ウィンチェスター。
その地名は、去年の春から何度も聞かされている。行きたい理由を三十分ぶん喋られた日もあった。半分も覚えていないが、街の名前だけは残っている。
そこで、頭の中の何かが繋がる。
繋がってから、急に、指先が冷たくなった。
「青江君が、イギリスの代表になりました」
青江君、と呼ばれるのを聞いたのは久しぶりだった。アカリは十年以上、あいつを名字で呼んだことがない。
正面の男は、返事を待たずに続けた。
「事故です。本来立つはずだった人間ではなく、彼の手に紋様が出た。訂正できないまま、イギリスは彼を代表として登録しています」
事故、という言葉のところで、アカリは一度だけまばたきをした。
あいつは半年がかりで、何かの許可を取ろうとしていた。三度落ちて四度目に通ったと、わざわざ知らせてきたことがある。何の許可かは、説明されても分からないので聞き流した。
その先で、何かが手の甲に出た。それが事故と呼ばれている。
何も言わなかった。
言うことがなかったからではなかった。頭の中で、いくつもの絵が同時に動いていた。順番はばらばらで、しかも、どれも音がついていない。
あの本を抱えて歩いていた、小学生のあいつ。図書室から借りてきた分厚いのを、休み時間ごとに開いていた中学生。英語ができないくせに、あの国へ行くと言い出した高校生。
どれも、同じ顔をしている。
そういうものが全部、急に一列に並んで、まっすぐ流れてくる。
「あなたを選んだ理由は、一つだけです」
男が続けた。声の高さは、変わらなかった。
「イギリス代表のマスターと、幼馴染だからです」
こちらから、その目を見た。
今度は、逸らされた。
畳の目のあたりに視線が落ちて、そこから戻ってこなかった。
「戦力として期待しているわけではありません。日本が正面から勝てる見込みは、初めから立っておりません。それでも、代表を立てないという選択はできない」
「だから、繋がりのある人間を置いとく」
「――そうです」
言い直さなかったことが、この人にできるせめてもの誠実さだろうと、アカリは思った。
人質にもなる。窓口にもなる。最後には取引の材料にもなる。そこまで並べられなくても、意味は取れた。
言わなかったのは優しさではなく、言えば承諾が遠のくからだろう。
腹は、立たなかった。
立てるためには、自分がそれ以上の何かとして扱われるはずだった、という前提が要る。アカリに、その前提はない。
つまり、道具として選ばれている。
そこだけは、はっきりしている。誰も隠していないし、隠す気配もない。
母が、端のほうで何か言いかけた。言葉になる前に、隣の女が軽く手を上げて止めた。
止め方が慣れている。この家で母は、そうやって止められる側の人間なのだ。
アカリは母を見なかった。見れば、母がどんな顔をしているのか分かってしまう。分かってしまえば、この場では使い道がない。
「で、どうすんの」
言ってから、聞く相手が違うことに気づいた。ここまでの話は全部、どうするかをこちらが決めるためのものである。
「行く」
われながら、普通の声が出た。
六人が、そろってアカリのほうを見た。もっと揉めると思っていたのだろう。
揉めるだけの材料を、こちらが持っていると考えていたらしい。実際には、何も持っていない。
「よろしいのですか」
「二回聞かれると、断りたくなるんだけど」
誰ひとり、笑わなかった。
庭でまた鹿威しが鳴って、今度はそれが、やけにうるさく聞こえた。
承諾のあと、話は急に、事務的になった。
学校の編入手続きが要る。書類がいくつも要る。渡航の段取りも、住むところも、向こうの受け入れ先も、それぞれ別の人間が動くという。
時間がかかるとは言われた。どれくらいかかるのかは言われなかった。聞いても答えが返らない種類の話だと、口調で分かる。
説明が一段落したところで、隣の間から、桐の箱が運ばれてきた。
箱は、思ったよりも軽かった。両手で受け取ってみて、中身が薄いのだと分かる。桐の面はよく磨かれていて、指の跡がすぐつく。
「これを、向こうへ持って行っていただきます」
「開けないほうがいい?」
「開けても構いませんが、読めないと思います」
それはそうだろう。床の間の掛け軸すら、読めていない。
「何が入ってるかは、聞かないほうがいい?」
「いえ。聞いていただいて構いません」
男は、そう言った。
結局のところ、聞かなかった。
聞けば、また長い話になる。そして長い話を聞いても、この箱を持って行くという事実は変わらない。変わらないことを、時間をかけて確かめる趣味はない。
男は少しだけ意外そうな顔をして、それから、箱の蓋の合わせ目を指で示した。開け方の説明だけを、やけに丁寧にする。何を持たされるのかより、どう開けるのかのほうが、この人には大事らしい。
箱を膝の上に置いたまま、アカリは庭のほうを見た。
水の落ちる音が、また鳴る。同じ間隔で、同じ音がする。誰も止めない。
この庭も、この座敷も、たぶん何十年もこのままなのだろう。そして何十年も同じままでいられる家が、いま自分に箱を持たせようとしている。
帰り際、母がようやく口を開いた。学校のことは心配しなくていい、という意味のことを、遠回りに二回言った。アカリは二回とも、うん、とだけ答えた。
母は、行くなとは口にしない。言えないのだろうと思った。
立ち上がるとき、やはり、足が痺れていた。
畳に手をついて、二度に分けて腰を上げた。誰も手を貸さなかった。貸されたところで、断るつもりだった。
門を出て、坂を下りながら、アカリは箱を持ち直す。
ヒロが、困っている。
箱の角が腕に当たる。持ち方を変えても、どこかに当たった。
説明のあいだ、頭の中に残っていたのは、結局それだけだった。国のことも、聖杯のことも、道具として選ばれたことも、ちゃんと分かっている。分かったうえで、いちばん上に乗っていたのが、それだった。
小学校の図書室で、あいつが最初にあの本を借りた日のことを、アカリはなぜか覚えている。表紙が青くて、背の高さが不釣り合いだった。
あいつは十年、同じ本を読んでいた。何度読み返したのかは知らない。聞いたことがない。
十年かけて追いかけてきたものが、いまあの街にある。座敷で聞いた話を並べると、そこへ行き着く。
そういうときのあの顔を、アカリは知っている。嬉しいのに、嬉しがっていいのかどうかを先に考える顔である。テストが返ってきたときも、志望校が決まったときも、まずその顔をした。
英霊が何なのかは、正直よく分かっていない。分かっていないが、あいつが平気でいられる場所ではない。
坂の下まで来たとき、信号が赤に変わった。
立ち止まって、アカリは箱を抱え直した。中身は、最後まで聞かなかった。