三日後の朝、ヒロは約束の四十分前にグレート・ホールの前へ着いてしまった。
早く出すぎたことは、家を出る前から分かっていた。それでも部屋にいると、鞄を開けたり閉めたりするだけで時間が過ぎていく。持っていくものは、ほとんど何もない。手袋は向こうが用意すると書いてあったし、筆記具を持ち込んでよいかどうかも分からなかった。結局、聞きたいことを書いたノートだけを入れて、鞄を肩にかけて出てきた。
この三日は、思っていたより長かった。読み返すつもりだった注釈は初日で終わってしまい、二日目には、確かめておきたかった行を全部確かめてしまった。三日目は、何もすることがなかった。
見せてもらう一葉は、自分で指定している。
本の終わりに近い場所だった。長い物語がすべて終わったあと、書いた人間が一度だけ、自分のことを書き足している箇所である。書き終えた、と記して、そのあとに、読んだ人には自分のために祈ってほしいと願っている。
物語の中に、書いた人間の姿はどこにも出てこない。騎士たちが戦って、裏切って、死んでいくだけである。最後の最後になって、紙の上に一人ぶんの声が混じる。
その写本が見つかったのは、この街の学校の書庫だった。百年足らず前の話で、それまで何百年ものあいだ、誰にも気づかれないまま棚に置かれていた。中身が何であるかを知る人間が、ずっといなかったことになる。
見つかったあと、写本はロンドンへ運ばれた。生まれた場所に残ったのは、写し取られた紙が数枚だけである。だからヒロがこの街で見られるのは、複製の一枚でしかない。それでも構わなかった。むしろ、そのほうがこの街らしいとさえ思う。中身は運び出されて、器だけが残っている。
どんな字で書かれているのか。行の終わりで詰まっているのか、余らせているのか。急いでいたのか、落ち着いていたのか。写真では、そのあたりがどうしても分からない。
昨日の夜は、二時間ほどしか眠れなかった。緊張しているというより、頭の中で同じ場面が何度も組み上がって、そのたびに手袋の感触だけが抜け落ちるせいだった。はめたことがないので、想像のしようがない。
石の壁に切られた入口の前で、ヒロは一度足を止めた。ここを観光客として通ったことなら、何度もある。今日は違う。そう思ったとたんに、心臓が用のない速さで動きはじめた。
中に入ると、外との温度差で腕の毛が立った。夏の終わりでも、この建物の内側は秋の途中くらいの冷たさをしている。石の匂いと、古い木の匂いがした。
受付には、去年から何度か顔を合わせている女性が座っていた。ヒロが名前を伝えると、彼女は台帳に指を滑らせ、それから一度だけ視線を上げた。
「ああ、十時の方ね」
「……十時の」
「ごめんなさい。担当の者がまだ来ていないの。少しだけ待ってもらえるかしら」
「はい。あの、待ちます。何時間でも」
「そんなにはかからないと思うけれど」
女性が小さく笑って、ヒロは自分が妙なことを言ったのだと気づいた。訂正する言い方を探しているうちに、彼女はもう受話器を取り上げていた。
英語が崩れていても、相手が笑うだけで終わらせてくれるとき、ヒロはいつも、助かったと思うのと同じくらい、悔しいとも思う。
壁際のベンチに腰を下ろす。座面の木が冷たくて、脚のあいだで手を組んだ。
ホールは、いつ来ても暗い。高い窓から入る光は白いのに、床へ届くころには力を失ってしまう。観光客の姿はまばらで、話し声も自然と低くなる。誰かが咳をすると、天井の高いところで一度跳ね返ってから落ちてきた。
この建物は、もともと城の一部だった。城のほうはとうに壊されていて、いま残っているのはこの広間だけである。城が消えて、広間だけが残り、残ったほうに城の名前がついている。
昔はここで裁判が開かれていたとも聞いた。座って、立って、判決を聞いて、出ていった人間が、何百年ぶんも積み重なっている。いまは何も行われていなくて、人が入ってきて、壁を見上げて、出ていくだけの部屋になっていた。
その正面の壁に、円卓が掛かっている。
五分も座っていられなかった。ヒロは立ち上がって、壁の下まで歩いた。何度も見ているのに、来るたびに同じことをしてしまう。
直径は五メートルを超える。
剣を立てて持ち、冠をかぶり、まっすぐ正面を向いている。
一枚板ではなく、何枚もの厚板を接いだものらしい。継ぎ目のいくつかは、色が割れかけている。塗料の下には古い釘の跡が並んでいて、脚があったころ、そこに何かが留められていたのだろうと分かる。
名前を、端から目で追ってみる。ガウェイン、ケイ、ボールス、ランスロット。並び順は、これまで読んできた本のどれとも一致しない。誰がどこに座るかは、書く人間によって変わる。
円卓は本来、上座も下座もないから円いのだと聞いた覚えがある。そこに番号が振られて、木に固定されていた。振った人間は、たぶん深く考えていない。
初めてこれを見たのは、留学して二週間目の日曜だった。あのときヒロは、この壁の前で十五分ほど動かずにいた。感動していたわけではない。解説板を読んでしまったからだった。
この卓が作られたのは十三世紀の終わりごろで、当時の王が、円卓の逸話にならって作らせたものだとされている。十六世紀に入って、別の王の命で塗り直された。いま見えている
解説板に書かれていないことも、ヒロは知っていた。
塗り直しを命じた王の顔と、この卓に描かれた王の顔は、よく似ているという。似せたのだと書いている本もあれば、そう見えるだけだと書いている本もある。どちらにしても、板の上に据えられている王は、彼が読んできた物語の中の王ではない。
作らせた王は、自分がこの島の正統な王であることを示したかった。塗り直させた王は、その席に自分の顔を置きたかった。二人の王が、二百年をまたいで同じ板を使っている。
本物ではない円卓に、本物ではない顔が、政治のために描き込まれている。その板が、何百年も壁に掛かったまま、毎日誰かに見上げられている。
三日前、ヒロは自分の手のひらを見ながら、複製は偽物ではないと考えていた。写し取られたものにも、写された側の呼吸は残ると。
あれは、写す相手がある場合の話だった。
この卓には、写す相手がない。それでも壁に掛かっていて、五メートルを超えていて、木の重さのぶんだけ確かにそこにある。