Fate/empty Vessel 作:ホーマー
準備には三日かかった。
線を引く材料をそろえ、書庫の一角を空け、閉館後に入るための鍵を借り直し、除湿機を止める許可を取った。綴りから一葉を外す許可も、同じ日に出している。申請書の理由の欄には、資料の状態確認と書いた。嘘ではない。
ミラは白い手袋をはめて、その一葉を綴りから外し、台の上に平らに置いた。
床には、教わったとおりの線を引いた。
声に出す言葉は、家に伝わっているものをそのまま使った。意味は半分ほどしか分からず、分からないまま唱えるのは気持ちが悪かったが、変えてよいものかどうかの判断もつかなかった。
半ばまで来たところで、自分の声が書庫の壁に吸われていないと気づく。地下の部屋は音を吸うはずなのに、いま出している声だけが、天井のあたりに残っている。
やがて、手の甲が熱くなった。
線の内側の光が濃くなって、書庫の空気が乾いていく。音という音が、そのうち遠ざかっていった。
光が消えたとき、線の内側に老人がいた。
小柄な人だった。背丈はミラと変わらないくらいで、体つきもひどく細い。白い顎髭を短く整えていて、顔じゅうに深い皺が刻まれていた。着ているのは古い綿の上下で、汚れてはいない。
手も足も骨ばっていて、腕にはほとんど肉がついていない。この体で人ひとりを押さえ込めるとは、どう見ても思えない。
そう考えてから、押さえ込む必要のない手口だったことを思い出した。
顔の中で、目だけが異様に澄んでいた。
男は、まず一礼した。腰から深く折る、時間をかけた礼だった。
「お邪魔をいたします」
声は穏やかで、ずいぶん聞き取りやすい。
「
「……はい」
「では、そのように」
断られる可能性を、はじめから考えていない返事だった。
そこまで、腰は折ったままである。
「クラスは」
「アサシンと、伺っております」
ミラは、その言い方に引っかかった。自分のことなのに、どこかから聞かされたように言う。
男は顔を上げると、周囲をゆっくり見回した。棚を見て、天井を見て、除湿機を見て、それからミラのほうへ視線を戻す。
「立派な蔵でございますな。書物が、これほど」
「文書館です」
「文書館」
言葉を繰り返してから、小さくうなずいた。何かに納得した顔ではなく、教わったことをそのまま置き直した顔だった。
右手には、黄色い布が握られている。
指の関節が太い。布を握ったその手だけが、細い体と釣り合っていなかった。
二百年近く前の押収品の目録に、絞め布は一枚も載っていない。
「これは、手前のものでございます」
ミラの視線を追って、男がそう言った。
「取り上げられなかったものは、手元に残ります」
端が固く結ばれていて、結び目に何かが包まれている。持ち上げれば片側に重みが寄るはずだった。調書の一行に、そう書いてある。
取り上げられた側の言い方だった。それでいて、恨みも、諦めも、声のどこにも混じっていない。
ミラはいったん息を整えた。
十二年かけて用意した質問がある。順番も決めてある。まず名前を確かめ、次に街道の位置を確かめ、それから年を追って一つずつ照合していく。そういう手順を、頭の中に組み立ててあった。
最初の一つは、向こうが先に名乗ってしまった。
組み立てたものが、全部飛んだ。
いま聞かなければ、二度と聞けない気がした。根拠はない。それでも、そう思った。
「何人、殺しましたか」
声が、思ったより低く出た。
二人のあいだの距離は、三歩ほどしかない。空けたとはいえ、四方を棚に囲まれた一角である。それを意識したのは、聞いてしまってからだった。
男は驚かなかった。眉ひとつ動かさず、困った顔もしなければ、笑いもしない。まるで、道を尋ねられた人のように、ミラのほうへ体を向けただけだった。
そのうえで、こう答えた。
「そう書かれているのなら、そうなのでしょう」
書庫の中が、しんと静まった。
除湿機は止めてある。地下の空気は動かず、音を立てるものが、この部屋には何もない。
ミラは、その言葉を頭の中で、もう一度並べ直した。
肯定ではないし、否定でもない。彼は数について何ひとつ述べていないのに、質問にはきちんと答えている。
そのどちらでもない場所に、最初から立っている人なのだった。
「……書かれているか、どうかを聞いたのではありません」
「はい」
「何をしたのかを、聞いています」
「さようでございますね」
男は、少しだけ首を傾けた。
「手前は、数えておりませんので」
悪びれた調子はない。答えとして足りていないことにも、たぶん、気づいていない。
その一言のほうが、九百という数字よりも、はるかに重かった。
数えていない。忘れたのでもなく、隠しているのでもなく、最初から数えるという行いをしていない。
数えたのは、こちら側だった。
九百という数を作ったのは、この人ではない。三度取り直した供述から一つを選んで報告書に書いた、あの官吏である。祖先は数を確定させ、当の本人は数を持たない。
ミラは自分の右手を見た。手の甲に、三本の赤い線が浮いている。熱はもうない。
明日には、この名を書面で申告することになる。書式は書類に付いていた。対面は要らないという。
この線が三度の命令を許すのだと、家に伝わる話にはあった。ただし命令で引き出せるのは、相手が持っているものだけである。持っていないものは、どれだけ命じても出てこない。
この人がいなくなれば、数は永久に分からなくなる。残っても、たぶん結果は同じである。
確かめるつもりで呼んだのに、呼んだ相手が、その手段を持っていない。積み上げてきた手順は、最初の一問で使えなくなった。
「お嬢様」
男が、穏やかに言った。
「お顔の色が、よろしくありません。お座りになったほうが」
声に嫌味はない。本当に心配しているのだと、そう思わせる調子だった。
旅人を安心させて同行するのが手口だった、と綴りには書いてある。
その一行を、ミラは十二年前から知っていた。知っていて、いま、腰を下ろしたくなっている。
それでも、立ったままでいた。立っている理由を、自分に説明できないまま。