Fate/empty Vessel 作:ホーマー
ベルリンの夏は、終わるときには、たった一日で終わる。
前の週まで庁舎の窓を開け放していたのに、その朝は、上着なしで外へ出た者が、全員後悔していた。ハンナ・ヴェーバーは自分の席に着いて、机の上の温度計を見た。摂氏で十四度。昨日より七度も低い。
暗号部門の部屋には、窓が一つもない。資料の保全のためだと聞かされているが、実際は建物の構造の都合である。それでも空調の設定は外気に連動しているので、季節の変わり目は、部屋の中にいても分かる。
机の上には、書類が二種類のせてある。
右側は通常の業務で、東欧方面における通信記録の突合せである。十年やってきた仕事なので、手のほうが覚えている。左側は先月から増えたほうで、こちらには、目を通す者の欄が一つしかない。ハンナの名前だけが印字されていた。
この部屋で、左側の綴りを持たされている人間は、ほかにいない。持たされていることを知っている人間なら、上に何人かいる。
左側の綴りを開いた。
最上部に、部の正式な決定が一行だけ載っている。ドイツ連邦共和国の代表権を、当部が受任する。書かれているのは、それだけである。
人ではなく、部のほうが受けた。文書としては、それで完結している話である。誰の判断で受けたのかは、この一行からは読み取れない。
このことの意味を、ハンナは最初の説明会で、三度聞き返した。三度とも同じ説明が返ってきて、三度目になって、それが説明ではなく定義なのだと分かった。そのとき上司は、紙へ図を書いて見せている。丸を一つ描いて部と書き、そこから線を引いて彼女の名前を書き、丸のほうに矢印を戻した。
「あなたが持つのではなく、部が持ちます。あなたはその、端子です」
端子という言い方が正確だったのだと、いまになって分かる。
権限は部にあり、手続きも、判断も部にある。ただ、権限には身体が必要だった。書類の束は英霊に命令できないし、会議室にもできない。誰かの皮膚に印がなければ、その権限はどこにも接続できない。
だから、彼女が選ばれた。部の中で最も若いからでも、最も優秀だからでもなく、そのどちらとも関係がない。ハンナは三十を過ぎていて、成績でいえば、真ん中あたりである。
この部で、他部署との折衝を持たない席が一つだけ空いていた。それだけの理由である。
抜けても業務が止まらない席、という意味でもあった。
もう一つ、はっきりしている条件がある。命令を出すには、決裁が要る。
三本の線は彼女の手に出るが、それを使う判断のほうは、彼女のものではない。
召喚に用いる物は、先月のうちに決まっていた。
部の書庫から出てきたのは、革装の写しが一冊きりだった。十六世紀の修道院長が書いた著作の、第三巻である。表紙には題も著者名もなく、背に貼られた分類票だけが、それを特定していた。
選定の会議の場には、ハンナも同席した。発言の予定は入っていなかったが、席だけは用意されていた。
議論と呼べるものは、ほとんどなかった。この国の霊脈に接続しうる書き手のうち、暗号を扱った者が一人いる。その一人に縁のある物として、手元にある写しを使う。会議で決まったのは、それだけの話だった。
ただ一点だけ、ハンナには引っかかったことがある。
同じ著作の第一巻と第二巻は、いずれもとうに解読が済んでいる。中身は暗号の解説書であり、天使の名を並べた表は、文字を置き換えるための道具だった。
第三巻だけが、そのあとも長いあいだ、解けずに残る。
この巻に手がついたのは二十世紀の終わりで、それまでの四百年、世界はこの書物を、悪魔の召喚術書として扱っていた。書いた本人は、暗号の教科書のつもりで書いている。
解読が公表されたとき、ハンナは、まだ学生だった。指導教員が講義の枕にその話を出して、四百年というのはこういう長さだ、と言った。あのときは、数字としてしか聞いていない。
部が触媒に選んだのは、よりによって、その第三巻の写しだった。
解けなかったほうを選んだことになりますが、と会議で言いかけて、ハンナはやめた。手元にあるのがそれしかない、という答えが返ってくると分かっていた。
実際、そのとおりだったのだろう。この部が保管しているのは暗号に関わる資料であって、修道院の蔵書ではないのである。第三巻の写しがあったのは、誰も歯が立たなかったという一点で、暗号の資料に分類されたからである。
だからこそ、ここにある。皮肉だとは、会議の誰も言わなかった。
英霊が誰になるかを、ハンナは会議のあとで一人で調べた。業務ではない。
修道院長であり、著作は三十を超える。降霊術師として恐れられた記録があり、皇帝のために亡き妃を呼んだという逸話まで残っている。そのどれもが、伝承の域を出ない。
実際にこの人物がやっていたのは、要するに、文字を並べ替える作業である。天使の名を書き連ねた表は、置換のための道具だった。
恐れられた理由と、実際にやっていたことが、まったく噛み合わない。
召喚は、その日の午後に行われた。場所は地下三階の第二会議室である。
机は運び出され、床のカーペットも剥がされて、コンクリートが剥き出しになっている。線を引いたのは外部の協力者で、名前までは聞かされていない。作業のあいだ、部の人間は誰も口をきかなかった。
床に描かれた図は、二つの円と、そのあいだを埋める文字だった。ハンナの目には、どの文字も既知の体系に属していないように見える。暗号を十年扱ってきた人間の見立てとして、それだけは言える。
線の内側には、あの一冊が置かれていた。開かれてはいない。
ハンナは、指定された位置に立った。
立会人は四人いた。全員が上着を着たままで、手には書類挟みを持っている。誰も、これから何が起きるのかを説明しなかった。要らないからではなく、その項目が定められていないためである。
読み上げるのは彼女の役目だと、前日になって伝えられた。端子である以上、声も端子から出す必要があるらしい。
唱える言葉は、印刷された紙で渡された。
読み違えないように、区切りごとに薄い罫が入っている。意味は分からないが、分からないままでも読めるように作られた紙だった。
最後の行まで読み終えたとき、床の線が一段明るくなった。
同じ瞬間に、右手の甲が急に熱くなる。
痛みはない。皮膚の下で何かが並んでいく感じがあって、それが止まったときには、赤い線が三本、浮き上がっていた。
誰も、声を上げなかった。立会人の一人が書類挟みを開いて、そこへ何かを書き込んでいる。
線の内側で、光がゆっくりと形になった。