Fate/empty Vessel 作:ホーマー
現れたのは、一人の修道女だった。
黒い衣に、頭を覆う布。裾は床に触れているのに、埃ひとつついていない。背丈は、ハンナより少し低い。顔は痩せていて、
若いのに、どこか枯れている。
そこに、三十年ぶんの疲れが乗っている。徹夜を重ねた研究者に近いが、研究者はここまで乾かない。
その二つが一つの顔に同居しているところを、ハンナは、このとき初めて見た。
両手は胸の前で組まれていた。組まれているのに、指だけが動いている。
まず、指が長い。関節の一つずつが、普通より少し余分にあるようにさえ見える。
その十本が、それぞれ別の速さで曲がっては伸びる。数えているようにも見えるし、編んでいるようにも見える。祈りの形ではない。祈りであれば、こんなに忙しく動かす必要がない。
視線は、何にも向いていない。部屋を見てもいないし、こちらを見てもいない。
「──ごきげんよう」
声は柔らかかった。想像していたよりも、ずっと若い声である。
「当方は、シュポンハイムより参りました」
ハンナは口を開いてから、いったん閉じた。
手続き書には、召喚後に確認すべき項目が五つ並んでいる。真名、クラス、宝具の有無、契約の意思、そして所属。尋ねる順番も決められていた。
名乗り返すべきかどうかは、手続き書に載っていない。書かれていないことはしない、と教わっている。
「真名を、伺えますか」
「ヨハネス・トリテミウスと申します。もっとも、その名で呼ばれておりましたのは、あちらの側の帳面の上でのことでございまして」
項目の一つ目に印をつけた。
「クラスは」
「キャスターと」
これで二つ目にも印がつく。ここまでは、手順どおりに進んでいた。
「宝具はお持ちですか」
「持つ、という言い方を当方はいたしません。あれは持ち歩くものではなく、開くものでございますから。もっとも、開いたところで読める方がいらっしゃるかどうか」
答えには、なっていない。それでいて、はぐらかされたという感じもしなかった。相手のほうは、こちらの問いにまっすぐ答えているつもりでいる。
三つ目で、ハンナのペンが止まった。
有か無かだけを書く欄である。有と書けば、次には種別を書かなければならない。
もう一度尋ねようとして、やめた。同じ答えが返ってくる、という確信があった。理由のほうは、説明できない。
三つ目の欄へ、有と書いた。種別の欄は空けた。空欄のまま提出すれば、あとで照会が来る。来たときに答えられないことも、分かっていた。
「契約は、部が結びます。わたしは窓口です」
「窓口」
修道女は、その言葉を口の中で転がしてみせた。指の動きが、そこで一度だけ速くなる。ハンナはそれを見ていたが、意味づけはしなかった。癖のある人は、何かに反応して手が動く。
「よい言葉でございますね。開いても閉じてもいるところ」
「……そうですね」
合っているのかどうか、ハンナには分からなかった。かといって、合っていないとも言えない。窓口は確かに、開いても閉じてもいる。
言われてみればそのとおりだと思わせておいて、こちらが何を確認したかったのかを忘れさせる。そういう話し方である。
四つ目の欄にも印をつけた。異議が出なければ意思ありとして扱う、と下に注記がある。異議は出ていない。
「最後に一つ、伺います。お名前は」
「先ほど申し上げました」
「──失礼しました。所属です。当方は、と仰いましたが」
聞くはずだったのは、所属である。名前のほうが先に口から出ていたことに、言い直してから気づいた。
修道女が、そこで初めて、まっすぐハンナの顔を見た。
「あなたのお名前を、頂戴してもよろしゅうございますか」
項目にはない質問だった。こちらが名乗る欄は、様式のどこを探してもない。
書かれていないことはしない。ただしその教えは、こちらが動く場合の話である。
そして、断る理由も思いつかなかった。
「ハンナ・ヴェーバーです」
「ハンナ・ヴェーバー」
修道女は、ゆっくりと繰り返した。区切りながら、一音ずつ確かめるようにして。
そのあとで、また指が動いた。
さっきまでと違って、十本が同じ向きに、同じ速さで動いている。三度往復してから、止まった。
「頂戴いたしました」
礼を言われたのだと、ハンナは受け取っている。
何をですか、とは聞けなかった。こちらは、名前を教えただけである。
立会人の一人が、時刻を読み上げた。手続きは、そこで終わったことになった。
項目の欄は、五つとも埋めた。ただし所属については、結局のところ何も聞けていない。書けたのは、最初に言われたシュポンハイムという地名一つだった。
地下から上がるまでのあいだ、立会人は誰も、あの修道女について何も言わなかった。感想を述べる欄が、様式にないためである。
報告書は、席へ戻ってすぐに書きはじめた。
様式は決まっていて、埋めるべき欄が十ある。日時、場所、立会人、用いた物、確認事項五つ、そして所見。所見の欄だけが自由記述で、行数に制限はない。
所見には、四行だけ書いた。
召喚は完了した。対象は協力的である。応答に不明瞭な点があるものの、敵対の意思は認められない。継続して観察する。
三行目を書くときに、ハンナは少し迷った。不明瞭という語は、こちらの理解が足りないときにも使える。相手の言葉が壊れているときにも使える。どちらなのかを判定する材料が、まだない。
長く書く材料も、ほかになかった。
真名の申告は書面で足りる、と手続き書にはある。同じ様式の別紙へ、真名とクラスを書いて封をした。
提出は端末から行う。書式に打ち込み、上長の欄へ送る。
送信の前に、ハンナはもう一度、上から読み直した。
昔からの癖である。学生のころから、提出するものは必ず二度読む。一度目は意味を追い、二度目は文字を追う。
一行目、二行目と、目を落としていく。日時も場所も立会人も、打ち込んだとおりに並んでいる。
用いた物の欄で、目が止まった。
『ステガノグラフィア』第二巻の写し、と表示されている。
ハンナは数秒のあいだ、その行を見ていた。
使ったのは第三巻である。会議で議論したのも、書庫から出てきたのも、床に置いたのも第三巻だった。第二巻の中身は、とうに割れている。触媒として選ぶ理由が一つもない。
打ち間違えたのだろう、と思った。
ほかに説明のしようがない。端末に触れたのは自分だけで、送信もまだしていない。
三と二は、数字の並びで隣り合っている。目が読んだ字と、指が押した字が一つずれた。そういうことは、疲れているときに起きる。
その欄を訂正してから、送信した。
訂正の記録は残る。あとで誰かが見れば、一度は第二巻と書かれていたことが分かるはずだった。
見る人がいるだろうか、と考えて、いないだろうと思った。誤記の履歴を検める仕事は、この部には存在しない。存在しないから、置かれた人間もいない。
端末を閉じてから、ハンナは席を立った。
外は、もう暗い。廊下の窓から、向かいの棟の明かりが、いくつか見えた。長い一日だった、と思う。長い一日のあとに文字を打てば、それくらいの間違いはする。
右手の甲の線は、まだ熱を持っていた。
この熱がいつ引くのかは、どこにも書かれていなかった。