三日後の午前十時。
歩きながら、頭の中でその時間を何度も置き直した。十時に入って、閲覧はおそらく一時間ほど。手袋を渡されて、台の上に置かれた一枚を見る。触れられるかどうかは向こうの判断によるが、触れられなくても構わない。写真なら何度も見ている。文字の形も、擦れやすい箇所も、行の並びも頭に入っている。それでも写真は、紙の厚みだけを写してくれない。
あの本を書いた人間の名前は、分かっている。生まれた土地も、研究の積み重ねでほぼ絞り込まれている。ただし、その名前に結びついた記録は、驚くほど多い。しかも中身がばらばらで、全部が同じ一人のものなのかどうかは、誰にも保証できない。名前は分かっているのに、その名前が誰のものなのかは決まっていない。ヒロがそれを知ったのは中学のころで、しばらく本気で落ち込んだ。あれだけの物語を書いた人間の
いまはもう、落ち込まない。分からないままそこにあるものを、分からないまま見に行けるというだけで十分だった。
川沿いの道を途中で折れて、丘の斜面を少しだけ登った。頂上まで行く時間はないので、いつも同じ、踊り場のような平地で足を止める。そこからだと、街がほとんど全部見える。大聖堂の塔が真ん中にあって、その左手に低い屋根が寄り集まっている。右手の高いところには、角ばった建物がひとつ乗っている。グレート・ホールだ。
千年ほど前、この街は国の中心だった。いまはそうではない。人口は四万を少し超えるくらいで、国の政治にも経済にも、この街の名が出てくることはもうない。それでも道の形だけは、中心だったころのまま残っている。ヒロはその感じが好きだった。中身が抜けたあとも、器の形は残る。
もっとも、そういう見方を誰かに教わったわけではない。授業でこの街の歴史を扱ったとき、教師は人口の推移と羊毛の取引の話を三十分ほど続けて、それで終わった。ヒロにとっての歴史は数字ではなく、誰かが誰かのことを書き残そうとした結果として頭に入ってくる。書いた人間がいて、写した人間がいて、それを信じた人間がいる。順番がそうなっていることが、どうしても面白かった。
斜面を下りて川沿いに戻り、そのまま道なりに進むと、少し先に王の像が立っていた。剣を掲げた黒い立ち姿は、朝の逆光の中では輪郭だけの塊に見える。アルフレッド大王。この街が中心だったころの王で、いまは交差点の真ん中で、車の流れを見下ろしている。
その台座の脇から、声がかかった。
「すまないが、道を教えてもらえるかな」
振り向くと、灰色の三つ揃いの背広を着た男が立っていた。年は五十を越えているだろう。生え際がずいぶん後ろに下がっていて、丸い眼鏡の縁が光を弾いている。上着の肩には、糸くずがついたままになっていた。
英語はゆっくりで、聞き取りやすかった。
「
「……金物屋」
口が先に動いた。相手の言葉をそのまま繰り返してしまうのは、昔からの癖だった。頭が追いつく前に、音のほうだけが出てしまう。男は気を悪くした様子もなく、うなずいて待っていた。
ヒロは店の場所を思い浮かべ、角の数を数えてから話し始めた。
「この道を、まっすぐ行きます。突き当たりに時計があります。時計の下を、右です」
「右」
「そこから二つ目の角に、緑の扉の店があります。看板が小さいです。見落とします」
見落とします、と言ってから、それでは意味が逆になると気づいた。顔が熱くなって、視線が下がる。目の前にあったのは男の靴の先で、
「見落としやすい、です」
「見落としやすい店だ」
男は繰り返した。
「助かるよ。ありがとう」
礼を言われて、ヒロは軽く頭を下げた。日本にいたころの動作が、こういうときだけそのまま出てしまう。
それで終わるはずだったのに、男は歩き出さず、あごに手をあてて何かを考えていた。
「時計を右に折れて、そこから二つ目の角に緑の扉。それで合っているかな」
「はい」
「よかった。僕はこの手の説明を、一つずつ確かめないと駄目でね」
男は肩をすくめてから、急に思い出したように続けた。
「隣の家の窓の掛け金が、閉まりきらないんだ。あそこの奥さんは腕の力が弱いから、体重をかけないと下りない。毎晩あれをやっていたら、体のほうが先に痛むよ」
ヒロは返す言葉を探した。見つからないうちに、男はもう先へ進んでいた。
「掛け金そのものが悪いわけじゃないんだ。
男は、親指と人差し指をわずかに開いてみせた。〇・五ミリを示すには、広すぎる隙間だった。その仕草に自慢するようなところはなく、ただうれしそうに見えた。
「こういうものはね、直すと誰かの暮らしがすこし楽になる。それだけで十分に楽しいよ」
悪意のかけらもない言い方だった。この人はきっと、同じ話を何度も誰かにしているのだろうとヒロは思った。そう思っても、嫌な感じはしなかった。
「日本の方かな」
「はい。僕は、留学生です」
「いい街だろう。僕もここに来てずいぶんになるが、いまだに角を間違える」
男が笑うと、目尻が下がって、眼鏡の縁がわずかに持ち上がった。人当たりのいい笑い方だった。
「まあ、間違えたおかげで君に会えた」
軽く手を上げて、男は教えたとおりの方向へ歩いていった。三つ揃いの背中が人通りに紛れるまで、ヒロはなんとなく見送っていた。名前は聞かなかったし、聞かれもしなかった。道を尋ねる人間と教える人間のあいだに必要なものは、それだけだった。
歩き出してから、少しだけ自分の英語のことを考えた。角の数も、扉の色も、伝えるべきことは全部伝わった。文の形が崩れていても、相手が受け取ってくれれば用は足りる。それが分かっていても、次に誰かに話しかけられたら、また同じところでつまずくのだろうという予感があった。
角を曲がるころには、ヒロはもうその人のことを考えていなかった。頭の中は、三日後の午前十時に戻っている。
あと三日ある。読み返しておきたい注釈が二冊分と、確かめておきたい行がいくつか。時間が足りないわけではないのに、足りない気がして、歩く速さがまた上がった。
帰り道の途中で、グレート・ホールの前を通った。石の壁に切られた入口は開いていて、朝いちばんの見学者が二人ばかり吸い込まれていく。ヒロは入らなかった。中の壁に何が掛かっているかは知っているし、次に来るときは、受付で名前を伝えて奥まで通してもらうことになる。入口の脇では、案内板の前に立った家族連れが、写真を撮る順番でもめていた。夏の終わりの、どこにでもある光景だった。
建物の側面を見上げながら、ヒロは自分の手のひらを開いてみた。何も持たずに家を出たのに、両手はずっと、何かを抱えるような形で固まっていた。
あの受付を抜けて、手袋をはめて、台の上の一枚と向き合う。たったそれだけのことのために半年をかけて、申請の文面を四度も書いた。割に合っているのかと誰かに聞かれたら、たぶんまた答えられない。
複製は偽物ではない。写し取られたものにも、写された側の呼吸は残る。行の終わりを詰める癖も、綴りが揺れる癖も、写すときには一緒に写ってしまう。ヒロはそう信じていたし、その信じ方を疑ったことは、一度もなかった。
坂の下から、大聖堂の鐘が鳴りはじめた。