Fate/empty Vessel   作:ホーマー

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第18話 桐の箱

 ウィンチェスター。

 

 その地名は、去年の春から何度も聞かされている。行きたい理由を三十分ぶん喋られた日もあった。半分も覚えていないが、街の名前だけは残っている。

 

 そこで、頭の中の何かが繋がる。

 

 繋がってから、急に、指先が冷たくなった。

 

「青江君が、イギリスの代表になりました」

 

 青江君、と呼ばれるのを聞いたのは久しぶりだった。アカリは十年以上、あいつを名字で呼んだことがない。

 

 正面の男は、返事を待たずに続けた。

 

「事故です。本来立つはずだった人間ではなく、彼の手に紋様が出た。訂正できないまま、イギリスは彼を代表として登録しています」

 

 事故、という言葉のところで、アカリは一度だけまばたきをした。

 あいつは半年がかりで、何かの許可を取ろうとしていた。三度落ちて四度目に通ったと、わざわざ知らせてきたことがある。何の許可かは、説明されても分からないので聞き流した。

 その先で、何かが手の甲に出た。それが事故と呼ばれている。

 

 何も言わなかった。

 

 言うことがなかったからではなかった。頭の中で、いくつもの絵が同時に動いていた。順番はばらばらで、しかも、どれも音がついていない。

 

 あの本を抱えて歩いていた、小学生のあいつ。図書室から借りてきた分厚いのを、休み時間ごとに開いていた中学生。英語ができないくせに、あの国へ行くと言い出した高校生。

 どれも、同じ顔をしている。

 

 そういうものが全部、急に一列に並んで、まっすぐ流れてくる。

 

「あなたを選んだ理由は、一つだけです」

 

 男が続けた。声の高さは、変わらなかった。

 

「イギリス代表のマスターと、幼馴染だからです」

 

 こちらから、その目を見た。

 

 今度は、逸らされた。

 畳の目のあたりに視線が落ちて、そこから戻ってこなかった。

 

「戦力として期待しているわけではありません。日本が正面から勝てる見込みは、初めから立っておりません。それでも、代表を立てないという選択はできない」

「だから、繋がりのある人間を置いとく」

「――そうです」

 

 言い直さなかったことが、この人にできるせめてもの誠実さだろうと、アカリは思った。

 

 人質にもなる。窓口にもなる。最後には取引の材料にもなる。そこまで並べられなくても、意味は取れた。

 言わなかったのは優しさではなく、言えば承諾が遠のくからだろう。

 

 腹は、立たなかった。

 立てるためには、自分がそれ以上の何かとして扱われるはずだった、という前提が要る。アカリに、その前提はない。

 

 つまり、道具として選ばれている。

 

 そこだけは、はっきりしている。誰も隠していないし、隠す気配もない。

 

 母が、端のほうで何か言いかけた。言葉になる前に、隣の女が軽く手を上げて止めた。

 止め方が慣れている。この家で母は、そうやって止められる側の人間なのだ。

 

 アカリは母を見なかった。見れば、母がどんな顔をしているのか分かってしまう。分かってしまえば、この場では使い道がない。

 

「で、どうすんの」

 

 言ってから、聞く相手が違うことに気づいた。ここまでの話は全部、どうするかをこちらが決めるためのものである。

 

「行く」

 

 われながら、普通の声が出た。

 

 六人が、そろってアカリのほうを見た。もっと揉めると思っていたのだろう。

 揉めるだけの材料を、こちらが持っていると考えていたらしい。実際には、何も持っていない。

 

「よろしいのですか」

「二回聞かれると、断りたくなるんだけど」

 

 誰ひとり、笑わなかった。

 

 庭でまた鹿威しが鳴って、今度はそれが、やけにうるさく聞こえた。

 

 承諾のあと、話は急に、事務的になった。

 

 学校の編入手続きが要る。書類がいくつも要る。渡航の段取りも、住むところも、向こうの受け入れ先も、それぞれ別の人間が動くという。

 時間がかかるとは言われた。どれくらいかかるのかは言われなかった。聞いても答えが返らない種類の話だと、口調で分かる。

 

 説明が一段落したところで、隣の間から、桐の箱が運ばれてきた。

 

 箱は、思ったよりも軽かった。両手で受け取ってみて、中身が薄いのだと分かる。桐の面はよく磨かれていて、指の跡がすぐつく。

 

「これを、向こうへ持って行っていただきます」

「開けないほうがいい?」

「開けても構いませんが、読めないと思います」

 

 それはそうだろう。床の間の掛け軸すら、読めていない。

 

「何が入ってるかは、聞かないほうがいい?」

「いえ。聞いていただいて構いません」

 

 男は、そう言った。

 

 結局のところ、聞かなかった。

 

 聞けば、また長い話になる。そして長い話を聞いても、この箱を持って行くという事実は変わらない。変わらないことを、時間をかけて確かめる趣味はない。

 

 男は少しだけ意外そうな顔をして、それから、箱の蓋の合わせ目を指で示した。開け方の説明だけを、やけに丁寧にする。何を持たされるのかより、どう開けるのかのほうが、この人には大事らしい。

 

 箱を膝の上に置いたまま、アカリは庭のほうを見た。

 

 水の落ちる音が、また鳴る。同じ間隔で、同じ音がする。誰も止めない。

 

 この庭も、この座敷も、たぶん何十年もこのままなのだろう。そして何十年も同じままでいられる家が、いま自分に箱を持たせようとしている。

 

 帰り際、母がようやく口を開いた。学校のことは心配しなくていい、という意味のことを、遠回りに二回言った。アカリは二回とも、うん、とだけ答えた。

 母は、行くなとは口にしない。言えないのだろうと思った。

 

 立ち上がるとき、やはり、足が痺れていた。

 

 畳に手をついて、二度に分けて腰を上げた。誰も手を貸さなかった。貸されたところで、断るつもりだった。

 

 門を出て、坂を下りながら、アカリは箱を持ち直す。

 

 ヒロが、困っている。

 箱の角が腕に当たる。持ち方を変えても、どこかに当たった。

 

 説明のあいだ、頭の中に残っていたのは、結局それだけだった。国のことも、聖杯のことも、道具として選ばれたことも、ちゃんと分かっている。分かったうえで、いちばん上に乗っていたのが、それだった。

 

 小学校の図書室で、あいつが最初にあの本を借りた日のことを、アカリはなぜか覚えている。表紙が青くて、背の高さが不釣り合いだった。

 

 あいつは十年、同じ本を読んでいた。何度読み返したのかは知らない。聞いたことがない。

 

 十年かけて追いかけてきたものが、いまあの街にある。座敷で聞いた話を並べると、そこへ行き着く。

 

 そういうときのあの顔を、アカリは知っている。嬉しいのに、嬉しがっていいのかどうかを先に考える顔である。テストが返ってきたときも、志望校が決まったときも、まずその顔をした。

 

 英霊が何なのかは、正直よく分かっていない。分かっていないが、あいつが平気でいられる場所ではない。

 

 坂の下まで来たとき、信号が赤に変わった。

 

 立ち止まって、アカリは箱を抱え直した。中身は、最後まで聞かなかった。

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