Fate/empty Vessel   作:ホーマー

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第14話 取り上げられなかったもの

 準備には三日かかった。

 線を引く材料をそろえ、書庫の一角を空け、閉館後に入るための鍵を借り直し、除湿機を止める許可を取った。綴りから一葉を外す許可も、同じ日に出している。申請書の理由の欄には、資料の状態確認と書いた。嘘ではない。

 

 ミラは白い手袋をはめて、その一葉を綴りから外し、台の上に平らに置いた。

 床には、教わったとおりの線を引いた。

 

 声に出す言葉は、家に伝わっているものをそのまま使った。意味は半分ほどしか分からず、分からないまま唱えるのは気持ちが悪かったが、変えてよいものかどうかの判断もつかなかった。

 

 半ばまで来たところで、自分の声が書庫の壁に吸われていないと気づく。地下の部屋は音を吸うはずなのに、いま出している声だけが、天井のあたりに残っている。

 

 やがて、手の甲が熱くなった。

 

 線の内側の光が濃くなって、書庫の空気が乾いていく。音という音が、そのうち遠ざかっていった。

 

 光が消えたとき、線の内側に老人がいた。

 

 小柄な人だった。背丈はミラと変わらないくらいで、体つきもひどく細い。白い顎髭を短く整えていて、顔じゅうに深い皺が刻まれていた。着ているのは古い綿の上下で、汚れてはいない。

 

 手も足も骨ばっていて、腕にはほとんど肉がついていない。この体で人ひとりを押さえ込めるとは、どう見ても思えない。

 そう考えてから、押さえ込む必要のない手口だったことを思い出した。

 

 顔の中で、目だけが異様に澄んでいた。

 

 男は、まず一礼した。腰から深く折る、時間をかけた礼だった。

 

「お邪魔をいたします」

 

 声は穏やかで、ずいぶん聞き取りやすい。

 

手前(てまえ)は、ベーラムと申します。お呼びくださったのは、お嬢様でよろしいでしょうか」

「……はい」

「では、そのように」

 

 断られる可能性を、はじめから考えていない返事だった。

 そこまで、腰は折ったままである。

 

「クラスは」

「アサシンと、伺っております」

 

 ミラは、その言い方に引っかかった。自分のことなのに、どこかから聞かされたように言う。

 

 男は顔を上げると、周囲をゆっくり見回した。棚を見て、天井を見て、除湿機を見て、それからミラのほうへ視線を戻す。

 

「立派な蔵でございますな。書物が、これほど」

「文書館です」

「文書館」

 

 言葉を繰り返してから、小さくうなずいた。何かに納得した顔ではなく、教わったことをそのまま置き直した顔だった。

 

 右手には、黄色い布が握られている。

 指の関節が太い。布を握ったその手だけが、細い体と釣り合っていなかった。

 

 二百年近く前の押収品の目録に、絞め布は一枚も載っていない。

 

「これは、手前のものでございます」

 

 ミラの視線を追って、男がそう言った。

 

「取り上げられなかったものは、手元に残ります」

 

 端が固く結ばれていて、結び目に何かが包まれている。持ち上げれば片側に重みが寄るはずだった。調書の一行に、そう書いてある。

 

 取り上げられた側の言い方だった。それでいて、恨みも、諦めも、声のどこにも混じっていない。

 

 ミラはいったん息を整えた。

 

 十二年かけて用意した質問がある。順番も決めてある。まず名前を確かめ、次に街道の位置を確かめ、それから年を追って一つずつ照合していく。そういう手順を、頭の中に組み立ててあった。

 最初の一つは、向こうが先に名乗ってしまった。

 

 組み立てたものが、全部飛んだ。

 

 いま聞かなければ、二度と聞けない気がした。根拠はない。それでも、そう思った。

 

「何人、殺しましたか」

 

 声が、思ったより低く出た。

 

 二人のあいだの距離は、三歩ほどしかない。空けたとはいえ、四方を棚に囲まれた一角である。それを意識したのは、聞いてしまってからだった。

 

 男は驚かなかった。眉ひとつ動かさず、困った顔もしなければ、笑いもしない。まるで、道を尋ねられた人のように、ミラのほうへ体を向けただけだった。

 

 そのうえで、こう答えた。

 

「そう書かれているのなら、そうなのでしょう」

 

 書庫の中が、しんと静まった。

 

 除湿機は止めてある。地下の空気は動かず、音を立てるものが、この部屋には何もない。

 

 ミラは、その言葉を頭の中で、もう一度並べ直した。

 

 肯定ではないし、否定でもない。彼は数について何ひとつ述べていないのに、質問にはきちんと答えている。

 

 そのどちらでもない場所に、最初から立っている人なのだった。

 

「……書かれているか、どうかを聞いたのではありません」

「はい」

「何をしたのかを、聞いています」

「さようでございますね」

 

 男は、少しだけ首を傾けた。

 

「手前は、数えておりませんので」

 

 悪びれた調子はない。答えとして足りていないことにも、たぶん、気づいていない。

 

 その一言のほうが、九百という数字よりも、はるかに重かった。

 

 数えていない。忘れたのでもなく、隠しているのでもなく、最初から数えるという行いをしていない。

 

 数えたのは、こちら側だった。

 九百という数を作ったのは、この人ではない。三度取り直した供述から一つを選んで報告書に書いた、あの官吏である。祖先は数を確定させ、当の本人は数を持たない。

 

 ミラは自分の右手を見た。手の甲に、三本の赤い線が浮いている。熱はもうない。

 明日には、この名を書面で申告することになる。書式は書類に付いていた。対面は要らないという。

 この線が三度の命令を許すのだと、家に伝わる話にはあった。ただし命令で引き出せるのは、相手が持っているものだけである。持っていないものは、どれだけ命じても出てこない。

 

 この人がいなくなれば、数は永久に分からなくなる。残っても、たぶん結果は同じである。

 確かめるつもりで呼んだのに、呼んだ相手が、その手段を持っていない。積み上げてきた手順は、最初の一問で使えなくなった。

 

「お嬢様」

 

 男が、穏やかに言った。

 

「お顔の色が、よろしくありません。お座りになったほうが」

 

 声に嫌味はない。本当に心配しているのだと、そう思わせる調子だった。

 

 旅人を安心させて同行するのが手口だった、と綴りには書いてある。

 

 その一行を、ミラは十二年前から知っていた。知っていて、いま、腰を下ろしたくなっている。

 それでも、立ったままでいた。立っている理由を、自分に説明できないまま。

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