行われた聴取の記録。取り調べを担当した現地官吏の名前が、表紙の裏に書かれている。姓は、ミラと同じだった。

 役職も添えてある。取り調べの通訳と記録を兼ねる立場で、判断を下す側ではない。ただ、下す側が読むのは、この官吏の書いた紙だけである。

 

 中学生のミラは、その名前を見つけたところで満足するつもりでいた。家に帰って母に報告すれば、それで済むはずだった。

 

 その官吏が記録した供述のうち、最も分量が多いのが一人の男のものである。

 

 絞殺による殺害。数は、九百余。

 

 一人ずつの記述があるわけではない。年と、街道の名と、人数。それだけが、淡々と続いていく。同行した旅人を宿場のあいだで襲ったという形式が、どの項でも同じである。

 

 最初に読んだとき、ミラは数字を数え間違えたのだと思った。零がひとつ多いのだろうと考えて、指で追い直した。追い直しても、零の数は減らなかった。

 

 その日から十二年、彼女はこの綴りを読み続けている。

 ここへ勤めるまでの九年は、複写でしか読めなかった。原本を開けるようになったのは、着任してからである。写しには、紙の凹みや、書きかけて消した跡までは出ない。

 大学の専攻を決めたのも、就職先をここにしたのも、順番でいえば、あの日のあとである。誰にもそうは言っていない。言えば、ずいぶん重い理由に聞こえてしまう。

 

 問題は、その数字がどうやって作られたかである。

 

 供述は三度取られている。

 一度目は捕縛(ほばく)の直後で、数はほとんど出てこない。二度目は数か月あとのもので、街道の名前と季節が並びはじめる。三度目は、恩赦(おんしゃ)の条件が示されたあとだった。

 数字で埋まっているのは、そのときのものに限られる。

 

 供述を取った側は、証言と引き換えに刑を軽くする仕組みを使っていた。話せば助かり、話さなければ助からない。その条件のもとで語られた数を、そのまま足していけば九百になる。

 誇張があるとすれば、どこに、どれだけ入っているのか。それを判定する材料が、この綴りの内側にはない。

 

 この記録をめぐっては、長いあいだ議論がある。

 供述に頼りすぎているという指摘。取り締まる側が先に枠組みを用意し、そこへ供述を流し込んだのではないかという指摘。街道筋のばらばらな犯罪が、一つの名のもとに束ねられたのではないかという指摘。

 どの指摘も、記録を打ち消してはいない。打ち消せるだけの別の記録が、どこにも残っていないためである。

 残っているのは、こちら側が書いたものだけだった。

 

 当時の官吏が、その数を疑わなかったとは、ミラには思えなかった。三度とも数が違っていながら、報告書へ転記されたのは最後の一つである。

 

 三つのうち、どれを選ぶかを決めたのは、祖先である。

 

 その数字が、いまも綴りの中にある。

 訂正も、注記も入っていない。あとから読む人間には、取り直しがあったことすら分からない。三度目だけが、そこにある。

 

 もしその数が誇張だったなら、この一族は、嘘を積み上げて人を吊るしたことになる。

 

 もし本当だったなら、記録のほうが正しかったことになる。

 

 ミラはずっと、後者であってほしいと願っていた。祖先が正しかったのなら、家の名前は汚れない。願ったあとで、その願いの中身に思い当たり、しばらく手が動かなくなった。

 

 正しかったということは、九百人が、本当に殺されたということである。

 

 それ以来、ミラはどちらを願うのもやめた。どちらを願っても、願った先に救いがない。そういう問いの立て方をしてしまったのは、自分のほうだった。

 願うのをやめても、確かめたい気持ちだけは残っている。残ったまま年月が過ぎて、手立てはひとつも見つからなかった。

 その手立てが向こうから来たのが、応接室のあの書類である。

 

 触媒として使えるものなら、この国にはいくつもある。剣も、印章も、王の遺品もある。ただ、彼女が呼びたい相手にゆかりのある物となると、行き着く先は一つしかなかった。

 

 綴りの、真ん中あたりの一葉である。

 

 供述を書き取った紙そのもので、(けい)は引かれていない。行の間隔が下へいくほど詰まっていて、書き手が紙の残りを気にしていたことが分かる。裏に染みが一つある。何の染みかは分からない。

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